2018年3月23日金曜日

【読書感想】桂 米朝『上方落語 桂米朝コレクション〈六〉 事件発生』

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『上方落語 桂米朝コレクション〈六〉
事件発生』

桂 米朝

内容(e-honより)
ますます円熟する上方落語の第一人者、桂米朝の落語の世界。第六巻は、「事件発生」。すわ事件発生!日常に波紋がおこったその時こそ、本当の人間の姿が現れるものだ。そこに起きるさまざまな人間模様。

桂米朝氏の落語書き起こし&解説シリーズ、第六巻。
かたき討ち、死体遺棄、喧嘩、事故死などショッキングな出来事を扱った噺を集めている。
ミステリやサスペンスの要素もあり、展開自体に引きこまれる噺が多い。その分笑いは少ないことが多いけど。

死を扱った噺は多いけど、殺人が描かれる噺は意外と少ない。
この巻に収録されているものでいうと、『らくだ』『ふたなり』は事故死、『宿屋仇』『阿弥陀池』は会話内で殺人事件が語られるが後に嘘だと判明、『百人坊主』で語られる死も嘘、『土橋萬歳』も殺人の夢……ということで殺人シーンがあるのは『算段の平兵衛』だけ(それも厳密には殺人じゃなくて傷害致死だけど)。
今よりもっとモラルがゆるかったであろう時代においても、やはり人殺しというテーマを笑いに変えるのは難しかったんだろうね。


らくだ


「らくだ」というあだ名の男が死んでいるのを友人の熊五郎が発見する。たまたま通りかかった紙屑屋をつかまえ、らくだの葬式の準備をするために奮闘させる。生前評判の悪かったらくだのために金を出すことを誰もが渋るが、熊五郎は「協力しないなら死体にかんかん踊りを踊らせる」と脅し、それでも拒む家には実際に死体を持っていってかんかん踊りを踊らせる。葬儀の準備は整ったが、酒を飲んでいるうちに紙屑屋の様子が豹変し……。

落語の数多ある噺の中でも『らくだ』は屈指の名作だとぼくは思っている。
なんといっても見事なのがオープニング。「主人公が死んでいる」というショッキングな幕開け。これで一気に引きこまれる。
『幽☆遊☆白書』の第一話で主人公が死ぬが、それよりもっと早い。死んだ状態で登場する。これだけセンセーショナルなオープニングの物語は古今東西そうないだろう。

らくだは一切口を聞かないが(死んでるからね)、それでも『らくだ』における主人公はやっぱりらくだだ。長屋の連中の口から語られるらくだの悪評を聞いているうちに、落語の聞き手の中にもありありとらくだのイメージができあがる。

「主人公らしき人物が一切姿を現さない」タイプの物語は他にもサミュエル・ベケットの戯曲『ゴドーを待ちながら』や、朝井リョウの小説『桐島、部活やめるってよ』などがあるが、『らくだ』ほど活き活きとしたキャラクターはそういないだろう。死んでるのに活き活きとしてるってのも変だけど。

また、もうひとりの主人公である紙屑屋も魅力的だ。はじめは熊五郎におびえておろおろしているだけだった紙屑屋が、徐々に度胸がついてきて、酒の勢いも手伝って熊五郎に指示を出すまでになる。さらには紙屑屋の家族のことや日頃抱えている思いも吐露されてゆく……という何とも情念たっぷりの噺になっている。

元のストーリーでは後半は展開が大きく変わる上に笑いどころが減るため最後まで演じられることは少ないらしい(この本でも途中までしか収録されていない)が、中盤まででも十分完成度の高い名作。


宿屋仇


侍が宿屋に泊まり、静かな部屋を用意してほしいと頼む。ところが隣の部屋に兵庫県から伊勢参りをしてきた帰りの三人がやってきてどんちゃん騒ぎ。注意をするといったんはおとなしくなるが、また相撲をとったり歌を唄ったり、すぐにやかましくなる。中のひとりが「かつて武士の妻と関係を持ち、その後女と義弟を殺して逃げた」という武勇伝を披露すると、それを隣室で聞いていた侍が「その男こそ私の妻と弟を殺した仇。明日、かたき討ちをしたい」と宿屋の主人に告げる……。

