2016年4月30日土曜日

【読書感想文】米原 万里 『心臓に毛が生えている理由』

内容(「BOOK」データベースより)

在プラハ・ソビエト学校で少女時代をすごし、ロシア語同時通訳者として活躍した著者が、鋭い言語感覚、深い洞察力で、人間の豊かさや愚かさをユーモアたっぷりに綴る最後のエッセイ集。同時通訳の究極の心得を披露する表題作、“素晴らしい”を意味する単語が数十通りもあるロシアと、何でも“カワイイ!”ですませる日本の違いをユニークに紹介する「素晴らしい!」等、米原万里の魅力をじっくり味わえる。

ロシア語通訳者によるエッセイ。
死後に単行本未収録のエッセイをまとめたものらしく、内容はばらばら。
それでも一篇一篇はきちんとおもしろい。高い品質のエッセイを書いていたことを改めて思い知らされる。

中でも「チェコと日本の両方で教育を受けた」という特異な経歴を活かした、言語や文化のちがいに対する考察の鋭さが光る。

おもしろかったのがこの文章。

それまで五年間通っていたプラハの学校では、論文提出か口頭試問という形での知識の試され方しかしていなかったのだ。
「鎌倉幕府が成立した経済的背景について述べよ」「京都ではなく鎌倉に幕府を置いた理由を考察せよ」
 というようなかなり大雑把な設問に対して、限られた時間内に獲得した知識を総動員して書面であれ口頭であれ、ひとまとまりの考えを、他人に理解できる文章に構築して伝えなくてはならなかった。一つ一つの知識の断片はあくまでもお互いに連なり合う文脈を成しており、その中でこそ意味を持つものだった。
 ところが、日本の学校に帰ったとたんに、知識は切れ切れバラバラに腑分けされて丸暗記するよう奨励されるのである。これこそが客観的知識であるというのだ。その知識や単語が全体の中でどんな位置を占めるかについては問われない。
 これは辛かった。苦痛だった。記憶は、記憶されるべき物事と他の物事、とくに記憶する主体との関係が緊密であればあるほど強固になるはずなのに、単語と単語のあいだの、そして自分との関係性を極力排除した上で覚え込むことを求められるのだ。

 チェコの学校がみんなこうなのか、それとも著者が通っていた学校だけが変わっていたのかはわからない。
 でも少なくとも日本の学校の大半は、知識をばらばらにして覚えることを生徒に要求している。
(ただぼくはそれが悪いことばかりとは思わない。意味を無視してひたすら覚えるほうがかえって効率的な局面もたしかにある)

 とはいえ、著者が例であげているように、歴史なんかは有機的に覚えていったほうがずっと理解が深まるし、なによりおもしろい。


 でもなあ。
 論文式の試験は、採点するほうがたいへんなんだよなあ。
 えらそうに「知識詰め込み型の教育は良くない!」と言うのはかんたんだけど、ぼくが教師だったら、やっぱり選択式の問題とかにしちゃうだろうなあ。
 だって頭悪い子の論文を読むことほどつらいことはないもの。

 大学の先生はたいへんだなあ。



2016年4月26日火曜日

【エッセイ】バイクのブーン その3


バイクのふたり乗りは、必死にしがみついているさまがあわれだとしか思えない。
だけど、これまでの人生で一度だけ、ふたり乗りをかっこいいと思ったことがある。

バイクじゃなくて自転車だけど。


とある下町に住んでいたときのこと。

あたしはワケあって、商店街に行った。
ワケっていっても、塩大福買いにいっただけですけど。
それ以上のワケはありませんけど。



商店街の入口で、自転車のふたり乗りとすれちがった。
やんちゃな学生が多い地域だったから、自転車のふたり乗りなんて、道端に落ちてる手榴弾と同じくらいありふれた光景だった。どんな地域だ。

でも、あたしがすれちがったふたり乗りはひと味ちがっていた。
自転車を運転してるのが、70歳くらいのじいさんだった。
で、そのじいさんの両肩に手をおき、後輪に足を乗せているのも、70歳くらいのじいさんだった。

かっけえ……。

そのころ、友人に誘われてSMAPのコンサートに行ったことがある。
付き添いで行っただけでべつだん興味なかったから、踊って歌うSMAPを見ながら、なんでこんなのにみんなきゃあきゃあ云うんだろうかとふしぎだった。

SMAPにはぜんぜんときめかなかったあたしだけど、じいさんのふたり乗りにはしびれた。

じいさんたち、すっげえ愉しそうだった。

そりゃ愉しいだろう。
70過ぎて自転車のふたり乗りして、愉しくないはずがない。

若者たちはバイクでスピードを出してスリルを味わうけど、そんなの比じゃない。

だって、じいさんたちの場合、こけたら寝たきりだよ?
すごいスリルじゃない?

