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2017年11月1日水曜日

全銀河系の誰が読んでもくだらない小説/ダグラス・アダムス『銀河ヒッチハイク・ガイド』【読書感想】


『銀河ヒッチハイク・ガイド』

ダグラス・アダムス (著) 安原 和見 (訳)

内容(e-honより)
銀河バイパス建設のため、ある日突然、地球が消滅。どこをとっても平凡な英国人アーサー・デントは、最後の生き残りとなる。アーサーは、たまたま地球に居た宇宙人フォードと、宇宙でヒッチハイクをするハメに。必要なのは、タオルと“ガイド”―。シュールでブラック、途方もなくばかばかしいSFコメディ大傑作。

ある日、バイパスを通すために地球が破壊される。50年も前からバイパス工事のことはアルファ・ケンタウリで告知していたのに地球人は誰も見にこず立ち退かなかったから強制撤去――。

という、なんともバカバカしい導入のSFコメディ(バカバカしいのは導入だけでなく全編通してだけど)。
オリジナルは1978年にはじまったイギリスのラジオドラマで、その小説版。

ストーリーはめちゃくちゃなんだけど、そこかしこにブリティッシュ・ユーモアがちりばめられていて、くだらないんだけどおもしろい。

たとえば「人間そっくりの人格を持ったロボットをつくろう」というコンセプトで作られた、超優秀な(はずの)ロボット・マーヴィン。

「わかりました」とマーヴィン。「なにをすればいいんです?」
「第二搭乗区画に降りていって、ヒッチハイカーふたりをここまで連行してきて」
 一マイクロ秒の間をおき、細かい計算に基づいて声の高さと調子を微調整して(人が腹を立てて当然と思う限界を越えないように)、人間のやることなすことに対する根深い軽蔑と恐怖をそのひとことに込め、マーヴィンは言った。
「それだけですか」
「そうよ」トリリアンがきっぱりと言った。
「面白くない仕事ですね」とマーヴィン。

こんなロボットがいたらぶん殴ってしまいそうだ。

「ロボットをどれだけ人間に近づけるか」ってのはよく検討すべき問題だね。
人間と同じことをさせるんだったら人間を使うほうが低コストだし。そもそも人間ってお手本にするほど性能のいいものでもないし。ぼくらみたいな低レベルな人間が目標でいいのか。よくないだろ。

しかし人間をはるかに凌駕するロボットをつくったら、もはやどっちが主人かわかんなくなる。
ロボットの性能を向上させた結果、ロボット様のためにつまんない仕事を人間がやるほうがはるかに効率的だ、ってなりそう。
じっさい、今もロボットは将棋やったり碁をさしたり、人間よりずっと高尚なご趣味をたしなんでらっしゃいますし。

ということはやっぱり、マーヴィンみたいに怠惰で後ろ向きで不満と言い訳ばっかり言ってるロボットのほうがぼくらの仲間としてはふさわしいのかもね。劣等感を味わわなくてすむから。



さっきも書いたけどこの本、ストーリーはめちゃくちゃだ。
都合のいい偶然だらけだし、行動の目的もないし、思いつきを積み重ねているかのようないきあたりばったりのストーリーだ。

ぼくは小学生のとき宇宙を舞台にした冒険小説を書いたことがあるけど、それがちょうどこんな感じだった。

しかし小学生の小説と一線を画しているのは、めちゃくちゃなストーリーなのに個々のエピソードには妙な論理性があること。

たとえば……。

この惑星では、年に百億人も訪れる観光客のせいで浸食が進むのを憂慮していて、惑星滞在中に摂取した量と排泄した量に差があると、出国するときにその正味差分を外科的に切除されることになっている。だから、トイレに行ったらなにがあってもかならずレシートをもらっておかなくてはならない。

これが「妙な論理性」。

世の中には「この人変な人だな」って思う人がたくさんいるけど、ぼくが思うに、そういう人ってじつはそれほどずれてるわけじゃないんだよね。
ほんのちょっとずれてるだけで、だからこそ小さな差異が他者との間で目立ってしまう。

ほんまにヤバイやつって一本芯が通っていて、そいつの中ではしっかりとした論理を持っているから一見まともそうに見える。ちょっと話しただけでは異常性がわからない。

「おれはナポレオンかもしれない……」って悩んでるやつはわかりやすいけど、「おれはナポレオンだ」と信じきってるやつはそれを裏付ける論理を自分の中できちんと持っているから、意外と目につかない。そんな感じ。


たとえばこないだ伊沢正名さんの『くう・ねる・のぐそ』ってエッセイを読んだ(感想はこちら)。
この人は何十年もトイレを使わずにずっとのぐそをしていて、しまいには研究のために自分のしたのぐそを数か月経ってから食べたりしている。
それだけ聞くとやばい人と思うかもしれないけど、この人の中では確固たるルールがあって、しかもそれがすべて合理的で理にかなっている。だからエッセイを読むと「トイレで用を足している自分のほうがおかしいんじゃないか」って気になってくる。

ほんとに変な人にはそれぐらいのパワーがある(伊沢さんをけなしているんじゃないですよ)。


で、「惑星滞在中に摂取した量と排泄した量に差があると、出国するときにその正味差分を外科的に切除される」というルールについてなんだけど、これもおかしいんだけどすごく筋が通っている。
たしかに質量保存の法則があるわけだから、多くの観光客がやってきてたくさん食べてたくさんのお土産を買って帰ったら、その惑星の物質はどんどんなくなっていく。
うん、その論理におかしなところなし。

だから出国時にその差分を切除するという話も……。うん、わかるようなわからないような……。明確に「このような理由でその制度はよくない」とは言い切れないよね……。


とまあ、絶妙な塩梅で常識を揺さぶってくれる小説ですわ。

全銀河系の誰が読んでも「くだらねえな」と思える物語。

あとこれだけはなんとしても言っておきたいんだけど、この小説から得られる知識とか教訓とかまったくないからな! ほんと何の役にも立たねえ小説だぞ!


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2017年10月31日火曜日

選挙、抗議、批判以外の政治との関わり方/明智 カイト『誰でもできるロビイング入門』【読書感想】


『誰でもできるロビイング入門
社会を変える技術』

明智 カイト

内容(e-honより)
本書でいう「ロビイング」とは、業界団体が「もっと金よこせ」と言って政治家に圧力をかけることではない。日本ではあまり行われてこなかった、弱者やマイノリティを守るために政治に働きかけることである。圧力団体が行うロビイングとは目的が全く異なるので、「草の根ロビイング」という名称も使用する。ロビイングはそれぞれテーマや、人によってやり方が異なるため、これまでマニュアルというものは存在しなかった。そこで本書では暗黙の了解となっていたロビイングのルールと、様々な立場からロビイングに関わってきた方たちのテクニックを紹介していきたい。

ロビイストってうさんくさい?


アメリカの政治の本を読むと「ロビイスト」という言葉がよく出てくる。
特定の政策を推し進めてもらうよう政治家にはたらきかける人物、というような意味らしいが、どうもうさんくさいものを感じていた。

選挙を通して選ばれた政治家に、どこの馬の骨とも知れない人物が圧力をかけるの?

それって結局は金に物を言わせて政治家を操ろうとしてるってことじゃないの?

みたいな印象だった。

しかしこの本では、清水康之氏、駒崎弘樹氏、荻上チキ氏、赤石千衣子氏、明智カイト氏の取り組みを通して「自殺者を減らす」「待機児童問題を解決する」「性的マイノリティが生きやすい社会をつくる」など、どちらかというと「弱者を守る」ためのロビイング活動が紹介されている。




政治と関わらざるをえない状況に陥ったら


ぼくは、なるべくなら政治に関わらずに生きていきたいと思っている。

本来、間接民主主義ってのは「一般人は政治のことなんか考えなくていいですよ。すべて専門家に任せておけば安心です」って制度なわけだから、職業政治家以外は政治のことを考えなくて済む世の中が理想だ。

しかしそうは言ってられないこともある。

こんな例が載っている。

 たとえば、失業して住む家も追われ、多重債務に陥ってうつ病を発症してしまった人がいたとする。その人が生きる道を選択するためには、単純化していえば、精神科でうつ病の治療をしつつ、法律の専門家のところで債務の法的整理を行い、福祉事務所で生活保護の利用を申請するなり、ハローワークで雇用促進住宅への入居手続きをするなどして、さらには求職活動もしなければならない。
 しかし、そうした切羽詰まった状態にある人が、自力でそれらすべての情報を探し出し、それぞれの窓口にピンポイントで辿りつくのは至難の業だ。
 支援が必要な人ほど支援から遠ざかるというジレンマは、社会的な問題を解決するための仕組み上の問題である。様々な解決策や支援策が、当事者ではなく施策者・支援者の視点で設計されているために、需要と供給の間にギャップが生じてしまうのだ。

これは「至難の業」どころか不可能だよね……。

窓口を一本化すればいいんだろうけど、行政は縦割りになっているから内部から変わることはまずない。
当事者が選挙に出馬して政治家になれば状況を変えられるかもしれないが、あたりまえだが当事者にはそんな余裕はない。出馬しても当選しないだろう。
政治家が動いてくれればいいけど、政治家もひまじゃないから要請がないとなかなか動けない。

そこで有効なのがロビイング活動。

支援者団体が政治家に対して、失業者を救済する法の策定を要請する。
それが多くの人を救う法であれば政治家にとっては票の獲得につながるから、制定に向けて動くことになる……。

つまり、ここで紹介されているロビイング活動とは、「弱者の声をすくいあげて政治家に届け、弱者を救済する仕組みを作ってもらう」という活動だ。

なんとも理想的な政治との関わり方だ。

そうかんたんにはいかないことも多いんだろうけど、少なくともデモ行進やビラ撒きをするよりは、ずっと現実的な方法だよね。



政治家をうまく使う


『誰でもできるロビイング入門』ではロビイングのいろんなケースが紹介されているけど、これを読むと与党の政治家もちゃんと仕事をしているし、野党の議員も批判ばっかりじゃなくて与党と協力して法の策定に尽力しているんだな、と実感する。

ニュースを見ていると政治家ってどうしようもないクズばっかりに見えるけど、目立たないところでちゃんと活動しているんだねえ。

権力の監視は報道機関の大事な仕事だけど、こんなふうに「業績をちゃんと伝える」ことにも紙面を割くようにしてくれたら、もっとみんなハッピーになるような気がするな。

政治家だって人だから、批判ばっかりされてたらやる気なくすでしょうよ。
「〇〇しない政治家は辞めちまえ!」って言うのと、「〇〇してくれるならこれだけの票が獲得できますよ」って言うのではどっちが人を動かせるかって考えたら明らかだよね。


大事なのは「政治家をどう動かすか」で、うまくやっている人や団体はそれをとっくに実行している。

って考えると、世の中を変えたいと思うのなら政治家になるよりロビイストになるほうがいいね。
政治家って支持母体や政党の言いなりにならざるを得ないわけだから、自分のやりたいように動ける範囲って実はすごく少ないらしいし。

 一方でロビイストには、そのような制約は一切存在しない。政治家が市民から要望のあった政策実現を行なうのに対して、ロビイストはその「要望をする側」であるため、自分自身が実現したいと願う政策のために動くことができる。バックに何か勢力があるわけでもないため、束縛されることもない。
 また、一つの選挙での当選・落選もなく、ある特定の政党に属するということもないため、普遍的に超党派的に誰とでも関わることが可能であり、より効果的に政策実現に寄与することができる。くだけた言い方をすれば、ロビイストとして政治家のバックであれやこれやと複数の議員に働きかけをしたほうが、選挙に当選して政治家になって政策実現を目指すより、自分の叶えたい政策を実現するという観点からいえば圧倒的に手っ取り早いのである。

一般人の政治との関わり方って、「政治家を批判する」か「投票によって誰かを支持する」しかないと思っていたんだけど、ロビイング活動によって「政治家をうまく利用する」って道もあるんだということに気づかされた。

政治家って、雲の上の存在ではなくて、逆にどれだけ批判してもいい存在でもなくて、「我々の代わりに動いてくれる人」だと思えばもっと有意義な接し方ができるような気がする。

たぶん政治家だって、有権者に対しては「要望を伝えてくれる」ことを望んでるんじゃないかな。

「選挙」「抗議」「批判」以外で、もっと政治家と気軽に関われたらいいな。



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2017年10月26日木曜日

現代人の感覚のほうが狂っているのかも/堀井 憲一郎『江戸の気分』【読書感想】

『江戸の気分』

堀井 憲一郎

目次
病いと戦う馬鹿はいない
神様はすぐそこにいる
キツネタヌキにだまされる
武士は戒厳令下の軍人だ
火事も娯楽の江戸の街
火消しは破壊する
江戸の花見は馬鹿の祭典だ
蚊帳に守られる夏
棺桶は急ぎ家へ運び込まれる
死と隣り合わせの貧乏
無尽というお楽しみ会
金がなくても生きていける
米だけ食べて生きる

落語通の堀井憲一郎氏が、落語というフィルタを通して現代社会について考えた本。
江戸の人の視点で眺める現代というか。落語に出てくる江戸の人に向かって「今から200年後、あんたたちの子孫はこんなふうに生きてるぜ」と説明するというか。