ほとんどの人にはオチはわかるだろうが、それでも最後まで聞かせるのは演者の腕。場面の入れ替わりも多いし、これを演じるのはむずかしそうだ。

落語は町人のものだから、武士が出てくる噺はあまり多くない。特に上方落語には。また、出てきても悪役が多い。
ところがこの噺の侍は隣の客に迷惑をかけられるかわいそうな存在であり、また茶目っ気も持ち合わせている。これは貴重な武士の活躍する噺。


どうらんの幸助


酒も芝居も一切たしなまず、喧嘩を仲裁して酒をごちそうすることだけが唯一の楽しみである「どうらんの幸助」。幸助を見かけた二人の男が狂言喧嘩をして酒をごちそうになろうと企て、幸助に酒をおごってもらう。
後日、浄瑠璃の嫁いじめのシーンを見た幸助、それが芝居だとは知らずに仲裁しようと飛びこむ。これは京都の話だと聞いた幸助は船に乗って、大阪から京都までやってくる……。

幸助が「大阪から京都まで鉄道が走っているが、鉄道は苦手なので船で行く」というくだりが、サゲへの伏線になっている。米朝さんはこう解説している。

 この噺は京阪間に汽車が開通したのが明治十年二月、それから以後も大分長い間三十石船が淀川を上り下りしてましたが、その両者を共存していた時の噺として、時代設定が非常に限られる噺です。三十石は次第に廃れて行っていつとはなしに無くなったものらしく、何年何月をもって廃止、と言えないのですが、明治二十年ごろまではあったようです。荷物専用としてはもっと後年まであったと思います。

解説を読むと、この噺に限らず米朝さんは時代考証をよく考えて話していることがわかる。駕籠が人力車に変わったのはいつか、とか、明治初期のお金の価値はいくらか、とか。
こういう細部の整合性の積み重ねが、大きなほらに説得力を持たせるんだろうなあ。


算段の平兵衛


ややこしい問題をうまく処理してくれる「算段の平兵衛」という男がいる。
村の庄屋がお妾さんの扱いに困り、算段の平兵衛の嫁として押しつける。平兵衛は嫁の持参金で酒を飲んだり博打をしたり。金に困った平兵衛は嫁と共謀してて美人局で庄屋から金を脅しとろうと企てるが、うっかり庄屋を殺してしまう。
庄屋の死体を家まで連れていき、自殺に見せかけて木に吊るす。夫が自殺したと思った妻は、自殺を隠すため平兵衛に金を渡して死体の処理を依頼する。
平兵衛は隣村へ庄屋の死体を連れていき、盆踊りの練習をしているところへ放置。隣村の連中は自分たちが庄屋を殺してしまったと思い、死体の処理を平兵衛に相談。平兵衛は隣村から金を受け取り、事故に見せかけて庄屋の死体を崖から突き落とす。
大金を手にした平兵衛は羽振りがよくなるが、そこに盲人の按摩師がやってきて、どうも何かを知っているらしい様子で金を貸してほしいとせまる……。

落語としては異色の、陰湿な悪党の噺。
美人局でゆすりを企て、人を殺し、自殺に偽装し、被害者の遺族から金をだましとり、隣村からもだましとり、あげく死体を崖から突き落とすという、数ある落語の噺の中でのトップクラスの悪党だろう。

だが陰湿な悪党であるにもかかわらず、算段の平兵衛はなんとも魅力的な人物として浮かんでくる。しゃべりが達者、頭が切れる、(金儲けのためとはいえ)他人のために尽くす。決して嫌な人物ではない。
また、死体をあちこち動かしてはいるが実際は殺したのはひとりだけだし、そのひとりも故意に殺したわけではない。罪状は殺人ではなく、傷害致死+死体遺棄だ(あと脅迫や詐欺もつくかも)。
魅力的な悪役、ということでピカレスクものとしても成功しているように思う。

最後に平兵衛が逆に脅迫されるくだりもおもしろいのだが、実際はそこまで演じることは少ないそうだ。ラストまでやると「盲蛇に怖じず」という差別的なことわざに引っかけたサゲがついてくるわけで、今の時代には厳しいだろうなあ。

