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2018年1月12日金曜日

落語+ミステリ小説 / 河合 莞爾『粗忽長屋の殺人』





『粗忽長屋の殺人(ひとごろし)』

河合 莞爾

内容(e-honより)
伊勢屋の婿養子がまた死んだ!婿をとったお嬢さんは滅法器量よし、お店は番頭任せで昼間から二人きり。新婚は、夜することを昼間する、なんざ、それは短命だ…。ところがご隠居さん、次々に死んだお婿さんの死に方を聞くと、何やら考え始めて―。(「短命の理由」)古典落語の裏側に隠れている奇妙なミステリー、ご隠居さんの謎解きが始まる!


いろんな落語の筋をベースに、長屋のご隠居さんが謎解きをするというミステリ小説に仕上げた作品。
落語『短命』の裏側を解明する『短命の理由(わけ)』
落語『寝床』の旦那の秘密を解き明かす『寝床の秘密(かくしごと)』
落語『粗忽長屋』をベースに『粗忽の使者』の登場人物を加えた『粗忽長屋の殺人(ひとごろし)』
落語『千早振る』『反魂香』『紺屋高尾』という花魁が出てくる三つの話を大胆につないだ『高尾太夫は三度(みたび)死ぬ』
と、意欲的な作品が並ぶ。
落語+アームチェア・ディテクティブもの(探偵役が現場に足を運ばずに解決するミステリのジャンル)というおもしろい試み。ぼくは落語もミステリも好きなので、まあまあ楽しめた。

……とはいえ、もっと読みたいかというと、うーんもういいかなという気持ち。

ミステリとしての完成度はいまいち。
もともと完結作品である落語をなんとかミステリに仕立てようとしているから、筋としては苦しいものが多い。
わずかな手がかりからあまりにも都合よくご隠居さんが謎を解決しちゃうし、根拠の乏しい推理がことごとくどんぴしゃだし、「近眼だからまったくの別人を友人と見まちがえた」とかいくらなんでも無理があるだろってトリックもあるし、よくできたミステリとは言いがたい。


だけど、どの噺もミステリの要素を入れながらもきちんと人情味のある噺にしていたり、本来のサゲ(オチ)を踏まえたうえで新しいサゲを考えていたり、落語愛あふれる噺にしあがっている。
随所にちりばめられたギャグもけっこうおもしろい(時事ネタが多いのであまり小説向きじゃないけど。まあそういうところも落語っぽい)。

たとえば、旦那がうなる義太夫の下手さを表したこの会話(『寝床の秘密』より)。

「一番可哀相なのは留公ですよ。聴き始めた途端に気分が悪くなって、だんだん意識が遠くなってきて、このままじゃ昏倒しちまうってんで庭に逃げ出したんですがね、それが旦那に見つかっちゃった。旦那、すっくと立ち上がって、義太夫を語りながら留公を追いかけ始めたんですよ!
 気が付いた留公、慌てて石灯籠の陰に隠れた。すると旦那が正面から、かーっ! と義太夫を浴びせた! その義太夫の衝撃で、石灯籠にぴぴぴぴっと無数の細かいヒビが入ったかと思うと、ずしゃあーっ! と砂みてえに崩壊して、身を隠すものがなくなっちまった!」
「まるで超音波怪獣だね」
「次に留公、なんとか義太夫から逃れようと庭の池に飛び込んだ。すると旦那が池の水面に向かって、甲高い声で、きいーっ! と義太夫を放射した! 途端に、池の水がぶるぶる振動し始めたかと思うと、ぐらぐらっと煮立ってきて、池の鯉も白い腹を見せて、ぷかぷか浮かんできた!」
「マイクロ波だ。電子レンジの原理だよ」
「あちちちっ! と池を飛び出した留公、庭の隅に土蔵が建ってたんで、急いでその中に駆け込んで、内側からカンヌキを降ろした。やれやれこれで一安心と思ってると、がるるるるーっと唸りながらしばらく土蔵の周りをぐるぐる回っていた旦那が、やがて土蔵の上のほうに小さな明かり取りの窓があるのを見つけると、にたりと恐ろしい笑みを浮かべて、梯子を持ってきてその窓まで一気によじ登り、窓から土蔵の中に向かって、どばあーっ! と義太夫を語り込んだ!
 さあ、逃げ場がないところに、留公の頭の上から義太夫が大量に降り注いできた、義太夫が土蔵の中でどどどどーっと渦を巻いて留公を飲み込んだ。途端に、ぐわあーっ! っと、身の毛もよだつ留公の叫び声が、あたりに響き渡った!」
「あのね、いい加減におしよ」
「ここから先は、恐ろしくてとても言えねえ――」
「お前さんが義太夫を語ったほうがいいんじゃないかね?」

