2018年3月15日木曜日

【読書感想】桂 米朝『上方落語 桂米朝コレクション〈五〉 怪異霊験』

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『上方落語 桂米朝コレクション〈五〉
怪異霊験』

桂 米朝

内容(e-honより)
文化功労者・桂米朝演じる上方落語の世界。第五巻は、こわいこわい、そして不思議な落語を集める。江戸落語の怪奇物との味わいの違いをご堪能あれ。「猫の忠信」「仔猫」「狸の化寺」「狸の賽」「怪談市川堤」「五光」「景清」「紀州飛脚」「夏の医者」「べかこ」「ぬの字鼠」「天狗さし」「稲荷俥」「足上がり」を収録。

桂米朝氏の落語書き起こし&解説シリーズ、第五巻。

幽霊の類はさまざまな芸能で扱われるけど、ああいうものは目に見えないから恐ろしいのであって、姿を現してしまったら怖さも半減だ。
落語は基本的には言葉だけですべてを表現する芸能なので(上方落語は鳴り物や小道具も使うけど)、怪奇現象の類は落語の得意とする分野だ。


猫の忠信


浄瑠璃の演目である『義経千本桜 四段目』をパロディとして使っている噺。終盤の展開は『義経千本桜』を知らないとわからないが、全体としてはミステリ要素も含んでいて元ネタを知らなくてもおもしろい。

義太夫(浄瑠璃のひとつ)の稽古に行った次郎吉が、お師匠さん(女性)と常吉がいちゃついているのを目にする。急いで常吉の家に行っておかみさんに報告すると、なぜか常吉が家にいる。再び稽古場に行くと、やはりそこにも常吉が。父母を三味線の皮にされた猫が人間に化けていたのだ……。

常吉がふたりいることに気づいた次郎吉があっけにとられるが、ここで観客の頭にも疑問が湧く。その謎を丹念に解き明かしていく展開が実にスリリング。


仔猫


商家に、器量が悪くて言葉遣いの汚い女が奉公人としてやってきた。はじめは断ろうとしていた店の連中だったが、雇ってみると気配りができる上に働き者。あっという間に評判が上がる。だが彼女が夜な夜な外出しているということがわかる。はたして女の正体は……。

おなごし(女中)のユーモラスなキャラクターと、後に明らかになる正体とのギャップが大きく、かなり意外な展開を見せる噺。「こうなるだろうな」というこっちの予想をぐわんぐわん揺さぶられるストーリーがたまらない。
恐ろしいが救いはあり、女中や番頭の心の揺れ動きも丁寧に描かれていて、見どころの多い噺。


狸の化寺


村に黒鍬(土方工事を生業としている人たち)がやってきた。化け物が出るという噂の古寺に泊まることになり、夜になると果たして黒い影が現れる。みんなで追い詰めると化け物は姿を消し、阿弥陀如来像が一体増えている……。

ほとんどの怪談噺に共通して言えることなんだけど、タイトルでネタバレをしているのが残念だ。
これなんかも途中まではすごく雰囲気があって何が起こるんだろうとぞくぞくする展開なのに、題が『狸の化寺』だから「どうせ狸が出てくるんでしょ」とわかってしまう。
『狸の化寺』は笑いどころが少なく、サゲもわかりづらい(おまけに下ネタ)なので、先の展開まで読めてしまうと、もうほとんど聴きどころのない噺になってしまう……。


狸の賽


狸を助けに来た男のもとに狸が恩返しにくる。狸にサイコロに化けるように命じ、イカサマ賭博で一儲けしようとする男。狸のサイコロに「次は六だぞ」などと言ってはじめはうまくいっていたが、不審に思った周りの連中から数字を言うことを禁じられて困惑する……。

『ジョジョの奇妙な冒険』を読んだ人ならすぐにわかるだろう。そう、第4部で仗助が宇宙人の化けたサイコロを使って岸辺露伴とイカサマ対決をするくだりにそっくりだ。
『ジョジョ』の作者である荒木飛呂彦氏が『狸の賽』の噺を知っていたのかどうかはわからないけど、『狸の賽』では「イカサマをしていることがばれないかどうか」に主題が置かれ、『ジョジョ』では「イカサマをしていることはわかっているがそれをどうやって見破るか」ということを軸に話が展開するので、『狸の賽』を知った上であえて違う切り口を提示してみせたのではないか……とぼくは見ている。

スリリングな中盤からの「狸が天神さんの格好で立ってました」というばかばかしいサゲの落差がおもしろい。
サイコロの五を表現するのに使った「天神さんの紋」とはこれのことね。



