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2018年3月9日金曜日

服をおろす日


衣服に興味がないんだけど、半年に一回ぐらい服を買いに行くのね(「穴の空いてない靴下がなくなった」などの理由で)。

ふだん服を買わないから、たまに買い物にいくと一度にどかっと買う。気分は完全に「召し使いを連れてショッピングに来た大金持ちのお嬢様」。「あれもいるわ、これも買っとこうかしら」と財布を気にせずどんどんカートに放りこむ。ユニクロだけど。

靴下十足、パンツ八枚、シャツ七枚、みたいな感じでばかみたいに買う。

特に靴下は同じ柄をまとめて買う。
同じ柄の靴下がいっぱいあると洗濯のときにいちいち相方探しをしなくて済む。あと片方に穴が空いても、残った靴下同士を組み合わせてまだ使える。これぞできる大人のライフハック。

服を買うときはお嬢様モードになってるから「よっしゃいったれー!」と気分が高揚しているのだが、家に帰った途端に何もかもが面倒になる。


ああいやだ。なんだよこの服たち。
この服、サイズを合わせたり、タグを切ったり、タンスにしまったりしないといけないのか……。思っただけでげんなり。

サイズがちがったり欠陥があったりしたら早めに返品しないといけない。だからすぐにチェックしたほうがいい。
わかってるけど、めんどくささのほうが勝って放置してしまう。

ああ嫌だ嫌だ。服を買うのは嫌いじゃないが、買った服をおろすのは大嫌いだ。

買った服は袋に入れたままタンスの上に放置する。
「いつかめんどくさくなくなったらおろそう」
当然ながらそんな日は来ない。今日めんどくさかったんだから明日になったらもっとめんどくさい。来週になったら換気扇の掃除と同じくらいめんどくさい。

冬に買った服が夏になってもまだタグがついたまま。たまに目が留まるが「ま、そのうちね。ここぞというときにおろすからさ」と思いながら目を背ける。

ところが「ここぞというとき」なんて、既婚・子持ちのおっさんにはない。「子どもと公園で遊ぶから汚れてもいい服を着る日」はあっても「新しい服を着なきゃいけない日」はない。
結婚式とか家族写真を撮るとかのイベントのときはスーツだし。


つくづくもったいないことしてるなあと思うんだけど、こんな性分にもひとつだけいいところがある。
今の気候にふさわしい服がすべて洗濯中のときにしかたなく半年前に買った服をおろすんだけど、買ったときのお嬢様気分なんかすっかり忘れているから

「おっ、この服なかなかいいじゃん。これは自分では選ばない色だなー(自分で選んだんだけど)。たまにはこういうのもいいかも」

と、福袋気分で楽しめるところ。


2018年3月6日火曜日

ゴリラのピッチングフォーム


箱根駅伝を見ていると、ときどきすごく汚いフォームの選手がいる。
腕をわったわったと振りまわして、頭を右に左に動かしながら走っている。他の選手の足音が「タッタッタッ」なのに、その選手だけ「バタタンッバタタンッバタタンッ」という感じ。

ああ、ここにもぼくがいる。汚いフォームのせいで損をしている選手が。
「速いね」じゃなく「意外と速いね」としか言ってもらえない選手が。



ぼくは、運動が苦手なわけではない。

学生時代の通知表でいうと、だいたい10段階で「6」ぐらいだった。
「運動神経がいい」と言われることもないが、周囲の足を引っ張るほどでもない。体育の授業でサッカーをすると、点をとったりドリブル突破したりはできないけど、パスをつないだりセンタリングを上げるぐらいはできる。そんな感じ。

「運動神経がいい」とは言われないが「意外に運動できるんやね」はときどき言われる。
つまり運動できなさそうに見えるらしい。

金髪ピアスの若者がお年寄りに席を譲っただけでことさらに褒めてもらえるのと同じく、一見できなさそうだから中程度の出来でも「意外とできるんやね」と言ってもらえる。褒められてもうれしくない。



小学生のとき、50メートル走を走っていると級友から笑われた。ぼくは、足が速くはないが遅くもない。20人中10番ぐらい。決して笑われるようなタイムではない。
級友は笑いながら言った。「おまえ、今にもこけそうな走り方をするな」
どうやらフォームがすごく汚いらしい。

高校生のときには「ひとりだけ氷上を走ってるみたい」と言われた。



子どものときから友人たちとよく公園で野球をしていたおかげで「野球部じゃないわりには野球うまいな」と言われるぐらいにはなった。
ちゃんとした指導者がいなかったのですべて我流で身につけた。野球にはけっこう自信を持っている。まあまあ速い球も投げられる。あくまで「野球部じゃなかったわりには」という条件つきだが。

大学生のとき野球をした。旧友がビデオカメラを持ってきて、その様子を撮影した。
撮った映像を観て愕然とした。自分のピッチングフォーム、めちゃくちゃ汚い。
己の中ではダルビッシュのような流麗なフォームのイメージだったのだが、ビデオカメラに映っている自分は、ウンコを投げるゴリラだった。びちゃっ、という音が聞こえてきそうなピッチングフォームだった。
まさか、と思った。何かの間違いだろう。しかし何度見てもそこにはウンコを投げるゴリラが映っている。びちゃっ。

「こんなに変なフォームだったのか……」とショックを受けていると、友人から
「おまえのフォーム、昔からこんなんだよ。おれはもう見慣れたけど、たしかに変だよな」
と言われた。「いやでもこんなめちゃくちゃなフォームでけっこう速い球投げられるんだからすごいよ」とフォローされたが、自信を持っていただけに深く傷ついた心はまだ癒えない。

ゴリラががんばって人間のレベルに追いついたのだ。そこには並々ならぬ苦労があった。それはたしかにすごいことだけど、ぼくははじめから人間に生まれたかった。



箱根駅伝に出てくる、すごく汚いフォームの選手に親近感をおぼえる。

「このフォームでこれだけ速く走れるんだからフォーム修正したらもっと速く走れるだろうにねえ」
とみんな言うが、そうかんたんな話じゃない。

だってセルフイメージでは無駄のない美しい動きをしているのだから。自分がゴリラであることに気づかずに誇らしげに野球をやっていたぼくにはわかる。


2018年3月5日月曜日

実に田舎の公務員のおっさん


以前、車を買って二ヶ月で事故を起こした。スピーディーだ。
田舎の住宅街を走っているとき、一時停止の標識に気づかずに交差点に侵入し、横から来た車のどてっ腹につっこんだ。後で、九対一でぼくが悪いという判定になった(しかしそれでも一割の過失があるとされるんだから相手はかわいそう。避けようがないだろうに)。


車は大きく破損したが、幸いお互いにけがはなかった。
相手のおじさんが「ちょっと急いでるから実況見分とかやってる時間ないねん。連絡先だけ教えて!」と言うので連絡先を教えあい、おじさんはその場から立ち去った。

加害者が逃げたんなら問題だけど逃げたのは被害者だしなあ、でも警察に連絡しないのはまずいんじゃないだろうかと思い、ぼくひとりでそのまま警察署に向かった。
事故に遭ったと報告すると「で、相手の人は?」と訊かれた。「なんか急いでるとかでどっか言っちゃいました」と伝えた。

たちまち相手のおじさんには警察から招集がかかり、おじさんはすぐにやってきた。「事故現場から勝手に離れたらだめでしょ!」と警察官からめちゃくちゃ怒られてた。被害者なのに加害者より怒られてた。かわいそうに。