これなんかじっさいの落語で聞かせたらめちゃくちゃウケるとこだろうな。


だからこの小説、「落語の噺を下敷きにしたミステリ」として読むのではなく、「ちょっとだけミステリ要素も加味した古典落語」として読むと、どれもよくできている。

もうミステリ要素いらないからふつうに新作落語を書いたらいいんじゃないかな、と思ったね。



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2018年1月4日木曜日

オリンピックは大会丸ごと広告/「選択」編集部『日本の聖域 ザ・タブー』【読書感想】


『日本の聖域 ザ・タブー』

「選択」編集部(編)

内容(e-honより)
「知る権利」が危うい。国際NGO「国境なき記者団」が発表する「報道の自由度ランキング」での、日本の順位は下がり続けている。大手メディアに蔓延する萎縮、忖度、自主規制―。彼らが避けて触れない「闇」は、政界、官界、財界、学界などに絡み合って存在する。それら25の組織や制度にメスを入れる、会員制情報誌の名物連載第三弾。
政治家やジャーナリストにも読者が多いという、会員制情報誌『選択』による「日本のタブー」。
陰謀論みたいな話かな、ちょっとうさんくさいなと眉に唾を付けながら読んだのだが、思っていたよりもまともな話だった。『選択』の執筆者には新聞記者が多いらしい。なるほどね、取材して知ったけどいろんな事情で新聞には書けない話、みたいなのがけっこうあるんだろうね。そういう人が匿名で発表する場が『選択』なんだそうだ。

理化学研究所、皇室、国立がん研究センター、日本体育協会、電通とスポーツ、原発城下町、人工妊娠中絶、公安警察、高齢者医療、教育委員会、防衛省、トクホ、児童養護施設など、「耳にすることはあるけれど何をやってるのかよくわからない組織」の問題点を指摘していて、なるほどたしかに聖域だなと思う。
ただそれが必ずしも"タブー"とは言えないよな。電通とか原発とかは広告収入に依存しているマスメディアは批判しにくいだろうけど、教育委員会とか防衛省とかはべつにタブー視されてるわけじゃなくて「あんまりおもしろくないから語られないだけ」だと思うけどね。

この手の「みんなが知らない裏の顔」みたいな話ってすごくおもしろいんだけど、「関係者の話によると~」みたいな話が多いので、どうしてもうさんくささはつきまとうんだよなあ。話題の性質上ソースを明かせないことが多いんだろうけど、その関係者が実在するかもわからないし、関係者ほど利害関係が濃厚だから嘘や誇張を入れることも多いだろうし、読んでいるほうとしては疑わしさを拭いさることができない。
ということで「こんな説もあるのか」ぐらいの気持ちで読むのがおすすめ。それぐらいのスタンスで読むとおもしろかった。




いちばんおもしろかったのは『スポーツマフィア 電通』の章。
一広告代理店に過ぎない電通がいかにスポーツを利用してうまく金儲けをしているかが描かれている。
このへんの話はぜんぜん知らなかったのでおもしろかった。

