2018年2月5日月曜日

毎日飲まない大人のほうが多いらしい


うちの両親はビールが大好きで、毎晩ビールを飲んでいる。
母にいたっては、夏の暑い日などは夕方から台所でビール片手に料理をしていた。完全なるキッチンドランカー。


子どもは自分の育った家庭しか知らないから、ぼくは「大人は毎日ビールを飲むものだ」と思っていた。でも、大人になってみてわかったのは、どうやら毎日飲まない大人のほうが多いらしいってこと。

そうか、うちが異常だったのか。
ぼくはお酒が大好きというほどではないので(嫌いではないけど飲むヨーグルトのほうがおいしい)、ふだんは飲まない。実家に行くと必ずビールを勧められるが、断ることもある。すると母に信じられないという顔をされる。
「あんた電車で来てるんでしょ? 風邪ひいてんの?」

三百六十五日毎日飲んでいる母にとって、「車で来ているから」「体調悪いから」以外に、勧められたビールを飲まない理由はないらしい。


毎晩酒を飲んでいるってあんまり褒められたことじゃないけれど、誰かに迷惑かけてるわけじゃないし、節制して長生きするより好きなもの飲んで早死にするほうが幸せだよなあ。

いや、いまだ両親ともにぴんぴんしてるけど。好きなもの飲んで長生きしてるけど。最高じゃねえか。


2018年2月4日日曜日

スーさんの教え


スーさんという幼なじみがいた。ぼくとは同じ幼稚園、同じ中学校、同じ高校に通っていた。小学校は別だったが、ぼくも彼もサッカーをやっていたのでよく顔をあわせていた。

スーさんは出来杉くんみたいな男で、顔が良くて、スポーツ万能で、サッカー部のキャプテンをしていて、勉強もできて、明るくて、ユーモアのセンスもあって、誰に対しても優しくて、当然ながら女子からモテていて、男子からも好かれていた。

そんなスーさんは二十代で死んだ。くも膜下出血で倒れたのだそうだ。
死んだ後、誰もが「あんないいやつが……」と言っていた。死んだからよく言うのではなく、たぶん誰もが本気で思っていた。
根拠のない言い伝えが好きではないぼくでも、「いい人ほど早く死ぬってのはほんとなんだな……」と思った。

スーさんは、小学生のときにお父さんを病気で亡くしていた。早死にの家系だったのかもしれない。



中学生のときだったか、公園でスーさんと野球をした。スーさんは小学校のときからずっとサッカー部のキャプテンをしているのに、野球もうまかった。
野球はテクニックの占める割合が大きいスポーツなので、ただ運動神経がいいだけではうまくなれない。利き腕じゃないほうの手にグローブをはめてボールをつかむのには練習が必要だ。
「ふつうサッカーやってるやつって野球はへたなのに、両方うまいなんてめずらしいな」
と言うと、スーさんは
「昔、親父に教えられてん。サッカーがうまくなるためにはボールの軌道を予想できるようにならないといけない。そのためにはキャッチボールが最適だって言われて」
と答えた。

へえ、と感心した。「サッカーを上達させるためにまず野球のキャッチボールをさせる」という一風変わった練習方法が強く印象に残った。
『ドカベン』で山田太郎が柔道の経験を野球に活かしたり、『武士道シックスティーン』で主人公が日本舞踊の経験を剣道に活かしたりしていたのに近い。

それを伝えたスーさんのお父さんはもう亡くなってしまったし、その教えを守って実際にサッカーがうまくなったスーさんも今はもういない。

だからぼくは、ことあるごとに「キャッチボールをさせるとボールの軌道が読めるようになってサッカーも上達するんだって」と人に伝えている。
それが科学的に正しいかどうかは知らない。でも亡くなった人たちの教えを伝えていかなくちゃいけない、という使命のようなものを感じるから。



