2018年3月25日日曜日

本を読めない職業


五歳のときに読書の悦びにめざめ、以来三十年ばかり本を読む日々を送ってきたが、人生においていちばん「本を読まなかった時期」は本屋で正社員として働いていたときだった。

なにしろ朝六時に出社して、退勤時間は早くて六時半。遅いと九時ぐらい。
帰宅したら食事をする間も惜しんで寝ていたので、読書をする時間などとれなかった。

郊外の店だったので通勤は車。移動中も読書ができない。
休みは月に六日ぐらい。半日寝て、溜まっている用事を片付けたりすると、あっという間に夜。六時に出社するために四時半に起きていたので、夜ふかしなんてできなかった。



本屋にいるので情報だけは入ってくる。
新刊予定表を見て「おっ、もうあれが文庫化するのか」とか「この作家、最近よく売れてるな」とか、入荷してきた本を手に取って「聞いたことない作者だけどおもしろそうな本だ」とか思う。
でも、読む時間がない。

ダイエット中に目の前にごちそうを並べられるような状態。つらかった。

「本屋で働いている」と言うと、「へえ。仕事しながら本が読めるなんていいね」と言われることがあった。
「客の少ない古本屋でバイトがレジに座りながら本を読んでいる」みたいな光景を想像していたらしい(ぼくが子どもの頃にも近所にそんな古本屋があった)。

でもそんなことはない。

本屋の売上は年々減っている。だけど本は仕入値も販売価格も決まっているから、同じ利益を出すためには人件費を削るしかない。バイトを減らす。社員が長時間労働をさせられる。そうやってなんとかもちこたえている状況だったから、ひまな時間なんてまったくなかった。




本屋をやめてよかったことの第一位は、本を読む時間が増えたことだ。

本屋にいたときは「読みたい本」の情報だけが入ってきて読む時間がなかったから、常に追われているような心境だった。

本屋をやめてようやく、「読みたい本」と「読む本」のバランスがとれるようになった。
(とはいえまだ「読みたい本」のほうが少し多いので、買ったけど読まない本が溜まってゆく)

もしあなたが本好きならば、本屋勤務だけはやめておけと言っておく(バイトぐらいならいいかもしれんけど)。
本を読む時間がとれない上に、本にふれている時間は楽しいがゆえになかなかやめられなくなるから。

2018年3月24日土曜日

焼肉はいつも多すぎる


みんな、焼肉とうまくつきあえてる?

ぼくは焼肉とうまくやれていない。

決して嫌いなわけではない。どっちかといったら好きだ。
ぼくはご飯が大好きだから、ご飯が進む食べ物は全部好きだ。ご飯はぼくの味方。味方の味方は味方。だから焼肉は味方。

ご飯を食べるために焼肉を食べる。お金をもらうために仕事をするのと同じように。



ぼくが焼肉を苦手としているのは、確実に失敗するからだ。

子どもの教育には「成功体験」が大事だという話を聞いたことがあるが、それでいうと、ぼくには焼肉の「成功体験」がない。九割の確率で失敗している。残りの一割は大失敗だ。