ぼくも詳しい事情を訊かれた。五十歳ぐらいの警察官だった。

「どこからどこへ向かってたの?」

 「市民病院に行ってて、その帰りでした」

「病院? どっか悪いの?」

 「はあ。一週間ぐらい前から微熱が続いて吐き気がするので」

「で、医者はなんて?」

 「一応検査はしたんですけど、異常は見つからなかったので精神的なものかもしれないそうです(デリケートなことをずけずけと訊いてくるなー)」

「なんで熱が出るの」

 「さあ(医者がわからないのにわかるわけないだろ)」

「こりゃああれだな、どうせコンビニ弁当ばっか食べてんだろ。ちゃんとしたものとらないからだぞ」

 「はあ(精神的な原因かもしれないって言ってんだろボケ。自炊しとるし)」

「彼女はいるのか? はやく結婚して奥さんにうまいごはんつくってもらえよ」

と、事故とまるで関係のないセクハラ説教をされた。


「この属性の人はこうだ」という差別的なことはあまり言いたくないが、いやあ実に田舎の公務員のおっさんらしい古くさい考え方だなあ、とすっかり感心したのだった。


2018年3月4日日曜日

あなたが私によこしたもの


高校生のとき、好きだった女の子に無印良品のバッグをあげたことがある。ぜんぜんかわいくないやつ。アタッシュケースみたいなシンプルなデザイン。ビジネスシーンで使えるぐらい不愛想なやつ。


しかも、そこそこ仲は良かったが付きあってたわけでもないのに。

高校生にしてはそこそこいい値段がしたと思う。まあまあ高くて使えないという、いちばん迷惑なプレゼントだ。キモかっただろうな。


プレゼントを選ぶセンスがない。
自分自身に物欲がないせいかもしれない。服は暑すぎず寒すぎなければなんでもいい。バッグはたくさん入るやつがいい。
その程度の執着しかないから人に何をあげたら喜ばれるのかわからない。

妻に誕生日プレゼントを贈っているけど、欲しいものを型番で指定してもらって、ネット通販で買うことが多い。買い物に行くのも嫌いなのだ。「買っといて、後でお金請求してよ」というときもある。妻がムードとかにこだわらない人でよかった。

プレゼントを選ぶセンスがないのに、プレゼントを贈ることは好きなのだ。困ったことだ。



毎年、親戚が集まると、子どもたちへのプレゼントの贈りあい、というイベントが発生する。うちの一族はみんな子どもにものをあげたがるのだ。

甥や姪、いとこの子どもたちにプレゼントを贈るのは楽しい。
でも、いつも困ってしまう。
赤ちゃんはかんたんだ。えほんを買えばいい。やつらに好みなんてないからだ(あるんだろうけどどうせ考えてもわからないから気にしない)。すでに持っている本を贈らないことだけ気をつけて、あまり有名でないえほんをあげる。

もう少し大きくなっても、男の子はなんとなくわかる。「九歳のとき何が好きだったかな」と自分の経験に照らし合わせて考えれば、大きくはずさないだろう。

女の子がむずかしい。いとこの娘が中学一年生なんだけど、何をあげたらいいのかさっぱりわからない。
小学校高学年から中学生ぐらいの女の子なんて、ぼくの人生ともっとも縁遠いところにいる存在だ。やつらは何を好きなんだろう。何をして遊んでいるんだろう。どんな話をしているんだろう。ネリリしキルルしハララしているのか。なにひとつわからない。

男子はばかだからいくつになってもボールを与えとけば喜んで蹴りまわしているけど、中学生の女の子はそうはいかない。
『トイ・ストーリー2』で、ジェシーというカウボーイ人形が思春期になった持ち主の女の子から遊んでもらえなくなるという描写がある。

いとこの娘にあげるプレゼントを選ぶとき、いつもこのシーンが頭に浮かぶ。
ああ、エミリー。おもちゃで遊ばなくなったエミリー。ジェシーの寂しさがぼくには手に取るようにわかる。


大人の女なら「とりあえずお菓子あげとけばいいや」となるんだけど、思春期の女子ってやたらとダイエットするでしょ。大人女性の口だけのやつとちがって、かなり本気のやつ。そんな人に甘いお菓子あげたら恨まれそうだし。

何あげたらいいかわかんねえ。かといって女子中学生に現金つかませるのもなんかやばいし。


2018年3月3日土曜日

本を嫌いにさせるフェア


書店で働いてるとき、読書感想文のシーズンになるとふだん本を読まなさそうな子ほど漱石とか太宰とか難解な本を買いに来ていた。
レジで太宰を手渡しながら、あーあ、この子たち余計に本嫌いになるんだろうなーと思ってた。

あれは夏の文庫百冊フェアとかやってる出版社にも責任があると思う。
ああいうところに、いわゆる文豪の作品を入れないほうがいい。
ほんとに好きな子は夏の百冊に入ってなくても買うし。
  • 本を読まない子でも作者やタイトルは聞いたことがある
  • 人気漫画家に描かせたポップな表紙
  • 著作権切れの作品だから他より安い
と条件がそろってたら、そりゃ本の選び方を知らない子は漱石や太宰を買っちゃうよ。そして本嫌いの子が増えてゆく。


夏の百冊フェアをやるのなら、とっつきやすい短篇集、ティーンが主人公の話、ユーモアあふれるエッセイなどだけでそろえたらいい。それも、教科書には載ってない現代作家の。
そしたら「学校で習わないけどおもしろい本が本屋にはいっぱいあるんだ」と気づいてもらえるのに。

ぼくが、ふだん本を読まない子のために文庫の中から選ぶとしたら……


村上 龍『69 sixty nine』

椎名 誠『わしらは怪しい探険隊』

原田 宗典『十七歳だった!』

東野 圭吾 『あの頃ぼくらはアホでした』

畑 正憲『ムツゴロウの青春記』

東海林 さだお『ショージ君の青春記』

みうら じゅん『正しい保健体育 ポケット版』

高野 秀行『異国トーキョー漂流記』

群 ようこ『鞄に本だけつめこんで』

北 杜夫『さびしい王様』

佐藤 多佳子『黄色い目の魚』

重松 清『ナイフ』

星 新一 『未来いそっぷ』

宮部 みゆき『我らが隣人の犯罪』

伊坂 幸太郎『陽気なギャングが地球を回す』

貴志 祐介 『青の炎』

小川 洋子『猫を抱いて象と泳ぐ』

誉田 哲也 『武士道シックスティーン』

筒井 康隆 『旅のラゴス』

清水 潔 『殺人犯はそこにいる』

大崎 善生『聖の青春』

橘 玲『亜玖夢博士の経済入門』

岩瀬 彰『「月給100円サラリーマン」の時代』

木村 元彦 『オシムの言葉』

スティーヴン キング『ゴールデンボーイ―恐怖の四季 春夏編』


こんなとこかな。
どれもおもしろくて、世界をちょっとだけ広げてくれる。ぐいっと。

おっさんが選んだ本だから古いリストだけど。



2018年3月2日金曜日

お誕生日会という風習


小学校低学年のとき、"お誕生日会"という風習があった。

ある日、同級生から招待状を渡される。「お誕生日会をやるから来てね」

赤紙と一緒で、招待状をもらったら欠席は許されない。手ぶらでの参加も許されない。

誕生日プレゼントを持って誕生日の子の家に行く。
その子のお母さんがケーキやお菓子やジュースを用意して待っている。参加者たちは主役であるその家の子にプレゼントを渡し、あとは飲み食いしてゲームで遊ぶ。帰り際には、来てくれたお礼ということでお土産を渡される。