怪談市川堤


情婦や恩人などを殺して金を手に入れてきた次郎兵衛、やがて商売が成功し、過去のおこないを悔いるようになる。貧しい者には施しをし、神社仏閣にも寄進を惜しまない。そんな次郎兵衛が旅先で昔の女と出会い、いったんは詫びて一緒に住もうと提案するが、やはり今の地位を失いたくないという思いから殺してしまう。
その夜、殺したはずの女が現れて……。

怪談なので、笑いどころはほとんどない。サゲらしいサゲもない。「おそろしい執念よなあ」で終わり。
しかしどう考えても恐ろしいのは、幽霊よりも平気で次々に人を殺してしまう次郎兵衛。殺しすぎだ。しかもたいして恨みのない相手を。この極悪非道なキャラクターに比べれば、幽霊なんてぜんぜん怖くない。むしろ幽霊がんばれ! クズ人間をやっつけろ! と応援したくなるぐらい。


五光


旅先で道に迷った男。座禅を組んで一言も口を聞かない坊主に出会う。その後ふもとの村で一軒の家に泊めてもらうと、そこには原因不明の病気に苦しめられる娘。その晩、山中で見た坊主の姿が現れ、娘は呪い殺されてしまう。急いで坊主のもとに駆けつけると坊主も息絶える。娘に恋をして、その恋心だけで生きていたのだ……。

というホラーっぽい展開から、急激にしょうもないオチ。
この噺も落語によくある「タイトルでネタバレ」パターンで、花札の遊びかたの一種である「こいこい」の役「五光」がサゲに使われている。麻雀の役満みたいなもんだね。

ぼくは「こいこい」をやったことはあるけど、それでも「桐に鳳凰、桜、松に坊主に雨で五光だ!」って言われても「えーっとそうだったっけかな……」と思うぐらいですぐにはぴんとこない。
『スーパーマリオ』があるあるネタとして用いられるように昔はあたりまえのように通じたんだろうけど、今は厳しいだろうなあ。


景清


目を患った目貫師が、柳谷観音の賽銭を盗んで酒を飲んだために神罰が当たって盲目になってしまう。しかし友人の勧めもあってかつて平家の豪傑だった悪七兵衛景清が自分の眼をくりぬいて奉納したと伝えられる清水観音に百日間お参りをする。その帰り道、観音様が現れて景清の眼をおまえにやると言う。景清の眼が入ったために豪傑になった男が、大名行列に乱入する……。

後半は『犬の目』や『こぶ弁慶』にも似た展開だが、秀逸なのは前半。「おれはもう目が見えなくていい」とうそぶく男が、そうは言いながらも年老いた母に心配をかけまいと一心に百日参りをするあたりは人情噺として白眉の出来だ。
落語に出てくる人物って、粗忽なら粗忽、楽天的なら楽天的と一面的に描かれることが多いんだけど(短いからしょうがないんだけど)、『景清』に出てくる景清は多面性を持った人物として描かれているので、このへんが話に厚みを持たせている。


紀州飛脚


大きなイチモツを持った男が紀州に向かって走る途中、小便を狐に引っ掛けた。狐が仕返しをしようと女に化け、子狐が女の陰部に化け……。

と、あらすじを書くのも嫌になるぐらいのド下ネタ。枕からストーリーからサゲまで全部生々しい下ネタと、もうほんとにどうしようもない噺。
上方落語には「旅ネタ」というジャンルがあって、これはその中の「南の旅」に分類されるらしいが、めったに演じられることはないのだとか。あたりまえだ。


夏の医者


無医村で病人が出たので、山の向こうの隣村まで医者を呼びにいく。病人のもとに駆けつける途中でうわばみに呑まれてしまうが、医者が下剤を撒いて脱出。しかし薬箱をうわばみの腹の中に置きわすれたことに気づいて……。

めずらしく田舎を舞台にした噺で、全体的にのんびりした雰囲気が漂っている。うわばみに呑まれてからもぜんぜん慌てた雰囲気がない。
米朝さんがこの噺を演じるのを聴いたことがあるけど、直截的な暑さの描写はないのに真夏の昼下がりのけだるい感じがありありと伝わってきて、見事な話芸だと感心した記憶がある。