 かつては、アマチュア選手の肖像権を一方的にJOCが保有して、CM出演料などを得てきた。しかし、個人の権利が拡大するにつれて批判を浴びるようになり二〇〇〇年前後から代理店や、マネジメント会社と契約する選手が出てきた。この時点ではJOCの肖像権ビジネスには電通以外にも博報堂など他の代理店が関与していた。
 ここで電通が編み出したウルトラCがSA制度だ。肖像権自体は選手自身が保有するが、それをJOCに委託させる。SAに選ばれるのは有力選手であり、自らの商品価値を理解していればわざわざJOCにカネをむしり取られずに拒否すればよい。JOCも表向きは選手の自由意思ということにしている。
 しかし「実際にはSA登録の取りまとめは競技団体に委ねられている」(前出運動部記者)ため、本当の自由意思ではないという。各競技団体はJOCから助成金を受け取っている。所属している選手がSAになれば、その助成金は増加する。逆に言えば、選手がSAを拒否した場合、助成金が減額されるのだ。そのため団体側は事実上SA登録を強要することになった。一選手が競技団体幹部に逆らうのは困難だ。電通は競技団体を利用して独占的にトップ選手の肖像権を手に入れたのである。
 結果としてそれまで「コーチと選手」だった関係は「ボスとカネづる」になった。

たしかにスポーツ報道って明らかにおかしいもんなあ。
ふだんテレビでは柔道や水泳の話なんかまったくしないくせにオリンピックが近づいたらぎゃあぎゃあ騒ぐし、バレーボールも大きな大会のときだけ異常に盛り上がる(ように見せている)し、どう考えても「視聴者のニーズに応えてる」んじゃなくて「むりやりニーズがあるかのように見せかけている」だもんね。

アマチュアスポーツ選手の大半は金の交渉はできずに競技団体の言われるがままになるだろうし、そういう選手を利用して金を稼ぐのってめちゃくちゃボロい商売だろうなあ。そりゃやめられないだろう。

まあ虚像を売るのが広告の仕事だと言ってしまえばそれまでなんだけど。テレビなんかでよく耳にする「日本中が応援して感動するオリンピック」なんて、虚像以外の何物でもないもんな。オリンピックって大会丸ごと広告みたいなもんだよな。




「原発村」について。

 福島第一原発事故や、それ以後の再稼働を巡る議論は、既存の城下町に焦燥感を生み、かえって原発の重要度を再認識させるという皮肉な結果を招いている。
「ワシらは原発のカネに絡め取られた。もう元には戻れない」
 青森県六ヶ所村で細々と農業を続ける住民はこう語った。
 下北半島の太平洋側に位置する、人口一万一千人の村はかつて、酪農と農業しかない典型的な過疎地だった。それがいまや「日本一裕福」な自治体といわれる。
 この村には日本の核燃料サイクルの基幹企業である日本原燃が本社を置いており、原燃から税収が得られるのだ。一二年度の「村税」の見込みは六十八億円だが、そのうち約六十億円が原燃のものだ。一般会計予算規模は百三十億円余り(一二年度)。単純比較するのは難しいが、人口規模がほぼ同じ熊本県南阿蘇村の予算の二倍。同じ青森の人口八千人の田舎館村の一二年度予算は三十四億円だ。しかも、六ヶ所村は地方交付税の不交付団体であることを忘れてはならない。通常、標準の財政規模を超える税収があると、県に納めねばならない。六ヶ所村の予算はありあまる税収を使い切るために膨れ上がっている。わずか一万一千人の村民はここから手厚い行政サービスを受ける。使途が制限される「電源交付金」とは別に一般予算の半分近くを原燃から受け取れるのだ。

わあすごい。こりゃ抜けだせないだろうな。
家の近所に発電所ができて「千年に一度の大地震が起きたらこの土地はしばらく人の住めない土地になります。でもここに住んでいてくれたら働かなくても暮らせるお金をあげます」って言われたら……。うーん、逃げだせるだろうか……。
自分が八十歳で子どもも孫もいっしょに住んでいなかったらお金もらうだろうな。六ケ所村はそんな状態だろうね。

電力会社からするとこれだけのお金をばらまいてもお釣りがくるぐらいの利益があるんでしょうなあ。原発はクリーンなエネルギーだというけれど、少なくともお金の流れに関していえばとてもクリーンとは言えないね。
大金をばらまかなくちゃ誰も引き取ってくれないようなものだって時点でもう、原発はそうとうだめなものだよね。
百年後の人には「いくらエネルギーが足りないからって原子力発電をしてたなんて21世紀の人はばかだったんだなあ」と言われるにちがいない。