 近代人は、病気をすべて「外のもの」として捉えるのがいけないやね。
 外のものがやってきて、自分のからだを侵食していくから、これをまた外に排除してくれ、医者だったら排除できるだろう、と考えているのは、近代人の異常性だとおもう。これは江戸時代から見なくても、ふつうに異常です。
 たしかにそういう病いもある。ウイルス性の病気など、薬で体外に出せば治る病いもあるけど、もっとよくわからない身体の不都合はいっぱいある。たとえば、ガンはどう考えても外から来てないだろう。内で自分で作ってる。それを外からやってきた毒みたいに扱おうったって、それは無理だとおもうんだけど、もちろん現場の医者は痛いほどそのことは知ってるだろうけれど、近代人はそうは考えないですね。ガンを外に出してくれ、と考えてしまう。あまつさえ戦おうとしたりする。

現代人は昔の人よりもずっと正しい医学の知識を持っていると思っていて、それはじっさい正しいんだけど、根本的な考え方でいうとひょっとしたら江戸人のほうが正鵠を射ているのかもしれない。

健康的な生活をしていると「健康=正常」で、病気になることは突発的なエラーが起こっているような気になるけど、はたしてそれは正しいのだろうか。

こないだ読んだ山口雅也『生ける屍の死』(感想はこちら)にこんな台詞が出てきた。
「死じゃよ。生命のない物質から生命が発生したという事実にもかかわらず、彼らは死という言葉で生を説明しようとしない。自然界においては、死とは平衡状態のことであり、生命活動に必要な外からの補給がなくなったときすべての生命が達する自然な状態なのじゃよ。だからな、論理的に言えば、生の定義は『死の欠如』ということになろう」
死んでいる状態こそが自然な状態であり、動的に活動している生の状態こそが異状なのだ、という解釈だ。

さすがにそれは極端な考え方だが、ぼくも歳をとって身体のあちこちにガタがくるようになると「どこかしら悪いほうがふつうで、絶好調のときのほうが例外的」と思えるようになってきた。

江戸時代だったら視力が悪いのも矯正できないし虫歯になっても治せないし、たぶん今よりずっと「身体が悪くてあたりまえ」という感覚は強かったのではないだろうか。
死も今よりずっと身近に存在していたから、身体についての理想的な状態は今よりずっとハードルが低かっただろう。「とりあえず目が見えて耳が聞こえて立って歩けて生きてたらオッケー」ぐらいのものだったかもしれない。

江戸にかぎらず人類の歴史としてはそっちのほうがずっと長かったわけで、今の「具合が悪かったら病院へ」の時代のほうがずっと異常な時代なのだろう。

あと何十年かしたら「毎日身体チェックをして病気になる前にその芽をつぶす」時代が訪れるだろうから、「病気を治す時代」なんてのは長い人類の歴史においてたった100年ぐらいので終わるかもしれないね。





江戸の経済成長の話も興味深かった。

 ただ江戸期の後半は、商品経済が農村に入り込んでゆき、この制度と現実が乖離していく。「米だけでは、もう、何ともなりませんずら」ということになってゆくのだが、政府は「いやいやいや、米さえ獲れて、それをきちんとまわせば、世は安泰じゃろ」という方針を最後まで崩さなかった。となると、あまり金銭が出回ってもらっては困るし、世の中が発達してもらっても困るのである。高度に発達した資本主義社会の端っこから見てるとこれは意味のわからない風景だが、当時は本気である。民のことを考え、世間の安定を考えて、そうしていたのだ。
 つまり国総がかりで「金は不浄のものである」と示していた。政府が強く「金からものを考えるな」と言ってる社会での金銭感覚を、いまのわれわれが想像しようとしても、まあ、無理である。「発展しないことが善」というのを信じるところから想像を始めるしかない。
 金がなくても生きていける、それが江戸の理想の世の中である。
 この理念は、昭和の中ごろまではまだ残っていた。それを昭和の後半から末期にかけて、みんなで懸命に押し潰していった。何とか押し潰しきったとおもう。それがいいことか悪いことかは判断がつかない。社会全体が「金」でものごとを測ると決めたのだから、社会の端まで徹底的にそれで染めていったばかりである。ひとつ価値を社会の隅々まで広めないと気が済まないのは、うちの国の特徴であり、病気であり、また強みでもある。


江戸時代の人口は、戸籍がなかったので正確にはわからないけど、1600~1750年の間で1.5~2.5倍くらいの増加らしい。
昭和時代が約60年で倍になっているから(しかも大戦で多くの国民が死んだにもかかわらず)、150年で2倍くらいというのはだいぶ緩やかだ。1年で1.0046倍ずつ増えていけば、だいたい150年で2倍になる。
ということは年に0.5%経済成長すれば経済成長ペースが人口増加ペースを上回るわけで、単純に考えると人々の暮らしはよくなることになる。

なるほど、それなら革新的な政策を打ちだして経済成長をしようとするより、社会の安定(ひいては幕府の安定)をめざすのも納得できる。
0.5%ぐらいだったらやれ軍需だアベノミクスだと言わなくても自然に達成できそうだし。



ぼくは経済のことはさっぱりわからないけど、肌感覚としては、インフレもデフレも経済成長もなくて「今ぐらいの状態がずっと続いてくれる」のがいちばんいい。

それなら将来の備えもしやすいし。

日本はどんどん人口が減っていくわけで、もう経済成長を捨てて大きな実害が出ないようにちょっとずつ日本をシュリンクさせていきましょう、ってな方向にもっていけないもんですかね。

グローバル競争とかもういいじゃない。さっさと負けを認めて競争からおりましょうよ、と言いたい。

未来のための撤退戦、ってのはできない相談なんでしょうかね。

やっぱりあれですかね。江戸時代みたいに鎖国するしかないんですかね。


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堀井 憲一郎 『落語の国からのぞいてみれば』

堀井 憲一郎 『ねじれの国、日本』

堀井 憲一郎 『かつて誰も調べなかった100の謎』




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2017年10月23日月曜日

陰惨なのに軽妙/曽根 圭介『熱帯夜』【読書感想】

『熱帯夜』

曽根 圭介

内容(e-honより)
猛署日が続く8月の夜、ボクたちは凶悪なヤクザ2人に監禁されている。友人の藤堂は、妻の美鈴とボクを人質にして金策に走った。2時間後のタイムリミットまでに藤堂は戻ってくるのか?ボクは愛する美鈴を守れるのか!?スリリングな展開、そして全読者の予想を覆す衝撃のラスト。新鋭の才気がほとばしる、ミステリとホラーが融合した奇跡の傑作。日本推理作家協会賞短編部門を受賞した表題作を含む3篇を収録。

『熱帯夜』『あげくの果て』『最後の言い訳』の3篇を収録。

それぞれテイストの異なる不気味さがあって、いろんな「嫌な感じ」を味わえた。



『熱帯夜』


ヤクザ、借金、ひき逃げ、シリアルキラーととにかくいろんな要素が盛りだくさん。

ばらばらな要素がラストで一直線につながるのは気持ちいいんだけど、短篇でこれをやるとご都合主義っぽさが鼻についてしまうな。

「うまい」が35%、「できすぎてる」が65%。

ちょっとうますぎるね。

とはいえ小説にリアリティはなくてもいいとぼくは思っているので、「偶然が重なりすぎだろ」と言いたくなる気持ちを捨てて読めば物語の展開の軽妙さが存分に味わえて楽しい短篇だった。

残酷な事件が描かれてるのに楽しいってのも妙だけど、乾いた文章のおかげでぜんぜん陰惨な感じがしないんだよね。

曽根圭介の文章って小説としてみると決してうまくないんだけど、それはわかりづらいということではなく、むしろ逆で余計な装飾を省いているからすごくわかりやすい。

文章のうまさって、内容とあってるかどうかだよね。ミステリには過度な美辞麗句は必要ないから、これぐらいがちょうどいい。ストーリーの進行を妨げないからね。




『あげくの果て』


これは長編にしてもよかったんじゃないかな。

若者と高齢者の対立が激化した世の中を描いたディストピア小説。

「四十年か、一九六五年ってことだな。じゃあ若いころにバブルがあったろ、さぞ楽しかっただろうな。てめぇの親父は高度成長期の世代か、あ?」
 老人はアスファルトに顔を擦られて、悲鳴を上げた。
「虎之助、聞いたか。こいつらだ。こいつらが国をだめにしたんだ。昔はこの国も経済大国だったんだぞ。世界中からうらやましがられた時代があったんだ。信じられるか? それを、このジジイどもが、この世代が全部食い潰しやがったんだ」
 多田は足元に転がっていた金属バットを手に取り、振り上げた。


なにが絶望的かって、もうすぐ日本で実現してしまいそうなところだよね。

若い人も子育て世帯も老人もみんな幸せになってない。どうしたらいいんだろうね。どうにもならないんだろうね。

戦争に行くのが戦闘スーツを着た高齢者ってのはいいアイデアだね。

子孫を残せなくなった人が若い世代のために戦いにいくほうが生物学的には理にかなってるし、歳をとると戦争に行かないといけなくなるとみんな必死に戦争を避けようとするしね。




『最後の言い訳』


死者がよみがえって生者を食べたり食べなかったりする世界を舞台にした、ゾンビもののホラーコメディ。

グロテスクな描写が多いんだけど、ペーソスとユーモアにあふれた意外にも叙情的な作品だった。

 父を食べた男、父を食べるための列に並んだ女を、商店街で、公園で、僕は何度か目にした。皆、まさに「なに食わぬ顔」で、家族を連れ、恋人を伴い歩いていた。


こういうブラックユーモアが散りばめられていて、いかにも曽根圭介らしい。

オチもブラックで、藤子・F・不二雄の『ミノタウロスの皿』ってSF短篇を思いだした。

この人の小説ってとことんドライだよね。残酷なのに洒脱。陰惨なのに軽妙。ふしぎな味わいだ。


冷笑的な視点が光るから、ショートショートを書いてもおもしろいだろうなあ。


【関連記事】


 曽根 圭介『藁にもすがる獣たち』

 曽根 圭介『鼻』



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2017年10月20日金曜日

死者がよみがえる系ミステリの金字塔/山口 雅也『生ける屍の死』【読書感想文】

『生ける屍の死』

山口 雅也

内容(e-honより)
ニューイングランドの片田舎で死者が相次いで甦った。この怪現象の中、霊園経営者一族の上に殺人者の魔手が伸びる。死んだ筈の人間が生き還ってくる状況下で展開される殺人劇の必然性とは何なのか。自らも死者となったことを隠しつつ事件を追うパンク探偵グリンは、肉体が崩壊するまでに真相を手に入れることができるか。

本格ミステリ、なのかな……?

殺人事件があり、きちんと伏線があって、ヒントが提示されていて、矛盾のない謎解きがある。

このへんは本格派なんだけど、「死者が続々と生き返る」「主人公も殺されるがよみがえって犯人を追う」という非常識な設定が設けられている。

めちゃくちゃ異色なのに本格派、というなんとも扱いに困るミステリ作品。
自らも死者となったことを隠しつつ事件を追うパンク探偵グリンは、肉体が崩壊するまでに真相を手に入れることができるか。
内容紹介文にあるこの文章、パンクでかっこいいなあ……。



しかしこの本、テンポもいいしユーモアもあるのに、とにかく読むのがしんどかった。
小説を読んで疲れたのはひさしぶりだ。

疲れた理由としては、
  • 文庫本で650ページという分量。
  • 文章が翻訳調
  • 舞台がアメリカの葬儀会社と、なじみのない場所
  • 登場人物が多い。20人くらい出てくる。
  • 登場人物の名前がおぼえづらい。兄弟の名前がジョン、ジェイムズ、ジェイソン、ジェシカって、いやがらせとしか思えない……。
そしてもちろん、死者が次々によみがえること。

ふつう、推理小説って後半になるにつれて登場人物が減っていき(死ぬから)、容疑者が絞られていくんだけど、『生ける屍の死』では登場人物が減らないし(死んでもよみがえるから)、容疑者も絞られない。

これ、相当上級者向けだわ……。




しかし読むのがつらかった分、ラストの謎解きで得られるカタルシスは大きかった。

動機も「人がよみがえる世の中だから」という理由だし、犯行も「人がよみがえる世の中」ならではのやりかただし、謎解きも「よみがえった死者だからわかった」という手順を踏んでいる。

「――ちょっと待ってくれ。その前に、ジョンの心理をもう少し探ってみたいんだ。今度の事件が普通の殺人事件と違うのは、もとより死人が甦るということにつきる。これがあったから捜査は大混乱した。普通の事件では犯人の心理を読めば事件解決の道筋がつくんだろうが、この事件では、被害者を始めとする甦った死者たちの心の動きを掴まなければ真相は見えてこないんだ。俺は、ハース博士の示唆に従って、死者の心理を推察してみた。――同じ死者の立場でね。そうして考えてみると、ひとつおかしい点があることに気がついた。――それは遺言状の件だった」

設定は奇抜だが、その設定を十二分に活用している。

アメリカの葬儀会社を舞台にしている必然性もあるしね。これが日本を舞台にしていたらやっぱり違和感があっただろう。

「死者がよみがえる系のミステリ小説」としては、これを超えるものはそう出てこないだろうね。まずないだろうけど。




最後まで謎のまま残されるのが、物語の冒頭で語られる殺人事件の真相。

刑事の謎解きがすごい。

「いいか、お前の小賢しい奸計を俺が説明してやろうか? あの窓際の水槽のなかにつけられた砂時計、あれとケチャップを塗りたくられたピエロの人形のふたつがあったおかげで、お前のアリバイが成立した。しかしな、俺は暖炉の隅に捨てられていた萎れたサボテンの存在を見逃さなかった。あれこそ、お前のアリバイを破り、お前が殺人を犯したことを物語る重要な証拠……」

