2017年8月1日火曜日

性格分類

【坊や】

おこりんぼ
わすれんぼ
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あばれんぼう
あわてんぼ
くいしんぼう
けちんぼ
きかんぼう

【店舗】

うっかり屋
しりたがり屋
さびしがり屋
がんばり屋
のんびり屋
しっかり屋
めんどくさがり屋
めだちたがり屋
はずかしがり屋
てれ屋
わからず屋

【動物】

泣き虫
弱虫
一匹狼
天邪鬼
なまけもの

2017年7月31日月曜日

くだらないでこそ喧嘩する


ぼくは妻がいて、ということは何年か前に結婚して、結婚前に8年交際して、で、その8年交際した妻という女性こそが、じつは今ではぼくと一緒に暮らしている女性なんです。
(「その女性が、今ではぼくの妻です」というオチの話をしたかった絶望的に話が下手な人)



ということで妻とは結婚前に8年付き合ったんだけど、その間、喧嘩らしい喧嘩を一度もしなかったのね。
どっちかが立腹することはあっても、その場で「あなたのこういうところが気に入らないから直してほしい」と伝えて、相手が謝罪するなり改善案を示すなりして、引きずらないように解決してきた。
だから「これこそが大人の付き合いってもんだよ。感情をぶつけあうなんてガキのやるもんだ。ぼくらは理性的な人間だから喧嘩とは無縁だ」って思ってた。

結婚式の準備をするまでは。


誰かが「結婚式はぜったいに揉める。そこで相手の人間性がわかる。それを見て、結婚を思いとどまるかどうか決める最後のチャンスだ。だからお金が許すかぎり結婚式はやったほうがいい」っていってたけど、いやあ真理だね。誰の言葉だったかは忘れたけど、言葉の内容はちゃんと覚えている。身に染みて痛感したから。


結婚式の準備もはじめは円満に進んだ。
なぜってぼくらの価値観はきわめて近かったからね。8年も付き合って、同じものを見て、同じ言葉で笑って、同じものを避けてきたからね。相手の好きなもの、嫌いなものをよく知っている。
結婚式の準備程度で揉めたりするわけないよね。

でもさ、やったことある人ならわかるけど、結婚式ってめちゃくちゃ決めることあるんだよね。
そりゃあさ、場所とか予算とか衣装とかは大事だから、いろいろ考えて決めるよね。
でもさ、「引き出物にかけるリボンの色はどれにします?」とか「歓談中の音楽はどうします?」とか「司会者の前に飾るお花についてなんですけど……」とかすっげえ細かいことまでいちいち相談されたら、さすがにむかついてくんのね。
うるせえよ、いちいち訊いてくんじゃねえよ、人間なんだからちょっとは自分で考えろよ、とか思うわけ。引き出物のリボンの色が青でも赤でも文句言わねえよ、って。
ぼくもいい大人だから、式場の人に「うるせえよ」とは言いませんよ。その人はいい結婚式にしようと思ってがんばってくれてるんだろうしさ。でも文句を言えない分、腹の中に鬱憤がたまってくる。

どうでもいいから一応1秒だけ考えたふりして「じゃあ……赤で」とか適当に答えてたんだけど、ぼくの妻(まだ結婚してなかったけど)はまじめな人だから、ひとつひとつに真剣に考えてんの。
「テーブルクロスの色はどうします?」って言われて3パターンぐらい見せられて、クロスのサンプルを手に取って眺めて、中空を見てちょっと想像して、また別のサンプルを手に取って、また考えて、さっきのやつもう一回手に取って、そんでこっちに向かって「うーん……。どうする?」って、それだけ考えてまだ決められへんのかーい!
ってなわけでその時点でかなり腹立ってきてね。他人の結婚式行って「いい式だったねー、テーブルクロスの色も2人のイメージによく似合ってたし」「ご祝儀3万円出してあのテーブルクロスの色はないわー」って思ったことあんのかよ、って言いたくなったけど、すんでのところでこらえたのね。