国立がん研究センターについて。

 二〇一〇年に独法化した際に当時の民主党政権は、厚労省の人事を白紙にして山形大学から嘉山孝正氏を理事長に選んだ。この「政治主導」には賛否があるが、実際に嘉山氏は、国がんに送り込まれる厚労官僚の順送り人事を凍結し、人件費をアップさせて職員の待遇を改善しながらも単年度黒字化するという結果を出した。また厚労省の天下り先を次々に潰すなど、多くの改革の成果を残した。
 当時、国がん内部からは嘉山氏に反発する勢力からの不満の声が漏れてメディアを賑わした。しかし「強引な手法が嫌われることはあったが、内部には支持する声もあった」(前出とは別の現職医師)という。抵抗勢力となっていたのは、主に既得権受益者である厚労省とその息のかかった医師だった。

批判も多い民主党政権だったけど(ぼくもトータルではあまり評価しないけど)、部分部分を見ると思いきった改革をしたことで腐敗した組織に風を入れたっていう一面はけっこうあるんだね。
だからこそ官僚を敵に回して長続きしなかったんだろうけどね。陰湿なところに生えるカビにとっては新しい風なんていらないもんね。
まあこれは自民党が悪いというより、長期政権が良くないんだと思う。民主党はいろんな病理にメスを入れたけど(そしてその多くは失敗したようだけど)、もしも民主党政権が長期化していたら同じようにどこかしらが腐敗していたと思う。
体制が変わらないってのはいいことも多いけど、止まっている水は必ず淀むからね。ときどきは入れ替えもしたほうがいいんだろうな。
個人的にはアメリカみたいな二大政党制ってあんまりいいとは思えないんだけど、政権と省庁の癒着が進むのを防ぐという点では二大政党制のほうがいいんだろうな。



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2017年12月28日木曜日

2017年に読んだ本 マイ・ベスト12


2017年に読んだ本は、このブログに感想を書いているものだけで約百冊だった。
その中のマイ・ベスト12を発表。ベスト10にしようと思ったけど、どうしても絞り切れずに12作になってしまった。

なるべくいろんなジャンルから選ぶようにしました。
順位はつけずに、読んだ順に紹介します。

こだま 『夫のちんぽが入らない』

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私小説。
同人誌版を以前に読んでいたので「2017年に読んだ本」に含めるかどうか迷ったけど。
でも書籍版では大幅に加筆されて内容もさらに良くなっていた。プロの編集者ってすごいんだなあ。

タイトル含め今年大きな話題になった本だけど、やっぱりいいタイトルだ。タイトルでぎょっとするけど、内容を読むと「これでも穏便なほうだ」と思う。



前川 ヤスタカ 『勉強できる子 卑屈化社会』

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ノンフィクション。
なぜ「勉強できること」を後ろめたく感じてしまうのか、について論じた本。
元・勉強できる子としては「学生時代に読んでおきたかった!」と思った。
ぼく自身は生きにくかった、というほどではなかったけど「勉強できるだけじゃないんだぜ」ということを見せようとしてむりにバカなことをしていたフシはあったなあ。



木村 元彦 『オシムの言葉』

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ノンフィクション。
サッカーはほとんど観ないけどこの本はおもしろかった。
ユーゴスラビアという民族紛争を抱えた地域。采配や勝敗によっては殺されかねないという状況で、文字通り"命を賭けて"サッカー・ユーゴスラビア代表の監督をやっていたイビチャ・オシム氏。
この本を読んだ人は、「絶対に負けられない闘いが……」という言葉を恥ずかしくて口に出せなくなるだろうね。



牧野知弘 『空き家問題』

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ノンフィクション。
この先、日本は空き家だらけになり、家は負債でしかなくなる……。という状況について不動産の素人にもわかりやすく解説している。
超高齢化社会にさしせまった恐怖。へたなホラーよりよっぽど怖いぜ。



岩瀬 彰 『「月給100円サラリーマン」の時代』

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ノンフィクション。
あまり語られない戦前~戦中のサラリーマンの生活をいきいきと描写している。
日本史の授業の副読本に使ってもいいんじゃないかと思うぐらいうまくまとまっている。おもしろいし。
サラリーマンが戦争に駆り出されるくだりは、70年後のサラリーマンとしてぞっとした。