どんな事件だよ。

気になってしかたないぜ……(もちろんこれは推理小説に対するパロディなんだけど)。



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2017年10月18日水曜日

思想の異なる人に優しく語りかける文章 / 小田嶋 隆『超・反知性主義入門』【読書感想】


超・反知性主義入門

小田嶋 隆

内容(e-honより)
他人の足を引っ張って、何事かを為した気になる人々が、世の中を席巻しつつある…。安倍政権の政策から教育改革、甲子園、ニッポン万歳コンテンツにリニアまで、最近のニュースやネットの流行を題材に、日本流の「反知性主義」をあぶり出してきた「日経ビジネスオンライン」好評連載中のコラムが、大幅な加筆編集を加えて本になりました。さらに『反知性主義 アメリカを動かす熱病の正体』の著者、森本あんり・国際基督教大学副学長との、「日本の『宗教』と『反知性主義』」をテーマにした2万字対談も新たに収録。リンチまがいの炎上騒動、他人の行動を「自己責任」と切り捨てる態度、「本当のことなんだから仕方ない」という開き直り。どれにも腹が立つけれど、どう怒ればいいのか分からない。日本に漂う変な空気に辟易としている方に、こうした人々の行動原理が、最近のニュースの実例付きで、すぱっと分かります。エッセイ集として、日本の「反知性主義」の超・入門本として、お楽しみ下さい。

いっとき「反知性主義」って言葉流行ったね。

ぼくは「本ばっかり読んでても何も身につかない。会って話すことが重要だ!」「東大生は頭でっかちで社会では何の役にも立たないぜ。経験こそがすべてだ!」みたいな、「先人の知恵を否定する態度」みたいな意味かと思ってたんだけど、どうもそうではないみたいね(そういう面もあるみたいだけど)。

既存の権威主義的な論理体系に対するカウンターというか、当然のこととして受け入れられているものに疑問を投げて再定義しなおそうとする、むしろ科学的なアプローチだったりが本来の意味らしい。

ところが「反知性主義」という言葉が独り歩きしてしまい、単なる「バカ」「自分の考えを理解できないやつら」ぐらいの意味になってしまった。

まあ字面からはそう読み取れてしまうよね。


小田嶋さんの『超・反知性主義入門』は本来の意味での反知性主義に近い。

ばかなやつらを啓蒙しようという感じではなく、「みんな同じようなこと言ってるけど、おれはこっちの面から見てみたらこんなふうに見えたよ」ってなぐらいの温度感。

とはいえ世の中には「違う考えの人間がいることが許せない」人たちがけっこういるから、日経ビジネスオンライン連載時はずいぶん炎上したみたい。

そんなに過激なことを言っているようには読めないんだけどなあ。

「おれはこう思うよ?」ぐらいなんだけど。

これぐらいの意見でも多くの批判がぶつけられるなんて、職業的に物を書く人にはやりづらい世の中になったねえ。同情する。



謝罪会見について。

 「反省しているか?」「反省しています」 と、トントンと話が進めば、謝罪はそんなに難しい作業ではない。なのに、理詰めで来るから、話が複雑になってしまう。というのも、謝罪は、そもそも理詰めの情報交換ではないからだ。謝罪は、むしろ、情報のやりとりを一時的に棚上げにする手続きだ。理屈を外れた、どちらかといえば、「話をズラして曖昧にする」ことを目的としたコミュニケーションだ。とすれば、理屈っぽい質問は、謝罪の前提を台なしにするだけではないか。

ふうむ。

云われてみれば、謝罪って理性的な話し合いとはもっとも遠いところにあるコミュニケーションかもしれない。

きちんと事実経緯を述べて、原因究明と再発防止策を講じて、被害に遭った人に対して相応の賠償をしたとしても、謝罪する人間が偉そうにふんぞりかえって鼻くそをほじっていたらきっと許してもらえない。

逆に、終始しどろもどろで「すみません、すみません」の一点張りであっても額に汗かいて深く頭を下げていたら「誠意がある」ということでその場は流してもらえたりする。


ぼくも客商売をしていたときに謝罪をする機会がよくあったけど、こちらに全面的な非があるときはむしろ楽だった。

すみません、すみません、と一方的に謝罪しつづければそのうち相手は怒りの矛を収めてくれる。

こちらも誠心誠意謝ることができる。

たいへんなのは、クレームをつけている側に落ち度があるときだ。

店側は、どうしても「納得してもらおう」と説得を試みてしまう。

そうすると相手の怒りは静まらないどころかどんどんヒートアップする。

これも、謝罪を要求している側が求めているのは理屈ではないからなんだろう。



政治には関心があるが選挙は嫌いだという小田嶋さんの主張はおもしろかった。

 選挙カーの中で候補者の名前を連呼しているウグイス嬢に悪気が無いことはわかっているし、助手席から白い手袋をした手を振っている候補者が仕方なくそうしていることも知っている。でも、それにしても、ほかにやり方はないのか、と、私は毎回、選挙がはじまる度に、どうしてもそう思ってしまうのだ。
 ビールケースに立つ候補者の姿も、間抜けなタスキも、走って逃げ出したくなるような土下座芝居も、そういうことがあってこその選挙だと思い込んでいる人々のために展開されている一種の小芝居にすぎないものではあるのだろう。でも、それらが若者を政治から遠ざけていることに、そろそろ思い当たる人があらわれても良い頃合いではないか。

いわれてみれば、たしかに選挙ってクソダサいよなあ。

スマートなイメージで売っている人でも、選挙では拡声器持って大声を張りあげて、選挙カーの中から身を乗りだして必死に手を振って、握手したりバンザイしたりとぜんぜんスマートじゃない。

雨の中傘もささずに立って演説したり、真夏の選挙では真っ黒に日焼けしたり、ド根性主義が跋扈している。

うん、クソダサい。

ぼくはほとんど選挙公報を読むだけで誰に投票するかを決めているから、拡声器も選挙カーも握手もバンザイもずぶ濡れも日焼けもまったくもって「どうでもいいこと」なんだけど(というよりマイナス要因でしかない)、世の中には「意味のない努力」を重視して投票する人もいるんだろうね。

「あのセンセイは毎日立って演説しているからがんばっとる」「あの人は演説の時、日陰に入っとったから気に入らん」みたいな人が。

「高校野球は炎天下に汗水たらして全力疾走している姿が感動を呼ぶ」タイプの人が。

たぶん個人レベルではいわゆるドブ板選挙に反対している人もいるんでしょうが、きっと党本部が許さんのでしょうね。

「んまー、〇期当選の〇〇先生でも毎日演説やってらっしゃるのに新人のあなたが演説しないんですって!?」みたいな圧力がかかるんでしょう。

そういや堀江貴文さんが「自分が出馬したとき、かけずりまわるドブ板選挙なんてぜったいやるものかと思っていたのに、終盤戦になったら声をからして叫んだり応援にきてくれる人たちに頭を下げて握手したりしている自分がいた」ってなことをどこかに書いていた。

あれはお祭りなんだろうね。お祭りの熱狂が人をおかしくさせるんだろう。

だって尋常じゃないもの。声をからして叫んでるやつに理性的な判断ができるとはとうてい思えないもの。それでもやらずにはいられないんだろうね。

まあお祭りだからそれでもいいのかもしれないけど、合理性を捨てた選挙で勝ち上がった政治家が合理的で効率追求型の政治をできるかっていったら、まあ無理だよね。

選挙のやり方をもっとスマートにすれば、政治ももうちょい見栄えのするものになるんじゃないかとわりと真剣に思う。まあべつに見栄えを良くする必要もないけど。



小田嶋隆氏の文章って、その内容に同意できないことはあっても、論旨の組み立て方にはいつも感心させられる。内田樹氏もそうだけど。

難解な言葉を使わずに、軽やかな飛躍もまじえながら、論理的に文章を組み立てている。

だから結論には同意できなくても「ふむ。その考え方はよくわかる」と毎回思う。


世の中には弁の立つ人が多いけど、こういう語り方をできる人ってすごく少ないよね。

世の中を敵味方に分けて相手を言い負かすことを考えている人ばかりだ。

必要なのは、敵を攻撃することや、味方の同意を得ることではなく、「立場や思想の異なる人に優しく語りかけてほんの少しだけでも自分の考えを知ってもらう」ことだよねえ。

オダジマさんの語りにはそういう姿勢を感じる。



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2017年10月11日水曜日

星新一のルーツ的ショートショート集/フレドリック ブラウン『さあ、気ちがいになりなさい』


『さあ、気ちがいになりなさい』

フレドリック・ブラウン (著), 星 新一 (訳)

内容(e-honより)
記憶喪失のふりをしていた男の意外な正体と驚異の顛末が衝撃的な表題作、遠い惑星に不時着した宇宙飛行士の真の望みを描く「みどりの星へ」、手品ショーで出会った少年と悪魔の身に起こる奇跡が世界を救う「おそるべき坊や」、ある事件を境に激変した世界の風景が静かな余韻を残す「電獣ヴァヴェリ」など、意外性と洒脱なオチを追求した奇想短篇の名手による傑作12篇を、ショートショートの神様・星新一の軽妙な訳で贈る。

ショートショートの神様・星新一が「大きな影響を受けた作家」と語るフレドリック・ブラウンのベスト短篇集。訳は星新一。

収録されている12作はいずれも1940年代。
アメリカは戦争中にSF小説を楽しんでいるんだから、そりゃあ戦争に負けるわなあ。余裕が違いすぎる。


どの作品も、ぜんぜんテイストが異なり、それぞれに奇想天外な設定が与えられている。

悪魔の復活をいたずら坊やが防ぐ『おそるべき坊や』

あらゆる電気や電波を奪う宇宙人が現れる『電獣ヴァヴェリ』

自身の無意識にはたらきかける新発明をめぐる顛末『ユーディの原理』

18万年生きている人物が語る、いくつもの人類の歴史『不死鳥への手紙』

どれも奇抜な設定だが、スムーズな話運びと期待を裏切らないスマートなオチで楽しませてくれる。



星新一ファンとして、特に印象に残ったのが以下の2篇。

『みどりの星へ』
緑のない星に不時着した男が、緑の地球に戻れる日だけを夢見ながら生きる。ついに男のもとに救助がやってくるが――。
という、なんとも星新一っぽいストーリー(というか星新一がこっちに影響を受けてるんだけど)。
切れ味のいいオチではないが、静かに狂気を感じさせる後味。
世界初の有人宇宙飛行より10年以上前にこういう小説が書かれてたのかと思うと、人間の想像力ってたいしたものだなと思うね。


『ノック』

 わずか二つの文で書かれた、とてもスマートな怪談がある。
「地球上で最後に残った男が、ただひとりの部屋のなかにすわっていた。すると、ドアにノックの音が……」

ではじまる作品。

星新一ファンなら誰しも『ノックの音が』を連想するね。15篇すべて「ノックの音がした」で始まる意欲的なショートショート集だ(『人形』はめちゃくちゃ怖かったなあ)。
なるほど、『ノックの音が』はこの作品にインスピレーションを受けて書かれたのか……。

『ノック』は、この短い怪談にユニークな背景を与えて思わぬ解釈を与える、というもの。
宇宙人が出てくるし、展開はコミカルだし、初期の星新一作品のような味わいだった(何度も書くけど星新一がこっちに影響を受けてるんだけど)。


SFあり、サスペンスあり、コメディあり、ブラック・ユーモアありとバラエティに富んだ作品集で、まるではるか遠くの恒星のように70年たった今でも輝く作品だねえ。



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2017年10月3日火曜日

政治はこうして腐敗する/ジョージ・オーウェル『動物農場』【読書感想】

『動物農場』

ジョージ・オーウェル(著) 開高 健(訳)

内容(e-honより)
飲んだくれの農場主を追い出して理想の共和国を築いた動物たちだが、豚の独裁者に篭絡され、やがては恐怖政治に取り込まれていく。自らもスペイン内戦に参加し、ファシズムと共産主義にヨーロッパが席巻されるさまを身近に見聞した経験をもとに、全体主義を生み出す人間の病理を鋭く描き出した寓話小説の傑作。巻末に開高健の論考「談話・一九八四年・オーウェル」「オセアニア周遊紀行」「権力と作家」を併録する。

ジョージ・オーウェル(SF『一九八四年』の作者)による寓話小説。オリジナルの刊行は1945年。

ハヤカワ、角川、岩波からも出ているが、開高健の訳というのが気になってちくま文庫版を購入。値段はいちばん高かったけどね(ずっと安いKindle版もあったのか……。筑摩書房って電子書籍を出してるイメージがなかったから書店で見かけて買っちゃったよ)。


農場の動物たちが、自分たちが人間に搾取されていることに気づき、革命を起こして動物だけの共和国を打ちたてる。平等で争いがなく誰もが豊かになる社会になったかのように見えたが、徐々に権力の偏りが生じ、支配階級と労働階級に分かれ、共和国は暴力と恐怖に支配されてゆく――。