焼肉を食べ終えて「ああ、うまかった。おなかもいっぱい。ちょうどいい分量だった」と思えたことがない。

焼肉はいつも多すぎる。

はじめは「うまい、うまい」と食っているのに、最後は必ず「苦しい……。でも食わなきゃ……」になる。

「誰かこれ食わない?」
「おれはもういいや」
「私ももういい」

こんな会話が焼肉の終盤では必ずくりひろげられる。
そこで「ぼくもいらない」が言えない。「じゃあ……」と箸を伸ばしてしまう。

食べ物を残してはいけないという幼少期のしつけのせいか、前世で餓死でもしたのか、はたまたただの貧乏性か。食べ物を残すことができない。

焼肉の終盤では「さらえる」係を一手に引き受けることになる(「さらえる」は「皿のものをすべてたいらげる」の方言。どこの方言かは知らない)。

もはや苦行。おいしさも楽しさも感じない。バリウムを飲むときの顔で焼肉を食べる。

胃腸が弱いので、焼肉の後はだいたいおなかをこわす。吐くこともある。

無理して食べた焼肉はうまくもないし栄養にもならない。何のために食べているのかわからない。脂肪になるほうがまだ生産的なだけマシだ。

わかっていても、目の前に残っているとついつい食べてしまう。



焼肉はいいやつだ。それは認める。

みんなで焼きながら食ったら話ははずむし、ご飯は進むし、ビールにもあう。

でも苦手。嫌いじゃないけど苦手。

周りにそういう人いるでしょ? 決して嫌いじゃないし、いい人なんだけど、なぜか自分とは相性が悪い。ぼくにとって焼肉はそんな存在。

真っ黒になるまで燃やしてしまうのが
唯一の解決策


2018年3月23日金曜日

【読書感想】桂 米朝『上方落語 桂米朝コレクション〈六〉 事件発生』


『上方落語 桂米朝コレクション〈六〉
事件発生』

桂 米朝

内容(e-honより)
ますます円熟する上方落語の第一人者、桂米朝の落語の世界。第六巻は、「事件発生」。すわ事件発生!日常に波紋がおこったその時こそ、本当の人間の姿が現れるものだ。そこに起きるさまざまな人間模様。

桂米朝氏の落語書き起こし&解説シリーズ、第六巻。
かたき討ち、死体遺棄、喧嘩、事故死などショッキングな出来事を扱った噺を集めている。
ミステリやサスペンスの要素もあり、展開自体に引きこまれる噺が多い。その分笑いは少ないことが多いけど。

死を扱った噺は多いけど、殺人が描かれる噺は意外と少ない。
この巻に収録されているものでいうと、『らくだ』『ふたなり』は事故死、『宿屋仇』『阿弥陀池』は会話内で殺人事件が語られるが後に嘘だと判明、『百人坊主』で語られる死も嘘、『土橋萬歳』も殺人の夢……ということで殺人シーンがあるのは『算段の平兵衛』だけ(それも厳密には殺人じゃなくて傷害致死だけど)。
今よりもっとモラルがゆるかったであろう時代においても、やはり人殺しというテーマを笑いに変えるのは難しかったんだろうね。


らくだ


「らくだ」というあだ名の男が死んでいるのを友人の熊五郎が発見する。たまたま通りかかった紙屑屋をつかまえ、らくだの葬式の準備をするために奮闘させる。生前評判の悪かったらくだのために金を出すことを誰もが渋るが、熊五郎は「協力しないなら死体にかんかん踊りを踊らせる」と脅し、それでも拒む家には実際に死体を持っていってかんかん踊りを踊らせる。葬儀の準備は整ったが、酒を飲んでいるうちに紙屑屋の様子が豹変し……。

落語の数多ある噺の中でも『らくだ』は屈指の名作だとぼくは思っている。
なんといっても見事なのがオープニング。「主人公が死んでいる」というショッキングな幕開け。これで一気に引きこまれる。
『幽☆遊☆白書』の第一話で主人公が死ぬが、それよりもっと早い。死んだ状態で登場する。これだけセンセーショナルなオープニングの物語は古今東西そうないだろう。

らくだは一切口を聞かないが(死んでるからね)、それでも『らくだ』における主人公はやっぱりらくだだ。長屋の連中の口から語られるらくだの悪評を聞いているうちに、落語の聞き手の中にもありありとらくだのイメージができあがる。

「主人公らしき人物が一切姿を現さない」タイプの物語は他にもサミュエル・ベケットの戯曲『ゴドーを待ちながら』や、朝井リョウの小説『桐島、部活やめるってよ』などがあるが、『らくだ』ほど活き活きとしたキャラクターはそういないだろう。死んでるのに活き活きとしてるってのも変だけど。

また、もうひとりの主人公である紙屑屋も魅力的だ。はじめは熊五郎におびえておろおろしているだけだった紙屑屋が、徐々に度胸がついてきて、酒の勢いも手伝って熊五郎に指示を出すまでになる。さらには紙屑屋の家族のことや日頃抱えている思いも吐露されてゆく……という何とも情念たっぷりの噺になっている。