ところで「死体の処理に困ってあちこちに動かす」というのは、ミステリの一ジャンルといってもいいぐらいの定番のパターンだが、「死体を抱えて右往左往する犯人」というのは妙におかしい。古畑任三郎でもよくあった。犯人にしたら真剣そのものなんだけど、傍から見ているとコメディそのものなんだよね。

ところで、「死体を抱えて右往左往」ものの最高傑作は星新一の短篇コメディ『死体ばんざい』だろう(『なりそこない王子』に収録)。
通常は死体の処分に困るのだが、『死体ばんざい』はその逆。いろんな人物がそれぞれの事情で死体を欲しがって奮闘するという話で、これを落語化したらすごくおもしろいんじゃないだろうか。


次の御用日


商家の丁稚である常吉が、家のお嬢さんであるお糸のお供で出かける。道中、天王寺屋藤吉という大男がすれちがい様に奇声を上げてお糸を驚かせ、お糸はショックのあまり気絶して記憶喪失になってしまう。
店の主人は御番所に届け出て、常吉や藤吉は奉行所に呼ばれる。奉行所は事実確認のために何度も奇声を発し……。

ということで、後半はただ「奇声を上げつづける」というだけのぼんちおさむのような落語。これは活字で読んでもぜんぜんおもしろくない。聴いても、はたしておもしろいのかどうか……。


佐々木裁き


西町奉行である佐々木信濃守が市中を歩いていると、子どもたちが奉行所ごっこをしているところに出くわす。
四郎吉という少年が佐々木信濃守を名乗り、鮮やかな裁きを披露しているのを見た佐々木信濃守は、四郎吉に奉行所に来るように命じる。今の奉行所や与力について問答をすると、四郎吉はずばずばと皮肉を込めて汚職が蔓延していることを批判する……。

『佐々木政談』とも。
四郎吉少年の設定にちょっと無理があるように感じる。あまりに利発すぎるというか、受け答えがうますぎる。そのくせお奉行様に対して少しも遠慮しない天真爛漫さも持っていて、キャラクター造詣が都合よすぎる。十三歳という設定だが、江戸時代の町人の家の十三歳といえばもうほとんど大人だろう。利発な子であればなおさら、もう少し遠慮があると思うのだが。
感心させる内容で、落語よりも講談のような噺。


百人坊主


毎年庄屋さんが村の若い衆を連れて伊勢参りに行っていたが、毎回喧嘩が起こるので今年はもうやめたという庄屋さん。若い衆は連れていってもらいたい一心で「腹を立てたら罰金を払った上に村を追放されても文句を言わない」という約束をする。
「腹立てん講」という旗を立てて伊勢参りに出かけた一同。道中、ふかの源太という男がみんなの分の酒を飲んでしまい、周囲から文句を言われると「腹を立てるのか。腹を立てたら追放だぞ」と居直る始末。
おもしろくない連中は源太が寝ているすきに源太の髪の毛を剃ってしまう。目を覚ました源太は髪を剃られたことに気づくが「腹を立てたら追放だぞ」と言われて何も言えない。
源太は「坊主が伊勢参りに行くとお伊勢さんが気を悪くするから」と言ってひとりだけ先に帰り、村人たちに「船が沈んで自分以外は全員死んでしまった。弔いのために髪を剃ったのだ」と説明する。源太の嘘を真に受けた女房連中は夫の死を悼み、尼になるといって自分たちも髪を剃ってしまう。
帰ってきた男たちは驚くが、それならいっそということで全員髪を剃って坊主にしてしまう。他の村人たちもみんな髪を剃り、坊主だらけの村になる……。

元は狂言の話だそうだ。子どもの頃、『日本わらい話』みたいな本で読んだことがある。「夫が死んだという嘘を真に受けた女房たちが尼になるために髪を剃る」の何がおもしろいんだという感じだが……。しゃれにならん嘘だろ。
江戸落語では女房衆が坊主頭になるところで終わるそうだが、それではあまりに後味が悪い。その後大笑いしてみんなで坊主になる上方版のほうがまだ収まりがいい。