というストーリー。
要約してしまうとおもしろみがないけど、細部に至るまでのリアリティがすごい。戒律を定めた「七誠」がじわじわ改変されてゆくところとか。
こうして共和国は腐敗していくのか、とドキュメンタリーを読んでいるような気になる。

豚や馬が共和国を打ちたてるという非現実的な設定なのに、人民(獣だけど)が搾取されて苦しむ描写が真に迫っていて哀しくなる。

終始ユーモラスに書かれているのにぬぐいきれない悲哀。

動物の話でよかったよ、これが人間社会の小説だったら重たすぎるぐらいだ。


この小説、社会主義を痛烈に風刺しているように見える。

まずは旗の掲揚。これは、ジョーンズの女房が使っていた緑色のテーブル掛けをスノーボウルが馬具小屋で見つけ、白で蹄と角を描いた旗だった。スノーボウルの解説によると、この緑はイギリスの野を表し、蹄と角は、人類を最終的にやっつけたあとにきたるべき動物共和国を表すものであった。

この旗は、明らかにソビエト連邦の国旗(労働者のシンボルである槌と農民のシンボルである鎌をあしらったデザイン)を意識してるよね。

しかし動物農場のモデルはソビエトではない。Wikipedia にはソビエトをモデルにしていると書いているが、それは違う。
というより、ソビエトはモデルのひとつでしかない。
読者がソビエトのこととして読み取ってもいいんだけど、ソビエトの話に限定して思って読んだら寓話の意味がない。

この作品には、もっと恒久的・普遍的な力がある。

発表から70年たった今、遠く離れた日本人であるぼくが読んでも「リアリティがある」と思える。
それほど『動物農場』で描かれている権力者のありかたはずっと変わらない。まちがいなくこの先も。


『動物農場』の労働者たち(馬や羊たち)は日々の生活に苦しみ、ときどき体制に疑問を抱きながらも、「以前より豊かになっているはず」「他の農場よりもマシなはず」「暮らしは良くなくても今は自由があるから人間に支配されていたころよりはマシ」と信じこみ、搾取される生活から脱しようとはしない。

かつてのソビエト連邦によくあてはまる話ではあるが、毛沢東時代の中国やポル・ポト政権でのカンボジアにもあてはまるだろう。今の北朝鮮の話として読み解くこともできるだろうし、もしかしたら今の日本だって似たようなものかもしれない。

さまざまな読み方をできる小説なのに、ソ連を諷刺した話と限定して読んでしまうのはすごくもったいない。





人間は権力を手にすると腐敗する。
幸運によって得ることができた力をすべて自分の努力だけで勝ち取ったものであるかのように錯覚する。

だから政治家が腐敗するのは仕方ない。
例外的にクリーンな政治家もいるけど、そういった清廉すぎる人物はきっと利害各所を調整する政治家という仕事に向いていない。「白河の清きに魚の住みかねて もとの濁りの田沼恋しき」というやつだ。
清濁併せ呑むぐらいの器を持っている人物のほうが政治には向いている。


だからこそ政治家が私利私欲に走らない(または走りすぎない)ためのシステムが必要になる。

つい最近も某国の総理大臣がおともだちに便宜を図ったとかで騒がれていたが、あの一件でいちばん悪いのは政治家でもそのおともだちでも官僚でもなく、司法だとぼくは思う。

白であろうと黒であろうと、司法が仕事をしていれば早々に解決していた話だ。

裁判所はずっと「高度に政治的な判断」を避けてきたが、高度に政治的な判断こそ裁判所がやるべきじゃないだろうか。





話がずいぶんそれてしまった。『動物農場』の話に戻る。

つくづくよくできている物語だ(開高健も解説で「『動物農場』は完璧」と書いている)。

突拍子もないのに生々しい。おかしいのに腹立たしい。楽しいのに残酷。

そう長くない物語なのに、社会の矛盾のすべてが含まれているみたいな小説だった。




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2017年9月29日金曜日

こどもだましじゃないえほん/馬場 のぼる『11ぴきのねこ マラソン大会』【読書感想】

『11ぴきのねこ マラソン大会』

馬場 のぼる

内容(e-honより)
アコーディオン式に折りたたまれた2.8メートルのパノラマ画面で、ねこの国のマラソンのスタートからゴールまでが一望できます。おなじみの“11ぴきのねこ”を含む21匹のランナーたちが、難コース、珍コースをくぐりぬけ、ゴールめざして力走します。沿道には応援のねこたちばかりでなく、町や村でのありとあらゆるねこたちの生活があふれ、数えきれないドラマが描かれています。馬場のぼるの絵本の主人公、名脇役もたくさん登場しています。



つまらないえほんの共通点


4歳の娘と一緒に、毎晩えほんを読んでいる。

週末に図書館で10冊ぐらい借りてきて、1日に1冊か2冊を読む。

月間で数十冊のえほんを読んでいるからぼくも娘も相当なえほん通だといってもいいだろう。

大人が読んで「おっ、このえほんはおもしろいな」と思うえほんは、たいてい子どもも気に入る。

逆に「大人はつまらないけど子どもは大好き」というえほんはまずない。
子どもだましの絵本は、子どもにもそっぽを向かれるのだ。


どういうえほんがつまらないのかというと、
  • 見え透いた教訓がある
  • いい子しか出てこない
  • ストーリーが予定調和
こういうえほんはつまらない。

「ともだちにいじわるをしたらけんかになっちゃった。でもあやまったらゆるしてもらえた。ごめんっていうことはだいじだね。ともだちっていいよね」みたいなクソメッセージを伝えようとするえほんは、子どもも大人も二度と読もうとしない。

村上龍がこないだの芥川賞の選評で
小説は「言いたいことを言う」ための表現手段ではない。言いたいことがある人は、駅前の広場で拡声器で叫べばいいと思う。
と書いていたが、えほんも同じだと思う。
友だちが大事と言いたいなら「ともだちはだいじ」と書けば8文字で終わる。それでいい。どっちみち伝わんないし。




ひとまねこざるは密猟者のおはなし


『ひとまねこざる』というえほんのシリーズがある。おさるのジョージシリーズ、といったほうがわかりやすいかもしれない。

ややこしいが、『ひとまねこざるときいろいぼうし』が1作目で
『ひとまねこざる』は2作目。

このシリーズ、特に昔の作品はすごくおもしろい。
ぼくも子どもの頃、『ひとまねこざる びょういんへいく』や『ろけっとこざる』を何度も読んだ。

黄色い帽子のおじさんがただの密猟者だし、ジョージはいらんことしかしないし、物語は一貫性がなくて支離滅裂だし、先の展開が読めなくてすごくわくわくする。

ジョージはおさるだから後先考えずに行動するし、悪さをしてもあっさり許されるし、きいろいぼうしのおじさんには責任感がまったくないし、楽しくてしょうがない。
(最近の作品はやたら教訓めいているのが残念)





みんな大好き11ぴきのねこ


『11ぴきのねこ』シリーズは、おもしろいえほんの条件をすべて備えている。

ぼくも娘もお気に入りのシリーズだ。


1作目の刊行は1967年

すっとんきょうなことが起こる。

登場人物の行動が理路整然としていない。目先の快楽だけで行動する。

メッセージ性がない。


だいたい11匹である必然性がまったくない。
『11ぴきのねこ』『11ぴきのねことあほうどり』『11ぴきのねことぶた』『11ぴきのねこふくろのなか』『11ぴきのねことへんなねこ』『11ぴきのねこどろんこ』
どの作品も、11匹でなくても成立する。10匹でも12匹でもいい。
なぜ11というキリの悪い数字になっているのかまったくわからない。

とらねこたいしょう以外は個性がない(見た目も一緒、名前もない)。

謎の生き物(怪獣とかウヒアハとか)がいきなり出てきて何の説明もなく終わる。

よくわかんないことだらけだ。


だから、おもしろい。

大人でも先の展開が読めない。

すべて理屈で説明がつくような話は文学じゃない。
そう、『11ぴきのねこ』はエンタテインメントであり文学なのだ!




『11ぴきのねこ マラソン大会』


毎週図書館に行くので毎日のように新しいえほんを読んでいる娘が、『11ぴきのねこ マラソン大会』を見たときはいつにもまして大興奮していた。

文字通り飛び上がってよろこんでいた。


なにしろ全部広げると2.8メートルもある。
己の身の丈の倍以上もあるのだ。

それだけでも娘にしたら衝撃的だったのに、その長い紙に所狭しとねこたちの絵が描かれている。

何百匹のねこたちがそれぞれ違うことをしているので、いつまで見ても飽きない。

見るたびに新しい発見がある。

たぶん子どもには理解できないだろうな、というネタもある。でも子どもはそういうのが好きなのだ。


読み終わるなり娘は「明日も読もう!」と言った。

翌日も翌々日も読んで、ぼくが「明日は別のえほん読もっか」と言うとうなずいたが、翌日になると「やっぱり今日も11ぴきのねこ読んでいい?」と訊いてきた。

こんなにも夢中になるなんて。

2,000円以上もするからちょっと躊躇したけど、買ってよかった。



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2017年9月28日木曜日

寓話を解説しちゃだめですよ/『茶色の朝』【読書感想】

『茶色の朝』

フランク パヴロフ (物語) ヴィンセント ギャロ (絵)
藤本 一勇 (訳) 高橋 哲哉 (メッセージ)

内容(e-honより)
心理学者フランク・パヴロフによる反ファシズムの寓話に、ヴィンセント・ギャロが日本語版のために描いた新作「Brown Morning」、哲学者高橋哲哉のメッセージが加わった日本だけのオリジナル編集。

ある日、茶色以外の犬や猫を飼ってはいけないという法律が施行される。
"俺"とその友人は法律に疑問を持つが、わざわざ声を上げるほとでもないと思い"茶色党"の決定に従う。茶色の犬や猫は飼ってみればかわいいし、慣れてみればたいしたことじゃない。
だが"茶色党"の政策は徐々にエスカレートしてゆき――。

という短い寓話。3分で読めるぐらいのお話。

いやだと言うべきだったんだ。
抵抗すべきだったんだ。
でも、どうやって?
政府の動きはすばやかったし、
俺には仕事があるし、
毎日やらなきゃならないこまごましたことも多い。
他の人たちだって、
ごたごたはごめんだから、おとなしくしているんじゃないか?

だれかがドアをたたいている。
こんな朝早くなんて初めてだ。


それほどひねった話ではないが、シンプルなストーリーだからこそ読者の想像力に訴えかけてくる。


それだけに、寓話の後についている解説は完全に蛇足。
この文章はこういう意味なんですよ、このくだりはこういうことを伝えたいんですよ、ってひとつひとつ説明していて野暮ったらしいことこの上ない。
寓話を解説したら文学にならないでしょ。
そこから何を読み取るかは読者に任せましょうよ。



この本を読んで、岩瀬彰 『「月給100円サラリーマン」の時代』を思いだした(→ 感想はこちら)。
『「月給100円サラリーマン」の時代』の中にこんな一節があった。
 満州事変以降、生活の苦しいブルーカラー(つまり当時の日本の圧倒的多数)や就職に苦しむ学生は、「大陸雄飛」や「満州国」に突破口を見つけたような気分になり、軍部のやり放題も国家主義も積極的に受け入れていった。しかし、すでに会社に入っていた「恵まれた」ホワイトカラーはますますおとなしくなっていったように見える。彼らは最後まで何も言わず、戦争に暗黙の支持を与えたのだ。
  彼らもやがて召集され、シベリアの収容所やフィリピンの山中で「こんなはずじゃなかった」と思っただろう。学生時代に銀座で酔っ払って暴れたり、給料日に新橋の「エロバー」まではしごで豪遊したり、三越でネクタイを選んでいられた頃に心底戻りたかっただろう。でも、気がついたときはもう遅かったのだ。

太平洋戦争で出兵していった(そして命を落とした)兵士たちの多くはずっと軍人だったわけじゃない。数年前までサラリーマンをしていた人たちだった。
日本が戦争を進めることには賛成せず、かといって積極的に反対もせず、少しずつ変わってゆく状況を黙って受け入れているうちに、いつのまにか逃げ場がなくなって戦地へと駆りだされてしまった。

これはまさに『茶色の朝』で描かれている世界だ。
何も言わないことは、今起こっていることを承認しているのと同じなのだ。


だからみんなデモをして声を上げよう!
……とは思わない。ぼくはデモをするやつらを軽蔑しているから。
デモをすることによって身内の結束が固まることはあっても、新たな仲間が増えることはない(むしろ潜在的な仲間が離れてゆくだけ)のだから。

デモって言うなれば大勢が決した後にする最後の足掻きであって、デモをしなくちゃいけないような局面に追いこまれてる時点でほんとはもう負けが確定しているのだ。
10点を追いかける9回裏2アウトの場面で一度も公式戦に出たことのない3年生を出す"思い出代打"みたいなもので、思い出をつくる以上の効果はない。


ということで、我々ができる最低限かつ最大の行動は、数年後を見すえて選挙に行くことですわ。
あとできることといえば選挙に出馬することとか、教育現場に入っていって若い人を洗脳することとか。


とはいえ教育で洗脳するってのもなかなか難しいよね。
一説によると、現在日本で極右思想の持ち主って中高年男性が多いらしい。
戦後平和教育をもっとも濃厚に受けていた世代が右翼化してるってのは興味深いね。平和教育の反動なのかな。
彼らがほんとに否定したいのは日本の戦後史じゃなくて、自分自身の歴史なのかもしれないね。

