2018年1月15日月曜日

おまえは都道府県のサイズ感をつかめていない


四歳の娘は地図が好きだ。
なぜかはわからないが、駅に貼ってある近隣図なんかを見つけると、必ず「地図だ!」と云って見に行く。
地図の見方はよくわかっていないが「今はどこ? どうやって行くの?」と訊いてくるので、「今はここで、今からこうやってこうやってこう行くんだよ」と教えてやる。


そんなに地図が好きなら、と思って日本地図を買ってきた。
風呂の壁に貼れるこども向けの地図だ。47都道府県と県庁素材地の名前がひらがなで書いてあるので、四歳児でも読める。

こどもの集中力と吸収力というのはたいしたものだ。
一週間ぐらいで、半分近くの都道府県を覚えてしまった。四歳児にとっては「とうきょうと」も「ほっかいどう」も特に意味のない文字の羅列だと思うのだが、それでもぐんぐん覚える。高級今治タオルのような吸収力がうらやましい。

ただ、都道府県名は覚えても、都道府県の概念はいまいちよくわかっていない。
「ここは大阪府で、おじいちゃんとおばあちゃんは兵庫県に住んでいて、いとこの〇〇ちゃんは京都府に住んでいるんだよ」
と教えると「じゃあ保育園は?」と訊いてくる。「大阪府だよ」「じゃあ保育園の前の公園は?」「大阪府だよ」「じゃあそこのスーパーは?」「大阪府」「大阪府が多いんだね」と云う。
たまたま大阪府が多いわけじゃなくて、ここら一帯が大阪府なんだよ、といってもいまいちぴんと来ていない様子。まあ四歳児にとっては自分の足で歩いていけるところが世界のすべてだろうから、そのへんの距離感をつかめないんだろうな。かわいいやつじゃ。




そのとき「ではおまえは都道府県のサイズ感をどれぐらい正確につかめているのか」という天の声が聞こえてきた。
はっ、言われてみればたしかに、とても正確につかめているとは言いがたい……。

地図で見てだいたいの大きさは知っている。
でもそれは相対的な大きさでしかない。兵庫県が大阪よりずっと大きいことはわかる。でも、そもそも大阪の大きさを、ぼくは知らない。
いっぺんでも端から端まで歩いてみたらわかると思う。徒歩じゃなくても、自転車で縦断するだけで「大阪府ってこれぐらいのサイズか」というのがわかるだろう。そしたら、「大阪府がこれぐらいだったから兵庫県はこれぐらいか」と他の都道府県のサイズ感もつかめるんじゃないだろうか(ただ北海道は大きすぎるのでつかめなさそうだ)。
でもぼくはどこかの県の端から端まで移動したことがない。電車や車で横切ったことはあるが、身体感覚としてはつかめていない。


「おまえがいかに都道府県のサイズ感をつかめていないか自覚できるように、テストをしよう」
また天の声が聞こえた。ぼくは目隠しをされて延々歩かされる。ずっと顔の正面から陽があたっているので東に進んでいることだけはわかる。
大阪をスタートしてかなり歩いたところで「さて、今は何県にいるでしょう?」と天の声がクイズを出した。

「んー……。だいぶ歩いたから……静岡県!」

「ブッブー。まだ大阪府でした」



2018年1月13日土曜日

大声コンテストの真実


NHKのニュースって、どうでもいいニュースやるじゃないですか。
どうでもいいやつです。毒にも薬にもならないやつ。知っても人生に何の影響も及ぼさないニュース。

ちびっ子たくさんと横綱が相撲とってるニュースとか、ホタルイカ漁のシーズンになりましたとか、そういうやつ。
あれ何のためにやってるんだろうね。ニュースの時間と取材陣あまってるのかね。あまったんならその分受信料返金してほしいね。

