2017年7月18日火曜日

ミツユビナマケモノの赤ちゃんを預けられて/黒川 祥子 『誕生日を知らない女の子』【読書感想エッセイ】

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内容(「e-hon」より)
ファミリーホーム―虐待を受け保護された子どもたちを、里子として家庭に引き取り、生活を生にする場所。子どもたちは、身体や心に残る虐待の後遺症に苦しみながらも、24時間寄り添ってくれる里親や同じ境遇の子どもと暮らし、笑顔を取り戻していく「育ち直し」の時を生きていた。文庫化に際し、三年後の子どもたちの「今」を追加取材し、大幅加筆。第11回開高健ノンフィクション賞受賞作。

ファミリーホームとは、保護を必要とする子どもを自宅で5~6人受け入れて養育する仕組み。
児童養護施設とはちがって家庭で子どもを育てることができ、複数の人で複数児童の面倒を見るという、施設と里親の中間のような制度だ。

ノンフィクションライターである著者がいくつかのファミリーホームを訪れ、虐待されて保護された子の状況を取材したルポルタージュ。
著者の気迫が伝わってくるようなノンフィクションだった。



ぼくはずっと子どもをほしいと思っていたので、もし自分に子どもができなかったら里親になろうかなと考えて、資料を取り寄せたこともある。
実子が誕生したので今のところ里子を引き取るつもりはないが、この本を読むと里親になるのは、ぼくが考えていたほど甘くかんたんなものじゃないとわかる。
「生い立ちで少々苦労した子でもふつうに育てていれば他の子と同じように成長するはずだ」という考えがいかに浅はかだったか、よく思い知らされた。

虐待を受けた子は発達障害のような状態になることが多いのだという。他の子や里親との協調関係を築くことができず、それどころか育ての親に対して怒りの矛先を向ける子も多い。

 なぜ、あたたかく迎えてくれた人を苦しめるのだろうか。前出のあいち小児・診療科の新井康祥医師はこう話す。
「虐待を受けた子どもたちが抑え込んでいた怒りは、保護されて安心や安全を感じるようになることで、次第に表に出てきます。本来、その怒りは虐待をした親に向けられるべきなのでしょうが、子どもにとってそれは危険極まりないことです。親を攻撃すれば、もっと激しく親を怒らせてしまい、仕返しをされるのがわかっているので、怖くてできない。そして、そのやり場のない怒りは、優しく保護してくれる人たちに向かってしまうのです」

子どもが新しい家庭に慣れ、ためこんでいたものを少しずつ吐きだせるようになると、自分でも制御できない怒りを周囲にぶつけ、ののしったり、ときには刃物で傷つけることもある。
育てている側からすると、信頼されればされるほど怒りを向けられるわけで、なんともやりきれない話だ。
それこそが心に負った傷を癒すために必要な過程なのだ、と部外者なら言えるけど、当事者にしてみれば耐えられないだろう。
自分の子ですら「こっちはがんばって育ててあげてるのに!」と腹立たしく思うことがあるのに、まして血のつながりのない子で、しかも問題行動ばかりを起こす子を育てるなんて並大抵の苦労じゃないだろうな。


何年か前に声優が養子を虐待死させたとして逮捕される事件があった。
それだけ聞くとひどい人だという印象を持つけど、わざわざ養子を引き取っているわけだから愛情を持って育てていたのだろうし、そんな篤志家でも追いつめられてしまうからにはよほどの難しさがあったのだと思う。詳しい事情は知らないけど、部外者が「なんでひどい親だ」と軽々しく言えるようなものではない、ということは想像がつく。

「愛情を向ければ向かうほどこちらに牙をむいてくる子を愛情込めて育てなくちゃいけない」という立場に置かれても、辛抱強く付き合いつづけられるだろうか。
ぜったいに虐待はしません! と断言することは、ぼくにはできない。



『誕生日を知らない女の子』では、かつて虐待を受けていた子が、ファミリーホームに来てからもその"後遺症"に苦しめられる様子が書かれている。

 横山家に来てからも美由ちゃんは夜、何度もうなされた。
「うわーっ、うわーっ、ううー」
 身体の奥からふりしぼるような咆哮に、久美さんは飛び起き、美由ちゃんに駆け寄る。
「みゆちゃん、大丈夫? もう、こわくないからね。大丈夫だよ」
 美由ちゃんを一旦起こし、身体を撫でて「大丈夫、大丈夫」と耳元でやさしく言い聞かせる。身体を抱きしめ、背中を撫でて「もう、大丈夫だからね」と繰り返す。そうしなければならないほど、久美さんの腕の中で美由ちゃんは激しい恐怖におののいていた。あまりに夢が怖いので、眠ることもできない日が続いた。
 朝になって、落ち着いた時にどんな夢なのかを聞いてみた。
「みゆちゃん、怖い夢を見たの?」
「声がするの。お母さんのコワイ声がするの。『おまえなんか、連れてってやる。こんなところで幸せになったらだめだ。おまえなんか、不幸にしてやる。おまえみたいなやつはだめだ。おまえなんか、ぶっ殺す』って……」
 それは、実母の声だった。