もうこんなことに1秒だって頭を悩ませたくないと思って、一番左のやつを指さして「ぼくはこれがいい」って言って、決めたのね。紫のテーブルクロス。べつに茶色でもグリーンでもなんでもよかったんだけどね。

その後またあれこれ決める時間が続いてね。招待状のデザインはどれにするかとか、司会者の胸につけるコサージュはどうするかとか、心底どうでもいい決断を迫られてね、「一刻も早く終わらせたい」って思いながらいろいろ決めていってた。
そしたら妻が言った。

「さっきのテーブルクロスだけどさ、やっぱりグリーンのほうがいいな」


そんでね、もうキレちゃった。
ふだん声を荒げることとかないんだけどね。付き合って8年、一度も声を荒げたことないんだけどね、自分でもびっくりするぐらいガラの悪い声で「ハァ!?」って言葉が出た。
「ただでさえどうでもいいことにこれだけ時間使ってんのに、一度決めたことを覆す? それやってたら永遠に終わらんやん。一生テーブルクロスとコサージュについて悩みながら過ごす気か!? ふざけんなよ」
みたいなことが口をついて出た。
「一回紫のに決めたんだから、ぜったい変えない!」と宣言した。

ちっちゃい人間だな、って思うよね。
ぼくもそう思う。ていうかそのときも思った。
ちっちゃいことで怒ってんなーって自分を客観的に見ていた。どっちでもいいよって言えよ、って思ってた。たかがテーブルクロスじゃないか。
でも、たかがテーブルクロスで揉めないといけないことに腹が立った。
8年喧嘩せずにやってきたのに、最初の喧嘩がテーブルクロスの色をめぐってかよ、って。

すっごくくだらないことに腹を立てて、くだらないことに腹を立てていることに腹が立った。





で、結婚して数年たった今だからわかるんだけど、人間ってくだらないでこそ喧嘩するんだよね。
住居選びのこととか仕事のこととか子どものこととか、重要なことをめぐっては意見が食いちがうことはあっても意外と感情的な衝突にはならない。
大事なことだから落ち着いて理性的に話そう、相手の意見もちゃんと聞き入れようって気になるんだよね。

でも「牛乳をこぼしたのは誰か」「トイレのスリッパをそろえないのはなぜか」みたいな些末な問題だとそういう意識ははたらかない(どちらも我が家で大喧嘩に発展したテーマだ)。
ちっちゃな問題だからどっちが悪くてもいいからさっさと頭を下げてしまえば済む話なのに、相手に対して「どうでもいいことなんだからさっさと非を認めろよ」と思ってしまい、結果、話し合いはこじれてしまう。


結婚式は、くだらないことの集合だ。
指輪の交換もケーキ入刀も無理やりケーキ食わすやつも余興も新婦の両親への手紙も退場したはずの新郎新婦が出口で待ち構えてて美味しくなさそうなクッキーを押しつけてくるやつも、ぜんぶやらなくてもどうってことない。
しかしそのくだらないことにこそ意味があるのではないだろうか。結婚生活はくだらないことの積み重ねだ、しかしくだらないことにこそ気を付けなければならない、ということを結婚式は教えてくれるのかもしれない。



2017年7月29日土曜日

省略の美を味わえるSF風時代小説/星 新一 『殿さまの日』【読書感想】


星 新一 『殿さまの日』

内容紹介(Amazonより)
ああ、殿さまなんかにはなりたくない。誤解によって義賊になった。泣く子も黙る隠密様のお通りだい。どんなかたきの首でも調達します。お犬さまが吠えればお金が儲かる。医は仁術、毒とハサミは使いよう。時は江戸、そして世界にたぐいなき封建制度。定められた階級の中で生きた殿さまから庶民までの、命を賭けた生活の知恵の数々。――新鮮な眼で綴る、異色時代小説12編を収録。