そりゃかっこいいわ。


【関連記事】

バイクのブーン その1
バイクのブーン その2
バイクのブーン その3


2016年4月25日月曜日

【エッセイ】バイクのブーン その2


バイクをまったくかっこいいと思わないあたしだから、ましてやバイクで走っている人の姿なんか、かっこいいどころかみっともないとさえ思ってしまう。

みっともないでしょ、あれ?

あれ、本人は「またがってる」「乗りこなしてる」と思ってるんでしょうけど、はたから見てるとカンゼンに「しがみついてる」ようにしか見えないよね?

サルの親子が移動するとき、子ザルがおかあさんザルの背中に必死にしがみついてるじゃない。
バイク乗りを見てると、それと同じに見えてしょうがない。
エンジン音にかき消されて聞こえないだけで、実際は大半のバイク乗りが「おかあさん待って!」って叫びながらしがみついてんじゃないかって、あたしはにらんでいる。

そんなんだから、バイクのふたり乗りなんかもうおかしくってしょうがない。
だって、バイクから振り落とされないように運転手がバイクに必死にしがみついてて、それだけでも江戸時代だったら滑稽本の題材になりそうなぐらい滑稽なのに、さらにそいつに必死にしがみついてるやつがいんの。

バイクにしがみつくやつにしがみついてる。
「孫請け」という言葉しか出てこない。

あわれ。
ほんとあわれ。もののあはれ。

もう、不憫すぎて逆に好きになっちゃいそう。
愛してる。

鼻毛抜くときぐらい必死な顔してバイクにしがみついてる人に教えてあげたい。
自動車ってのがあるよって。
しがみついてなくても平気な乗り物あるよって。
あと雨にも濡れないよって。
たった2個のタイヤをケチらなければ自動車にランクアップできるんだよって。


あとよくわかんないのが、バイク乗りってすぐ「バイクに乗ってると風を感じる」とか言うじゃない。

あれふしぎよね。
どう考えたって、止まってるときのほうが風を感じられるでしょ。
風向きを読むとき、どんなことする?
人差し指につばをつけて、指を立てて、動かずじっとするよね?
それか、風がなければ静止しているはずのもの、旗とかを見るよね?
指をふりまわしながら「東から風が吹いてるな」とか言う?

サルが背中に子ザル乗せて走ってるのを見て、「今日は風が強いな」とか感じる?
動いてるやつが感じてるのは風じゃなくて空気抵抗だろって。



あとさ、あとさ。

「風とひとつになれるからバイクはいい」
ってのも聞いたことある。

ま、それはわからんでもない。
「風を感じる」よりは意味がわかる。
動いてるからね。

でもさ、バイク乗りって雨の日でも走るじゃない。
びちょんこになって。

それはやっぱりあれ?
雨とひとつになりたいわけ?

そして春先は中国から来た黄砂になりたいわけ?
花粉とPM2.5もつけとく?


【関連記事】

バイクのブーン その1
バイクのブーン その2
バイクのブーン その3


2016年4月24日日曜日

【エッセイ】バイクのブーン その1

あたしはバイクのかっこよさがまったくわからない。

ていうかあれかっこいい?

暴走族の改造バイクは論外として(ていうかニホンオオカミが絶滅したのと同じタイミングでもう滅びたんだよね?)、大型バイクも中型も原付もかっこよくない。

造形といい、材質といい、排気音(っていうの? あの「でっでっでっでっ」ってやつ)といい、ぜんぜんだ。

かっこわるいとは言わない。
だってなんとも思わないもの。
冷蔵庫を見ても「かっちょいい!」とか「かっこわりいなー」とか思わないでしょ?
それとおんなじ。

冷蔵庫の「ブーン」って音を聴いても、
「おっ、いかした声で鳴くマシンだな」
とか思わないでしょ?