このくだりを読んでぞっとした。母親の呪縛とはこんなに強いものかと。

「幼いころに親から受けた愛情はその後の人生において大きな支柱となる」という話をよく聞くし、じっさいそのとおりだと思う。ふだん意識はしないけど、「何があっても母親は自分の味方だろう」と思うし、そういう存在がひとりでもいるのといないのでは世の中の生きづらさはずいぶん変わってくるだろう。大人になってからもその経験はずっと支えになっている。

ということは逆に、幼いころに親からひどい目に遭わされた人は、ずっと苦しみつづけることになるのかもしれない。
新しい養育者がどれだけ愛情いっぱいに育てたとしても、その記憶は上書きされることがないのかもしれない。幼少期の虐待は、刺青のように永遠に消えることがないのではないだろうか。
実母から「おまえを不幸にしてやる」と願われる人生なんて、ぼくには想像もつかない。



もうひとつ衝撃的だったのは、虐待する親のもとに帰ろうとする子どものエピソードだった。

実母からの虐待を受けて育った小学五年生の女の子がファミリーホームに引き取られ、いろいろと苦労もあったが少しずつ家庭や学校でうまくやっていけるようになった。その矢先に、実母から「うちにおいで」と言われた。
実母としては考えなしに言った言葉であり、異父兄弟である弟妹の面倒を見たり家事をしたりする子、つまりは「都合のいい働き手がほしい」と考えての言葉だった。だが、その子は大喜びしてしまった。「お母さんといっしょに暮らせる!」と。
ずっと虐待・育児放棄をしてきた母親であり、その再婚相手は自分の子どもしかかわいがろうとしない男。誰がみたって、母親のもとに戻れば不幸になることは目に見えている。
だが今の制度では、実親が引き取ることを希望した場合、里親やファミリーホームがそれを止めることはできない。たとえどんなに虐待の危険性が高かろうと。

母親から「うちにおいで」と言われた女の子がとった行動は、ファミリーホームや学校で「居場所をなくす」ことだったという。
わざと嫌われるようなことを言ったり、小さい子をいじめたりする。
自らすべてを捨てて「母親のもとに行くしかない」という状況をつくった。

「もう、なんでもいいから帰りたかったんだろうね。福祉司も止めたし、医師も反対だった。でも『奴隷でもいいから、帰りたい。おかあしゃんは女神さまのようにやさしくて、どんな願いもかなえてくれる』って最後は現実逃避にまで行ってしまった」

ファミリーホームの運営者の言葉だ。
子どもを虐待する実親と、自分の人生を投げだして子どもの世話をする育ての親。どちらにいたほうが幸せかは客観的には明らかだが、それでも、子どもは実親を選んでしまうのだ。「奴隷でもいいから」と言って。

そして彼女に待ち受けていたのは、奴隷以下の生活だった。学校にも通わせてもらえず、弟妹の面倒を見て、罵声を浴びるだけの生活。
ほどなくして彼女は別の里親のもとに引き取られ、病院に通う生活を送ることになったという。

「子どもの虹情報研修センター(日本虐待・思春期問題情報研修センター)」の増沢高研修部長は、「施設の子、里親の子もほとんどが、実の親のところへ帰りたいと言います。それほど親とのつながりというものは強い」と語る。
 なぜ、それほどまでに親を希うのか。一度は「捨てられた」も同然だったというのに。増沢氏は、キーワードは「喪失」なのだと説明する。
「子どもは、養育者に依存して生きる存在です。”捨てられた”も同然のように施設や里親に措置されても、それを認めたくない。”見捨てられる”ことへの不安と恐怖を強く抱いています。しかし時間と共に、事実として向き合わなければいけなくなった時、それは大きな喪失体験となって子どもを苦しめます。虐待はトラウマという、傷つけられた体験で語られがちですが、一番重要なキーワードは、喪失なのだと思います」

子どもにとっては、身体的な虐待を受けることよりも「親から捨てられたことを認めること」のほうがずっとつらいことなのだろう。

だからこそ子どもは、親から「おまえのために殴っている」と言われたら信じてしまう。そう信じたいから。
そして多くの虐待は表に出ることなく、くりかえされる。世代を超えて。



この本では、かつて虐待を受けて育った女性が子どもを産み、育て方がわからなくて苦悩する姿が紹介されている。

 子育てをしていく中、判断不能になる場面に沙織さんは多々出くわすという。
「たとえば、給食のランチョンマット。これ、毎日替えるのかどうかがわからない。気づかないからそのままにしていたら、学校から『毎日、替えてください』と注意されて、ネグレクトを疑われる。そんなん、私、一回だって洗ってもらったことがないからわからない」