伊沢 正名『くう・ねる・のぐそ』

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エッセイ。
屋内でウンコをしないという筆者による、野糞まみれ だらけの一冊。どのエピソードもぶっとんでいるようで、意外とまじめ。
もしかしたらこの人、百年後にはファーブルのような扱いを受けて子ども向けの伝記になっているかもしれないな。



貴志 祐介 『黒い家』

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サスペンスホラー。
後半の殺人鬼に追い詰められるシーンもスリル満載でおもしろいが、なんといっても前半の正体のわからない恐怖がじわじわと迫ってくる描写が見事。
寝る前に読んでいたけれど、「これ中断したら怖くて眠れなくなるやつだ」と思って夜更かしして最後まで読んでしまった。



池井戸潤 『空飛ぶタイヤ』

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小説。
実際にあった横浜母子3人死傷事故を題材に、ホープ自動車(モデルは三菱自動車)と関連会社の腐敗を描いた小説。
三菱銀行の社員だった池井戸潤が書いただけあって重厚。ストーリーはよくある展開なんだけど、圧倒的なパワーで引きこまれてしまった。



ミチオ・カク『2100年の科学ライフ』

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ノンフィクション。
最先端の研究者たちの話をもとに、2100年までに訪れる科学の変化を大胆に予想している。
もしかしたら、ぼくらが「寿命のあった最後の世代」なのかもしれない。



石川拓治 NHK「プロフェッショナル 仕事の流儀」制作班
『奇跡のリンゴ 「絶対不可能」を覆した農家 木村秋則の記録』 


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ノンフィクション。
農薬を使わずにリンゴをつくる、それだけ(といったら失礼だけど)でこんなに感動するなんて。
木村秋則というたった一人の農家の偉業が、世界中の農業の姿を変える日がくるかもしれないな。わりと本気でそう思う。


高野 誠鮮『ローマ法王に米を食べさせた男』

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エッセイ。
過疎化・超高齢化が進む地域を「UFOの里」「ローマ法王が食べた米の生産地」として有名にした公務員の話。
これを読むと、自分がふだんいかに想像力にふたをして生きているかがわかる。
活力が湧いてくる本だ。



小熊 英二 『生きて帰ってきた男 ――ある日本兵の戦争と戦後』


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ノンフィクション。
まったく無名な男のさしてドラマチックでない生涯を淡々とつづっただけ……なのにめちゃくちゃおもしろい。
戦争ってドラマじゃなくて現実と地続きのものなんだと改めて思わされた。



来年もおもしろい本に出会えますように……。


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2017年12月27日水曜日

まったく新しい形容詞は生まれるだろうか / 飯間 浩明『辞書編纂者の、日本語を使いこなす技術』【読書感想】


『辞書編纂者の、日本語を使いこなす技術』

飯間 浩明

内容(e-honより)
日々、ことばと暮らす著者が、ことばと向き合い、さらに使いこなす。気になる日本語として「あやまる」と「わびる」の違い、紋切型の表現について、敬語を省略して使う、穏やかに注意する方法のほか、漢字と仮名の使い分け、読点(、)の付け方、辞書の活用法等、多岐にわたって提案。さりげないけれど、知っているとお互い気持ちよく過ごせる表現方法が満載!『三省堂国語辞典』編集委員の著者が探究する、今よりちょっと上の日本語生活。

タイトルと、新書という刊行形態から「辞書編纂者が日本語について考察した本なんだろうな」と思っていたのだが、序盤~中盤はとりとめのないエッセイのような内容だった。
もちろん日本語についての話なんだけど、辞書編纂とは関係のない話も多い。

たとえば……。
いつまでも敬語を使っていたら親しくなれない。かといっていきなりタメ口を使うのは失礼……というときに使える「省略話法や独り言形式を用いて敬語でもタメ口でもないグレーゾーンをつくる」というテクニックについて。

