2017年10月4日水曜日

ツイートまとめ 2017年9月



効果音

緊急避難


表現意欲


高音中心主義


不祥事


 度胸


憎悪



苗字


罵倒


道徳心


雪舟


陳腐


定礎


風物詩


土産


歌詞


清潔感


双生児


飛散


梯子


意思伝達


白飯


清原和博


銭湯



2017年10月3日火曜日

政治はこうして腐敗する/ジョージ・オーウェル『動物農場』【読書感想】

『動物農場』

ジョージ・オーウェル(著) 開高 健(訳)

内容(e-honより)
飲んだくれの農場主を追い出して理想の共和国を築いた動物たちだが、豚の独裁者に篭絡され、やがては恐怖政治に取り込まれていく。自らもスペイン内戦に参加し、ファシズムと共産主義にヨーロッパが席巻されるさまを身近に見聞した経験をもとに、全体主義を生み出す人間の病理を鋭く描き出した寓話小説の傑作。巻末に開高健の論考「談話・一九八四年・オーウェル」「オセアニア周遊紀行」「権力と作家」を併録する。

ジョージ・オーウェル(SF『一九八四年』の作者)による寓話小説。オリジナルの刊行は1945年。

ハヤカワ、角川、岩波からも出ているが、開高健の訳というのが気になってちくま文庫版を購入。値段はいちばん高かったけどね(ずっと安いKindle版もあったのか……。筑摩書房って電子書籍を出してるイメージがなかったから書店で見かけて買っちゃったよ)。


農場の動物たちが、自分たちが人間に搾取されていることに気づき、革命を起こして動物だけの共和国を打ちたてる。平等で争いがなく誰もが豊かになる社会になったかのように見えたが、徐々に権力の偏りが生じ、支配階級と労働階級に分かれ、共和国は暴力と恐怖に支配されてゆく――。

というストーリー。
要約してしまうとおもしろみがないけど、細部に至るまでのリアリティがすごい。戒律を定めた「七誠」がじわじわ改変されてゆくところとか。
こうして共和国は腐敗していくのか、とドキュメンタリーを読んでいるような気になる。

豚や馬が共和国を打ちたてるという非現実的な設定なのに、人民(獣だけど)が搾取されて苦しむ描写が真に迫っていて哀しくなる。

終始ユーモラスに書かれているのにぬぐいきれない悲哀。

動物の話でよかったよ、これが人間社会の小説だったら重たすぎるぐらいだ。


この小説、社会主義を痛烈に風刺しているように見える。

まずは旗の掲揚。これは、ジョーンズの女房が使っていた緑色のテーブル掛けをスノーボウルが馬具小屋で見つけ、白で蹄と角を描いた旗だった。スノーボウルの解説によると、この緑はイギリスの野を表し、蹄と角は、人類を最終的にやっつけたあとにきたるべき動物共和国を表すものであった。

この旗は、明らかにソビエト連邦の国旗(労働者のシンボルである槌と農民のシンボルである鎌をあしらったデザイン)を意識してるよね。

しかし動物農場のモデルはソビエトではない。Wikipedia にはソビエトをモデルにしていると書いているが、それは違う。
というより、ソビエトはモデルのひとつでしかない。
読者がソビエトのこととして読み取ってもいいんだけど、ソビエトの話に限定して思って読んだら寓話の意味がない。

この作品には、もっと恒久的・普遍的な力がある。

発表から70年たった今、遠く離れた日本人であるぼくが読んでも「リアリティがある」と思える。
それほど『動物農場』で描かれている権力者のありかたはずっと変わらない。まちがいなくこの先も。


『動物農場』の労働者たち(馬や羊たち)は日々の生活に苦しみ、ときどき体制に疑問を抱きながらも、「以前より豊かになっているはず」「他の農場よりもマシなはず」「暮らしは良くなくても今は自由があるから人間に支配されていたころよりはマシ」と信じこみ、搾取される生活から脱しようとはしない。

かつてのソビエト連邦によくあてはまる話ではあるが、毛沢東時代の中国やポル・ポト政権でのカンボジアにもあてはまるだろう。今の北朝鮮の話として読み解くこともできるだろうし、もしかしたら今の日本だって似たようなものかもしれない。