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2017年9月26日火曜日

国家元首になる日のために読んでおこう/武田 知弘 『ワケありな国境』【読書感想】


武田 知弘 『ワケありな国境』

内容(e-honより)
西アフリカにある国境空白地帯とは…?中国がチベットを手放さない本当の理由とは…?世界の奇妙な国境線、その秘密を解き明かす。

コンビニに置いてあるうさんくさいムックみたいなタイトルだったので期待せずに読んだのだが、意外と内容は教科書的でまともだった。
「タックスヘイブン(租税回避地)はなぜ旧イギリス領が多いのか」みたいな国境関係ない話も多かったけど。


日本人として生きていると、国境を意識することはほとんどない。
川端 康成 『雪国』の書き出しは
国境の長いトンネルを抜けると雪国であった。
だけど、この「国境」は「こっきょう」ではない。日本に鉄道で越えられる国境(こっきょう)はないからね。
これは「こっきょう」ではなく「くにざかい」。越後国(今の新潟県)と上野国(今の群馬県)の境だと言われている。



国境を意識することはないが、いろんな「境」は気になる。
小学校のとき、隣の席のやつの筆箱が1センチ自分の机にはみだしてくるだけでものすごく気になった。
新幹線に乗ると、席と席の間にある肘かけはどちらの領土なのかが気になる。
電車で7人がけの座席の「端から2番目あたり」と「端から3番目あたり」にまたがるように座っているやつに対しては「どっちかに寄れよ」と思う。

かように、ちょっとした境でも侵害されると過敏に反応してしまう。
いわんや国境をや。
世界の国境ではいたるところで争いがくりひろげられている。争いのない国境のほうがめずらしい。
ふだんニュースを見ていると「〇〇国はここは自分のとこの領土と主張していて強欲だなあ」と思うけど、どの国も等しく強欲だよねえ。主張できるだけの力を持っているかどうかだけで、みんな隙あらば言いたいはず。ぼくだってできることなら満員電車で7人掛けの座席を独占したい。



不法移民向けガイドブック

国境で起こるトラブルは国境線をめぐる争いだけではない。
メキシコでは、アメリカへ不法入国する途中で死ぬ人が多いためメキシコ政府が異例の対策をとったそうだ。

 警備が厳重になれば、それをかいくぐらなければならないので、不法移民たちは必然的に危険な道を選ばざるを得なくなる。砂漠で道に迷う者、トラックや船のコンテナの中で窒息死する者、さらには極寒の海中で溺死する者など大勢の犠牲者が出ている。
 メキシコ政府は、そうした国境越えの死亡者を減らすために、「安全にアメリカに入国するため」のガイドブックを発行し、国境付近などで150万部も配った。
 32ページの小冊子で、そのなかでは国境越えのコツやアメリカで勾留されたときの法的権利などが詳しく説明されている。

政府制作のガイドブックってメキシコ総領事館の連絡先とかホテルの住所みたいな『地球の歩き方 アメリカ不法入国編』的なことが書いてあるのかと思ったら、そうじゃないんやね。
「砂漠地帯では水を飲むと脱水症状を防げる」なんて『マスターキートン』みたい。政府が配布する冊子の内容とは思えない。

なんて優しい国なんだ。優しいというか甘っちょろいというか。
亡命するために逃げようとする国民を殺す国とは大違いだけど、どっちのほうが政府として正しいのかよくわからんなあ。



南極の領有権

中学校の社会の授業で「南極はどこの国の領土でもありません」と教わった。
そうか、この争いの絶えない世の中で南極だけは平和であふれている場所なんだね、と思ってた。

ところが、どうもそうではないらしい。
イギリス、アルゼンチン、チリ、ニュージーランド、オーストラリア、ノルウェー、フランスの7国が南極の領有権を主張しているのだそうだ。アルゼンチンとかオーストラリアとかは南極に接しているからまだわかるけど、イギリスやノルウェーなんて北の端じゃねえか(イギリスやフランスは植民地が近くにあるのかな?)。
分割して自分たちのものにしようとしている7か国。そうはさせじとアメリカやソ連などは南極の軍事利用の禁止などをうたった南極条約を結んだ。
ところが、チリが実効支配を主張するために南極での出産を奨励したり、アルゼンチンが南極に小学校をつくったり、イギリスが南極周辺の海底を自国の大陸棚として国連に届け出たり、領有権争いは収まる様子がない。
南極もまた、利権をめぐって各国がしのぎを削っている場所なのだ。

今は宇宙条約があって宇宙空間の領有が禁止されているけど、この調子だと、月から貴重な資源が見つかった途端に各国が「月はうちの領地だ!」と主張しだすんだろうね。




シーランド公国

いちばんおもしろかったのはシーランド公国の話。
シーランド公国という国家をご存じだろうか。
イギリスが第二次大戦中に築いた海上要塞を、ロイ・ベーツという元軍人が勝手に領土として主張してできた要塞国家だそうだ。

人口は4人(ロイ・ベーツの家族)。
面積は200平方メートルというから、14メートル四方ぐらいの広さ。坪数にすると60坪ぐらい。ちょっと大きい一軒家ぐらいの領土だ。

シーランド公国を独立国として認めている国はひとつもない。
だが、イギリス政府がロイ・ベーツを訴えたものの裁判所が訴えを退けたという経緯があるため、イギリス政府は手出しをできない(というよりどうでもいいから放置している、のほうが近いかもしれない)。
というわけで他国から認められていないが、領土を奪われたりする心配もないというなんとも宙ぶらりんな状態になっている。それがシーランド公国。

 シーランド公国では、財務大臣としてドイツ人投資家を雇っていたが、1978年、商談のもつれからその財相がクーデーターを起こしロイ・ベーツの息子である、シーランド公国の王子を誘拐。政権譲渡を要求するクーデーターが起こった。ロイ・ベーツは、イギリスで傭兵を雇い、ヘリで急襲。たちまち鎮圧し財相を国外追放した。
 その後、そのドイツ人投資家はシーランド公国亡命政府を樹立。いまでも公国の正当権を争っている。

なんだこれ。めちゃくちゃおもしろいじゃないか。
これが200平方メートルの中で起こっている出来事だからね。

このシーランド公国、爵位を売ったり外国人にパスポートを発行したりして財政を立てているが、2012年に大公が死去して現在は息子が継いでいるらしい。


わくわくするような話だね。
星新一のショート・ショートに『マイ国家』という作品がある。ある男が突然自分の家を日本から独立させると主張しだす話だ。
また井上ひさしの小説『吉里吉里人』でも、東北地方の寒村が日本からの独立を宣言する。
しかし事実は小説よりも奇なりで、まさか実行に移す人物がいて、しかもその国内で誘拐事件やらクーデターやら亡命政府誕生やらが起こるとは、星新一も井上ひさしも想像しなかっただろう。

ちなみにこのシーランド公国、約150億円で売りに出されているらしいので、国家元首になってみたい大金持ちの方は購入を検討されてみては?



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2017年9月25日月曜日

「品がいい」スパイ小説/柳 広司『ダブル・ジョーカー』【読書感想】

『ダブル・ジョーカー』

柳 広司

内容(e-honより)
結城中佐率いる異能のスパイ組織“D機関”の暗躍の陰で、もう一つの諜報組織“風機関”が設立された。その戒律は「躊躇なく殺せ。潔く死ね」。D機関の追い落としを謀る風機関に対し、結城中佐が放った驚愕の一手とは?表題作「ダブル・ジョーカー」ほか、“魔術師”のコードネームで伝説となったスパイ時代の結城を描く「柩」など5篇に加え、単行本未収録作「眠る男」を特別収録。超話題「ジョーカー・ゲーム」シリーズ第2弾。

『ジョーカー・ゲーム』に続く"D機関"シリーズ2作目。

シリーズものの小説ってたいてい「だんだん質が落ちてくる」か「同じようなパターンで飽きてくる」のどっちかなんだよね。
夢枕獏『陰陽師』シリーズなんか、はじめはおもしろかったけど毎度毎度同じパターンだったのでげんなりした。

ところがこの"D機関"シリーズは、どの短篇も高いレベルで安定しているし、さらにすべてが個性的で飽きさせない。
10篇ほど読んだが、「またこのパターンか」と思う作品はひとつとしてなかった。

安定感はともすれば退屈につながりがちなのに、安定と変化の両方を維持できているのはすごいよね。


飽きさせない工夫のひとつは、作品ごとに登場人物が変わること。
"魔王"こと結城中佐以外は、全員が非凡な能力を持ちながらまったくの無個性(であろうとしている)。スパイは目立っちゃいけないからね。
個性がないから飽きない。スパイとして生きるために名前も経歴もころころ変わるから、シリーズものでありながらまったくべつの小説になる。

視点や舞台が作品ごとに異なるのも楽しい。
『ダブル・ジョーカー』に収録された作品の主人公はそれぞれ、

  • 日本陸軍内に設置された諜報組織のボス
  • 中国でソ連のスパイをつとめる陸軍軍医
  • フランス領インドシナに勤務する無線通信士
  • かつて日本人に逃げられた逃げられた経験を持つナチスドイツのスパイ組織幹部
  • 開戦前夜のアメリカに潜入している一流スパイ

D機関に対する立場も違うし、目的も違う。
はじめは誰が"D機関"のスパイかわからないから、誰がスパイなのか? と推理するミステリの味わいも楽しめる。

ほんと、スパイ養成機関という装置がうまく機能している。
柳広司はいい発明をしたよなあ。


ほどよい含蓄があり、スリルと驚きがあり、最後は鮮やかな着地が決まる。
エンタテインメント小説として完璧といっていいぐらいの作品集だよね。
一言でいうなら……「品がいい小説」。

全方位的に完成度が高くて逆になんか物足りないと少しだけ感じてしまう……のは欲張りすぎかな。



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2017年9月22日金曜日

読み返したくないぐらいイヤな小説(褒め言葉)/沼田 まほかる『彼女がその名を知らない鳥たち』【読書感想】

『彼女がその名を知らない鳥たち』

沼田 まほかる

内容(e-honより)
八年前に別れた黒崎を忘れられない十和子は、淋しさから十五歳上の男・陣治と暮らし始める。下品で、貧相で、地位もお金もない陣治。彼を激しく嫌悪しながらも離れられない十和子。そんな二人の暮らしを刑事の訪問が脅かす。「黒崎が行方不明だ」と知らされた十和子は、陣治が黒崎を殺したのではないかと疑い始めるが…。衝撃の長編ミステリ。

イヤな気持ちになる小説だった。
精神的に安定しているときに読まないと死にたくなるような小説だ。
個人的にはイヤな気持ちになる小説は好きだから楽しめたけど。

 玄関のドアを開くと、十和子の脱いだスリッパの横に、幅広の偏平足に踏みひろげられた薄茶色のスリッパが並んでいるのが目に飛び込んでくる。それはスリッパというより陣治の足そのもののようにそこにある。水虫でめくれた足の皮を、胡坐をかいてちびちび向いている姿が頭をよぎる。靴を脱ぎ、自分のスリッパをつっかけた足先で、薄汚れたスリッパを壁際に蹴り飛ばす。

 ドアが開く前から真っ先に聞こえるのは陣治の咳だ。誰のものでもない陣治の咳。しないでもすませられるのに、咳き込んでみては悦に入っているような、高らかな、それでいてからんだ痰のせいで濁った咳。続いてカッとその痰を吐く音。お定まりのワンセット。

こういう不愉快な描写がひたすら続く。読者をイヤな気持ちにさせる描写がうまいねえ。

何がイヤって、事件が起こらないんだよね。
ただイヤな女がイヤな男とイヤな感情をぶつけあいながら暮らしていて、イヤな男に利用されて捨てられたことを回想し、イヤな姉からイヤな説教をされて、新たにイヤな男と出会って騙されながら不倫をする様が延々と描写されている。
事件らしきものといえば、「昔の恋人が行方不明になったらしい」という話を耳にするだけ。
いつまでも打破される兆しのない不快感。長雨のような陰鬱な気分になってくる。


『彼女がその名を知らない鳥たち』の登場人物はすべてがクズだ。

とはいえ「後でややこしくなるとわかっててもその場しのぎの適当なことを言う」とか「自分ができていないことでも年下の人には偉そうに言いたい」なんてのはぼくの中にもある気質だから、「こいつらほんとサイテーだな」という言葉がふっと気づくと自分にも返ってきてしまい、自分の吐いた唾で顔を濡らすことになる。
自分にもあるイヤな部分を目にして、さらにイヤな気持ちになる。

話の9割が進んだあたりから急速に過去の謎が明らかになり、多少救いのあるエンディングが用意されているのだが、「よかったね」1割、「それはそれできつい真実だな」9割で、最後までイヤな気持ちにさせてくれる。



”イヤミス” と呼ばれるジャンルがある。イヤな気持ちになるミステリ、読後感の悪いミステリだ。

まあミステリ小説には犯罪がつきものだから(中には犯罪が起こらない「日常の謎」系ミステリもあるけど)、罪のない人が殺されたり、性悪でない人がなんらかの事情で殺人を起こさざるを得なかったりと、ある程度は後味がよくないのがふつうだ。スカッとさわやか! な読後感のミステリ小説のほうがむしろめずらしい。
その中でも特に嫌な気持ちになるミステリ。たいてい、謎解き以外の部分でイヤな気持ちにさせる。登場人物の造形とか。