ずっと昔に読んだ本だが、また読みたくなったので押し入れから引っぱりだして読んでみた。
星新一といえばショートショート。
ぼくは文庫だけでなく全集も持っているぐらいの星新一ファンなので、当然ながらショートショートは何度も読み返した。
星新一といえばショートショート、ショートショートといえば星新一、というぐらいに短篇のイメージが強いが、『城のなかの人』『明治・父・アメリカ』『人民は弱し 官吏は強し』『明治の人物誌』などの歴史・時代ものもおもしろいのだ。
誰も知らない昔の話をするのに妙に感情がこもっていると、「まるで見てきたみたいに書くなあ」と嘘くさく感じてしまう。
その点、星新一の平易にして理知的な文章は歴史を語るのにぴったりとあう。淡々とストーリーを説明するその語り口は、落語の状況説明部分を聞いているようで心地いい。
遠い未来も江戸時代も「誰も見たことがない」という点では一緒で、ディティールを想像力でどう補うか作家の腕が試される。じつは時代小説とSFは近い位置にあるのかもしれないね。


"省略の美"という言葉がある。余計なものをなくして、見る人の感性や想像力にゆだねる美しさのことをいう。『殿さまの日』は"省略の美"を存分に味わえる作品集だ。
へたな小説は描写が多い。書かなくてもわかることまで事細かに書く。
星新一の文章からは、感情をあらわす表現が極力そぎ落とされている。登場人物はまるで何も考えていないかのように、己の心中を語らない。でも、だからこそ読み手は想像力をはたらかすことができる。
演劇では、悲しいことを表すために大げさに涙を流したり、ときには「悲しい」とセリフで説明したりする。けれどそれはいわゆる"安い芝居"だ。涙の一滴も流さずに、声も上げずに、表情も変えずに悲しさを表現するのが一流の演出だ。

表題の短篇『殿さまの日』では、地方藩の領主のある一日が書かれている。起きて、着替えて、武道の稽古をして、家臣からの型通りの報告を受けて、書物を読んで、床に就くまで。
ほんとに何も起こらない。平々凡々たる一日。
この"つまらない一日"を、一切の感情描写を省いた文章で綴っている。そんなのおもしろいのかと思うかもしれないが、ちゃんと殿さまの退屈と諦観と幸福感と悲哀と家臣を思う気持ちが伝わってくる。殿さまが感情をいちいち表に出してたはずないしね。
まさに一流の演出。省略の美学。

時代小説なのに妙に都会的でドライな雰囲気が漂っていて新鮮だ。

 その担当の家臣があらわれ、武具庫の点検をおこない、さだめ通りの数がそろっていたことを報告する。殿さまは言う。ごくろうであった。武具はきわめて重要である。点検は念には念を入れねばならない。見落としを防ぐため、ある日数をおき、もう一回やってみる慣習があるように聞いているが、どうであろうか。
 家臣は、ははあと頭を下げる。これですべてが通じたのだ。そんな慣習など、これまではない。しかし、あからさまにそれをやれと命じると、叱責した印象を与えないまでも、相手は自分の不注意を感じかねない。すべては質問の形で、それとなく言わねばならない。わたしは事情をなにも知らないのだ。だから勉強しなければならぬ。そのための質問だ、という形をとるのがいいのだ。わたしはそれでずっとやってきた。なんでもいいから質問していると、しだいに事情がわかってくるものだ。また、そうなると、いいかげんな報告はできないと家臣たちも思ってくれる。しかし、とことんまで質問ぜめにしてはならない。家臣の説明がしどろもどろになりかける寸前でやめておく。そうすれば相手の立場も保て、つぎの報告の時は形がととのっている。やりこめるのが目的ではないのだ。


部下の顔を立てつつ的確に指示を出す方法。現代のビジネス書に載せてもいいぐらいの内容だね。
星新一は作家になる前は製薬会社の二代目社長だったからね。二代目社長だと、古株の社員のプライドを守りながら指示を出す必要があるわけで、これはその頃に身につけたテクニックかもしれないね。ま、星新一が社長になってすぐに会社はつぶれたけど。