さまざまな読み方をできる小説なのに、ソ連を諷刺した話と限定して読んでしまうのはすごくもったいない。





人間は権力を手にすると腐敗する。
幸運によって得ることができた力をすべて自分の努力だけで勝ち取ったものであるかのように錯覚する。

だから政治家が腐敗するのは仕方ない。
例外的にクリーンな政治家もいるけど、そういった清廉すぎる人物はきっと利害各所を調整する政治家という仕事に向いていない。「白河の清きに魚の住みかねて もとの濁りの田沼恋しき」というやつだ。
清濁併せ呑むぐらいの器を持っている人物のほうが政治には向いている。


だからこそ政治家が私利私欲に走らない(または走りすぎない)ためのシステムが必要になる。

つい最近も某国の総理大臣がおともだちに便宜を図ったとかで騒がれていたが、あの一件でいちばん悪いのは政治家でもそのおともだちでも官僚でもなく、司法だとぼくは思う。

白であろうと黒であろうと、司法が仕事をしていれば早々に解決していた話だ。

裁判所はずっと「高度に政治的な判断」を避けてきたが、高度に政治的な判断こそ裁判所がやるべきじゃないだろうか。





話がずいぶんそれてしまった。『動物農場』の話に戻る。

つくづくよくできている物語だ(開高健も解説で「『動物農場』は完璧」と書いている)。

突拍子もないのに生々しい。おかしいのに腹立たしい。楽しいのに残酷。

そう長くない物語なのに、社会の矛盾のすべてが含まれているみたいな小説だった。




 その他の読書感想文はこちら


2017年10月2日月曜日

キングオブコント2017とコントにおけるリアリティの処理


『キングオブコント 2017』を観おわって「コントはリアリティはどう処理すべきなのか?」と考えたのでつらつら書いてみる。


ジャングルポケットの1本目のコント。
サラリーマンが痴話喧嘩に巻きこまれてしまい、やっと乗れたエレベーターがなかなか動きださない……。というストーリー。

エレベーターがなかなか出発しないという誰もが経験のある現実感のある設定。
徐々に明らかになる意外な真相。
妙な状況を次第に受け入れてしまう心境の変化。
共感性のあるオチ。
よくできた脚本だった。

だが3人の「やりすぎの演技」がすべてを台無しにしていた。
大会に賭ける意気込みが裏目に出たのだろうか、3人ともが終始大声を張りあげている。抑揚がまったくない。常にテンションの高い芝居は、裏を返せば盛り上がり所のない芝居だ。

考えてみてほしい。
知らない人が「開」ボタンを何度も押すのでなかなかエレベーターが動きださない。
場所は自分の会社が入っているオフィス。相手は同じ会社の人かもしれない。取引先の人かもしれない。そんな相手に向かっていきなり怒鳴り声をぶつけるか?
ふつうのサラリーマンなら、しばらくは静観し、徐々にいらいらした様子を見せ、その後で「すみません、急いでるので先に行かせていただいていいですか?」と声をかける。それでも聞き入れられなければ、そこではじめて声を荒らげることになる。

痴話喧嘩をしている二人も同様だ。
ふつうはわざわざ職場で別れ話をしないし、するのであれば押し殺した声でおこなう。己の恥になる話を、わざわざ知り合いに聞かれるような大声で話すわけがない。

このコントでは徐々にヒートアップしていく過程が完全に省略されて、冒頭から3人ともが声を張りあげる。リアリティは破綻して、せっかくの緻密な脚本がわかりやすいドタバタ喜劇になりさがってしまったのは残念だ。
あの脚本そのままで、たとえば東京03が演じていたならめちゃくちゃおもしろいコントになっていただろうなあ。


コントでは、じっさいにはありえない設定を描くことができる。
「火星を探検する宇宙船の中」でも「ブサイクのほうがもてる世界」でもいい。

ただ、どんな無茶な設定を持ってきてもいいが、芝居である以上、その中の登場人物の行動には整合性がなくてはならない。
西暦3000年だろうが、ブサイクがもてる世界だろうが、人は理由もなく他人をぶん殴ったりはしない。何の得もないのに己の財産を投げ捨てたりもしない。
どんなに頭のおかしい人でも、自らの行動原理に基づいて動いている。狂人には狂人のルールがある。

パーパーの卒業式コントで描かれる男は、好きでもない女にキスをせまったり、女を5人集めてくることを要求したりと「めちゃくちゃヤバいやつ」だが、彼の言動には彼なりの論理がある(女を5人集めさせる理由の説得力よ!)。
だから観客は共感はできなくても理解ができる。そしてその論理のおかしさを笑うことができる(まあコントはウケてなかったけどね)。