湊かなえ・真梨幸子・沼田まほかるの3人が「イヤミスの女王」と呼ばれているらしい。

ぼくは湊かなえに関しては『告白』含めて3冊ほど読んだけどそこまで不愉快には思わなかった。これぐらいは不快な描写も書いたほうがミステリとして説得力があるよね、という許容範囲内だった。

真梨幸子は『殺人鬼フジコの衝動』『インタビュー・イン・セル 殺人鬼フジコの真実』を読んだけど、これはすごくイヤな気持ちになった。
とはいえ人間描写が嫌だっただけで、シンプルにミステリ小説として見るならむしろ出来は良くなかった。
ミステリ小説にこだわらずにただイヤな女のイヤな一生を描けばいいのに。桐野夏生『グロテスク』のように。
『グロテスク』も殺人事件を扱っているけど、事件はあくまで悪意を描くための手段でしかなかった。ひたすら悪意を描くことに軸足が置かれていて、あれはとことん不愉快な小説だったなあ(褒め言葉ね)。

沼田まほかる『彼女がその名を知らない鳥たち』に関しては、息苦しくなるような不快感があるし、かつその不快さもミステリ小説として必然性がある(××が徹底的に不愉快な人間として描かれているからこそ、真相が明らかになったときにそのギャップで「すげー愛情!」と思える)。

イヤさとミステリの両方が必然性を持っていて、これぞイヤミス! と思える小説だった。

某所のレビューで「真相が明らかになった後もう一度読み返しました!」ってなことが書かれていたけど、ぼくはもう読み返したくない! それぐらいイヤなミステリだった。



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2017年9月21日木曜日

ニュートンやダーウィンと並べてもいい人/『奇跡のリンゴ 「絶対不可能」を覆した農家 木村秋則の記録』【読書感想】



『奇跡のリンゴ
「絶対不可能」を覆した農家
木村秋則の記録』

石川拓治 NHK「プロフェッショナル 仕事の流儀」制作班

内容(e-honより)
リンゴ栽培には農薬が不可欠。誰もが信じて疑わないその「真実」に挑んだ男がいた。農家、木村秋則。「死ぬくらいなら、バカになればいい」そう言って、醤油、牛乳、酢など、農薬に代わる「何か」を探して手を尽くす。やがて収入はなくなり、どん底生活に突入。壮絶な孤独と絶望を乗り越え、ようやく木村が辿り着いたもうひとつの「真実」とは。

2013年に刊行され、農業について書かれた本としては異例の数十万部のヒットを飛ばした『奇跡のリンゴ』。
今さら読んでみたのだが、これはすごい本だ。いや、この木村秋則さんというのはすごい人だ。
科学の歴史を変えたニュートン、ダーウィン、アインシュタインといった人たちと並べても遜色ないぐらいじゃないだろうか?

農薬を使わずにリンゴを育てる。
農業の知識がまったくないぼくにしたら「ふーん、たいへんなんだろうね。でもまあ無農薬野菜なんてのもあるから、効率はよくないけど手間ひまかければできるもんなんでしょ?」ぐらいの認識だった。

ところがそうかんたんな話ではないらしい。
今われわれが食べているリンゴというのは、ひたすら甘く大きい実ができることだけを追求して品種改良を重ねた果実だ。肥料や農薬に頼ることを前提に品種改良しているから、虫や病気にはめっぽう弱い。
エデンの園になっていたリンゴとはまったく別の植物といってもいい。そのリンゴを肥料も農薬も使わずに育てるというのは「チワワの赤ちゃんをジャングルの中で放し飼いで育てる」ぐらい無謀なことなのだろう。


木村秋則さんも、当初は「むずかしいけどやってやれないことはないだろう」と考えていたらしい。コメや野菜を無農薬で作って経験があったから、リンゴも同じようにできると考えた。
そして酢や焼酎やワサビなど殺菌作用のあるさまざまな食品をリンゴの樹に塗布して病気を防ごうとした。
ところが病気は広がるばかり。リンゴは実をつけないどころか、花も咲かず、葉も樹も枯れていく一方だった。

 木村が経験したことは、すでに一〇〇年前の先人達が経験していたことでもあった。
 はっきり言ってしまえば、焼酎やワサビを散布したくらいで対処出来るなら、誰も苦労はしない。明治二〇年代から約三〇年間にわたって、全国の何千人というリンゴ農家や農業技術者が木村と同じ問題に直面し、同じような工夫を重ね続けていた。何十年という苦労の末に、ようやく辿り着いた解決方法が農薬だったのだ。
 木村はその結論を、たった一人で覆そうとした。
 自分の能力を過信していたのかもしれない。
「地獄への道を駆け足した」という木村の言葉は、誇張でも何でもない。まさしく木村はその時、最悪のシナリオを突き進んでいた。
 日本のリンゴ栽培の歴史を逆回しにして、破滅への道を突き進んでいたのだ。

何年もリンゴの収穫ゼロの年が続き、家族を食わせていくこともできなくなる。打つ手がなくなり、リンゴの樹に向かって「実をならせてくれ」と懇願するぐらい追いつめられる木村さん。
ついには死ぬことも考えた彼が、死に場所を探しているときに目にした光景が、リンゴを無農薬無肥料で栽培するヒントを与えてくれる――。

ちょっとこのへんは話ができすぎなので、木村さんか筆者が話を盛っているんじゃないかなあ。野暮なこと言うけど。

できすぎと思うぐらい、ノンフィクションなのにストーリーも起伏に富んでいておもしろい。ときおり挟まれる挿話(宇宙人に会った話!)や木村さんの人間的魅力の描写などで飽きさせず、エンタテインメントとしても一級品だ。木村さんの並々ならぬ苦労がようやく実を結ぶ(リンゴだけに)シーンは、報われてほんとに良かったなあと胸が熱くなった。

それにしても木村さんの家族はよく耐えたよね。妻や子どももそうだけど、なによりリンゴ農家だった義父(妻の父)がすごい。無収入になっても無農薬栽培を追い求める婿につきあってくれるなんて。いいお義父さんだったんだなあ。
しかしこれ、結果的に成功したから「みんなで支えてくれていい家族だなあ」と思えるけど、なんの根拠もなく「無農薬でリンゴを育てる!」と突き進む木村さんを止めようとしなかったのは、はたして優しさだったんだろうかと思う。
常識的に考えれば止めるほうが優しさだろう。まあその常識を無視したからこそ「奇跡のリンゴ」が生まれたわけだけど。



農家だったぼくのおじいちゃんは、機械や科学に対して全幅の信頼を置いていた。「これは新しい機械だからいい」「あの病院は薬をいっぱい出してくれるから信用できる」とよく口にしていた。
以前『現代農業』という雑誌を単純な興味から読んでみたことがあったが、やはり機械や化学肥料の話が多かった。
現代農業と科学は切っても切り離せないのだ。

科学に対するカウンターとして「自然に還ろう」なんてのんきなことを言えるのはスーパーに並んでいる食べ物を買って食べている人だけだ。常に自然と対峙して生きている人はその恐ろしさを知っているから、「いきすぎた科学文明はいつか人間の身を滅ぼす」なんて悠長なことは言わない。
クマ射殺のニュースを見て「クマがかわいそう」と言えるのは、ぜったいに自分がクマに襲われることがないと思っている人だけなのだ。

だからこそ、農家として常に自然に向き合いながら、それでも自然を屈服させようとせずにリンゴを収穫させた木村さんの業績は偉大だ。
木村さんが発見した「リンゴを無農薬で育てるための理念」は、すごくシンプルなものだ。ぼくの言葉にするとうすっぺらくなりそうだからあえてここには書かないけど。
木村さんの理念は、ぼくのような素人が読んでも「なるほど。言われてみればそのとおりだ」とうなずけるぐらい、理にかなっている。

とはいえ理念がかんたんだからって現実もかんたんかというとそんなことはない。理念を現実のリンゴの木に適用させることは想像もできないぐらいの苦難があるはずで、そのへんの苦労はこの本ではごくわずかしか触れられていないけど、おそらく本何冊分にもなるぐらいの試行錯誤があったのだろう。
世界中のあらゆる品種の農家が教えを乞いにくる、というのもなるほどと思う。


またこの人がすごいのは、無農薬でリンゴをつくって満足するのではなく、それを普及させようとしているところだ。

 木村が本気だなと思うのは、米にしても野菜にしても、無農薬無肥料の栽培で収穫が安定してくると、次は出来るだけ価格を下げるようにとアドバイスしていることだ。
 木村のつくったリンゴも、その美味しさと稀少価値を考えれば今の値段の五倍にしても売れるに決まっているのに、木村はぜったいにそうしようとはしない。出来ることなら日本中の人に、自分のリンゴを食べて貰いたいくらいなのだ。
 少なくとも、誰にでも買える値段でなければいけないと木村は思っている。
 値段が高くても、買ってくれるというお客さんはもちろんいるだろう。
 無農薬無肥料で農作物を栽培するのは手間もかかるし、農薬や肥料を使う農業に比べればどうしても収穫量が少なくなる。出来るだけ高い値段で売りたいというのが、生産者としての当然の気持ちなのもよくわかる。
 けれど、それでは無農薬栽培の作物はいつまで経っても、ある種の贅沢品のままだと木村は言う。無農薬作物が裕福な人のための贅沢品である限り、無農薬無肥料の栽培は特殊な栽培という段階を超えられないのだ。
 現状では難しいとしても、いつかは自分たちのやり方で作った作物を、農薬や肥料を与えて作った農作物と競争出来るくらいの安い価格で出荷出来るようにする。
 それが、木村の夢だ。

そうなんだよね。無農薬野菜とかオーガニック料理のお店とかってたいてい値段が高い。
そうするとよほど余裕のある人以外は日常的に食べることができない。


木村秋則というたった一人の農家の偉業が、世界中の農業の姿を変える日がくるかもしれないな。
わりと本気でそう思う。

農業に関わる人にもそうでない人にも読んでほしい良書。
大げさでなく、世界観が変わるんじゃないかな。ぼくはちょっと視界が開けた気がしたよ。


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2017年9月15日金曜日

未来が到来するのが楽しみになる一冊/ミチオ・カク『2100年の科学ライフ』

『2100年の科学ライフ』

ミチオ・カク(著) 斉藤 隆央(訳)

内容(e-honより)
コンピュータ、人工知能、医療、ナノテクノロジー、エネルギー、宇宙旅行…近未来(現在~2030年)、世紀の半ば(2030年~2070年)、遠い未来(2070年~2100年)の各段階で、現在のテクノロジーはどのように発展し、人々の日常生活はいかなる形になるのか。世界屈指の科学者300人以上の取材をもとに物理学者ミチオ・カクが私たちの「未来」を描きだす―。

科学者たちの 未来予想が好きだ。読んでいるとわくわくする。
エド・レジス 『不死テクノロジー ―― 科学がSFを超える日』もおもしろかった(→ 感想文はこちら)。宇宙空間に人工的な地球をつくるという奇想天外な話なのに、まじめに研究をしている頭のいい人に理論を説明されると「もうすぐできるんじゃないの?」という気がする。

ほんの20年前は、1人1台携帯端末を持っていてその中に電話もカメラも電卓も図書館もゲーム機も財布もテレビもウォークマンもビデオデッキも新聞も収まっているなんてまったくの夢物語だった。それが実現した今となっては、人工地球がなんぼのもんじゃいと思える。
なにしろ『2100年の科学ライフ』によると、1台のスマートフォンは月に宇宙飛行士を送ったときのNASA全体を上回る計算能力を持っているらしい。それぐらいすごいスピードで科学は進歩しているのだ。つまりこのスマホがあれば月に行けるってこと? ちがうか。



『2100年の科学ライフ』は、物理学者であり、科学解説者としても知られるミチオ・カク氏が、最先端のテクノロジーや各分野の専門家の話をもとに「現在の最先端」「近未来(20年後ぐらい)」「世紀の半ば(2030~2070年ぐらい)」「遠い未来(21世紀後半)」の科学技術を大胆に予想したものだ。
「現在の最先端」を読むだけでも、そんなことできんの、すげえ! と思うことしきり。まして50年以上も先の話なんて。
まるでSFなんだけど、それでもこの中のいくつかは実現するんだろうなあ。中には予想より早く叶うものもあるんだろう。

専門的になりすぎず、かといって素人くさくもない、ちょうどいいレベルの解説。
理論だけの話ではなく、過去のエピソード、SF映画や小説、さらには神話からの引用までちりばめられていて、読み物としてもおもしろい。ちゃんと取材にも足を運んでいるし。
いやあ良書だ。訳もいいし。

もう目次を見るだけで興奮する。
  • 四方の壁がスクリーンに
  • 心がものを支配する
  • トリコーダーとポータブル脳スキャン装置
  • サロゲート(身代わり)とアバター(化身)
  • 老化を逆戻りさせる
  • われわれは死なざるをえないのか?
  • 恒久的な月基地
ぞくぞくするよね?
しない? あっ、そう。20世紀へのお帰りはあちらですどうぞ。

目次だけじゃない。内容も刺激に満ちあふれてる。

ボタンひとつですべてがモニターになる壁面スクリーン。壁紙を1秒でかけかえられる。モニターを丸めて持ち運べる。

強力な磁場を作る技術がタダ同然になり、輸送に革命が起きる。
あらゆる物体に小型の超電導チップを埋め込むことで、思念するだけで物体を動かすことができる。

自由自在に変形できるロボット。形を変えたりばらばらになったりしてどんな隙間にも入れる。

分子サイズのマシンを使った治療。癌細胞をピンポイントで殺すことができる。

遺伝子工学を使って二酸化炭素を大量に吸収できる生物を作りだすことで地球温暖化を解消。

核分裂ではなく核融合によるエネルギーを生み出す。安全かつ強力。カップ1杯の水から80,000キロリットルの石油に相当するエネルギーを取りだせ、廃棄物はほとんど出ない。
言ってみれば実験室で太陽を作るようなもの。

核融合を使って化成の氷を溶かし、南極で繁茂している藻類を持ちこんで火星をテラフォーミング(地球化)する。

超小型サイズのナノロケットを大量に宇宙に送り(コストは非常に小さい)、さまざまな惑星に到達したナノ探査機が自己複製をして、また別の星へと飛び立っていく。

どや、現代人たち。これが未来やっ!!