元のストーリーでは後半は展開が大きく変わる上に笑いどころが減るため最後まで演じられることは少ないらしい(この本でも途中までしか収録されていない)が、中盤まででも十分完成度の高い名作。


宿屋仇


侍が宿屋に泊まり、静かな部屋を用意してほしいと頼む。ところが隣の部屋に兵庫県から伊勢参りをしてきた帰りの三人がやってきてどんちゃん騒ぎ。注意をするといったんはおとなしくなるが、また相撲をとったり歌を唄ったり、すぐにやかましくなる。中のひとりが「かつて武士の妻と関係を持ち、その後女と義弟を殺して逃げた」という武勇伝を披露すると、それを隣室で聞いていた侍が「その男こそ私の妻と弟を殺した仇。明日、かたき討ちをしたい」と宿屋の主人に告げる……。

ほとんどの人にはオチはわかるだろうが、それでも最後まで聞かせるのは演者の腕。場面の入れ替わりも多いし、これを演じるのはむずかしそうだ。

落語は町人のものだから、武士が出てくる噺はあまり多くない。特に上方落語には。また、出てきても悪役が多い。
ところがこの噺の侍は隣の客に迷惑をかけられるかわいそうな存在であり、また茶目っ気も持ち合わせている。これは貴重な武士の活躍する噺。


どうらんの幸助


酒も芝居も一切たしなまず、喧嘩を仲裁して酒をごちそうすることだけが唯一の楽しみである「どうらんの幸助」。幸助を見かけた二人の男が狂言喧嘩をして酒をごちそうになろうと企て、幸助に酒をおごってもらう。
後日、浄瑠璃の嫁いじめのシーンを見た幸助、それが芝居だとは知らずに仲裁しようと飛びこむ。これは京都の話だと聞いた幸助は船に乗って、大阪から京都までやってくる……。

幸助が「大阪から京都まで鉄道が走っているが、鉄道は苦手なので船で行く」というくだりが、サゲへの伏線になっている。米朝さんはこう解説している。

 この噺は京阪間に汽車が開通したのが明治十年二月、それから以後も大分長い間三十石船が淀川を上り下りしてましたが、その両者を共存していた時の噺として、時代設定が非常に限られる噺です。三十石は次第に廃れて行っていつとはなしに無くなったものらしく、何年何月をもって廃止、と言えないのですが、明治二十年ごろまではあったようです。荷物専用としてはもっと後年まであったと思います。

解説を読むと、この噺に限らず米朝さんは時代考証をよく考えて話していることがわかる。駕籠が人力車に変わったのはいつか、とか、明治初期のお金の価値はいくらか、とか。
こういう細部の整合性の積み重ねが、大きなほらに説得力を持たせるんだろうなあ。


算段の平兵衛


ややこしい問題をうまく処理してくれる「算段の平兵衛」という男がいる。
村の庄屋がお妾さんの扱いに困り、算段の平兵衛の嫁として押しつける。平兵衛は嫁の持参金で酒を飲んだり博打をしたり。金に困った平兵衛は嫁と共謀してて美人局で庄屋から金を脅しとろうと企てるが、うっかり庄屋を殺してしまう。
庄屋の死体を家まで連れていき、自殺に見せかけて木に吊るす。夫が自殺したと思った妻は、自殺を隠すため平兵衛に金を渡して死体の処理を依頼する。
平兵衛は隣村へ庄屋の死体を連れていき、盆踊りの練習をしているところへ放置。隣村の連中は自分たちが庄屋を殺してしまったと思い、死体の処理を平兵衛に相談。平兵衛は隣村から金を受け取り、事故に見せかけて庄屋の死体を崖から突き落とす。
大金を手にした平兵衛は羽振りがよくなるが、そこに盲人の按摩師がやってきて、どうも何かを知っているらしい様子で金を貸してほしいとせまる……。

落語としては異色の、陰湿な悪党の噺。
美人局でゆすりを企て、人を殺し、自殺に偽装し、被害者の遺族から金をだましとり、隣村からもだましとり、あげく死体を崖から突き落とすという、数ある落語の噺の中でのトップクラスの悪党だろう。