今思うと、ずいぶん図々しい風習だ。
あたしの誕生日を祝うために集まりなさい、だなんて厚かましいにもほどがある。

常識的に考えれば、そんな暴挙が許されるのは王女様と西田ひかるだけだ。




たぶんあれは当人よりも母親が張りきってやっていたんだろうな。

「うちのかわいい〇〇ちゃんの誕生日なんだから盛大に祝わなくちゃ!」というある意味まっすぐな親心が、強制招集お誕生日会という暴挙につながっていたのだと思う。

「どれだけ豪華なケーキやおみやげを用意しているか」「どれだけいいプレゼントを持たせるか」という母親同士の見栄の張りあいもあったのだろう。

仲のいい数人を集めてわいわいやる、という程度ではなく、どのお誕生日会も十人以上集めて盛大にやっていた。クラスの男子全員が参加、ということもあった。

ある日、あまり親しくもない子のお誕生日会に呼ばれた。
お誕生日会に招待された、と母に言うと「じゃあ誕生日プレゼントを持っていかなきゃね。その子の好きそうなものを買ってあげなさい」と、五百円を渡された。

とりあえずおもちゃ屋に行ってはみたものの、親しくもない子に何をあげたらいいのかわからない。今なら無難にお菓子とかにするけれど、男子小学生にとっては「プレゼント=おもちゃ」である。
その子がガンダムのイラストの入った下敷きを持っていたことを思いだし、だったらガンダムだろうということでガンダムの安いプラモデルを買った。

誕生日会当日、プレゼントを渡すとなんとも微妙な顔をされ、子どもながらに「あっ、これははずしたな」ということがわかった。
じつはそんなにガンダムを好きではなかったのかもしれない。
ぼくはガンダムを観たことがなかったので、もしかしたらガンダムっぽい別のロボをプレゼントしてしまったのかもしれない。



またべつのある日、父親といっしょに犬の散歩をしていると、クラスメイトたちに出くわした。どうやら同じクラスの女の子の誕生日会をするところだったようだ。

クラスの女子ほぼ全員と、男子も何人かいた。一年生のときだったが、いわゆる「イケてる男子たち」も招待されていたらしい。

ぼくは招待されていないので気まずかった。軽くあいさつをして立ち去ろうとすると、あらゆることに楽天的な父親は
「なんだ、同じクラスの友だちか。だったらいっしょに遊んでこい」
とぼくの背中を押した。
「いややめとく」と言っても「恥ずかしがるなって。友だちなんだろ」と言い、あろうことか「ごめん、こいつもいっしょに入れてやってくれるかな」とクラスメイトたちに声をかけた。なんと無神経なんだろう。今でも恨んでいる。

イヤと言われることもなく(そりゃ言えないだろう)、急遽ぼくも誕生日会に参加することになった。

呼ばれてもいないお誕生日会への参加。地獄だった。

招かれざる客であるぼくは、もちろんひとりだけプレゼントを持ってきていない。誰も何も言わないが、その目が雄弁に語っている。コイツナンデイルノ。

ちがうんだ、ぼくだって来たくなかったんだ。


今思い返しても冷や汗が出る。

呼ばれなかったお誕生日会に参加することつらさたるや。
ぼくが魔女だったら、お誕生日を迎えた女の子に永遠の眠りにつく呪いをかけていただろうな。


2018年2月26日月曜日

記録を残していたことの記録


十五歳から二十歳くらいまでの時期、「記録を残す」ことに憑りつかれていた。


毎日日記をつけていた。

買い物をしたら必ずレシートを持ち帰り、ノートに記録していた(集計はしない。ただ記録するだけ)。

常にインスタントカメラを持ち歩いて、何かあるたびに写真を撮った。

読んだ本のタイトルと感想をすべてノートに記録した。

高校で席替えをするたびに、座席表を記録して自宅の机に置いていた。

ノート、手紙、メモなどの類はすべて捨てずに保管していた。

大学生になって初めてアルバイトをして(高校はアルバイト禁止だった)、最初に給料を貯めて買ったものはビデオカメラだった。
型落ちのモデルで十七万円した。もちろんデジタルじゃない。清水の舞台から飛び降りるような買い物だった。今調べてみたら、一万円以下で買えるデジタルビデオカメラがたくさんあって驚いた。



高校生のときの日記を読むと
「9時に起床。10時半に家を出て、××駅で××と待ち合わせ。JR××線に乗って11時40分に××に到着。××で昼食をとり……」
と、気持ち悪いぐらい克明に記録している。刑事が尾行記録を警察手帳に書くときぐらいの細かさだ。

こういう日記を毎日つけていると、常に日記を書くことを想定して行動するようになる。行動の節目節目に時計を見て時刻を確認し、集団で行動するときは人数を数えて日記を書くときに漏れがないように気を付ける。
一日家にいたときなどは「このままだと日記に書くことがないな。ちょっと散歩でもするか」と行動を起こすこともあった。
日記のために行動するのだ。
インスタグラムに写真を載せるために出かける人たちのことを笑えない。というか誰にも見せない日記のために行動するほうがヤバい気がする。

日記は今もつけているが、次第に短くなっていき、今では「仕事の後、子どもとカルタをして遊ぶ」ぐらいの短いものだ。



なぜあんなに記録を残すことに執着していたのだろう。

きっと「何者でもない自分が、何者でもないまま死んでいく」ことに耐えられなかったのだと思う。

功成り名遂げることができなかったらどうしよう。そういう不安を紛らわすために、必死になって生きた痕跡を残そうとしていた。それが日記であり、写真であり、読書の記録だった。

最近はそこまでじゃない。
日記は短いものだし、買い物記録はやめてしまったし、写真を撮ることは減った。
読書感想はブログに書いているが、これは他人に読まれることを想定してのものだ。自分のためだけには書いていない。

何かを成し遂げたわけではない。今でもあっと驚かせるようなことをして世間に名前を轟かせたいという気持ちがないわけではないが、そうでない生きかたもまた良し、と思えるようになった。
娘が生まれたからでもあるし、人間は遺伝子の乗り物にすぎないと知ったためでもある。歳をとるとみんなそうなっていくのかもしれない。


今はあまり記録を残していないけど、昔の記録を見るのはすごく楽しい。

高校生のときの日記とか写真とか最高におもしろい。つくづく残しておいてよかったと思う。

特に座席表はおすすめ。同窓会とかで見せたらめちゃくちゃ盛り上がる。


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距離のとりかた

自分の人生の主役じゃなくなるということ



2018年2月25日日曜日

西方浄土


関西に住んでいる人はどうも「西に行きたい」願望があるようだ。

周囲の人の話を聞いても、国内旅行というと四国とか九州とか広島とかが多い。
東にはあまり行かない。東京、横浜、ディズニーランド、北海道といったメジャーな場所には行くが、それ以外の東北・関東・東海・北陸にはあまり行かないようだ。