ところで冒頭にこんな一文がある。
 その驚きで、殿さまは目ざめる。朝の六時。夏だったら六時の起床が慣例だが、冬は七時となっている。まだ一時間ほど寝床にいられる。
当然ながら江戸時代に「六時」「一時間」という言い方はない。「六ツ」「半刻」と言っていたはずだ。
わざと現代的な感覚を持ち込んでSFっぽさを出しているのかな? と思ったけど、おかしな文章はそこだけで、以降はふつうの時代小説の文体だった。
まちがえただけなのかな。




ぼくが好きだった短篇は『ああ吉良家の忠臣』

吉良義央(吉良上野介)が斬られたことにより、首をとられるとは武門の恥であるとしてお家断絶・領地の没収を命じられた吉良家。
一方、斬った側の赤穂浪士たちはよくぞ殿の仇を討ったとして町人たちからもてはやされている。世の掟を破った側が人気を博して被害者側がつらい目に遭う。この不遇な状況に憤る吉良家の忠臣の孤軍奮闘を狂歌をまじえてユーモラスにえがいた話。

忠臣蔵は江戸時代から人気だったらしいけど、掟に背いて討ち入りを果たした四十七士がよくやったと称えられ、乱心した浅野内匠頭に斬りつけられた上に後日その部下から殴りこまれるという一方的な被害者である吉良家はお家断絶。
そりゃあ忠臣からしたらやりきれないだろうな。

星新一らしいシニカルな視点だね。南極に置いていかれた犬が自力でアザラシやペンギンを食べて生き延びた"美談"を、食べられる海獣側から見たショートショート『探検隊』を思いだした。


ぼくは「ひねくれ者」と言われることがときどきあるんだけど、自分では「多角的にものを見ることができる人」と前向きに受け取っている。
くだらない話をしているときにみんなが正面から見ているものを裏から見たり下から見たり内側から見たりすると、くだらないことを思いつくことが多い。そういうものの見方は星新一の小説に教わった。仕事ではあんまり役に立たないんだけどね。


この『殿さまの日』、もう絶版になっている。
ぼくの持っている文庫本も古本屋で買ったもので、昭和58年発行だ。
星新一の小説って古びないからずっと読まれてほしいんだけどなあと思っていたら、電子書籍で手に入るようになっていた。

いい小説が細々と読まれつづける。いい時代になったものだ。殿さまも感心することだろう。



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2017年7月28日金曜日

読みかけの本を抱えて死ぬ




ぼくは常に5~6冊「読みかけの本」を抱えている。
今読みかけている本は以下の6冊だ。
  • 星 新一『殿さまの日』(時代小説)
  • 読売新聞 政治部『基礎からわかる選挙制度改革』(ノンフィクション)
  • ジェイムズ・P・ホーガン『星を継ぐもの』(SF小説)
  • NHKスペシャル取材班『僕は少年ゲリラ兵だった』(ノンフィクション)
  • 伊沢 正名『くう・ねる・のぐそ』(エッセイ)
  • 佐藤 義典『図解 実戦マーケティング戦略』(ビジネス)
ジャンルもテーマも書かれた時代もバラバラだ。
まだ読み終わっていない本があるのに他の本にも手を出すのだ。


寝る前に読む本


寝る前はKindleで電子書籍を読む。
なぜならKindleなら灯りを消したままでも読めるし、Kindleはブルーライトを発しないらしいからその後スムーズに睡眠につなげられる。さらにメモをとりたいときでも、端末にそのまま記録できるからメモ帳や携帯電話を取りだす必要がない。寝る前の読書に適している。
電子書籍リーダーは、紙の本以上に雨に弱いとか、充電が切れたら読めないとか、通信環境がないと書籍の購入ができないとかいくつか弱点があるけど、枕元で読む分にはそういった心配はすべて無縁だ。
Kindleは寝る前の読書でこそ最大のパフォーマンスを発揮すると思う。

ぼくのKindleには、読みかけの本が常に2冊入っている。そのときの気分で読みたいほうを読む。

通勤時に読む本


ぼくは電車通勤で、電車に乗っている時間は片道約20分。これは本を読むには長すぎず短すぎずちょうどいい。
電車では立って吊り革につかまって読むことが多いので、片手で持ちやすい文庫か新書を読む。
電子書籍で買った本が溜まってきたらKindleで読むこともあるが、誰かの足の上に落してしまったら怒られるだろうなとか、電車とホームの隙間に落としてしまったら大損害だなとかいろいろ心配してしまう。
やはり文庫か新書がいい。電車内は他にやれることがなくて集中できるので、難しめの内容でも頭に入ってきやすい。ノンフィクションをよく読む。