 敬語は他人に向かって使うもので、独り言には表れません。そこで、たとえば、
「ああ、おなかが空いてきた」
 と、誰にともなくつぶやきます。それから、「○○さんは?」とつけ加えれば、敬語も使わず、また、なれなれしくもない言い方になります。
 答えるほうも、「私もおなかが空いております」なんて言わずに、
「そう言えば……。ああ、もうお昼なんだ」
 と、これまた独白体で応じます。以下、動詞の省略を組み合わせながら、
「もしよかったら、一緒におすしか何か(食べにまいりましょう)」
「わあ、うれしい(これも独白体)。じゃあ、ぜひ(お願いします)」

なるほど。
ぼくはいつまでたっても敬語を崩せないから、これはいい手だと感心した。
でもこういうのを意識してやってるからいつまでたってもぎこちない話し方になるんだろうな。コミュニケーションが得意な人はきっと無意識にやってることなんだろうね。

辞書編纂者っていうと「いついかなるときも厳格な言葉の使い方を求める人」ってイメージがあったけど、この本を読むとむしろ逆で、著者は言葉の変化に対してすごく柔軟な人だという印象を受ける。上に挙げた「敬語とタメ口のグレーゾーン」の提唱もそうだし。
いろいろ知っている人が最終的にあいまいな表現に行きつくってのはおもしろいな。初心者にかぎって他人の過ちに厳しいってのは他の業界でもありそうな話だ。

辞書って版を重ねるごとにどんどん改訂しているから、「はじめは間違った用法でもそれが主流派になって伝わるようになるのであればもはや間違いとは言えない」という現実即応的なスタンスを持っていないといけないんだろうね。
「あらたし」が誤用されて「新しい」になったように、誤った言葉もいつかは正しくなるかもしれない。
逆に、かつては正しかった言葉が誤りになってしまうことも。

 2008年の北京オリンピックを前に、当時の福田康夫首相が日本選手団を激励して、
「せいぜい頑張ってください」
 と言いました。この発言が、新聞などでからかい気味に報道されました。
「せいぜい」というのは、「今度のテストはせいぜい70点だろう」というように、あまり高い水準を望めない場合にも使います。記者は、首相が日本選手の活躍に期待していないと受け取ったようです。
 でも、もともと「せいぜい」には「精を出して努力する」という意味があります。「せいぜい頑張ってください」は「十分に頑張ってください」ということです。

ぼくも「せいぜいがんばってください」と言われたら、「どうせ無理だろうけどがんばれよ」という意味だと受け取ってしまうなあ。なるほど、そんな意味もあるのか。
聞いたことのない言葉なら調べるかもしれないけど、「せいぜい」はなまじっか知っている単語だから、ろくに調べることもせずに「こんなこと言うなんて!」と怒る人も多かったんだろうな。ぼくも気を付けよう。

ただまあ、そもそも首相がオリンピックを応援しなきゃいけない理由なんてないから、ほんとに「期待しないけど」の意味で使ったとしても非難される筋合いはないんだけど。
世の中には「日本人はオリンピックをしなきゃいけない」と思ってる、"最後の体育祭と文化祭のときだけやたら張りきる迷惑なヤンキー" みたいな人がいるからなあ。




後半は辞書編纂者ならではの話題が多かった。新しい言葉を辞書に載せる基準とか、言葉を説明するのに苦労しているところとか。個人的にはそのへんの話だけでもよかったな。

 昔流行した形容詞が古く感じられることもあります。たとえば、「ナウい」は1979年から流行したことばで、今では「死語」として冗談のネタにされます。
 でも、新しく生み出される形容詞は、数として多くありません。ここ何十年かで一般化したと思われるものを挙げてみても、「ウザい」「エロい」「グロい」「キモい」「チャラい」「ハンパない」……など、一生懸命探して2ケタ程度といったところでしょうか。
 つまり、形容詞というのは、そうそう新しいものが生まれもせず、入れ替わりのサイクルは居たって緩やかなのです。

最近だと、「ゲスい」「エモい」あたりがわりとメジャーになった形容詞かな。
形容詞って、誕生しても定着するのに時間がかかるんだろうな。身体性をともなうから。

たとえば名詞だと客観的な説明ができる。
ドローンを説明するのに身体性や文化の共感はいらない。写真を見せて、こういう形状で空を飛ぶ機械製品がドローンだよ、といえばそれなりに日本語がわかる人であれば老若男女関係なく理解できる。アメリカ人の思い描く「ドローン」も、日本人の「ドローン」もたぶんほぼ同じ。