書店で働いていたときも、『るるぶ東北』『るぶ金沢』よりも『鳥取』『松山』などのほうがよく売れていた。
距離だけの問題でもないと思う。大阪ー静岡間と大阪ー広島間の距離はほとんど同じだと思うが、「広島に旅行に行く大阪人」は「静岡に旅行に行く大阪人」の倍くらいいると思う。知らんけど。



ぼくは両親が旅行好きだったこともあって子どもの頃はよく旅行に連れていかれたけど、兵庫県東部に住んでいたぼくの家族が行った場所はといえば、倉敷、岡山、瀬戸内海の島、鳥取、香川、徳島、福岡、熊本、佐賀、別府、長崎、など見事に西方面ばかりだった。
父親が単身赴任をしていたときに横浜に行ったけど、それ以外には東方面へ旅行したことがない。
修学旅行の行き先も、小学校は広島、中学校は長崎だった。


就職活動をしていたとき、ほとんどゆかりがないにも関わらず「四国で一生過ごすのもいいな」という気持ちが突如として湧いてきて、愛媛や高松の企業を受けてまわったことがある(結局四国には就職しなかったが)。

自分自身のことを思い返しても、やはり西方面に引き寄せられる傾向があるようだ。

仕事で東京に行くことが多いからこそ、旅行のときは逆方面に行きたくなるのかもしれない。



菅原道真が大宰府(福岡県)に流されたり、平家が壇ノ浦(山口県)で敗れたり、光源氏が須磨(兵庫県)に流されたり、京都に都があった時代から、みんな西に行ってばかりいる。行かされてるんだけど。
東に行った話といえば、晩年の源義経が追われて平泉(岩手県)に逃げたぐらいしか思いつかない。

上方落語には「東の旅」と呼ばれるいくつかの噺があるが、ここでいう「東」とは伊勢神宮、つまり今の三重県のことだ。

今でも関西の人は三重にはわりと行く(三重県は近畿地方には含まれるが関西には含まれない、というなんとも微妙なポジションだ)。ぼくも二度旅行に行ったことがある。

上方の人にとっての「東」は三重までで、そこから先はごうごうと滝が流れ落ちている暗黒の地なのだ。それは今でも同じかもしれない。


2018年2月24日土曜日

工事現場で遊んでいる男子小学生



小学五年生のとき、毎日のように工事現場で遊んでいた。
近くにあった小さな山が造成され、百軒分ぐらいの住宅地になった。

空き地がずらっと並び、常に建設工事がおこなわれていた。

ぼくと友人たちはそのあたりに捨てられている板や釘を拾ってきて、石で釘を打って遊んでいた。

はじめは小さな木片や曲がった釘を拾っていたのだが、だんだんエスカレートしていった。
拾うものは少し大きめの板になり、錆びたのこぎりになり、やがて金づちや新品同様の釘になった。たぶん捨てられていないものも混ざっていたと思う。盗みだ。

それらを空き地の隅っこに隠しておいて、拾い集めた材料で椅子や箱を作っていた。
大工のおじさんたちもぼくらの存在には気づいていたはずだが、ごみで遊んでいるだけだと思っていたのだろう、何か言われたことは一度もなかった。

車輪も手に入った。
工事の際、道具を運ぶのに使っていたのだろうか。
拾った車輪に板をくっつけて、車をつくった。子どもがひとりだけ入れるぐらいの、半畳ほどの大きさの車。
車が完成したときはうれしかった。さっそく乗りこみ、坂道を滑走した。木片と車輪をくっつけただけの手作りの車で、車道をがんがん走る。もちろんブレーキもハンドルもない。無謀すぎる。

スピードが乗ってきたところで、向こうから自動車がやってくるのが見えた。
やばい。どうしよう。
そのときになってはじめて「車道を走っていたら車に出くわす可能性がある」ということに気がついた。小学五年生の男子ってそれぐらいばかなんです。
急いで車から飛び降り、手作り車をつかむ。間一髪、自動車にぶつかる前に止まった。

工事現場には危険がいっぱいだ。
釘を踏んで足の裏に大けがをしたやつもいたし、石で釘を打ちつけるときに誤って自分の指を叩いてしまうことなんて日常茶飯事だった。ぼくは爪が割れて、しかも消毒もせずに遊びつづけていたから化膿した。

何を考えていたのだろうか。もちろん先のことなんて何も考えていない。
男子小学生だったことのある人ならご存じだと思うが、彼らは十秒先ぐらいのことまでしか考えられないのだ。

発煙筒が落ちていたので焚いてみたら警察官が来てこっぴどく怒られたが、工事現場で怒られたのはそれ一回だけだった(もっとあったけどばかだから忘れているのかもしれない)。


みなさん、工事現場で遊んでいる男子小学生を見かけたら、きちんと叱ってやってほしい。彼らのために。やつら、ばかだから怒られないとわからないんです。怒られてもわかんないけど。


2018年2月19日月曜日

英語能力のフロッピーディスク化


小学校で英語教育を受けさせられる娘が不憫でならない。

まったくの無駄だとは思わない。ぼくも中学校・高校・大学で英語を学習したことで文章の構造や論理的な思考を学んだ。

でも「外国語でコミュニケーションがとれる能力」の価値は今後どんどん低下していく。


機械翻訳の精度は、今後飛躍的に上がる。疑いようもなく。
テキスト翻訳はもちろん音声翻訳も、十年以内に実用に十分耐えうるレベルになるだろう、とぼくは思っている。
「十年以内」でもずいぶん控えめに見積もったつもりだ。将棋でコンピュータが人間と対戦するようになってからプロ棋士をこてんぱんに打ち負かすようになるまでにかかった時間を見ていると、自動翻訳が実用化するのに十年もかからないと思う。

とくに英語なんて利用者が多いからまっさきに翻訳精度が上がる言語だ。
大多数の日本人にとって英語能力は今以上に不要のものになる。

詩的表現や若者言葉や業界用語にまで対応するのは難しいかもしれないが、旅行・買い物・初対面でのコミュニケーション、その程度のことは自動音声翻訳で事足りるだろう。もっとこみいった話はテキストでやりとりすればいい。どうしても必要なら通訳や翻訳者を使えばいい。ニーズが減って供給過剰になるから、通訳・翻訳の費用も下がるだろう。

少なくともビジネスシーンにおいては外国語能力はたいした価値を持たなくなる。ないよりはあったほうがいい、ぐらいのスキル。いってみれば、電卓やコンピュータが普及した時代における暗算スキルぐらいの重み。




義務教育での英語学習時間は増えていってるけど、むしろ今後減らしていったほうがいい。

2020年から小学校でプログラミングが必修化するらしいけど、英語学習で見につく論理的思考などの能力のうち大部分はプログラミング学習でも身につけられる。だからプログラミングをやるのであればその分英語学習時間を削ったほうがいい。

小学校の算数の一単元でそろばんを教えるけど、将来的にはあれぐらいの扱いにしてもいいと思う。そこまでいかなくても、せいぜい古文や漢文ぐらい。
英語は高等教育で学べば十分だ。小学校で算数や国語の授業時間を削ってまで教える必要はない。



ぼくが中学校のとき、技術の授業で「コンピュータ」という単元があった。
そこで教わったのは「フロッピーディスクのフォーマット方法」だった。

知ってますか、フロッピーディスクのフォーマット。
昔のフロッピーディスクって買ってもすぐに使えなかったんです。一回初期化しなきゃいけなかったんです。なんでって訊かれても困りますけどね。フロッピーディスクって何ですかって訊かれたらもっと困りますけどね。

ぼくがフロッピーディスクのフォーマット方法を習ったのは1995年。それが役に立ったことは一度もない。大学時代はフロッピーディスクを使っていたけど、フォーマット済みのフロッピーディスクが売ってたしね。もちろん高校入試にも出なかった。会社の採用試験にも出なかった。

あの時間はなんだったんだ。まあフロッピーディスクのフォーマットについて習ったのは一時間か二時間だけのことだったので、まあいっかと思う。こうして話のネタになるしね。

でも小学生のときから何千時間も英語学習に費やして、いざ自分が大人になったときに英語能力が「フロッピーディスクのフォーマット方法」レベルの有用性になり下がっていたら、「勉強した時間返せよ」って思う。

さっさと自動翻訳が普及して、教育関係のえらい人たちが「英語、そんなに役に立たなくね?」と早く気づいてくれることを祈る。

ていうか機械翻訳がどうこういう以前に、早期学習が英語能力の習得に貢献するという確かな根拠ってあるのかね?