自宅ですき間時間に読む本


ぼくは寝る前を除き、まとまった「読書の時間」というものをほとんど持っていない。
家にいる間はたいがい何かをしながら本を読む。着替えながら読んだり、テレビの音だけ聞きながら読んだり、子どもと遊びながら読んだりしている。
リラックスしているし、他のことをやりながら読むので難しい内容は頭に入ってきにくい。だからこういうときは小説やエッセイを読むことが多い。

汚れてもいい本


先述したように、ながら読みをすることが多い。今は娘とお風呂に入ることが多いが、ひとりで入浴するときは湯船で本を読む。ひとりで食事をするときも、行儀が悪いけど本を広げながらめしを食う。
外食時では、なんとなく店の人に悪い気がしてカウンター席や混雑しているときは遠慮するけど、そうでなければ本を読みながら食べることも多い。そのために「本を読みながら食べやすいもの」という基準で料理を注文する。両手を使わないといけないものや汁が飛びやすいものは避ける。
また、休みの日は娘と公園に出かけるので、屋外で本を読むことも多い。

風呂や食卓や公園で読むと、本は汚れたり傷んだりしやすい。
図書館で借りた本はもちろん、ハードカバーの本もなんとなく汚すのは気が引けるので、外出先や風呂で読む本は文庫や新書が多い。

職場で読む本


仕事中、作業に疲れたときにぱらぱらと読む。さすがに仕事と関係のない本は読まない。


なぜ同時に読むのか


なぜこんな読み方になったのか。
べつに意識してやっているわけではない。数多くの本を読んでいるうちに、自然にこうなった。昔は1冊読みおわるまでは別の本にかからなかったけど、2冊になり3冊になり、いつの間にか5~6冊になっていた。
このやりかたがいちばん量をこなせるからだ。

まず、同じ本ばかり読んでいると飽きる。
「ページをめくる手が止まらなくて一気に最後まで読みました!」みたいな感想がよくあるが、そんな本は50冊に1冊あるかどうかだ。

本を読むのが苦手な人は、1冊だけを一生懸命読もうとするから読めなくなる。
いい本でも読むのが嫌になる瞬間はある。今の心境とあわない、というときもある。後半からおもしろくなるけど前半は退屈な小説も多い。
そんなとき、無理をして読むのはよくない。かといって投げだしてしまうのももったいない。いい方法は「寝かせておく」だ。
何冊か同時に読んでいるとそれができる。「本は読みたいけど今はこの本の心境じゃない」というときには、他の本に逃げるのが正解だ。

ぼくのKindleには常時2冊の未読本が入っていると書いたが、重めの小説と軽めのエッセイ、サイエンス系のノンフィクションと本格派でないミステリ小説、など「読むのにパワーがいる本」と「あまりパワーを要しない本」がセットで入っていることが多い。意識しているわけではなく、自然とそうなるのだ。


同時に読むことの効用


複数冊の本を並行的に読んでいると、当然ながら1冊を読み切るまでに要する時間は長くなる。常に頭のなかに本が溜まっているような状態だ。
そうすると、ときどき本と本がつながる瞬間が訪れる。「これは別の本に書いてあったことと似た考えだ」と気づく。
また本以外から得た情報とつながることもある。人から聞いた話が本の内容と関連していることを見つけたりする。
こういう発見は誰でもあると思うが、頭の中を本で埋めているその容積が大きいほど、その機会は増える。

……と書いたが、これは後付けの理由だ。
何冊も読んでいたら本が別の情報と有機的につながりやすいということに気付いただけで、狙ってはじめたわけではない。

読書にとって重要なのは「読んでいる時間」だけではない。「読みかけている時間」から得られるものも多い。ぼくが速読をしないのはそれが理由だ(うそ。やろうとして挫折しただけ)。