だが陰湿な悪党であるにもかかわらず、算段の平兵衛はなんとも魅力的な人物として浮かんでくる。しゃべりが達者、頭が切れる、(金儲けのためとはいえ)他人のために尽くす。決して嫌な人物ではない。
また、死体をあちこち動かしてはいるが実際は殺したのはひとりだけだし、そのひとりも故意に殺したわけではない。罪状は殺人ではなく、傷害致死+死体遺棄だ(あと脅迫や詐欺もつくかも)。
魅力的な悪役、ということでピカレスクものとしても成功しているように思う。

最後に平兵衛が逆に脅迫されるくだりもおもしろいのだが、実際はそこまで演じることは少ないそうだ。ラストまでやると「盲蛇に怖じず」という差別的なことわざに引っかけたサゲがついてくるわけで、今の時代には厳しいだろうなあ。

ところで「死体の処理に困ってあちこちに動かす」というのは、ミステリの一ジャンルといってもいいぐらいの定番のパターンだが、「死体を抱えて右往左往する犯人」というのは妙におかしい。古畑任三郎でもよくあった。犯人にしたら真剣そのものなんだけど、傍から見ているとコメディそのものなんだよね。

ところで、「死体を抱えて右往左往」ものの最高傑作は星新一の短篇コメディ『死体ばんざい』だろう(『なりそこない王子』に収録)。
通常は死体の処分に困るのだが、『死体ばんざい』はその逆。いろんな人物がそれぞれの事情で死体を欲しがって奮闘するという話で、これを落語化したらすごくおもしろいんじゃないだろうか。


次の御用日


商家の丁稚である常吉が、家のお嬢さんであるお糸のお供で出かける。道中、天王寺屋藤吉という大男がすれちがい様に奇声を上げてお糸を驚かせ、お糸はショックのあまり気絶して記憶喪失になってしまう。
店の主人は御番所に届け出て、常吉や藤吉は奉行所に呼ばれる。奉行所は事実確認のために何度も奇声を発し……。

ということで、後半はただ「奇声を上げつづける」というだけのぼんちおさむのような落語。これは活字で読んでもぜんぜんおもしろくない。聴いても、はたしておもしろいのかどうか……。


佐々木裁き


西町奉行である佐々木信濃守が市中を歩いていると、子どもたちが奉行所ごっこをしているところに出くわす。
四郎吉という少年が佐々木信濃守を名乗り、鮮やかな裁きを披露しているのを見た佐々木信濃守は、四郎吉に奉行所に来るように命じる。今の奉行所や与力について問答をすると、四郎吉はずばずばと皮肉を込めて汚職が蔓延していることを批判する……。

『佐々木政談』とも。
四郎吉少年の設定にちょっと無理があるように感じる。あまりに利発すぎるというか、受け答えがうますぎる。そのくせお奉行様に対して少しも遠慮しない天真爛漫さも持っていて、キャラクター造詣が都合よすぎる。十三歳という設定だが、江戸時代の町人の家の十三歳といえばもうほとんど大人だろう。利発な子であればなおさら、もう少し遠慮があると思うのだが。
感心させる内容で、落語よりも講談のような噺。


百人坊主


毎年庄屋さんが村の若い衆を連れて伊勢参りに行っていたが、毎回喧嘩が起こるので今年はもうやめたという庄屋さん。若い衆は連れていってもらいたい一心で「腹を立てたら罰金を払った上に村を追放されても文句を言わない」という約束をする。
「腹立てん講」という旗を立てて伊勢参りに出かけた一同。道中、ふかの源太という男がみんなの分の酒を飲んでしまい、周囲から文句を言われると「腹を立てるのか。腹を立てたら追放だぞ」と居直る始末。
おもしろくない連中は源太が寝ているすきに源太の髪の毛を剃ってしまう。目を覚ました源太は髪を剃られたことに気づくが「腹を立てたら追放だぞ」と言われて何も言えない。
源太は「坊主が伊勢参りに行くとお伊勢さんが気を悪くするから」と言ってひとりだけ先に帰り、村人たちに「船が沈んで自分以外は全員死んでしまった。弔いのために髪を剃ったのだ」と説明する。源太の嘘を真に受けた女房連中は夫の死を悼み、尼になるといって自分たちも髪を剃ってしまう。
帰ってきた男たちは驚くが、それならいっそということで全員髪を剃って坊主にしてしまう。他の村人たちもみんな髪を剃り、坊主だらけの村になる……。