【関連記事】

バトラー後藤裕子『英語学習は早いほどいいのか』


2018年2月18日日曜日

中敷きくせえ


靴を買いに行ったとき、ぼくの靴を試し履きさせてくれた店員のお兄さんに

「この中敷き、いいですよ。靴のにおいってほとんどが中敷きのにおいなんですよ! ぼくも足くさいって言われてたんですけど、この中敷きするようになってからくさいって言われなくなりました!」

って力説されて「ぼくの足、そんなにくさいのか……」と若干落ち込みながら言われるがままに店員おすすめ中敷きを購入した。



それから数か月。

ふむ。たしかにいい。

帰宅して靴を脱いだら、中敷きを取りだす。

くせえ。超くせえ。

そのまま中敷きを干しておくと、翌朝になるとにおいがだいぶ軽減している。

なるほど、中敷きが吸っていたにおいが一晩でなくなっている。

そのにおいは部屋中に飛散されているんだろうけど、その件については深く考えないことにする。

くさくなくなった中敷きを入れて出かける。帰ると、またくせえ。超くせえ。



はじめて知った。

靴のくささって積もりに積もった分泌物のにおいだと思っていたのだが、たった一日で歩いただけでこんなにくさくなるのか(しかも冬なのに)。

今までは中敷きを取りだしていなかったから、このくささを何年も溜めこんでいたわけだ。さぞかし凝縮した濃厚な香りだったことだろう。

店員さん、婉曲かつ直截的に「足くさいっすよ」と教えてくれてありがとう。

2018年2月17日土曜日

ブログ、よろしおすねや


個人ブログって好き。書くのも好きだし、読むのも好き。

でも悲しいことにブログを書いてる人は少なくなってる。

ブログがいちばん流行ったのって2005年頃ですかね。日常的にインターネットやってる人の半分くらいの人はブログ持ってたんじゃないかって印象。高すぎるかな。でもそれぐらいの印象。じっさい、二割以上はやってたんじゃないでしょうかね。

その後mixiとかTwitterとかFacebookとかが流行って、もっと手軽にものを発信できるSNSにみんな移行していった。

ぼくが昔読んでいたブログはほとんど残っていない。でももっと読みたい。「これは!」と思うブログをRSSリーダーに入れて(こういうのやってる人も今はあんまりいないんだろうなあ)読んでいるのに、いつしか更新されなくなってしまう。悲しい。


もっとみんな書いてよ。

好きなブログがいくつかあるけど、その大半はほとんど更新していない。

一時は毎日のように書いていた人も、今ではほとんど書いてない。

だから書いてくれ。書くのが嫌いな人にまで書けとは言わないけど、書くのが好きな人は書いてくれ。

なんで書くのをやめちゃったの?




おもしろい文章が書けない


って言わはりますけど。そんなんよろしおすねや。

おもしろくなくていいんですよ。こっちは個人ブログにそんなにおもしろいものを求めてないから。

おもしろいものは金出して本買って読むから。

そんなにおもしろくない体験をしていない人のそんなにおもしろくない文章。それが読みたいんだよ。

片思い中の相手がブログ書いてたらぜったい読むでしょ。どんなにクソくだらないこと書いてても、熱心に読むでしょ。三回読み返すでしょ。

ぼくがブログを読みにいくのは、それを書いてる人が好きだから。おもしろくなくても美しい文章じゃなくても、好きな人が書いた文章は読みたい。

今日カレー食ったうまかったみたいな話でいいから、書いてくれ。




読んでくれる人が少ない


年賀状っておもしろくないじゃない。でもみんな読むでしょ。

年賀状嫌いな人は多いけど、それって書くのがめんどくさいだけで、読むのはみんな好きでしょ。

知人から自分宛てに届いた年賀状、読まずに捨てる人います?
いたら怖えから二度と近づかないでくれ。自分宛てに届いた年賀状読まないくせにこんなブログ読みに来てる人がいたら狂ってるとしか思えない。

そんなに親しくない人から来た年賀状、どうせ大したこと書いてないってわかってても一応読むよね。

自分宛てに書かれているから。


だから読者数は多くなくていい。むしろぼくは読者が少なそうなブログを読みたい。

「ぼくが読まなきゃ」って気持ちになるから。自分宛てに書かれているような気がするから。

一年書いて読者数ゼロだったらさすがにやめたほうがいいけど、ひとりでもいるんだったら書いてくれ。

読者数の少ないブログを読みたい人間もいるんだよ。



書いてて手ごたえがない


それはごめん。

ぼくも欠かさず読んでいるブログがいくつかあるけど、いちいちコメントしたりトラックバックしたりしない。ほんとごめんって。

反響ないとモチベーション下がるよね。でも読んでるから。アクセス数1が大反響だと思ってくれ。「あーおもしろかった」って思ってるから。コメントつけたり拡散したりしてないけど。でもまた新しい記事書いたら読みに行くから。


反響なんてあっても疲れない?

ぼくがブログを好きなのは、反響があんまりないからってのもある。

SNSって気軽に「いいね!」がつけられるじゃない。あれ、たしかにうれしいけどそれに振り回されるんだよね。「いいね!」の数に一喜一憂しちゃう。

よく考えたらぼくは書きたいことを書いてるだけで、それに点数をつけてほしいわけじゃない。

「いいね!」はいらないからまた次の記事を読みに来てほしい。

読者数がひとり以上いることがなによりの反響だと思えば、やめる理由にはならない。




このブログなんて、目を見張るようなことも書いてないし読者数も少ないし反響もほとんどないけど、それでも三年間毎日のように書いている。

なにをモチベーションにやってるかって言ったら、自分という熱狂的ファンがいるから。ときどき自分の過去記事を読み返して「やっぱりぼくの書く文章っておもしろいなあ」と思えるから。