べかこ


 泥丹坊堅丸という落語家が旅興行先で御難(客が入らないこと)に遭い、宿屋に身を寄せていたところ、お城に呼ばれてお姫様の前で落語を披露することになる。城内でふざけて女中を驚かせたところ、侍に捕らえられて「明朝、鶏が鳴いたら解放してやる」と言われる。困惑していると絵の中から鶏が抜けだしてきて……。

「べかこ」といえば関西出身の中年以上の人間にとっては桂南光さん(旧芸名が桂べかこ)なんだけど、「べかこ」とは本来「あっかんべー」の意味なんだそうだ。この噺は「あっかんべー」ではなく「べかこ」でないと成立しにくい。
「落語家が城に呼ばれる」という意外性のある展開から、秀逸なサゲ。この本ではじめて知ったけど、よくできた噺だ。


ぬの字鼠


寺の坊主が和尚さんに叱られて柱にくくりつけられる。涙で「ぬ」の字を書くと、それが鼠の姿になって紐をかみ切ってくれる……。

「雪舟が幼少時代に涙で本物そっくりの鼠の絵を描いた」という逸話をもとに『祇園祭礼信仰記』という芝居ができており、その芝居を下敷きにしているそうだ。
雪舟の逸話以上のストーリーはこれといってないが、「坊主が実は和尚さんのほんとの子どもだけどそれを隠している」という設定がおもしろい。昔の坊さんは妻帯禁止だったからこういうことがあったんだなあ。


天狗さし


突拍子もないことばかり思いつく男が、天狗料理の店を出したら儲かるに違いないと考え、鞍馬山に天狗を獲りに出かける。現れた坊さんを天狗と勘違いし、捕まえて山を下りる……。

というばかばかしい噺。
終始うっかり者の男のキャラクターがいい。本題よりも、キャラクターを周知させるためのエピソード集がおもしろい。

そらあかんわ、大体お前はんの相談ごとちゅうのは、わしゃもうこりてんのやがな。去年も、銭儲けの話や言うて来たことがあったやろ。わしゃ忘れんで、あれ。わしとこへやって来て、良え銭儲け思いついた。なんや言うたら、十円札を九円で仕入れてきて十一円に売ったら儲かりまっしゃろう、て。……ようあんな不思議なこと考えたな、お前。ええ。どこぞの世界に十円と印刷してある札を、誰が十一円で買うねん、ちゅうたら、そら額面通り十円に売ったかて一円儲かるちゅうさかい、どこへ行たらその九円で仕入れることができるねんちゅうたら、それをあんたに相談にきた、とこない言う。そんなもんどこへ行たかて、十円札を九円で売ってくれるとこなんかあれへん言うたら、仰山買うたら安なりまっしゃろて……、ようあんなこと言うたな、お前、ほんまに。

実にばかばかしい。
そのばかばかしいことを大の大人がまじめにやってるのが為替相場なんだけど。


稲荷俥


お稲荷さんの狐を怖がる車屋。客がおもしろ半分で狐のふりをしたら、車屋はそれを信じて車賃をとらずに帰ってしまった。家に帰ってから、車に百五十円の大金があることに気づき、お稲荷さんからの授かりものだと信じこむ車夫。金を置き忘れたことに気づいた客は車夫の家に行くが、ずっと狐扱いされてしまう……。

ばか正直者の車夫と、ちょっとしたいたずら心のせいでピンチに陥る客のキャラクターがおもしろい。車が出てくるので明治の噺だが、明治はまだぎりぎり「狐が出るかも」という雰囲気のあった時代なんだろうな。


足上がり


番頭さんが丁稚をつれて芝居見物に行く。ところが店の旦那さんに、嘘をついて芝居に行ったことや店のお金を遣いこんだことがばれてしまう。そうとは知らぬ番頭さん、帰ってから丁稚相手に芝居の一幕を披露する……。

「足上がり」とは解雇のこと。今のように転職や再就職があたりまえの時代とは違い、江戸時代の足上がりは商人にとっては大事だったはず。ましてや苦労して番頭にまで昇りつめた者にとっては。
そこまでの重大事項である「足上がり」を知っている丁稚が、それを番頭に伝えぬまま芝居話に興じているところはかなり不自然。しかも小利口な丁稚だし。
ちょっと無理のある噺だな。


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2 件のコメント:

  1. 読書感想文シリーズ、いつも楽しく拝読しています。
    犬犬さんて紀行文は読まれないんでしたっけ?以前そんなことを書かれていたような・・・。

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    1. ありがとうございます!返事遅れてすみません。
      紀行文、読みますよ。そんなに多くはないですけど。高野秀行さんとか下川裕治さんとか……。

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