ふたなり


村人たちから預かった十両で地引網を買いにいったふたりの男、遊郭で金を遣いこんでしまい、おやっさんのところに相談にくる。おやっさんはなんとかしてやろうと隣村に金策に行くが、その途中で若い女と出会う。聞くと、ある男と恋に落ちてお腹に子ができたので駆け落ちをしようとしたのだが、途中で男が逃げてしまったので首を吊って死のうとしているのだいう。はじめは止めようとしていたおやっさんだが、女が十両を持っていると聞くと態度を変え、やっぱり死んだほうがいいと言う。首の吊り方の手本を見せていると、うっかり自分が首を吊って死んでしまった。女は持っていた遺書をおやっさんのふところに入れて立ち去る。
翌朝、おやっさんの死体が発見されて息子が役人の取り調べを受けるが、おやっさんのふところから「懐妊したので死にます」と書いた遺書が見つかり……。

ふたなりとは両性具有のことだが、上にも書いたようにストーリーのほとんどはふたなりとは関係がない。若い衆の前では強がっているが実は怖がり、女の自殺を止めようとするものの大金を持っていることがわかったとたんに態度を変えるというおやっさんの多面性こそが「ふたなり」なのかもしれない(いやこじつけが過ぎるな)。

ところで1両というお金は現代の価値でいうと10~30万円ぐらいと言われているが、そう考えると『ふたなり』に出てくる十両(100~300万円)はすごくリアルな金額だ。
「ふたりの若い男が数日間遊郭で豪遊して使う金額」「遣いこんだら村から追いだされるかもしれない金額」「そこそこの家の女が駆け落ちしたときに持っている金額」「その金のために人を殺すほどではないけど自殺を止めるのを躊躇するぐらいの金額」として、ちょうどいい数字だなあ。


阿弥陀池


隠居が男に「おまえは新聞を読まないから世の中のことを知らない。新聞を読まないといけない」と説教をする。「こないだ新聞にこんなことが載っていた……」と話をするので男は真に受けるが、隠居の話はことごとく洒落につなげるための嘘ばかり。
だまされて悔しい男は同じ手で他の人をひっかけようとするが、説明が下手でしどろもどろに。しまいには嘘をつくなと怒られ……。

落語には「オウム」と呼ばれるパターンがある。ある人物が手本を見せ、間の抜けた人物がそれを真似しようとするがうまくいかない……というパターン。『子ほめ』『時うどん』など、入門的な落語に多い。
『阿弥陀池』もオウムパターンだが、少し異色なのは手本の部分がすでに笑いどころになっているところ。前半でそこそこ笑いが起き、後半はそれをベースにギャグが畳みかけられる、というなかなか見事な構成。


土橋萬歳


遊びが過ぎて謹慎を命じられた商家の若旦那。見張りの丁稚を買収してこっそり抜け出し、お座敷に出かける。
知り合いの葬式に出た後、若旦那が遊びに出かけたことを察した番頭は若旦那のいる料理屋に行って戻るように説得するが、居直った若旦那から「恥をかかせやがって」と階段から突き落とされてしまう。
しばらくして若旦那や芸者衆が出かけると、追いはぎが現れ、芸者や幇間は若旦那を置いて逃げてしまう。改心するよう説得する番頭だが、若旦那は聞き入れず、番頭を殴りつける。番頭はいよいよ覚悟を決め「若旦那を生かしていては店のためにならない。若旦那を殺して自分も死ぬ」と、持っていた短刀で若旦那を突き刺し……。
というところで目が覚める。すべては若旦那と番頭が同時に見た夢だったのだ。そこで若旦那はやっと番頭の気持ちを理解し、今後は商売に励むと誓う……。

米朝さんも書いているが、今聞くと理解に苦しむ噺。「店のことを思うあまり放蕩の若旦那を殺して自分も死ぬ」だなんて、現代人の感覚ではまったく理解できない。
また、夢オチ(オチではないが)を使っているなど都合の良い面もあるが、話の流れは不自然にならないようによく工夫されている。番頭があれこれ説得するが何を言っても響かない、若旦那に階段から突き落とされたり殴られたりする、うっかり刀に手を置いてしまったところを若旦那から「殺せるものなら殺してみろ」と挑発される、など忠義を持った番頭が殺人に至るまでの動機づけが丁寧に描かれている。
特に、帯刀が許されなかった時代の刃傷沙汰を描くために「葬式帰り」という設定を用意しているのは見事(当時の葬式には参列者が腰に短刀を差す「葬礼差し」という習慣があったそうだ)。


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