書くことのおもしろさは知っているよね。自分の書いたものを読んでもらううれしさは知っているよね。

だったらすぐ書かんかい。放置しているブログを今日から再開せんかい。はよ。


2018年2月16日金曜日

捏造記憶


ぼくのいちばん古い記憶は、「二歳の誕生日を家族に祝ってもらっている」というものだ。

「バースデーケーキを前にして、両親や姉がぼくの誕生日を祝っている」という映像が自分史上最古のものだが、この映像の中にぼくの姿もある。

おかしい。自分の記憶なのに、自分の姿がある。幽体離脱をして外から自分の姿を見ていたのだろうか。

これは、もっと大きくなって見せられた写真をもとに、捏造した記憶だろう。



「二歳のときに入院していた」という記憶もある。

これは事実だ。姉と自転車の二人乗りをしていて、転んで左ひじの骨を折ったのだ。

入院中のあるとき、赤い飴玉を渡された。飴玉をなめていると、それが睡眠薬だったらしく、眠りに落ちてしまった。目が覚めたら手術が終わっていた。


……とずっと思っていたのだが、あるとき母にその話をしたら「そんなわけないじゃない」と言われた。

たしかに二歳の子どもに睡眠薬を飲ませるなんてあぶない。ふつうは全身麻酔をするだろう。また飴玉を睡眠薬にしたら、寝たときにのどに詰まる危険性がある。

よく考えたらいろいろとおかしい。

しかしこれは写真もないし、どこから「赤い飴玉の睡眠薬」という発想が出てきたのか、謎だ。

しかし最近、『ひとまねこざるびょういんへいく』という絵本を見ていると、おさるのジョージが病院で赤い薬をなめて寝てしまうというシーンがあった。

この本、うちにもあった。母に訊くと「あんたが入院していたときに買ったのよ」とのことだった。

なるほど、これだったのか。どうやらおさるの記憶と自分の記憶がごっちゃになっていたらしい。



自分の記憶って、けっこうあてにならないもんだな。

二歳のときだから、ってのもあるけど、もしかしたら二十歳ぐらいの記憶も半分くらい後から捏造しているかもしれない。


2018年2月15日木曜日

ママは猟奇的


ときどき母と本の交換をする。「これ、おもしろかったよ」と自分が読んだ本を交換するのだ。

母はミステリやサスペンスが好きなので、こないだ清水潔『殺人犯はそこにいる』を贈った。
「ノンフィクションだけど、そこらのミステリ小説よりずっと手に汗握る展開だった」と。



一ヶ月後、母に尋ねた。
「『殺人犯はそこにいる』、読んだ? すごい本やったやろ?」

すると母は「途中で読むのやめちゃった」と言う。

「えー!? なんで? あの本を途中でやめられる? ぼくは中盤から一気に読んだけどな」

「いや、ノンフィクションとしてはすごくいい本だと思う。
 でも、孫ができてから、ちっちゃい子がひどい目に遭う話は読めなくなったのよね。
 うちの孫がこんな目に遭ったらと思うとつらすぎて……」

と。

母の変わりように驚いてしまった。

あんなにサスペンスやホラーが好きだった母が。学生時代から『雨月物語』を愛読し、猟奇的な殺人事件もののミステリばかり読んでいた母が。

人間、歳をとると変わるんだねえ。


しかしなによりショックだったのは、「孫ができてからちっちゃい子がひどい目に遭う話はつらすぎて読めない」と言う母が、ぼくが子どものときはそんなことを一言も言っておらず、残虐な物語もよく読んでいたこと。

我が子はええんかい。



2018年2月13日火曜日

卵どろぼう


オヴィラプトルという恐竜がいる。名前は「卵どろぼう」という意味だ。


最初に化石が発見されたときにそばに卵の化石もあったため、卵を盗んで食べる恐竜にちがいないと思われてこんな名前になった。

ところが後の調査で、オヴィラプトルの近くにあった卵の中にはオヴィラプトルの子どもがいたことがわかった。つまり彼らは卵を盗んでいたのではなく、自分の卵を温めていたのだ。

しかし「卵どろぼう」の名で定着してしまった彼らは、今もそのまま「オヴィラプトル」という卵どろぼう呼ばわりされている。

ひどい冤罪だ。冤罪が明らかになった今をもってなお、彼らの汚名は雪がれていない。


オヴィラプトル濡れ衣問題は、法治国家の限界を表しているようにも見える。

「疑わしきは罰せず」の原則が無視され、"容疑者"になっただけで犯人扱いされてしまう現実。

法に定まった罰以上に社会的な制裁を課されてしまう実情。

一度汚名を着せられたら、それが濡れ衣であっても永遠に拭えない社会。

こうした社会の危険性に対し、数千万年の時を超えて「卵どろぼう」が警鐘を鳴らしている。


2018年2月12日月曜日

ライナスの毛布


スヌーピーでおなじみ『THE PEANUTS』にライナスという男の子が出てくる。

いつも青い毛布を持っている男の子。あの毛布は「ライナスの毛布」という名でも心理学用語になっている。



ぼくも「ライナスの毛布」を持っていた。というか今でも持っている。

三歳ぐらいのとき、さびしがりやで、ひとりでは泣いて寝られなかった。そこで母がパジャマを与えると、それを握りしめて寝ていたらしい。

母は古くなったパジャマを切ってぼくに与え、それ以来ぼくはパジャマのを持って寝るようになった。


ただぼくがライナスとちょっとちがうのは、布切れそのものではなく、それについているボタンに執着するようになったことだ。

パジャマの切れ端が汚くなったので母がとりあげると幼いぼくは大泣きした。代わりにべつの布切れを与えてもやはり泣いたが、その端にボタンを縫いつけてやるとうそのように泣きやんだそうだ。

ボタンをさわることで、安心した。

五歳くらいになると「ボタンのついた布を持っていないと寝られない」というのがなんとなく恥ずかしいことだと思うようになったので家族以外には隠していた。引き出しに布をしまい、夜になると引っぱり出してきてボタンをさわりながら眠った。

母には何度も「そんなの恥ずかしいからやめなさい」と言われた。自分自身、いつまでもボタンに頼っていてはいけないと思い、「もうやめる!」と宣言したこともあった。

けれどボタンをさわらずに寝るのはどうしようもなく寂しく、結局一日たつとまたボタン付きの布を引き出しから引っぱり出してしまうのだ。



小学生になっても、ボタンのついた布切れを持って寝ていた。

五年生のとき、林間学校という五泊六日の野外活動がおこなわれた。

布切れを持っていくかどうか迷ったが、ばれたら恥ずかしいことと、旅先でなくしてしまったらたいへんだという思いがあり、置いていった。

これが失敗だった。

帰ると、お気に入りの布切れがない。

母に訊いても「知らない」と云う。だが、それは嘘だった。留守中に、母が捨てたのだ。なぜなら、布切れが入っていた箱もいっしょになくなったのだが、後日母が「箱が見つかったよ」と持ってきたからだ。箱の中身だけが自然になくなるはずがない。

ぼくは泣いて母に抗議した。「泥棒!」と何度もののしった。母とは三日ぐらい口を聞かなかった。

母のことは嫌いではないが、このときのことはいまだに許していない。母が認知症になって「わたしの財布がない。盗んだんでしょ」とか言いだしたら、「ぼくが大事にしていたあの布切れを盗んだ人がよくそんなこと言えるね」とねちねちと責めたててやろうと思っている。