元は狂言の話だそうだ。子どもの頃、『日本わらい話』みたいな本で読んだことがある。「夫が死んだという嘘を真に受けた女房たちが尼になるために髪を剃る」の何がおもしろいんだという感じだが……。しゃれにならん嘘だろ。
江戸落語では女房衆が坊主頭になるところで終わるそうだが、それではあまりに後味が悪い。その後大笑いしてみんなで坊主になる上方版のほうがまだ収まりがいい。


ふたなり


村人たちから預かった十両で地引網を買いにいったふたりの男、遊郭で金を遣いこんでしまい、おやっさんのところに相談にくる。おやっさんはなんとかしてやろうと隣村に金策に行くが、その途中で若い女と出会う。聞くと、ある男と恋に落ちてお腹に子ができたので駆け落ちをしようとしたのだが、途中で男が逃げてしまったので首を吊って死のうとしているのだいう。はじめは止めようとしていたおやっさんだが、女が十両を持っていると聞くと態度を変え、やっぱり死んだほうがいいと言う。首の吊り方の手本を見せていると、うっかり自分が首を吊って死んでしまった。女は持っていた遺書をおやっさんのふところに入れて立ち去る。
翌朝、おやっさんの死体が発見されて息子が役人の取り調べを受けるが、おやっさんのふところから「懐妊したので死にます」と書いた遺書が見つかり……。

ふたなりとは両性具有のことだが、上にも書いたようにストーリーのほとんどはふたなりとは関係がない。若い衆の前では強がっているが実は怖がり、女の自殺を止めようとするものの大金を持っていることがわかったとたんに態度を変えるというおやっさんの多面性こそが「ふたなり」なのかもしれない(いやこじつけが過ぎるな)。

ところで1両というお金は現代の価値でいうと10~30万円ぐらいと言われているが、そう考えると『ふたなり』に出てくる十両(100~300万円)はすごくリアルな金額だ。
「ふたりの若い男が数日間遊郭で豪遊して使う金額」「遣いこんだら村から追いだされるかもしれない金額」「そこそこの家の女が駆け落ちしたときに持っている金額」「その金のために人を殺すほどではないけど自殺を止めるのを躊躇するぐらいの金額」として、ちょうどいい数字だなあ。


阿弥陀池


隠居が男に「おまえは新聞を読まないから世の中のことを知らない。新聞を読まないといけない」と説教をする。「こないだ新聞にこんなことが載っていた……」と話をするので男は真に受けるが、隠居の話はことごとく洒落につなげるための嘘ばかり。
だまされて悔しい男は同じ手で他の人をひっかけようとするが、説明が下手でしどろもどろに。しまいには嘘をつくなと怒られ……。

落語には「オウム」と呼ばれるパターンがある。ある人物が手本を見せ、間の抜けた人物がそれを真似しようとするがうまくいかない……というパターン。『子ほめ』『時うどん』など、入門的な落語に多い。
『阿弥陀池』もオウムパターンだが、少し異色なのは手本の部分がすでに笑いどころになっているところ。前半でそこそこ笑いが起き、後半はそれをベースにギャグが畳みかけられる、というなかなか見事な構成。


土橋萬歳


遊びが過ぎて謹慎を命じられた商家の若旦那。見張りの丁稚を買収してこっそり抜け出し、お座敷に出かける。
知り合いの葬式に出た後、若旦那が遊びに出かけたことを察した番頭は若旦那のいる料理屋に行って戻るように説得するが、居直った若旦那から「恥をかかせやがって」と階段から突き落とされてしまう。
しばらくして若旦那や芸者衆が出かけると、追いはぎが現れ、芸者や幇間は若旦那を置いて逃げてしまう。改心するよう説得する番頭だが、若旦那は聞き入れず、番頭を殴りつける。番頭はいよいよ覚悟を決め「若旦那を生かしていては店のためにならない。若旦那を殺して自分も死ぬ」と、持っていた短刀で若旦那を突き刺し……。
というところで目が覚める。すべては若旦那と番頭が同時に見た夢だったのだ。そこで若旦那はやっと番頭の気持ちを理解し、今後は商売に励むと誓う……。