いいニュースと悪いニュースがある。

まずはいいニュースから。医療問題、環境問題、エネルギー問題。あと何十年かしたらすべて解決している。地球の未来は明るい。イエーイ!
悪いニュースは? その時代にぼくらの大半が生きてないってこと。
この本を読むとそんな気分になる。あーあ、もっと後の時代に生まれたかったなあ!
ずっと健康でいられてあんまり働かなくてもいい時代に生きたかった(『2100年の科学ライフ』ではそんな時代の到来を予言している)。

昔から科学はずっと発展しているわけだけど、科学の進歩をもっとも妨げているものは何かっていったら、人間の身体という制約だろう。

椎名誠のエッセイにこんな話があった。
とても頑丈なダイバーズウォッチを買った。水深数百メートルの水圧でも壊れないという。これはいい買い物をしたと思っていたが、よく考えたら水深数百メートルまで潜ったら人間の身体がぺしゃんこになってしまうのだからその性能は意味がないということに気がついた……。

このように、科学の進歩に人間の身体は追いつけない。
人間の身体は壊れやすいから乗り物は重厚にせざるをえないし、出せるスピードにも限界がある。身体的制約があるから宇宙や深海に行くのもたいへんだ。知識を蓄えた天才科学者だってたった数十年したら死んでしまう。

この先、科学が進めば進むほど身体がじゃまになるのではないだろうか。
医療技術が発達して病気は早期に治療ができて長生きできるようになったとしても、遺伝子改変で強固な肉体を手に入れたとしても、生物である以上限界はある。

だから、この本で予想されている技術の中でいちばん実現しそうなのは、機械の身体をつくってそこに自分の全人格をインポートするというテクノロジーではないだろうか。
『不死テクノロジー』にも同じ未来予想図があった。
人間の脳というのはすごく高度なものでコンピュータで同等のものをつくることは当分不可能らしい(今の最先端でも虫の脳程度だそうだ)けど、身体のほうはそこまで優れているものではないのだろう。
もしかしたら我々が生身の身体を捨てる時代が、今世紀中にも到来するかもしれない。



人は科学のみにて生くるにあらず。

『2100年の科学ライフ』では、科学の進化がもたらす経済や政治の変化までも予想している。
「今後も残る仕事、ロボットにとってかわられる仕事」「2100年のある1日をバーチャル体験」など、21世紀後半まで生きる人にとってはたいへんありがたいコンテンツも盛りだくさん。

未来が到来するのが楽しみになる一冊だ。冷凍冬眠しよっかな。
明日の朝起きたら未来になってないかなー(ちょっとだけなっとるわ)。

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2017年9月11日月曜日

スパイの追求するとことん合理的な思考/柳 広司『ジョーカー・ゲーム』【読書感想】

『ジョーカー・ゲーム』

柳 広司

内容(e-honより)
結城中佐の発案で陸軍内に極秘裏に設立されたスパイ養成学校“D機関”。「死ぬな、殺すな、とらわれるな」。この戒律を若き精鋭達に叩き込み、軍隊組織の信条を真っ向から否定する“D機関”の存在は、当然、猛反発を招いた。だが、頭脳明晰、実行力でも群を抜く結城は、魔術師の如き手さばきで諜報戦の成果を上げてゆく…。吉川英治文学新人賞、日本推理作家協会賞に輝く究極のスパイ・ミステリー。

陸軍に創設されたスパイ養成機関”D機関”で養成された天才スパイたちの活躍を描いたミステリー。
スパイものの小説ってよく考えたら読んだことがないな。漫画では 佐々木 倫子『ペパミント・スパイ』 ぐらい。完全にコメディだけど。
海外には007シリーズとか『寒い国から帰ってきたスパイ』とか有名なものがあるけど、日本を舞台にしたスパイの物語ってほとんど聞かないなー。
んー……。考えてみたけど、手塚治虫『奇子』ぐらいしか思い浮かばなかった。
日本にもスパイはいたんだろうけど、物語の主人公にならなかった理由は、諜報活動が卑怯なもの、武士道に反するものとして扱われていたことがあるんだろうけどな。
スパイってその特質上、活動が公になることはないしね。


しかし日本にもスパイがいなかったわけではない。
陸軍中野学校という、諜報や防諜に関する訓練を目的にした機関があった。こないだ読んだ NHKスペシャル取材班 『僕は少年ゲリラ兵だった』 にもその名が出てきた。戦況の悪化により諜報どころではなくなり戦争末期はゲリラ戦を指揮するのがメインの活動となっていたらしいけど。

東京帝國大学(今の東大)出身者らが多く、他の陸軍とは一線を機関だったという陸軍中野学校。
『ジョーカー・ゲーム』の ”D機関” は陸軍中野学校をモデルにしているらしいが、もっとマンガ的。
D機関の生徒は、天才的な頭脳と冷静沈着な思考を持つ。数ヵ国語を操り、スリ顔負けの手先の器用さ、変装術、強靭な体力を有している。どんな文書でも一瞬見ただけで一字一句正確に記憶できる。鳥かよ(鳥は頭悪いけど記憶は正確)。
当然「ありえねーだろ」と思うんだけど、精緻な構成と第二次世界大戦時の諜報活動という非現実的な舞台のおかげで意外とすんなり入りこめる。


スパイの追求するとことん合理的な思考と、日本陸軍の根性主義の対比がおもしろい。

「殺人、及び自決は、スパイにとっては最悪の選択肢だ」
 結城中佐が首を振った。
 ――殺人や、自決が……最悪の選択肢?
 軍人とは、畢竟敵を殺すこと、何より自ら死ぬことを受け入れた者たちの集団のはずではないか。
「おっしゃっている意味が……わかりません」
「スパイの目的は、敵国の秘密情報を本国にもたらし、国際政治を有利に進めることだ」
 結城中佐は表情一つ変えずに言った。
「一方で死というやつは、個人にとっても、また社会にとっても、最大の不可逆的な変化だ。平時に人が死ねば、必ずその国の警察が動き出す。警察は、その組織の性格上、秘密をとことん暴かなければ気が済まない。場合によっては、それまでのスパイ活動の成果がすべて無駄になってしまうだろう……。考えるまでもなく、スパイが敵を殺し、あるいは自決するなどは、およそ周囲の詮索を招くだけの、無意味で、バカげた行為でしかあるまい」


スパイ小説って誰が味方かわからない緊張感もあるし複雑な心理模様も描かれるし、読んでいてたのしいね。
柳広司はいい金脈を見つけたね。

良質な短篇集なんだけど、後半になるにつれてパワーダウンしていくのが残念。スパイじゃなくてええやんって短篇も混ざってる。
最後の『XX(ダブル・クロス)』なんか密室殺人を題材にした推理小説だからね。しかもトリックは平凡だし。
1作目の『ジョーカー・ゲーム』のインパクトが強烈すぎたってのもあるのかもしれないけど、尻すぼみの印象はぬぐえない。

とはいえ ”超人的能力を持ったスパイ集団” という設定は「こんなおもしろいジャンルがまだ手つかずで残っていたのか」と思うほどに魅力的だ。
今作以降も『ダブル・ジョーカー』『パラダイス・ロスト』『ラスト・ワルツ』とシリーズ化されている人気シリーズなので、また続きを読んでみる予定。



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2017年9月8日金曜日

天性のストーリーテラーの小説を今さら/劇団ひとり 『陰日向に咲く』【読書感想】

『陰日向に咲く』

劇団ひとり 

内容(e-honより)
ホームレスを夢見る会社員。売れないアイドルを一途に応援する青年。合コンで知り合った男に遊ばれる女子大生。老婆に詐欺を働く借金まみれのギャンブラー。場末の舞台に立つお笑いコンビ。彼らの陽のあたらない人生に、時にひとすじの光が差す―。不器用に生きる人々をユーモア溢れる筆致で描き、高い評価を獲得した感動の小説デヴュー作。

どうでもいいこだわり があって、「話題になっている本は読まない」というルールが自分の中にある。
本は自分の感性で選びたいという信念があって、話題になっている本を読むことは自分の感性を曲げて選んだようで、許せない行為なのだ。「読みたい」と思っても「話題の本だから」ということで手に取らないわけだから、そっちのほうが自分の感性に正直じゃないんだけど。

『陰日向に咲く』が2006年に刊行されたとき、ぼくは書店で働いていたのでこの本が飛ぶように売れていることを目にしていた。さらに数々の書評でも取り上げられ、ちゃんとした書評家たちが「タレントが書いたということとは関係なくおもしろい!」と絶賛しているのも読んでいた。
いったいどんな小説なんだろうと気になっていたものの、前述したように「話題の本は読まない」というルールを自分の中に課している手前、誰に対してかわからない意地を張って『影日向に咲く』を手に取ることはなかった。

その後、『週刊文春』で劇団ひとりが『そのノブは心の扉』というエッセイの連載を始めたので読んでみたらクソつまらなかったので小説に対しても興味を失った。


そして10年以上が経過。「もう話題の本じゃないから大丈夫だよね」と、誰に対してかわからない確認をとってから、読んでみた。今さら。



ちゃんとおもしろかった よね。ちゃんとおもしろかったってのも変な表現だけど、作者がテレビに出てる人じゃなかったとしてもおもしろいってことです。
ちょっと漫画的というか、ホームレスはホームレスらしく、ギャンブル狂はギャンブル狂らしくて、みんな思慮が浅くて、良くも悪くもわかりやすい小説。まあエンタテインメントで内面をじっくり掘り下げても重たくなるだけだし、これでいいんでしょう。
愚かな人間の描写はほんとに巧みで、デジカメの使い方がわからない女性の思考回路とか、ギャンブル狂の内面の浮き沈みとかの描かれ方は説得力があるねえ。

なによりストーリー展開がうまい。起承転結に沿って物語が進んで、丁寧な伏線があって、ほどよく意外なオチがあって、という創作のお手本のような作品。
劇団ひとりってバラエティ番組でも瞬発的におもしろいことを言うんじゃなくて、芝居に入ってきちんとストーリーを展開させてそこに起伏をつけてオトす、っていうやり方をとっている。演技のほうが注目されがちなんだけど、天性のストーリーテラーなんだろうね。


やっぱり10年前に 読んどきゃよかったな、って思う。
連作短編集で、メリーゴーラウンド方式っていうんですかね、ある短篇の端役が次の短篇では主人公になってるってやつ。伊坂幸太郎がよく使うやつね。
昔からある手法ではあるんだけど、伊坂幸太郎以後、雨後の筍のごとく増えて、今ではよほど効果的な使われ方をしないかぎり「メリーゴーラウンド回しときゃ読者が感心すると思うなよ!」と逆にうんざりする手法になってしまった。
『陰日向に咲く』もその手法が用いられているので、たぶん2006年に読んでたら「おもしろい手法!」と感心してたんだけど、今読むとそれだけで評価を下げてしまう。2017年に読むのが悪いんだけどさ。
あとちょっと大オチがあざとかったな。


いちばん残念なのは、ちょっときれいすぎるってことだね。文章も読みやすいし、ストーリーも無駄がないし、全体的にうまくまとまっている。
でも、『ゴッドタン』の劇団ひとりを観ている者としては、もっとクレイジーな部分を出してほしかったなと思う。
テレビでは「いきなり自分の服を破きだす」「自分のケツの穴につっこんだ指をなめる」みたいな狂気そのものを出している劇団ひとりなんだから(いちばん狂ってるのはそれを放送しちゃう制作者だけど)、表現規制の弱い本ではもっともっとイカれた部分を出してほしかったな。



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2017年9月6日水曜日

地に足のついたサイコホラー/堀尾 省太 『ゴールデンゴールド』【漫画感想】

『ゴールデンゴールド』

堀尾 省太

内容紹介(Amazonより)
福の神伝説が残る島・寧島で暮らす中2の少女、早坂琉花。ある日、海辺で見つけた奇妙な置物を持ち帰った彼女は、ある「願い」を込めて、それを山の中の祠に置く。すると、彼女の目の前には、“フクノカミ”によく似た異形が現れた――。幼なじみを繋ぎ止めるため、少女が抱いた小さな願いが、この島を欲望まみれにすることになる。

人から『ゴールデンカムイ』って漫画がおもしろいよ、と勧められてAmazonで検索窓に「ゴールデン」と打ちこんだら候補に「ゴールデンゴールド」が表示されてうっかりクリックしてしまい、でもこっちも評価高いなー、あらすじも怖そうでいいなーということで半ば偶然のような出会いで購入。