中でもどうでもいいのは、大声コンテストのニュースね。
丘の上あたりからでっかい声で、「日頃思っていること」という名の超ソフトなことを叫ぶやつ。
「お父さんお母さんいつもありがとー!」とか「もっと給料上げてくれー!」とか。NHKバラエティ班が考えてるのかってぐらいのマイルドさだよね。紅白歌合戦のミニコントレベルのユーモアだよね。いや、いい意味で(そんなわけあるか)。

ニュースの最後には必ず「大語で日頃の不満を発散しました」みたいなナレーションが入るんだけど、大声コンテストに出てくる人ってストレスあるように見えないけどね。

それとも、ニュースでは使われないだけで、大声コンテストの現場ではもっとえげつないこと言ってる人もいるのかな。

「古い常識を押しつけて子育てにケチつけてくる姑のババア、死んでー!!」

みたいなやつ。

ときどきそういうのもあるんだったら一時間くらい見てられるな。



2018年1月12日金曜日

落語+ミステリ小説 / 河合 莞爾『粗忽長屋の殺人』





『粗忽長屋の殺人(ひとごろし)』

河合 莞爾

内容(e-honより)
伊勢屋の婿養子がまた死んだ!婿をとったお嬢さんは滅法器量よし、お店は番頭任せで昼間から二人きり。新婚は、夜することを昼間する、なんざ、それは短命だ…。ところがご隠居さん、次々に死んだお婿さんの死に方を聞くと、何やら考え始めて―。(「短命の理由」)古典落語の裏側に隠れている奇妙なミステリー、ご隠居さんの謎解きが始まる!


いろんな落語の筋をベースに、長屋のご隠居さんが謎解きをするというミステリ小説に仕上げた作品。
落語『短命』の裏側を解明する『短命の理由(わけ)』
落語『寝床』の旦那の秘密を解き明かす『寝床の秘密(かくしごと)』
落語『粗忽長屋』をベースに『粗忽の使者』の登場人物を加えた『粗忽長屋の殺人(ひとごろし)』
落語『千早振る』『反魂香』『紺屋高尾』という花魁が出てくる三つの話を大胆につないだ『高尾太夫は三度(みたび)死ぬ』
と、意欲的な作品が並ぶ。
落語+アームチェア・ディテクティブもの(探偵役が現場に足を運ばずに解決するミステリのジャンル)というおもしろい試み。ぼくは落語もミステリも好きなので、まあまあ楽しめた。

……とはいえ、もっと読みたいかというと、うーんもういいかなという気持ち。

ミステリとしての完成度はいまいち。
もともと完結作品である落語をなんとかミステリに仕立てようとしているから、筋としては苦しいものが多い。
わずかな手がかりからあまりにも都合よくご隠居さんが謎を解決しちゃうし、根拠の乏しい推理がことごとくどんぴしゃだし、「近眼だからまったくの別人を友人と見まちがえた」とかいくらなんでも無理があるだろってトリックもあるし、よくできたミステリとは言いがたい。


だけど、どの噺もミステリの要素を入れながらもきちんと人情味のある噺にしていたり、本来のサゲ(オチ)を踏まえたうえで新しいサゲを考えていたり、落語愛あふれる噺にしあがっている。
随所にちりばめられたギャグもけっこうおもしろい(時事ネタが多いのであまり小説向きじゃないけど。まあそういうところも落語っぽい)。