アンガールズが2本目に披露したストーカーのコントも同様で、好きな女性の夫をつけ狙う男は異常者ではあるが彼の行動は首尾一貫している。
だから設定としては破綻していないのだが、残念なのはその行動を自ら説明していること。
ふつうの人は、自分がとった行動とその目的をわざわざ他人に説明したりはしない。そもそも自分の中でも明快な解釈を持っていないことがほとんどだ。

GAG少年楽団も「幼なじみの男女の50年間の微妙な関係性」という壮大なテーマを示しながらも、すべての歴史を台詞で説明してしまったことでずいぶんと安い芝居になってしまった。
あれを台詞ではなく演技だけで表現することができたならまた違った結果になったのだろうが、あまりに時間が足りないよなあ。


コントにリアリティをもたすための処理がうまかったのは かまいたちだった。
彼らが2本目に披露したウェットスーツを脱がすコントでは、序盤に「4時間もウェットスーツが脱げないんです」という状況を説明している(しかも不自然にならないように、店員が本店に電話で説明する形をとっている)。
あのくだりは笑いをとる上では冗長な部分だが、コント全体にリアリティを与えるという意味で重要な役割を果たしている。
「4時間後」から始めることによって、さらに「鬱血してきている」という説明をくわえることで、客が鋭く店員をなじる様子に説得力が与えられる。店員の手違いで着せられたウェットスーツが脱げないまま4時間も待たされたのなら声を荒らげて怒るのも無理はないな、観客は怒っている客に共感できる。
「あれ? 脱げないな」という状況からはじめてもコントとしては成立するが(そしてそのほうが導入はスムーズだが)客が店員に強いツッコミを入れることの説得力は失われてしまう。

さらば青春の光も、大会の常連だけあって説得力を持たせたコント運びをしていた。
2本とも、序盤は違和感を遠慮がちに指摘するだけにとどめ、徐々に不条理さのギアを上げていってから、強めのフレーズで糾弾している。いつのまにかありえないシチュエーションになっているけど、じわじわとエスカレートしていくので無茶めな行動もすんなり受けいれられてしまう。
じつにうまく観客をあざむいている。
さらに彼らはルックスや演技力も設定とぴったりあっていて、そこでも説得力を持たせていた。「居酒屋でひとりでささやかな晩酌をしているサラリーマン」「ちょっと客をなめた感じの居酒屋店員」「40代でバイトの警備員してる人」の風貌してるもんなあ。


先ほど、人はそれぞれ正当な行動原理を持っているはずと書いたが、その行動原理を意識的に破壊しにいったのがアキナだった。
誰もが「これはボールを拾いにいくだろう」と思う状況で行かない、ふつうの人なら言葉にしなくてもわかる暗黙のルールを理解しないなど、静かな狂気を描いていた。

試みは理解できるのだが、共感性を欠く男の狂気性をじっくり描くには時間がたりなかった。わかりやすい記号(サスペンスでおなじみの音楽)を用いたり、わかりやすい残酷性(「ピーターパンも焼いたら食べられる」発言)を入れたりしたことで、常人と紙一重のところに存在する狂気が、ずいぶん陳腐なものになってしまった。

なによりアキナの最大の不幸は、コントを披露する順番が、リアリティや論理性のある言動の一切を放棄したにゃんこスターのコントの直後だったことだ。常識を捨てたコントの後に常識のずれた人物を描いてもパワーダウンの印象は免れない。今大会でいちばんくじ運で損をした組だろう。

にゃんこスターは、リアリティのある設定や人物描写や文脈のつながりを捨て、さらには暗転前に自己紹介を放りこむことで芝居であるという大枠すらぶっこわしてしまった。
(たしかに革新的ではあったがコントの概念が変わると喧伝されていたのはいささかオーバーだ。キングオブコント初代王者のバッファロー吾郎もリアリティを完全に放棄したコントを披露していたではないか)


リアリティを欠いたコントは評価を落とすが、リアリティを捨てたコントは受け入れられる。
それは、ストーリー漫画では設定に矛盾があってはならないが、ギャグ漫画では矛盾が許されるようなものだ。
ギャグ漫画では、爆発の衝撃でふっとんだ人物が次のコマで包帯ぐるぐる巻きになっていて、さらにその次のコマでは完治していてもかまわない。誰も「すぐに包帯を巻けるはずがない。設定が破綻している」とはつっこまない。突拍子もない展開もある種の記号として処理する暗黙の了解が共有されているからだ。