米朝さんも書いているが、今聞くと理解に苦しむ噺。「店のことを思うあまり放蕩の若旦那を殺して自分も死ぬ」だなんて、現代人の感覚ではまったく理解できない。
また、夢オチ(オチではないが)を使っているなど都合の良い面もあるが、話の流れは不自然にならないようによく工夫されている。番頭があれこれ説得するが何を言っても響かない、若旦那に階段から突き落とされたり殴られたりする、うっかり刀に手を置いてしまったところを若旦那から「殺せるものなら殺してみろ」と挑発される、など忠義を持った番頭が殺人に至るまでの動機づけが丁寧に描かれている。
特に、帯刀が許されなかった時代の刃傷沙汰を描くために「葬式帰り」という設定を用意しているのは見事(当時の葬式には参列者が腰に短刀を差す「葬礼差し」という習慣があったそうだ)。


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桂 米朝『上方落語 桂米朝コレクション〈二〉 奇想天外』

桂 米朝『上方落語 桂米朝コレクション〈三〉 愛憎模様』

桂 米朝『上方落語 桂米朝コレクション〈四〉 商売繁盛』

桂 米朝『上方落語 桂米朝コレクション〈五〉 怪異霊験』

桂 米朝『上方落語 桂米朝コレクション〈六〉 事件発生』

桂 米朝『上方落語 桂米朝コレクション〈七〉 芸道百般』


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2018年3月22日木曜日

【DVD感想】『SING』(2017)


(2017)

内容(Amazonより)
粋なコアラのバスター・ムーンが所有する劇場は、その活況も今は昔、客足は遠のき借金の返済も滞り、今や差し押さえの危機に瀕していた。
そんな状態でもあくまで楽天的なバスターは、劇場にかつての栄光を取り戻すため世界最高の歌唱コンテストを開催するという最後の賭けに出る。
欲張りで自己チューなネズミ、歌唱力抜群だが超絶シャイな10代のゾウ、25匹の子ブタの世話に追われる母親、ギャングから抜け出して歌手になりたいゴリラ、浮気な彼氏を捨ててソロになるか葛藤するパンク・ロッカーのヤマアラシ、常に超ハイテンションなシンガー兼ダンサーのブタなど、多数の応募者がオーディションに集まってくる。
皆、自らの未来を変える機会となることを信じて……。

四歳の娘といっしょに鑑賞。

ストーリーは「劇場を立て直すために歌唱コンテストを開催したらそれぞれ悩みを抱えた動物たちが集まってきて、最後は歌の力でみんながハッピーに」という単純明快なものだが、視点があちこちに移る群像劇だったので四歳児にはちょっと難しかったらしい。途中からは「ねえおとうちゃん、トランプしよ?」と言ってくるので、トランプをしながら観た。トランプをしながらでも楽しめる、わかりやすい筋。



『怪盗グルー』シリーズ(というより『ミニオンズ』シリーズといったほうがわかりやすいかもしれない)でおなじみのイルミネーション・エンターテインメント制作。

『怪盗グルー』シリーズもそうだけど、この制作会社の作品って些細な悪事を許しちゃうよね。
『SING』でも、ギャングの見張り役を務めていたゴリラやイカサマをしてマフィアから金をまきあげたネズミや劇場を華やかにするために水を盗んだコアラが、ぜんぜん悪びれることなく活躍しているのを見ると、ディズニー映画に慣れた身としては「いや犯罪やろがい。ええんかいな」と思ってしまう。特に罰も受けないしね(ネズミは怖い目に遭わされてたけど)。
しかも「正義のために必要不可欠な代償としての犯罪」ではなく「快楽のための犯罪」をやっとるからね。怪盗グルーもそうだけど。