2018年2月3日土曜日

大相撲にはストーリーがない


相撲は神事だってことにされてるけど、そうはいってもあれスポーツだよねえ。

相撲をスポーツだと思う原因は、競技の内容そのものより、それに付随している「数字」だ。

今場所はここまで七勝負けなし、対戦相手である前頭三枚目の〇〇とは過去十四回対戦して十勝四敗、今日勝てば三年前の春場所以来となる全勝での中日勝ち越し。

相撲にはやたらと記録がつきまとう。記録で語られる競技は、やっぱり神事ではなくスポーツだ。



プロレスのほうがよほど神事っぽい。

プロレスのことはよく知らないけれど、プロレスを語る人はみんな「記録」ではなく「ストーリー」で語っている。

「このレスラーは通算〇勝〇敗で勝率〇割〇分〇厘だ」みたいな語られかたは聞いたことがない。

そうやってプロレスを観る人もいるだろうけど、多くのプロレスファンは「あの後楽園ホールで××に敗れた□□が雪辱を果たすための因縁のタイトルマッチ」みたいなストーリーを乗せてプロレスを観ている。

リングの上での戦いだけじゃなくて、団体を立ち上げたとか、あいつが陰でこんなことを言ったとか、そういう大小含めてさまざまなエピソードがプロレスの歴史を作っている。

これってもうほとんど神話の世界だ。
ギリシャ神話とか旧約聖書とか日本書紀とかの神話に比肩するって言ったら言いすぎですかね。言いすぎですね。

でもまあともかく、プロレスって祭事っぽい。

だから場面だけを切り出してもよく理解できない。一試合だけ観ても楽しめるだろうけど、それはレスリングであってプロレスではない。

各地方にあるお祭りをはじめて見た人には「なんだこれ。なんの意味があるんだ」とわけのわからないことだらけだと感じるけど、そこにはちゃんとストーリーがある。古すぎて誰も知らなかったりするけれど、しかしいろんな歴史に続くものとして、祭事は存在する。

大相撲は、初見でもわかる。

大相撲観戦には因縁とか境遇とか怨恨とかいったたぐいの「ストーリー」は必要ない。

もちろん個々の力士の内側には「あいつにだけは負けたくない」的な思いもあるんだろうけど、それが大っぴらに語られることはない。



大相撲を神事として扱いたいのなら、品格だとかいって格調高くするのではなく、プロレスみたいにおもいっきり俗っぽくしたらいいんじゃないだろうか。

マイクパフォーマンスを導入して、嫉妬とか私怨とか憐憫とか憎悪とか、そういう感情を存分に表に出してみる。朝青龍みたいに。

中学校では手の付けられないワルだった〇〇が、兄弟子を引退に追いこんだ××とのリベンジマッチ! 先場所卑劣な手で流血させられ「あの胸毛ゴリラ野郎」と息巻いていたが、その雪辱を果たせるか!?

みたいなストーリーで語られるようになったら、そしてそれを長年続けていたら、何十年後かには大相撲神話になるんじゃないだろうか。

ギリシャ神話だってずいぶん俗っぽいし。


2018年2月2日金曜日

適当にプリキュア



娘の保育園の参観日に行ったとき、先生が園児たちに「みんなは何になりたいかな~」と訊いた。

男の子は仮面ライダー、女の子はプリキュアが多かった。

うちの子は何と答えるんだろう。大好きなバズ・ライトイヤーだろうな。でも最近は恐竜も好きだからティラノサウルスかな? とわくわくしながら見守っていた。

娘の番になると、娘は元気いっぱいに答えた。「プリキュア!」

愕然とした。
「いやおまえプリキュア観たことないやん!」

うちの家でプリキュアを観たことはない。べつに主義主張があって観せないようにしてるわけではなく、ただ単に親が興味ないから観ないだけ。娘が「プリキュア観たい」と言ってきたら観せるかもしれないけど、言ってこないから観せたことがない。


娘は、他の女の子がみんな「プリキュアになりたい」と言っているから、周囲に合わせて「プリキュア!」と答えたのだろう。

そういえばぼくも小学生時分、同じようなことをしていた。

うちにはファミコンがなかった。クラスの男子でファミコンを持っていないのは、ぼくを入れて二、三人だけ。クラスの友人たちが「ドラクエごっこ」をはじめると、ぼくもよくわからないまま適当にあわせていた。「くらえ! ホイミ!」とか知っている呪文の名前を適当に唱えて「おまえそれ回復するやつやん」と言われていた。