でも形容詞はそうかんたんには伝わらない。身体的な感覚として実感しないと使えない。
たとえばすごく影響のある人が新しく「ペヌい」という形容詞を使いはじめたとしても、人々がすぐにそれを使いこなせるようになるということはない。
他者が「この巨大化したマリモ、めちゃくちゃペヌいな」と言い、「ああこの巨大化したマリモを見たときに味わう感覚がペヌいか」となってはじめて己の中に「ペヌい」が定着する。
しかし形容詞は感覚的な表現であり、自分の感覚と他者の感覚はまったく同じではないから、「これってペヌい、よね……?」「うんペヌいペヌい」「やっぱりペヌいよね」というすりあわせが必要になる。いったん他者の感覚を想像しないと形容詞を共有することはできない。
これを繰り返して、形容詞は使いこなせるようになっていく。

英語の「beautiful」は「美しい」という意味だということは中学生でも知っている。
でも英語ネイティブスピーカーの言う「beautiful」と日本語話者の「美しい」は同じものなんだろうか。ぼくはちがうと思う。共通している部分が多いけど、でもたぶん少しずれている。ぼくの「美しい」と、八十歳のおじいちゃんが思う「美しい」も、たぶんちょっと違う。

そんなことを考えると、新しく形容詞を作ってそれを共有していくってとんでもなくたいへんな作業だな。
上に挙がっている新しい形容詞にしても、「ゲスい」「エモい」「エロい」「グロい」は「下衆」「エモーション」「エロ」「グロテスク」「チャラチャラ」「半端」といった言葉を用言化したもので、「キモい」「ウザい」はそれぞれ「気持ち悪い」「うざったい」という既にある形容詞の省略形だ。
既にある言葉がベースにあるから受け入れられたけど、まったく新しい形容詞が広範に使われるようになることってあるのかな。
もしかすると、ここ数十年ぐらいのスパンで見ても他の言葉に由来していない「まったく新しい形容詞」ってほとんどないんじゃないの?
「しょぼい」、「せこい」あたりも新しいようで古い言葉に端を発しているらしいし。
「ダサい」ぐらいかな?
(タモリが「ダ埼玉」と言いだしたのが語源、とする説もあるが、実際は順番が逆で「ダサい」+「埼玉」で「ダ埼玉」になったらしく、「ダサい」のほうが古いようだ)
新しい形容詞ってないかと探してみたら、「けまらしい」という形容詞をつくった人もいた(→ リンク)らしいが、ちょっと流行ったものの結局定着しなかったようだ。

うーん、形容詞ってなかなかペヌいな……。



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2017年12月26日火曜日

紙の本だから書けるむちゃくちゃ/島本慶・中崎タツヤ『大丈夫かい山田さん!』


『大丈夫かい山田さん!』

中崎タツヤ(漫画) 島本慶(文章)

内容(e-honより)
酒に歌えば女を想う。漫画界の鬼才と特殊分野ルポライターが織りなす哀愁と含み笑いのオヤジ劇場。疲れたあなたのココロにしみわたる大傑作!

中崎タツヤの漫画に惹かれて買った本。島本慶という人のことはまったく知らなかった。
五十歳をすぎてから歌手になったという人で、"舐達磨親方" 名義で風俗記事を書いたりもしていたとか。つまりわけわかんない人ですね。"舐達磨親方" は西原理恵子の漫画にときどき名前が出てくるので聞いたことだけはあった。


エッセイはキレが良くない。とりとめのない話をひたすらだらだらと書いている。ザ・酔っ払いの話って感じ。
役に立つ知識は得られないし、人生に大きな示唆を与えてくれるような話もない。でもまあそういうものだと思えばこっちも「本は読みたいけど頭は一デシベルも使いたくないな」ってときに開けばいいから気楽に読める。