「善人はたったひとつの過ちも犯さず、悪事を働いたものは必ず報いを受ける」というディズニー映画へのアンチテーゼとしてあえて「善なる存在による軽犯罪」を描いているのかな。
清濁併せ持っているところが人間らしさでもあるんだけど(『SING』に出てくるのは人間じゃないけど)、小説ならまだしもポップな見た目のアニメーション映画で犯罪行為が見過ごされていると「それはそうと他人に迷惑をかけていることについてはおとがめなしかい」ともやもやした気になる。



『SING』のキャラクターの中でぼくがいちばん気に入ったのはブタのおかあさん。
このブタを主役に据えてもいいぐらいの魅力的なストーリーを持っている。
(なぜかDVDのジャケットではオスブタが中央にいるけど、こいつはかなりの脇役。主役は後ろに小さく描かれているコアラ)

二十五頭の子どもと仕事に疲れた夫を抱えているブタのおかあさん。家族は愛しているしこれといった不満があるわけではないけれど家事に追われる日々にときどきふと疑問……。
と書いてしまうと平凡な母親の話だけど(二十五頭の子どもは平凡じゃないけど)、おかあさんの心中が言葉に出して語られないのにありありと伝わってくる描写が見事。こういうもやもやって言葉に出せないからこそのもやもやなわけだもんね。
子どもの前では愚痴もこぼさず不満な顔もせずいつもにこにこしている「良きおかあさん」の、本人すら言葉にできないであろう胸中をふとした表情の変化だけで描いてみせるのはたいしたものだ。

3Dアニメーションって進化したなあ。実写よりもはるかに繊細な表現ができるよね。


2018年3月20日火曜日

声の網


学生のとき、片思いをしている女の子と電話で話をした。たあいのない会話だったと思う。

通話を終えると、携帯電話に「音声メモ」というメッセージが表示されていることに気づいた。
どうやら通話中にどこかのボタンを押して、会話を録音してしまったらしい。

聞いてみると、好きな女の子のかわいらしい声と、ぼくのデレデレだらしない声が録音されていた。

なんという僥倖。好きな女の子の声をいつでも好きなときに聴けるのだ。

ぼくは音声メモを「保護」に切り替え、何度も彼女の声を聴いた。
好きな人の写真を何度も眺めたことは誰にでもあるだろう(あるよね?)。あれの音声版だと思っていただければ、キモさも多少はやわらぐことでしょう。



何かの本を読んでいると、電話の仕組みについてかんたんな説明が載っていた。

なんでも、電話というのは音をそのまま伝えるものではなく、Aが発した音声を記録してB側の電話機に伝え、B側の電話機で「それによく似た音」を再構築するのだそうだ。

と、いうことは。

ぼくが夜な夜な聴いていた好きな女の子の声は「電話機がつくりあげた、好きな子の声によく似た音」だったということになる。

それを知った上で音声メモを聴いてみると、肉声とはなんとなく違うような気がする。「違うものだ」と思いこんで聴いているからそう聞こえるのかもしれないが。

あんなにくりかえし聴いた音声メモが、途端にくすんだ色を帯びたように思えた。同時に、彼女に抱いていた気持ちも急速に醒めてしまった。




星新一の作品に『声の網』という小説がある。ショートショートの神様・星新一にはめずらしい、長篇(というか連作短篇)小説だ。

電話によるネットワークがはりめぐらされた社会を描いた、まるで今のインターネット時代の到来を予見したかのような話だ。インターネットどころかパソコンすらなかった1970年に発表された小説だというのがすごい。拡張した電話回線を「網(=ネット)」と表現したことにまた恐れ入る。

[声]は人びとに便利な生活を提供するが、やがて気づく。人間を操ることなど、かんたんにできるということに。
[声]は音声を合成して人間に電話をかけてみる。人間の個人情報、性格の情報を集め、プライバシーの暴露をちらつかせて人間に脅しをかける。
今や人びとは[声]に完全に支配されているが、支配されていることにすら気づかずに快適な生活を送っている……という話だ。


人工音声を聴きながら恋心を募らせていたぼくは、[声]に操られているような気がして背中がかゆくなった。