コンテストの結果は、誠実にリアリティを追求したかまいたちが1位、でたらめな虚構世界をつくりあげてショーに徹したにゃんこスターが2位、巧みな嘘で観客を見事に騙したさらば青春の光が3位。

もちろん3組とも大きな笑いをとっていたが、コントに説得力をもたせることに成功した3組が上位を占めたという点で、芝居の構造的に見てもおもしろい大会だったなあ。


【思考実験】もしも選挙で1人複数票制度が導入されたら

少し前に『基礎からわかる選挙制度改革』という本を読んだ(→ 感想はこちら)。

いろんな国の選挙制度が紹介されていたのだが、共通していたのは「1人1票」という点。
先進国はどこも1人1票なのだ(フランスのように複数投票制を採用している国はあるが、1回の投票で投じられるのは1票だけだ)。

1人が複数票を入れることのできる制度があってもいいのではないだろうか?
ということで【1人複数票制度】について考えてみた。





1人複数票制度の概要

もちろん「好きな候補者に何票でも入れていい」制度はありえない。そんなことをしたらむちゃくちゃな結果になるのは目に見えている。

ぼくが提示するのは

「1人が何票でも入れていい。ただし同一候補者に対して入れていいのは1票まで」

という方式だ。
ある小選挙区にA、B、Cという3人が立候補者がいるとする。

有権者は、これまで通り誰か1人に入れてもいいし、AとB、BとCなど2人に1票ずつ入れてもいい。
3人とも支持したいと思えば、AとBとCの全員に1票ずつ入れてもいい。




具体的に実行する方法

投票所に行って選挙通知書を提示すると、候補者の氏名が書かれた紙が渡される。
先ほどの例で言うと、Aと書かれた用紙、Bと書かれた用紙、Cと書かれた投票用紙の3枚を渡される。
有権者は、そのうち何票かを投票箱に入れ、残りは選挙立会人の前でシュレッダーへかける。

このようなやり方をとれば1人の候補者に複数票を入れることはできない。
電子投票にすればもっとかんたんだ。
技術的には十分可能そうだ。





考えられるメリット

意思表示の選択肢が増える

現行制度だと、3人が立候補した選挙区では、有権者の意思表示の方法は「A」「B」「C」「無効票、白票」「棄権」の5種類しかない。

【1人複数票制度】を導入すれば、先ほどの4種類に加えて「AとB」「BとC」「AとC」「AとBとC」という選択肢が増えるので、有権者の意思表示の幅が広がる。

「AとBとC」は当選結果に影響を与えないので無効票と同じじゃないかと思われるかもしれないが、これは微妙に違う。

供託金の返還には大いに影響を与える。
供託金とは選挙に立候補するときに預けるお金のことで、一定数の得票をとらないと没収される。
衆院選の小選挙区では有効投票総数の10分の1の得票がないと没収されるので、「全員に票を入れない」と「全員に票を入れる」では供託金返還ボーダーぎりぎりの候補者にとっては大きく意味が変わる。

また詳しい説明は省くが、小選挙区でどれだけ票をとったかは比例区で復活当選するかどうかにも関わってくるから、やはり「全員に票を投じる」行為は無効票とは別の行動なのだ。


複数の候補者に票を入れたいと思ったことはないだろうか?

「教育に関してはAの候補者に賛成するけど、経済政策に関してはBの言ってることを支持する」
なんてときだ。
こんなとき、【1人複数票制度】であればAとBの両方に票を投じることができるのだ。やったね。


「落としたい」という意思表示ができる

先の理由の一部ではあるが「落選させたい」という意思表示ができるのは大きい。

選挙において「誰でもいいけどこいつはいや」ということはないだろうか。

今の制度だと、「誰かを積極的に支持する」「誰にも入れない」しか選択肢がないため、こういう声をすくいとる方法がない。

【1人複数票制度】だと、「Aだけはいや」と思えば「BとCに入れる」ことでその意思を投票に反映させることができる。

投票率も上がるのではないだろうか(個人的には投票率が高いことはいいこととは思わないけど)。



考えられるデメリット

集計の手間がかかる?