同時に読む人はけっこういる


成毛眞さんの『本は10冊同時に読め!』という本がある。
成毛さんというのはHONZという書評サイトを運営している読書家だ。

ぼくはこの本を読んだことがない。たぶんこの先も読むことがない。
なぜなら、たぶん同じような読み方をしているんだろうな、と思うからだ。もう実践してるからぼくには必要ない(もしぜんぜん違ったらごめん)。


同時に読む方法は、ある程度の量をこなすためにはいい方法だと思う。
だけどデメリットもある。

ついつい本を買いすぎてしまうこと。
家の中が本だらけになること。
気づくと何カ月も鞄に本が入っていてぼろぼろになっていること。

万人にはおすすめしないけど、「もっと本を読みたいけど読めない」という人はやってみてもいいんじゃないでしょうか。



2017年7月27日木曜日

まとめサイトはプロパガンダに向いている/辻田 真佐憲 『たのしいプロパガンダ』【読書感想エッセイ】

辻田 真佐憲 『たのしいプロパガンダ』

内容紹介(Amazonより)
本当に恐ろしい大衆扇動は、娯楽(エンタメ)の顔をしてやってくる!

戦中につくられた戦意高揚のための勇ましい軍歌や映画は枚挙に暇ない。しかし、最も効果的なプロパガンダは、官製の押しつけではない、大衆がこぞって消費したくなる「娯楽」にこそあった。本書ではそれらを「楽しいプロパガンダ」と位置づけ、大日本帝国、ナチ・ドイツ、ソ連、中国、北朝鮮、イスラム国などの豊富な事例とともに検証する。さらに現代日本における「右傾エンタメ」「政策芸術」にも言及。画期的なプロパガンダ研究。



プロパガンダ
特定の考えを押しつけるための宣伝。特に、政治的意図をもつ宣伝。
(「大辞林」より)

先日友人と話しているときに「プロパガンダ+(国名)」で画像検索するとおもしろい、という話になった。
特におもしろいのはロシアとアメリカ。東西の双璧だっただけあって、プロパガンダにかけている力もすごい。
いや逆に、プロパガンダに成功したからこそ大国になれたのかもしれない。
この本を読むと、うまくいっている組織というのは広報の持つ力を理解しているのだな、と思う。

プロパガンダというと、政治色の強いポスターを作って攻撃的な音楽を流して拡声器でスローガンを連呼して……というようなイメージがあるが、そんなものでは誰も見向きもしない。成功しているプロパガンダとはたのしいものなのだ、というのが『たのしいプロパガンダ』の主張だ。

プロパガンダというと、政府や軍部が作って一方的に国民に押しつけたと思われがちだが、実際はそんな単純ではなかったのである。現に民間企業は利益に敏感で、満洲事変や日中戦争が勃発するとさっそく「愛国歌」「国策映画」「愛国浪曲」「愛国琵琶」「国策落語」「軍国美談」などと冠した、時局便乗的な商品を続々と売り出していった。今では考えられないが、当時の日本では戦争といえば、領土が増え、国威が上がる輝かしい歴史が想起された。そのため、「勝った、勝った」と煽る商品が出てきてもまったく不自然ではなかった。
 これに対して、政府や軍部はときに後援や推薦をしてお墨付きを与え、ときに発禁処分や呼び出しなどを行って規制し、自分たちの都合のいいように民間企業の商品をコントロールしようとした。

たとえば、今では戦争のイメージとはまったく無縁のタカラヅカ(宝塚歌劇団)も、『太平洋行進曲』など戦争を扱った芝居を上演して、積極的に戦争を応援していた。
しかも、序盤はコメディ調にして観客を飽きさせないようにし、中盤からシリアスな戦闘シーンに教訓めいたセリフを乗せていたというから、かなり巧みなプロパガンダだ。これも軍に強制されてやっていたわけではなく、「こういうものがウケる」から作られたものだ。