……えっ、思うの?
そういう人は高専に行きなさい。
そんでロボコンで青春の汗を流してきなさい。
そんで1回戦で勝って仲間と抱きあって喜び、続く2回戦でマシントラブルに見舞われて悔し涙を流しなさい。
その後バイクメーカーに就職して、開発の仕事をしなさい。
そんで冷蔵庫の「ブーン」とまったく同じ音で走るバイクを開発しなさい。


【関連記事】

バイクのブーン その1
バイクのブーン その2
バイクのブーン その3


2016年4月23日土曜日

【読書感想文】マイケル・サンデル『それをお金で買いますか』

 

マイケル・サンデル『それをお金で買いますか』

内容(「BOOK」データベースより)
刑務所の独房を1晩82ドルで格上げ、インドの代理母は6250ドル、製薬会社で人間モルモットになると7500ドル。あらゆるものがお金で取引される行き過ぎた市場主義に、NHK「ハーバード白熱教室」のサンデル教授が鋭く切りこむ。「お金の論理」が私たちの生活にまで及んできた具体的なケースを通じて、お金では買えない道徳的・市民的「善」を問う。ベストセラー『これからの「正義」の話をしよう』に続く話題の書。
「金で買えないものはない」
という人がいる。
もちろん、そんなことはない。
お金で買えないものはある。
たとえば「お釣り」とか。もらうことはできても買うことはできない。
はい、利かせてみましたよ。とんちを。

「世の中お金じゃない」
という人がいる。
これもうそだ。
お金なしで生きていくのは不可能。
田舎で畑をつくって自給自足の生活をしている人はいるだろうが、大気や安全も誰かのお金によって守られていると考えると、その人もお金の恩恵を受けて生きている。
畑泥棒が跋扈する世の中では自給自足の生活は送れないからね。


大概のものはお金で取引可能だけど、そうではないものもある。
じゃあその境界線ってどこにあるの?
いや、どこに境界線を引くのが正しいの?

という問いに対してじっくり考察したのが『それをお金で買いますか』だ。



たとえば、こんな例。

絶滅の危機に瀕しているアフリカのクロサイ。絶滅危惧種なのでもちろん猟は禁じられているが、なんと15万ドルを払えばクロサイを撃ち殺す権利が買える。

と聞くと、動物の命も金次第か、とイヤな気持ちになるでしょう。
ところが、ことはそう単純な話ではない。
クロサイを撃つ権利をハンターに販売できることで、民間の牧場主はクロサイを保護して繁殖させるインセンティブが得られる。
結果として、クロサイの数は回復しはじめている。

クロサイを殺す権利を金で売ることができるようになったことで、種全体としてはクロサイは守られている。

それでも、快楽のためにクロサイを殺す権利を売ることはいけないのか?
難しいところだよね……。



お金の扱いは難しいと、『それをお金で買いますか』を読んでつくづく思う。
こんな例。
たとえば、増えつづける行動経済学者の一人であるダン・アリエリーは、一連の実験を通じて次のことを明らかにした。何かをやってもらうためにお金を払っても、無料でやってくれるよう頼む場合ほどの努力を引き出せないことがあるのだ。(中略)全米退職者協会はある弁護士団体に、一時間あたり三〇ドルという割引料金で、貧しい退職者の法律相談に乗ってくれるかどうかをたずねた。弁護士団体は断った。そこで退職者協会は、貧しい退職者の法律相談に無料で乗ってくれるかどうかをたずねた。今度は弁護士団体も承諾した。市場取引ではなく事前活動への取り組みを要請されていることがはっきりすると、弁護士たちは思いやりをもって対応したのである。
これはよくわかる。
ぼくも、友人に「引っ越しするから手伝いにきてよ」と言われたら「しょうがないな」と云いながらも手伝いにいく。

でも「1,000円あげるから引っ越し手伝いにきてよ」と言われたら、「1,000円ぐらいで来ると思うなよ」と行きたくなくなる。

お金はたくさん欲しいけど、いついかなるときでも欲しいかというと、そうでもないんだよね……。

べつにきれいごとをいうわけじゃないですけど、お金で売り買いしてほしくない領域というのはある。


最後に、なるほどそのとおり! と思わず膝を打った文章をご紹介。
これで、この数十年間が貧困家庭や中流家庭にとってとりわけ厳しい時代だった理由がわかる。貧富の差が拡大しただけではない。あらゆるものが商品となってしまったせいで、お金の重要性が増し、不平等の刺すような痛みがいっそうひどくなったのである。
そうなんだよね、すべてが商品になるって、しんどいことなんだよね……。


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