得票の総数が増えるため、集計の手間や時間は増えてしまうかもしれない。

とはいえ「手書きの文字を読み取る」から「あらかじめ候補者名が印刷された用紙を集計する」に変わるので、集計作業を機械化すれば今までより楽になるのではないだろうか。

電子投票にすればもちろんこの点は解決する。


投票ミスが増える

あらかじめ印刷された投票用紙の中から選択する形にすると、どうしても投票のミスが増えてしまう。
「自民党」と書きたかったのに「共産党」と書いてしまうなんてミスはまず起こらないだろうが、「自民党」と書かれた票を入れたかったのに「共産党」の票をうっかり箱に入れてしまう、というミスは一定数起こるだろう。

これは電子投票にしても解決できない(むしろ増えるかも)問題だとは思う。

とはいえ特定の候補者だけが大きく得をするということはないだろうから、しょうがないのかなという気もする。

強いて言うなら、高齢者からの支持率の高い候補者は損をするかもしれない。


不正がしやすい

たとえば「投票用紙に票を入れずにこっそり持ち帰り他の誰かに渡す」という不正をするのが、1人1票のときよりずっと容易になりそうだ。

「1票しかない票をこっそり持ち帰る」よりも「複数票あるうちの1票を持ち帰る」ほうがずっと楽だろうし、「1票入れるふりをしながら2票入れる」よりも「2票入れるふりをしながら3票入れる」ほうがずっと楽だろう。

また、1票しかない票を誰かに譲るより、複数票あるうちの1票を譲るほうが心理的なハードルも低そうだ。

まあこのへんも電子投票であればクリアできる問題だけど。



もし導入されたらどう変わるだろうか?


さて、【1人複数票制度】を導入すれば、どのような変化が起こるだろうか?

候補者たちはどのように変わるだろうか? 有権者はどう変わるだろうか?


変わるのは無党派層


特定の政党の党員や候補者の熱心な支持者の行動は基本的に変わらないだろう。
支持する政党の候補者に1票を投じるだけ。

大きく変化するのは無党派層だ。

たとえば先の都議会議員選では、自民党に対する反対の意思表示として都民ファーストの会が票を集めた。
このように「特定の政党に対する反対票の受け皿として1つの政党に票が集まる」ということが今ほどはなくなる。自民党がイヤなら自民以外のすべてに入れることになるので。

ただし1党集中が軽減されるのはあくまで票の行方の話であって、当選議員数の話ではない。
小選挙区制度である以上、少し流れが変わっただけでドミノ倒しのように一気に戦局がひっくりかえることは今後も起こるだろう。


選挙カーがなくなる?


現行の選挙では、とにかく目立つ、名前を覚えてもらうことが重要とされている。

【1人複数票制度】になればそのやりかたが変わるのではないだろうか。

現行制度では「支持する」意思表示しかできないので、候補者にとってある有権者から「関心を持たれない」と「嫌われる」は同じようなものだった。
どちらも票を入れてくれないのだから、無視してもいい。

そこでとにかく目立つ、支持者に対してアピールする、ということが大きな意味を持つようになり、選挙カーや街頭で大声を張り上げる選挙活動が一般的になった。

選挙カーがあれだけ嫌われていてもなくならないのは、自分への関心の度合いを考えたときに「0.5を1にする」ほうが「0を-1にしてしまう」よりも重要だからだ。

だが【1人複数票制度】では「こいつだけはイヤ」というマイナスの意思表示ができるので、嫌われないようにすることも重要な戦略となる。

不祥事なんてもってのほか。
嫌われたら自分以外の全員に票が集まるかもしれない。

そう思うと、選挙カーで大きな音を出して住宅地を走ることはできなくなるのではないだろうか?

また、知名度は高いがアンチも多いタレント候補は、今より不利になるかもしれない。


政策が似たり寄ったりになる?


現行制度では、過半数の票をとれば確実に勝つことができる。

ところが【1人複数票制度】になれば、合計得票数が投票者数を上回るので、50%を獲っても勝てるとはかぎらない。
選挙区によっては70%ぐらい獲らないと勝てないかもしれない。

となると、大半の人に支持してもらえる政策を打ち出す必要がある。

「原発反対」「憲法改正」なんて賛否両論分かれるテーマは怖くて打ち出せない。

結果的に「子どもたちが暮らしやすい日本を」「活力のある世の中を創る!」みたいな誰にも反対されないけど何も言ってないのと同じ具体性のない公約か、
「大幅減税」みたいな現実味のない政策かのどっちかになってしまう。

どの候補者も似たり寄ったりの耳あたりのいい似たり寄ったりになりそうだなあ。


現職・与党が不利になる?


"悪目立ち"をする候補者は不利になる。
現職・与党はどうしても動向が報道される機会が多くなるので、敵を増やしやすい。
「自民党だけはぜったいイヤ」という人はけっこういるだろうが、「社民党だけはぜったいイヤ」と思う人はほとんどいないだろう。

結果、【1人複数票制度】は現職・与党に不利にはたらきそうだ。


選挙協力が進む?