アメリカでも同様で、今では平和の象徴のようなディズニー映画でも、戦時中は敵国を批判・揶揄するような物語が作られていた。

以下、ドナルドダック主演の『総統の顔』という作品の内容。

 映画の内容は、ドナルドダックがナチ・ドイツを模した「狂気の国」で暮らしているというもの。ドナルドダックは朝から壁に掲げられた肖像画に向かって、「ハイル・ヒトラー! ハイル・ヒロヒト! ハイル・ムッソリーニ!」と挨拶させられる。そして貧しい朝食もそこそこに、『わが闘争』の読書を強要され、軍需工場の労働へと駆り出されてしまう。
 工場の作業は、チャップリン監督・主演の映画『モダンタイムス』よろしくベルトコンベアーで運ばれてくる弾丸を次々に組み立てるというものだが、たまに弾丸にまじってヒトラーの肖像画が流れてくる。すると、ドナルドダックはその都度、肖像画に「ハイル・ヒトラー!」と叫ばなければならない。この様子は実に滑稽で、今でも見る者の笑いを誘う。
 そして過酷な労働に、ドナルドダックは次第に精神に変調をきたし、兵器が飛び交うサイケデリックな幻覚を見る。ここの映像はディズニーのアニメとは思えないほど、おぞましいものがある。ところが、その途中で目が覚める。なんと、以上の光景は夢だったのだ。ドナルドダックは部屋に飾られた自由の女神の模型にくちづけし、米国の自由を讃えて終幕となる。
 主題歌「総統の顔」は劇中に何度も使われ、その特徴的なメロディは観賞者の耳を離さない。


今この内容を見ると「なんちゅうストーリーだ」と思ってドン引きだけど、当時のアメリカ人はこれを観て笑っていたのだろう。
今の日本人だって「北朝鮮はネタにしていい」って風潮があって国家首席を小ばかにした冗談をあたりまえのように口にしているけど、50年後の日本人が見たら「隣国である北朝鮮をあからさまにばかにするなんて、当時の日本人はなんてはしたない人たちだったんだ」と思うかもしれないよね。



『たのしいプロパガンダ』では、戦時中の日本やナチス時代のドイツから、現代の北朝鮮、ISIL(イスラム国)、オウム真理教などのプロパガンダの手法が紹介されている。
……というと「プロパガンダというのはヤバい国家・団体が使うものだな」という印象を持たれるかもしれないが、そんなことはない。どの国だってやっているし、逆にうまくやっている国ほど巧みすぎてそれが宣伝活動だと気づかれないほどだ。

もし今日本が戦争をするとしたら、まちがいなくAKB48あたりはまっさきにプロパガンダに起用されるだろうね(今でもプロデューサーは国家権力と近い位置にいるし)。
若者のイメージを変えるのがいちばん手っ取り早いし、そのためには人気のアイドルやミュージシャンを使うのが効果的だから。

政治でもプロパガンダは巧みに利用されている。
たとえば大手まとめサイトのいくつかはある政党と結びついていると言われている。事実かはわからない。でもその手のサイトを見ると、たあいのないニュース記事や笑えるネタに混じって、かなりの割合で特定の政党を非難する記事が掲載されている。
『世界のおもしろ動画』や『ネコの決定的瞬間をとらえた写真』みたいな記事の間に『××党の××が「××」とバカ丸出しの発言』なんて政治主張の強い記事が唐突にはさまれるのはぼくから見たらかなり異様なのだけど、違和感なく「そうか、××はバカなのか」と鵜呑みにする人もいるんだろう。
まとめサイトって、都合のいい主張だけを恣意的に並べることで、さも「いろんな意見があるけど××だけは共通認識である」かのように見せることに向いているから、プロパガンダに適しているよね。
それが〇〇党が密かにやっていることなのか、それとも〇〇党の支持者が勝手にやっていることなのかはわからないが、少なくとも誰かが社会情勢を誘導しようとしていることはまちがいない。

プロパガンダ=悪と単純にはいえないけど、「あー今誘導されそうになってるな」って自覚はしといたほうがいいね。
楽しいものほど要注意。



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