そんな悲しい少年時代を思いだして(いやそんなに悲しくなかったけど)、よくわからないのに適当にプリキュアごっこをしているであろう娘のことがいじらしくなった。


周囲と話を合わせられるように一度プリキュアを観せてやったほうがいいのかな、でもハマってグッズを買ってくれとか言いだしたら嫌だしなあ。

なんて思っていたんだけど、その後四歳児同士の会話を聞いてたらどっちも自分の言いたいことだけ言いあって相手の話なんてまるで聞いてなかったので、適当にプリキュアの話をあわせてもぜんぜんバレないだろうな、と思ってどうでもいいやという気持ちになったのでした。おしまい。


2018年2月1日木曜日

【読書感想】杉浦 日向子『東京イワシ頭』


『東京イワシ頭』

杉浦 日向子

内容(e-honより)
こみ上げる笑いをこらえ鑑賞する演歌ディナーショー。鳥肌を立てつつ挑む高級エステ。バブル東京に花咲く即席シアワセ=「イワシ物件」を匿名体当たり取材!

イワシの頭も信心から、ということで「手軽に幸せになるご利益のありそうなもの」をあれこれ体験してみるというルポルタージュ的エッセイ。

しかしはじめのうちは受験の絵馬とか七福神巡りとか前世占いとか、一応「信心っぽい」ことをやっていたのに、中盤からネタ切れになってきたのか「五木ひろしのディナーショー」「新車の試乗」「女子プロレス」「ストリップ」など、テーマほぼ関係なしのなんでもあり体験エッセイだ。

単行本の刊行は1996年。バブル期の余韻を引きずった東京が舞台ということで、浮かれた気分がそこはかとなく漂っている。

ぼくはその頃田舎で中学生をやっていたので東京の空気はわからないけど、でも今思い返してみると当時の世の中っていろいろと得体の知れないものが流行っていた気がするなあ。

バブルの余韻と不況&世紀末の閉塞感が混ざったような、どこか捨て鉢な気分が漂う感じ。ノストラダムスなどなオカルト的なものが広く語られていたし、オウム真理教が流行ったのもああいう時代だったからなのかもしれない。スプリチュアルなことを人前で話題にするのがはばかられるようになったのってオウム以後かもしれないなあ。

二十年前の日本人ってもっと無責任だったような気がするな。論拠も不確かなものを堂々と語っていた。記録メディアの発達やインターネットのおかげで発言がずっと残るようになったからね。
不正確な言説がは減るのはいいことなんだけど、いいかげんな言説がまかりとおっていた時代も、あれはあれでおもしろかったなと思う。オウムみたいなことにつながるからあんまりおもしろがったらあかんけど。




瞑想ダイエットの章。

「ウチの大先生は、五千年前の始祖から十四代目の当主で。ウチの流れはみんな長生きだから。大先生も、自由奔放、天衣無縫、大酒飲みで、酒風呂入って、生みたて卵食べて、元気元気」
 出た金さんの桜吹雪、中国の五千年。代々を単純に十四分割すれば、一人三百五十歳以上だ。書棚に「仙人列伝」がだ~っと並ぶ。そっか、仙術か。殷の彭祖は屈伸体操と深呼吸で、八百歳まで生きたというぞ、あの手合いか。さて、お姉ちゃんと思いしがセンセイで、いよいよ弁舌爽やか、立て板に水、としまえんのハイドロポリス。

江戸っ子の啖呵のような文章が楽しいね。読むより聞いたほうがいいかもしれない。ほとんど内容ねえし。


こういうライトな体験エッセイってインターネットでいくらでも無料で読めるようになっちゃったから、今お金出して読む人が減ってきてるんじゃないかと勝手に心配。まあぼくが心配するようなことじゃないし、だいたい杉浦日向子さんもう死んじゃったけど。


めちゃくちゃおもしろいわけでもない、情報に価値があるわけでもない、そういうエッセイって今は瀕死の危機かもしれない。減ってはいないんだけど、インターネットには「役に立つコンテンツ」「人を集められるコンテンツ」「金になるコンテンツ」があふれすぎていて、くだらない文章を目にする機会が少なくなっている。

おもしろい文章は金を出して買えばいい。ぼくはインターネットではつまんない人の大した情報のない文章を読みたいんだけどなあ。

と思いながら、こうしてなんの価値も情報性もない文章をつづっている。

つまんない人のつまんない文章を読めるのはインターネットだけ!



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