【1人複数票制度】が導入されれば、今よりもっと候補者間・政党間での選挙協力が進むだろう。
「うちの支持者に対してあんたにも票を入れてくれと頼むから、あんたも支持者に対してわたしをよろしく言っといてね」
という取り引きだ。

市議会議員選のような中選挙区では言わずもがな、小選挙区でも中間予想で2位と3位の候補者が結託する可能性もある。

勝ちは諦めたが比例での復活当選を狙う候補者が、惜敗率アップ目当てに選挙協力をするケースもあるかもしれない。

そうなると今以上に政治が権謀術数の世界になり、裏でお金が動く可能性も高まるわけで、このへんが【1人複数票制度】の最大のデメリットかもしれない。



導入される可能性は……


ことわっておくが、【1人複数票制度】はぼくが思いついただけの制度だ。

実際に導入しようという声を聞いたことはないし、たぶんこの先も導入されないだろう。


上でも書いたように、有権者にとっては「意志表示しやすくなる」という大きなメリットがあるものの、不正の温床になりそうな気がする。

なにより、与党が不利になる制度だ。

さらに無党派層の票が増えるので、強い支持基盤を持っている公明党なんかは相対的に票が減ることになるだろう。

自民党に不利&公明党に不利、ということなので、まずまちがいなく導入されることはないだろうね……。


2017年10月1日日曜日

いっちょまえな署名

全国私立保育園連盟というところから署名協力の依頼がきた。


なんじゃこりゃ。

何万もの署名集めて、首相に伝えるのが「子どもの保育・成育環境向上のための改善を求めます」ってなんじゃそりゃ。

ぼくが首相だったらこんな抽象的な努力目標書かれた署名届けられても「オッケー、改善しまーす☆」って言って、その1秒後に秘書に「おいこれシュレッダーしとけ」って言ってるわ。
「ったく。おれは忙しいんだから金にならない来客は通すなって言ってあんだろ」つって。

(一応書いておくと、少しだけ具体的な要望も後半にはあった。少しだけね)



この署名用紙、めんどくさいことにこんなことが書いてある。

「〃」等の略字は避けてご署名は自署にてお願いします。

いっちょまえに。「自署にて」ですってよ。

いや一応知ってるよ。請願法ってのがあるんでしょ。署名について定めた法律。

自筆じゃなかったり住所が適当だったら無効とされることがあるんでしょ。

知ってるよっていうかさっき調べたんだけどね。知らなかったけどね。


でも無効ってなんだよ。そもそもこの署名が有効になることあんのかい。

この署名が集まったら、それ見た首相が「え!? 子どもの保育環境改善したほうがいいとみんな思ってんの? 知らなかったー。よっしゃ、軍事費全部保育園に回せーい!」ってなることあんのかい。

首相と「〇月〇日までに署名を〇万通集めたら予算を〇円増やす」って具体的な取り決めしたのかよ。してねーんだろ。だったら全部無効だよ。

住所を書こうが書くまいが無効だから、書かないほうがまだマシだよ。




デモとか署名とかの「やったった」気になる行動が嫌いだ。

身内でやるならいいけど、考え方が同じかどうかわからない人にまで協力を求めてくるのがいやだ。

趣旨に賛同できなくて署名をしないこともあるが、それでも断ったときにはいくばくかの罪悪感を感じる。

なぜ他人の思い出作りのためにこっちが罪悪感を覚えにゃあならんのだ。


デモにしても署名にしても、達成感味わうために文化祭やんのはいいけど他人を巻きこまないでほしい。

やるんなら寄付金集めるとか選挙の候補者擁立するとか地元議員と取引するとか、もうちょっとマシなことあるだろうよ。
それが効果あるかどうか知らないけど、署名集めて総理大臣に持っていくよりは可能性あるだろうよ。
(ちなみに私立保育園連盟は寄付金も募っていたからそれには協力した。主張自体に反対するものではないからね。)

署名なんて、何十時間もかけてちまちまベルマーク集めて1,000円ぐらいの文房具もらう行為よりももっと不毛だわ。

こんなことのために他人の時間を奪おうとするなよ。

やりたいんなら1人で千羽鶴折って届けろよ。





世の中の署名嫌いのみなさん!

「署名をなくそう」という署名を集めて世の中を変えましょう!