小さな島に住む少女が偶然拾った人形に願い事(「島にアニメイトができますように」)をすると、徐々に島が発展しはじめる。人形の存在を知る者は豊かになっていくが、それにあわせるように少しずつ性格が変わってゆく。
また、裕福になるものとそうでない者との間に対立が深まり、島は二分されてゆく――。

ってな感じが2巻までのあらすじ。ここから先どう展開していくのかは読めない。
じわじわと足元が崩れていくような恐怖に引きこまれてしまう。
こういうじんわりとした恐怖って漫画向きだよね。説明過多にならずに変貌を描けるから。


”フクノカミ” がいい存在なのか悪いものなのかは、今のところ明らかではない。まあいいやつではないだろうけど。
 ”フクノカミ” が直接何かをするということはない。周囲の人間にはたらきかけて、その人が本来持っていた欲望を引き出すだけ(2巻の後半では間接的に手を下してたけど)。
手垢にまみれた表現だけど、生身の人間がいちばん怖い、ってやつだね。

それにしても細部の描写がうまい。
狭い島での人間関係とか(「そらいけんよのう。世の中法律だけで回っとるんじゃないんじゃけえ」という言い回しの絶妙さよ!)、田舎の半端なヤクザの造詣とか、中学生同士の恋愛とも呼べないような恋模様とか、島の産物とか、細部のリアリティが不思議な力を持つ ”フクノカミ” の異質さを際立たせてくれている。
設定が突飛であるほど舞台や人物造詣はリアリティが必要だよね。『寄生獣』なんかはそのへんに成功してたから傑作と呼ばれるわけだし、名前を書くと人が死ぬノートを拾う人物が頭脳明晰・容姿端麗・冷血無慈悲な正義感の塊で警察幹部の息子では奇天烈ハチャメチャコント漫画になってしまう。


こういうサイコホラー的な漫画って終盤はエスカレートしすぎて現実味がまったくなくなってがっかりさせられることが多いんだけど(どの作品とは言わんけど)、この現実感の絶妙なバランスを保ったままストーリーがうまく着地してくれることを願う。



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2017年9月5日火曜日

むずかしいものが読みたい!/小林 秀雄・岡 潔 『人間の建設』【読書感想】

『人間の建設』

小林 秀雄・岡 潔

内容(e-honより)
有り体にいえば雑談である。しかし並の雑談ではない。文系的頭脳の歴史的天才と理系的頭脳の歴史的天才に雑談である。学問、芸術、酒、現代数学、アインシュタイン、俳句、素読、本居宣長、ドストエフスキー、ゴッホ、非ユークリッド幾何学、三角関数、プラトン、理性…主題は激しく転回する。そして、その全ての言葉は示唆と普遍性に富む。日本史上最も知的な雑談といえるだろう。

日本最高の天才数学者と呼ばれる数学者の岡潔氏と、日本有数の思想家・批評家である小林秀雄氏による対談(発表は1965年)。
まったく専門分野の異なるトップランナー同士の対談ってわくわくするね。お互い噛み砕いてわかりやすく語ってるんだろうけど、難解すぎてさっぱりわかんねえ。50年以上前の対話だから、ってのもあるんだろうけど。

そうはいっても、今の時代にも通ずる話も多い。
「なるほど、そういうものですか」と素直に拝聴できる。すごい人が語っているという先入観がそうさせるのかもしれない。

 人は極端になにかをやれば、必ず好きになるという性質をもっています。好きにならぬのがむしろ不思議です。好きでやるのじゃない、ただ試験目当てに勉強するというような仕方は、人本来の道じゃないから、むしろそのほうがむずかしい。
小林 好きになることがむずかしいというのは、それはむずかしいことが好きにならなきゃいかんということでしょう。たとえば野球の選手がだんだんむずかしい球が打てる。やさしい球を打ったってつまらないですよ。ピッチャーもむずかしい球をほうるのですからね。つまりやさしいことはつまらぬ、むずかしいことが面白いということが、だれにでもあります。選手には、勝つことが面白いだろうが、それもまず、野球自体が面白くなっているからでしょう。その意味で、野球選手はたしかにみな学問しているのですよ。ところが学校というものは、むずかしいことが面白いという教育をしないのですな。

ぼくがこの『人間の建設』を手に取ったのも、まさにときどき難しい本を読みたくなるから。本を選んでいるとしばしば、「これはぼくには十分に理解できねえだろうな」と思う本を読みたくなる。
それは己の成長のためとか高尚な動機があるからじゃなくて、シンプルに「むずかしいものが読みたい!」って欲求に応えているだけだ。

言われてみれば、学校って「勉強が嫌いな生徒に勉強をさせる」ためのシステムで動いてるよなあ。進学校はどうだか知らないけど、ぼくが通っていた公立学校はそうだった。
程度の差こそあれみんなそれぞれ「勉強したい」「むずかしいことに挑戦したい」という欲求を持っているはずなのに、それを伸ばすようなやり方はとられていない。
「勉強ってつまんねえだろ。でもやらなきゃいけねえんだよ、やれオラ」ってやり方をやってるから勉強嫌い養成機関になってしまうのだろう。
大勢をいっぺんに教えようと思ったらそういうやり方をとるしかないのだろうか。もう少し「勉強好きな子向け」のやり方に変えられないものだろうか。


ぼくには4歳の娘がいるけど、勉強を「やりなさい」と言わないように気を付けている。数字やカナのドリルを買い与えて「これやってもいいよ」と言うと、娘は嬉々としてドリルをやっている。あっという間に1冊終わらせて、またドリルやりたいと言ってくる。
これが自然な姿なのだろう。わからなかったことがわかるようになる、できなかったことができるようになる。おもしろいに決まっている。
もし「必ずドリルは1日3ページやらなきゃいけません!」ってなノルマを課したら、子どもはすぐに勉強嫌いになるだろう。

ぼく自身、母親からは「この本読んでいいよ」と言われ、父親からは「これおもしろいんじゃない?」と算数や論理学のパズルを与えられたので、読書も算数も好きになった。
だから娘に対しても勉強のおもしろさを忘れないでほしいと願っているのだけれど、どこかで勉強を強制される日が来るわけで、いつか勉強のおもしろさを忘れてしまわないかと不安でしかたがない。




数学の世界というとガッチガチの論理の世界で一分のゆらぎも許されないようなイメージがあるけれども、意外とそうでもないという岡潔さんの話。

 矛盾がないということを説得するためには、感情が納得してくれなければだめなんで、知性が説得しても無力なんです。ところがいまの数学でできることは知性を説得することだけなんです。説得しましても、その数学が成立するためには、感情の満足がそれと別個にいるのです。人というものはまったくわからぬ存在だと思いますが、ともかく知性や意志は、感情を説得する力がない。ところが、人間というものは感情が納得しなければ、ほんとうには納得しないという存在らしいのです。
小林 近ごろの数学はそこまできたのですか。
 ええ。ここでほんとうに腕を組んで、数学とは何か、そしていかにあるべきか、つまり数学の意義、あるいは数学を研究することの意味について、もう一度考えなおさなければならぬわけです。そこまできているのです。

数学にも感情が必要なんてほんまかいな。感情からいちばん遠いところにある学問のような気がするが。
とはいえ、今の時代に教育を受けた人の中にも地動説や進化論を否定している人がいるわけで、論理や知性というものには限界があるという話はわからんでもないような。
ぼくは数字を扱う仕事をしているけど、専門家同士の話でない場合は数字を出さないほうが納得してくれるケースも多いしなあ。「これやったらアクセスが増えるんスよ。コストも下がりますし。結果、良くなることが多いスね」みたいな適当なトークのほうが、詳細な表やグラフを持っていくより効果的だったりする。

数学だって最終的には人が納得しないことには公理として通用しないわけだから、意外と感情に訴えかける必要があるのかも。
数学者の知性を上回る感情的説得ってどんな手段なのか、さっぱり見当もつかないけど。



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2017年8月30日水曜日

剣道に憧れてすぐに打ちのめされる小説/誉田 哲也 『武士道シックスティーン』


誉田 哲也 『武士道シックスティーン』

内容(e-honより)武蔵を心の師とする剣道エリートの香織は、中学最後の大会で、無名選手の早苗に負けてしまう。敗北の悔しさを片時も忘れられない香織と、勝利にこだわらず「お気楽不動心」の早苗。相反する二人が、同じ高校に進学し、剣道部で再会を果たすが…。青春を剣道にかける女子二人の傑作エンターテインメント。

剣道を題材にした青春小説。
ぼくは剣道をやったことも観戦したこともない。中学校の体育での武道は柔道だったし、高校には剣道部があったけど閉じられた道場で活動していたので部外の人間からはまったく見えなかった。ただ「道場はくさい」というイメージがあっただけだ。
柔道は国際スポーツじゃないし、テレビでもほとんどやっていない。日曜日のお昼とかにEテレあたりで国体の剣道とかを放送しているような気がするけど、「なんだ剣道か」と3秒以内にチャンネルを変える。


というわけで剣道に関する知識はきわめて乏しいのだけれど、「剣道八段をとるのはとんでもなく難しい」と聞いたことがある。
そもそも46歳以上じゃないと試験を受けられなくて、合格率は約1%で、人格者であることまで問われるのだそうだ。
さらに「範士」という称号は、八段をとった後にさらに修行を重ねて、後進の育成に携わってきた経験があり、周囲から推薦されないとなれないのだとか。
ただ強いだけではだめなのだ。

また『武士道シックスティーン』を読むまでは知らなかったのだけど、いくら相手に竹刀を打ちこんでもその後に”残身”(反撃に対する身構え)ができていなければ「一本」にはならないのだそうだ。

同じ「道」を名乗りながらも柔道と剣道ではまったく違うんだね。
なんせ柔道はスポーツとして発展する道を選んだので、時間切れを狙ったり帯をわざとゆるめたり小ずるく点数稼ぎに走ったりと、けっこうあさましい戦いも多い。
それはそれで駆け引きのおもしろさがあるのだが、観ていてかっこいいものではない。最近ではオリンピックのメダル数を稼ぐために使われていることもあって(→『国民メダル倍増計画』)どうも政治的なスポーツになっている。ますます「道」からは遠ざかっているように思えてならない。

柔道のスポーツ化に逆らうように、剣道は断固として「道」であることを追及している。
まさに「武士道」だ。




剣道にはまったく興味がなかったけど、『武士道シックスティーン』を読むと、「剣道やってたらよかったなあ」と思えてくる。
剣士ってかっこええなあとうらやましくなる。
というわけでYouTubeで剣道の試合を観てみたんだけど、すぐに「こりゃ無理だ」と思いいたった。

野球やサッカーの一流選手のプレーを観ると「おお、すげえなあ。自分には逆立ちしてもできないな」と思う。
でも剣道は、それすらわからない。剣士たちが接近して、ばしばしばしっと竹刀が動いて、たちまち旗が上がる。ぼくには何が起こったのか、さっぱりわからない。
「どっちが一本とったの?」
目で追うことすらできないのだ。
『武士道シックスティーン』は小説だから、相手の動き、自分の思考の流れ、肚の読みあいがじっくりと書いてあるけど、観ているととてもそんなことを考えられるようには思えない。竹刀が激しく動いた、ということしか把握できない。
この剣の動きさばいているのが信じられない。サッカーでいうなら、同時に10本のパスをさばくようなもんじゃないか?




というわけで剣の道で生きていくという夢は一瞬にして諦め(もともといいかげんな気持ちだけど)、剣道は小説で楽しむことにした。

『武士道シックスティーン』は、わかりやすい青春小説だ。
「勝つこと」だけにひたすらこだわり、一心に剣の道を突き進む香織と、日本舞踊の延長で剣道を始め勝ち負けではなく己の成長ができればいいやぐらいの気持ちの早苗。
香織が早苗に敗れたことを機に二人の交流がはじまり、まったく考え方の違う相手に影響されて、香織は勝ち負けでない剣道を、早苗は勝ちにこだわる剣道について考えるようになる……。
「対照的なライバルの存在」「主人公の苦悩と成長」「家族とのかかわり」といったわかりやすい要素がちりばめられた王道青春ストーリーだ。少年漫画に連載されてもいいぐらい。『ブシドー!』みたいなタイトルで。ありそう。


剣道の魅力は十分に伝えてくれる小説なんだけど、正直にいって、あまり引きこまれなかった。
青春時代をとうに過ぎた素直じゃないおっさんには読むのが遅すぎたのかもしれない。中学生ぐらいで読んでたら「剣道やるぞ!」ってなってたかもしれない。
決しておもしろくないわけじゃないんだけどね。引っかかりがなさすぎるというか。エグみがないというか。さわやかすぎて、読んでて気恥ずかしさを感じるぐらいだった。ラストで二人が再会を交わすところなんてまぶしすぎてつらかった。おっさんにはサイダーじゃなくてにごり酒みたいな小説がお似合いなのだ。


あっ、一個あったわ、引っかかり。ずっと気持ち悪かったところ。

昼休みも黙々と握り飯を食い、ダンベルを片手に宮本武蔵の『五輪の書』を読む、武士のような女・香織。
この女の一人称が「あたし」なのだ。
これ、ほんとに理解できない。どう考えても「あたし」のキャラクターじゃないだろ!



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