母の誤算は、小学校五年生は家庭科の授業でボタン付けを習っているということだった。

ぼくは母の裁縫道具箱からちょうどいい大きさのボタンを手に入れ、ハンカチの端にボタンを縫いつけた。

そして前と同じようにボタンをさわりながら寝た。

勝手に布切れを捨てた母に抗議するかのように、ボタンをさわる回数を増やした。

寝るときだけでなく、自室で本を読んでいるときにもボタンをさわるようになった。

部屋を開けるときは、再び母に捨てられないよう、机の引き出しのさらにその奥に布切れを隠した。

大学生になってひとり暮らしをするようになったときは、ボタン付きの布も持って行った。

いつしかボタンをさわらなくても寝られるようになっていたが、やはりボタンをさわっていると心の底から落ち着いた。



ボタン付きの布切れは、今でも持っている。

結婚して妻といっしょに住むときに持ってきた。引き出しの奥底に隠している。

今ではほとんどさわることがない。一年に一回ぐらいだろうか。ちょっとさわるだけで、さわりながら寝ることもない。

けれどさわるとやっぱり安心する。温泉に入ったときのようにリラックスした脳波が流れる。


幼いころからボタン付きの布切れとずっとつきあってきたから、ライナスの毛布を奪って逃げるいたずらをするスヌーピーのことはどうも好きになれない。


2018年2月10日土曜日

肉吸い


コンビニでおにぎりと肉吸いを買う。いつもはおにぎりと味噌汁だが、今日は肉吸いを買ってみた。

肉吸いは大阪の食べ物だ。全国的にはほとんど知名度がないし、大阪でもそんなにメジャーな食べ物ではない。Wikipediaにはこうある。
簡単に言えば、肉うどんからうどんを抜いたもの。
「カツ丼、カツ抜きで」というくだらない冗談みたいな食べ物、それが肉吸いだ。これぞC級グルメ。

行儀悪いけど肉吸いにおにぎりを浸して食べようと、あえて具なしおにぎりを買った。


昼休み。さあ食べようと思って、しくじったことに気がついた。

この肉吸い、お湯を入れて作るタイプではなく電子レンジで温めて作るやつだ。うちの職場にはポットはあるがレンジはない。

さあどうしよう。隣の会社に押しかけていって「すみません、肉吸い買ったんですけどレンジがなくて。電子レンジお借りできないですか」って言ってみようかな。

 「肉吸いってなんですか」

「知りませんか。大阪ローカルの食べ物で、肉うどんからうどんを抜いたものです」

 「知らないですね」

「そういえば"肉吸い"っていう妖怪もいるみたいですよ。人間に食らいついて肉を吸う化け物。タガメみたいな妖怪ですよね。タガメって知ってます? 田んぼにいる昆虫。タガメって魚やオタマジャクシをつかまえて、体内に消化液を送りこんでどろどろに溶かした肉を吸うらしいですよ。えへへ」

 「うち、電子レンジないんですよ」


しょうがないからゼリー状になった肉吸いに、お湯を注いでみる。

うん、ぬるい。

やはり電子レンジじゃないとダメだな、と思いながらタガメのようにずるずると肉吸いをすすった。


2018年2月9日金曜日

盗んだカートを放置する


ぼくが住んでいるところって大阪の下町を再開発して新しいマンションがいっぱい建っているところで、だから古くから住んでいる人もいれば、きれいな高層マンションに住む上品なファミリーもいれば、昼間から公園で酎ハイ飲んでいるおっちゃんもいれば、銭湯に行けば背中に本意気の刺青(タトゥーじゃなくて刺青ね)が入ったお方もいるという、まあいろんな人が住んでいる地域だ。

ここに引っ越してきて衝撃的だったのは、スーパーマーケットのショッピングカートを持って帰るやつがいっぱいいる、ということ。

すぐ近くにスーパーマーケットがあるんだけど、そこのショッピングカートを家まで持って帰るんだよ。かごを乗せるキャスター付きのカート。


あれ、持って帰ってる人、見たことある?
ぼくはここに越してくるまで見たことなかった。せいぜい駐車場まで持っていって放置する人がいたぐらい。

それでもマナー悪いな、って思うけどうちの周りはそんなもんじゃない。
スーパーは地下にあるんだけど、カートを押したままエレベーターに乗って地上に上がり、カートを押したまま歩道を歩き、そのままマンションに入ってエレベーターに乗り、そして自分の部屋の前にカートを放置する。

しかもこういうのがたくさんいる。うちのマンションの同フロアだけでもそういう家が二軒ある。家の前にスーパーのカート放置してるババアの家が。

しかもババアのやつ、カート返さないの。次にスーパーに行くときに持っていかない。
だから家の前に三台カートが溜まっていることもある。

ふつうに犯罪でしょ。でも家の前に堂々と盗んだカートを三台も溜めてるの。尾崎豊もびっくりだ。

しかもぜんぜん悪いと思ってないの。通路ですれちがったら、盗んだショッピングカートを押しながらにこにこして「こんにちはー」ってあいさつしてくんの。こんなにほがらかな泥棒、ほかにはルパン三世しか見たことない。


うちのマンションだけじゃなくて、他にもそういうババアがいっぱいいる。
マンションの自室の前まで持って帰るババアもいれば、マンションの入り口に放置するババアもいる。
こないだなんか近所の公園にカート停めてあったしね。スーパーから五十メートルくらいの距離にある駐輪場の前にもよく放置されてる。よぼよぼのババアならともかく、自転車で来るぐらい元気のあるババアなのにスーパーの外にカートを持っていってる。

ババアたちが盗んだカートをところかまわず放置しているから、スーパーにカートがぜんぜんないことがある。五台くらいしか残ってない、みたいなことが。

だからときどきスーパーの店員が近所をうろうろしてカートやカゴを回収している。

たいへんだな。この店員さんもスーパーでパートするときにまさか近所のマンションを回ってカートを回収してまわることになるとは思ってなかっただろうな。


もう一人二人の頭おかしいババアの話じゃないんだよ。この町ではカートを持ちだしてもいい、みたいな風潮になっちゃってんの。

カートを持ち出して放置する習慣が文化として地域に根付いちゃってるの。

「地域文化で日本を元気にしよう!」みたいなことを云う人がいるけど、うちの地域の文化はスーパーのカートの持ち出しだからね。どうやって日本を元気にするんだ。


2018年2月8日木曜日

借りたもの返さないやつが落ちる地獄


『BIG ISSUE 日本版』327号に、『あなたもつくれる! 小さな図書館』という特集記事が載っていた。

小さな私設図書館が増えているのだという。


ああ、いいなあと思う。

ぼくも本が好きだから家にはたくさん本があるが、その大半は二度と読み返すことのない本だ。

将来自分の子どもや孫が手に取ってくれたらうれしいけど、あまり期待できそうにない。ぼくの母親も本好きだったから家には母の本がたくさんあったけど、そのうちぼくが手にしたのは1パーセントくらいだ(その1パーセントが拓いてくれたジャンルというのはすごく大きかったけど)。
子どもがぼくの蔵書の1パーセントでも読んでくれたら上出来といったとこだろう。



「私設図書館、やってみようかな」と思う。だが待てよ。

ぼくがこの世でもっとも憎む存在のひとつが「借りたものを返さない輩」だ。

ほんとに許せない。

姉がそういう人だった。ぼくの本やCDを「それ貸して」と言って持っていく。そして返さない。
姉が性悪なわけではない。「そういうことを気にしない」人なのだ。だから自分が貸したものが返ってこなくても気にしない。
でも「そういうことを気にする」ぼくからすると、悪意がないのがまた憎らしい。