たとえば、旦那がうなる義太夫の下手さを表したこの会話(『寝床の秘密』より)。

「一番可哀相なのは留公ですよ。聴き始めた途端に気分が悪くなって、だんだん意識が遠くなってきて、このままじゃ昏倒しちまうってんで庭に逃げ出したんですがね、それが旦那に見つかっちゃった。旦那、すっくと立ち上がって、義太夫を語りながら留公を追いかけ始めたんですよ!
 気が付いた留公、慌てて石灯籠の陰に隠れた。すると旦那が正面から、かーっ! と義太夫を浴びせた! その義太夫の衝撃で、石灯籠にぴぴぴぴっと無数の細かいヒビが入ったかと思うと、ずしゃあーっ! と砂みてえに崩壊して、身を隠すものがなくなっちまった!」
「まるで超音波怪獣だね」
「次に留公、なんとか義太夫から逃れようと庭の池に飛び込んだ。すると旦那が池の水面に向かって、甲高い声で、きいーっ! と義太夫を放射した! 途端に、池の水がぶるぶる振動し始めたかと思うと、ぐらぐらっと煮立ってきて、池の鯉も白い腹を見せて、ぷかぷか浮かんできた!」
「マイクロ波だ。電子レンジの原理だよ」
「あちちちっ! と池を飛び出した留公、庭の隅に土蔵が建ってたんで、急いでその中に駆け込んで、内側からカンヌキを降ろした。やれやれこれで一安心と思ってると、がるるるるーっと唸りながらしばらく土蔵の周りをぐるぐる回っていた旦那が、やがて土蔵の上のほうに小さな明かり取りの窓があるのを見つけると、にたりと恐ろしい笑みを浮かべて、梯子を持ってきてその窓まで一気によじ登り、窓から土蔵の中に向かって、どばあーっ! と義太夫を語り込んだ!
 さあ、逃げ場がないところに、留公の頭の上から義太夫が大量に降り注いできた、義太夫が土蔵の中でどどどどーっと渦を巻いて留公を飲み込んだ。途端に、ぐわあーっ! っと、身の毛もよだつ留公の叫び声が、あたりに響き渡った!」
「あのね、いい加減におしよ」
「ここから先は、恐ろしくてとても言えねえ――」
「お前さんが義太夫を語ったほうがいいんじゃないかね?」

これなんかじっさいの落語で聞かせたらめちゃくちゃウケるとこだろうな。


だからこの小説、「落語の噺を下敷きにしたミステリ」として読むのではなく、「ちょっとだけミステリ要素も加味した古典落語」として読むと、どれもよくできている。

もうミステリ要素いらないからふつうに新作落語を書いたらいいんじゃないかな、と思ったね。



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2018年1月11日木曜日

おすすめの本ある?



本が好きだと言うと、
「読書のどういうところがいいの?」
「なんかおすすめの本ある?」
と訊いてくる人がいる。

本気で訊きたいわけじゃなくて話を拡げたいだけだろう。それはわかってる。でも、それにしてもうるせえな、と思う。
なぜならそういう質問をしてくるのは本を読まない人間に決まっているからだ。

現代日本に生まれ育っている以上これまでの人生において読書の楽しさにふれる機会は何万回とあったはずで、それでも読書好きにならなかったということはもうおまえが読書の悦びに目覚める可能性はほぼゼロだから、おまえに読書の愉しみを説いたところで無為だ。だからおまえと読書が価値あるかどうか議論するひまがあったら本読むわ。

とは思うけど、そこはぼくもいい大人だからぐっとこらえて
「やっぱり新しい知識を得られるのってそれ自体悦びじゃないですか」
みたいな相手が欲してそうなテキトーな答えを言って、ああ無駄な時間だこの時間を利用して本読みてえ、と思うのだ。


2018年1月10日水曜日

「この女がです」


吉田戦車『伝染るんです』は漫画史に残る名作四コマ漫画だが、中でもぼくは「この女が」の話がいちばん好きだ。

著作権とかがアレなので画像は貼らないけど、

交通事故が起こり、サラリーマンとよぼよぼのおばあさんがもめている

警官が仲裁に入り、事情を尋ねる

サラリーマンがおばあさんを指さし、「こっちが青信号だったのに、この女が飛び出してきたんです!」

警官「この女が、ですか……」
サラリーマン「この女がです!」

(吉田戦車『伝染るんです』2巻より)