ぼくにも4歳の娘がいるが、子どもと接してしていると自分が親にしてもらったことを思いだす。
風邪をひいたときはリンゴをすりおろしたやつを食べさせてもらったな、とか。ケガをしたことを隠していたらめちゃくちゃ怒られたな、とか。おもしろい話をしたときに「おもしろいねー!」と笑ってくれたけどあれは愛想笑いだったんだろうな、とか。
で、気がつくと自分が親にしてもらったことをそのまま子どもにしている。かつて親から言われたのと同じことを娘に言っている。
それは意図してやっているわけではなく、記憶の奥底に染みついたものを無意識にとりだしているだけだ。

ネグレクトで育った人にはその経験がないから、どうしたらいいかわからないのだろう。
上に書かれているランチョンマットを洗うかどうかは些細なことで、関係のない人からすると「まあ少々洗わなくても大丈夫でしょ」と思うけど、万事がその調子だったらすごくストレスだろう。

何の知識もない状態でミツユビナマケモノの赤ちゃんを預けられて「はい、このミツユビナマケモノをふつうに育ててくださいね」と言われるようなものかもしれない。ふつうに育てろっていわれても、その "ふつう" がわかんねーよ! という状態だろう。

まあ今はインターネットで人に訊けるからまだましなのかもしれない。
Yahoo!知恵袋で「こんなこともわからないのかよ。常識でわかるだろ」といいたくなる質問を見かけることがあるけど、もしかしたら親に育ててもらっていない人の疑問なのかもしれない。



虐待やネグレクトといった痛ましい事例を見ると「親が自分の子を育てる」というシステムは無理があるのではないかと考えてしまう。

今でこそ親が自分の子の面倒を見るのはあたりまえだけど、それってせいぜいここ100年くらいの話だ。人類の歴史からいえば、共同体単位で子どもの面倒を見ていた(というか親が放置していた)時代のほうがずっと長い。
親が子育ての全責任を負うほうがおかしなことなんじゃないだろうか。

以前、『ルポ 消えた子どもたち』 という本の感想として、こんなことを書いた。
ぼくは、子どもの教育に個人情報保護を持ち込むべきではないと思う。
教育というのは公的なものであって、各家庭に属する私的なものではない。
「人に迷惑をかけてはいけません」と教えるのはその子のためじゃない。社会のためだ。
憲法にも「教育を受けさせる義務」があるように、親には「子どもを教育する義務」はあっても「子どもを好きなように育てていい権利」はない。
私的な行為じゃないから当然ながら個人情報保護の対象とすべき事柄じゃない。

そのへんが勘違いされているのが近代の病だね。
どうにかしてみんなで育てる仕組みを作れないものだろうか。7歳になったら強制的に親から引き離して寮に入れる、みたいな。
教育費はすべて国の負担。ただし一定の能力がないと高校、大学には進学できなくする。
これは平等だ。社会主義国家みたいだな。
でも親の経済状況と関係なく能力のある人に学べる機会を提供する、というのは社会全体で見たらいいことだと思うな。
親の負担はぐっと減るし、虐待やネグレクトもずっと少なくなるだろう。7歳まで育てればお役目終了だから次の子どもも作りやすい。
いろいろな事情があって実親に育ててもらえない子どものつらさも、だいぶ和らぐことだろう。


ぼくは、自分の娘をとてもかわいいと思う。とてもかわいいからこそ、こう思う。「かわいがりすぎちゃ、いかん」と。

少子高齢化の弊害が叫ばれている今、なすべきことは「親を大切に」「子どもには愛情を持って接しましょう」という考えを捨てるべきことなんじゃないだろうか。

今の世の中、「親の介護のために仕事を辞める」「仕事をしながら子どもの世話ができないから子どもを産まない」なんてことがめずらしくないよね。
どう考えたって生物としておかしい。老親を介護したって遺伝子を残すことにはまったく貢献しないからね。
ぼくたち生物は遺伝子の乗り物なんだから、遺伝子様ファーストで生きていかなくちゃならない。

今いろいろと話題になっている2分の1成人式なんかもってのほかだよね。
教育勅語の復権をと主張している大臣もいたが、それも論外。
むしろ「自分の親や子を大事にしてはいけません」と教えなくちゃいけない。
昔の人が親を大切にしてなかったからこそ「親を大切に」「親の言うことは聞きなさい」という儒教や教育勅語の教えが意味を持っていたわけで、今はむしろ逆のことを言わなくちゃいけない。

「親なんか大切にしなくていい」「子どもなんかほっときゃいい」という考えがあたりまえになれば、少子高齢化の問題はだいぶ緩和されるだろうね。

もちろんそのときは他の問題が出てくるんだろうけど。


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