ぼくの感覚では、借りたものは最優先で読む。CDならさっさとテープやMDに取り込む。そしてすぐに返す。

毎日顔を合わせる家族であれば、「本なら一週間以内、CDなら二日以内に返す」というのがぼくの"常識の範囲"だ。

それを過ぎると「あれもう読んだ?」「CD、録音した?」と訊く。ことあるごとに訊いていると、迷惑そうな顔をされる。こちらも嫌がる相手に理不尽なことを言っているようで、申し訳ない気持ちになってくる。

でもよくよく考えれば借りたものを返せというのは理不尽でもなんでもない。CDなんてその気になればすぐに録音できるし、本なんて読むのが遅い人でも一週間もあればたいていの本は読める(漫画なら一冊一時間あればいい)。それをする時間がないのなら、そんなときに借りなきゃいい。

そんなわけで姉とは何度か喧嘩になって、「なんでこっちが善意で貸してやってるのに嫌な気持ちにならなきゃいけないんだ」と思い、あるときを境に一切ものを貸すのをやめた。「貸して」と言われても断るようにした。



レンタルビデオ屋でアルバイトをしていたことがある。

「借りたものを返さない輩」を許せない人間がレンタルビデオ屋で働くなんて自殺行為と思うかもしれないが、そのとおり、すごくストレスフルな日々だった。

世の中にはこんなにも借りたものを返さない人間が多いとは知らなかった。

いや、べつに遅れるのはいい。延滞料金もらってるわけだから。店としてはじゃんじゃん遅れて延滞料金を払ってもらえるのは助かる。

でも「なんで延滞料金払わなくちゃいけないの」とか「ちょっとくらいいいじゃない」とか言ってくる客の神経が理解できない。

「一日遅れただけで三百円って高すぎない?」だったら、わかる。ぼくも同感だ。一週間レンタル三百円のDVDでも、一日遅れたら三百円になる。たしかに高い。

でも「なんで払わなくちゃいけないの?」と言う人間の気持ちはとうてい理解できない。逆に訊きたい。「なぜ約束の期日を守らなかったのに何のペナルティも受けずに済むと思えるの?」

そういう客は、当然ながら「人から借りたものはなるべく借りたときと同じ状態で返す」という考えもないから、DVDを傷だらけにして返してきた。

そういやぼくの姉も、CDの歌詞カードを反対向きにしたり、二枚組CDのDISC1とDISC2を逆にして返してきたりしてた。些細なことだけど、こういうのを気にしない人は、借りたものを返さなくても平気なんだろうなあ。



そんな性分だから、もしぼくが私設図書館なんかはじめたら、借りた本を返さないやつはぜったいに許さない。

上下巻の上巻だけ借りて返さないやつがいたら、首を絞めてやる。

借りた本を返さないまま死んだやつがいたら、お通夜に乗りこんでいって「故人が借りてた本、返却期限とっくに過ぎてるんですけど。香典ということにしときましょうか? それとも棺に入れていっしょに焼きます?」と遺族に対して言わなくてもいいいやみを言う。

踏み倒すやつが許せないから、ぼくの私設図書館で本を借りる人には、免許証のコピーと身元保証人の実印を提出してもらう。あと保証金も預からせてもらう。そして滞納するやつは地獄の果てまで取り立てにいく。

誰が本を借りるんだ、そんな私設図書館。

つくづく図書館員に向いていない性分だ。



貸したものが返ってこないことが許せないんじゃない。「借りたけど返さなくてもいいや」と思える(というか返さないやつはそれすら思わないんだろう)神経が許せないんだ。

ぜったいに遅れるなとは言わない。ただ、返すのが遅れたら済まなさそうにしろ。催促される前に自分から「すみません、遅れます」と言え。貸したほうに気を遣わせるな。

それができないやつは、さっさと鬼に追いたてられながら鉄の棘の上を永遠に走らされる畏熟処地獄に落ちてくれ。その鬼は、本を貸してあげたのに催促して嫌な顔をされた側の怨念だぞ。


2018年2月6日火曜日

嫌いな歌がなくなった世界


『あたし、おかあさんだから』という歌が話題になっている。というか炎上している。

キャリコネニュース:「あたし、おかあさんだから」の歌詞、母親の自己犠牲を美化し過ぎと炎上 作詞者は「ママおつかれさまの応援歌」と釈明

知らない人のためにかんたんに説明すると
「母親目線の歌をつくった人に対して、いろんな人が気に入らねえなと怒ってる」
という状況です。


歌は聞いてないけど歌詞を見て、これは反発買うだろうな、と思った。
でもこれに感動する人もいるだろうな、とも思う。

だからべつにいいじゃない。嫌いな人は嫌ったらいいし、歌いたい人は歌ったらいい。
だって歌だし。教科書じゃないし。こうありなさいと強要してきてるわけじゃないし。

この歌を爆音で流した街宣車が毎朝六時半に走りまわって「みなさんもこういうふうに生きましょう」って言いまわっていたら「うるせーやめろよ!」って叫ぶけど(どんな歌でもイヤだわ)、どうやらそういう事例は報告されていないらしい。だったらべつにかまわない。

こういうのを許せない人って生まれてこのかた一冊も文芸書を読んだことないのかな。
小説やエッセイを数冊読んだら発狂するだろうな。あまりに理不尽な価値観だらけだから。読んでいて嫌な気持ちになる本なんかいっぱいあるから。だからおもしろいのに。



作者に対して「こんな歌つくるな」とか「だいすけおにいさんに歌わせるな」とか言ってる人がいる。
作詞者のTwitterアカウントに「こんな歌つくらないでください」と言いにいったり。

すげー怖い。

なんなの。気に入らないもの皆殺しにしないと気が済まない人たちなの。ゴキブリが嫌いだからって人里離れた山の中に住んでるゴキブリまで全滅させなくちゃ気が済まない人たちなの。こえーよ。


「私この歌嫌い」と「作るな、歌うな、流すな」が地続きになってる人ってけっこういるらしい。
「母親に対する呪いの歌だから歌うな」こんな幼稚な言説が大手を振ってまかりとおっていることにむずむずする。

いいじゃない、呪いだとしても。モテない男がヤリチンを呪ったっていいじゃない。仕事できない人が仕事で成功してる人を呪ったっていいじゃない。呪う権利まで奪わないでくれ。みんなで呪い呪われ生きていけばいいじゃない。


「不愉快な歌つくるな」って、「おめーの声、気持ち悪いから学校来んなよ!」と同じレベルだ。

思うのは勝手だけど、よくそんなことを堂々と言えるな。

こういう人が「いじめられる方にも原因がある」って発想に至るのかな。



ぼくはすごい音痴だ。一度自分の歌声を録音して聞いたことがあるが、それはもうひどいものだった。


だから人前では歌わない。恥ずかしいし、他人を不快にさせるだけだから。

でもひとりで家にいるときは歌を歌うこともある。

それを「おまえは音痴だから風呂場でも歌うの禁止な」と言われたら、うるせーボケナス大魔神おととい来やがれこのカメムシが、と言いかえす。いや、言いかえす度胸はないからこっそり言ってきたやつを呪う。呪い、万能。



「気持ち悪い歌を作るな!」とか「タバコの煙イヤだからタバコは自宅でも禁止にしろ!」とか「パクチー嫌いだから全世界でパクチー入った料理作るな!」とか言いつづけた先に明るい未来は待っているのだろうか。はたして自分の大好きなものだけの美しい世界になっているんだろうか。

ぼくはそうは思わないけど。