という四コマだ。
「この女」と言われたおばあさんの、はにかんだような当惑した顔も含めてめちゃくちゃおもしろかった。
たったの四コマ。日常的な舞台とシンプルな台詞で、これだけの不条理な世界をつくれるなんてすごい、と感動した。

この話、なぜおもしろいんだろう。うまく説明できない。
笑いにはいくつかのパターンがあるけど、これはどれにもあてはまらないような気がする。

ふつうは、間違ったことをしたときに笑いが生まれる。
サラリーマンがおばあさんを指して「この少女」と言ったら、これは明らかに間違いだ。間違った発言だからこれなら一応ギャグとして成立する(もっともそれで笑うのは五歳児までだだろうけど)。
でもサラリーマンがおばあさんを「この女」というのは、決して間違いではない。おばあさんは女だということは誰だって知っている。

老婆を「この女」と呼ぶのは間違いではないが一般的ではない。 ふつうは、喧嘩をしていたら「このババア」「このばあさん」「このおばさん」だろう。
「この人」なら、ぜんぜん自然だ。ぼくが見知らぬおばあさんと喧嘩になり、それを当人の前で第三者に説明するとしたら「この人」と言うと思う。
「この男」などうだろう。見知らぬおじいさんを指さして「この男」。これは常識の範囲に収まる気がする。少なくともおばあさんを「この女」と呼ぶときに感じたほどの違和感はない。

おばあさんを「この人」と呼ぶのは違和感がない。若い女性を「この女」と呼ぶのも自然だ。おじいさんを「この男」と呼ぶことにも、それほど抵抗はない。なのにおばあさんを「この女」と呼ぶときにだけ奇妙な感覚にとらわれる。
ということは。
「女」には年齢制限がある、ということになる。
百歳になってもおばあさんは女だが、それは生物学的な話であって、言葉としての「女」の定義からは外れるということだ。

『大辞泉』によると、「女」には
・人間の性別で、子を産む機能のあるほう。女性。女子。⇔男。
・成熟した女性。子供を産むことができるまでに成長した女性。一人前の女性。
という意味がある。
一項目は生物学的な定義だ。「一般的に子どもを産む機能があることが多い側の性」という意味だろう。我々は子宮を摘出した人を男とは思わない(そういう人に配慮して「女」という言葉を定義づけるのって難しいなあ)。
生物学的の意味で言うならばおばあさんは間違いなく女だ。

問題はふたつめ。こちらが、我々がふだん使う言葉としての「女」だ。
おばあさんは、間違いなく成熟している。熟しすぎているといってもいい。一人前だ。
この定義で言うなれば、百歳のおばあさんも女だということになる。
だが、この辞書の編纂者が把握していなかったのか、それともわかっていてあえて配慮して書かなかったのか、この定義は不正確だ。
我々がふだん使う「女」は「子供を産むことができるまでに成長し、子供を産むことができなくなる年齢に達するまでの女性」なのだ。
だから我々は生殖機能を失ったことが明白なおばあさんを「この女」と呼ぶことに違和感をおぼえる。

これは女だけの話ではないと思う。おそらく男も同じだ。
だが、男のほうは「子どもをつくる」という行為においては女よりもずっと寿命が長い。九十代で父親になった人の例もある。そういったケースは例外だろうが、女性でいうところの閉経のような明確なイベントが男にはないため、いつまでたっても「子どもをつくる可能性のある側」でいられる。
だからおじいさんを「この男」と呼ぶことにはあまり抵抗を感じないのではないだろうか。

我々はふだん「女」の定義なんて気にしない。疑う余地もないと思っている。ぼくも今まで気にしたこともなかった。
だけど、暗黙のうちに「子供を産むことができるまでに成長し、子供を産むことができなくなる年齢に達するまでの女性」という定義を共有している。

その不明瞭だけど強固な共有認識と辞書的な定義のずれを鮮やかに切り取って、たったの四コマでギャグとして成立させているのはすごい。