正直ほとんどのエッセイはつまんないんだけど、ときどきすっごく乱暴な持論を展開しているのがおもしろい。

 それと、高田馬場の栄通りを突っ切った先の、神田川沿いにある自転車置場あたりでも遠く後ろの方から「コラァ! ここは禁煙だぞぉコラコラコラァ!」と、新宿区に雇われたオッサンが怒鳴りまくります。本当に柄の悪い奴です。私は振り返って、冷静な態度で紳士的に、「あっ私、携帯の灰皿をこのように片手に持ってますから」と話しながら灰皿を上に持ち上げて見せます。オッサンはキョトンとして、眉をしかめながら黙りこくりました。その表情には、ほんの少しだけ「そういうこっちゃねぇんだよぉ!」って感じが見てとれましたが、そんなの無視です。私は心の中で「ジャカッシャイ! テメェこのカス、ワシがどこでタバコを吸おぅとワシのかってじゃあ! 文句あんなら警察でも何でも読んだらんかいワレェ!」と心の中で叫びつつ、あくまで紳士的に遠ざかったのでした。いやぁ本当に柄の悪い奴多いですよ、禁煙関係者は。

ふはは。イカれてるなあ。
完全に禁止区域でタバコ吸ってるおまえが悪いじゃねえか。
酔って書いたんだろうなあ。”心の中で「……」と心の中で叫びつつ” とか文章もおかしいしな。校閲してないのかな。


かつて人々が文章を発表する手段として書籍や新聞しかなかった時代。何人ものチェックが入るから、むちゃくちゃなことは書けなかった。
インターネットの普及によって誰でもかんたんに自作の文章を発表できるようになりどんな乱暴なことでも自由に書けるように……とはならなかった。残念ながら。
いや、昔のインターネットってそういう場所だったんだけどね。いわゆるチラシの裏的な場所。どうせ誰も読んでないから何を書いてもいい場所、という雰囲気があった。
でも今のインターネットでは、誰かの癇に障ることを書いたらいともかんたんに炎上する。批判のレベルを超えて身の危険を感じるぐらいの攻撃を食らうこともある。結局、インターネットでも紙媒体と同じように、いやもしかするとそれ以上に、正しさ(というか無難さ)が求められるようになってしまった。

この「喫煙禁止区域でタバコを吸ってたら注意してきた人がいたので毒づいている話」なんか、著名人がブログで発表したりしたらあっという間に炎上するだろうね。有名人じゃなくたってタチの悪い人に見つかったら大炎上だ。
でも紙の本ならたぶん大丈夫。拡散させにくいから。
ブログやSNSの素人の投稿よりも出版社が出している本のほうが乱暴なことを書いても許される時代が来るとは思わなかったなあ。


ぼくらが読みたいのは正しいことだけじゃないんだよね。
論理的にむちゃくちゃでも、べつの誰かを傷つける言葉でも、場合によっては自分を攻撃する言葉であっても、楽しませくれるならかまわない。
どこか別のサイトから切り貼りしてきただけの文章を並べたWEBサイトじゃなくて、乱暴でもまちがっててもいいから自分の言葉で語っている文章なんだよ。ぼくがインターネットで読みたいのは!
聞いてるかアクセス数目当てにコピペでコンテンツつくってるやつら!



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2017年12月25日月曜日

生きる昭和史/ 小熊 英二 『生きて帰ってきた男』【読書感想】


『生きて帰ってきた男
――ある日本兵の戦争と戦後』

小熊 英二 

内容(e-honより)
とある一人のシベリア抑留者がたどった軌跡から、戦前・戦中・戦後の日本の生活面様がよみがえる。戦争とは、平和とは、高度成長とは、いったい何だったのか。戦争体験は人々をどのように変えたのか。著者が自らの父・謙二(一九二五‐)の人生を通して、「生きられた二〇世紀の歴史」を描き出す。

いい本だった。
1925年(大正14年)生まれの小熊謙二さん(筆者の父親)の生涯をつづったノンフィクション。大正15年=昭和元年だから、大正14年生まれだと、昭和20年=満20歳ということになる。まさに昭和とともに生きた人。生きる昭和史だ。

小熊謙二さんは、戦前に少年時代を送り、会社勤めをした後に徴兵されて満州に行き、捕虜としてシベリア抑留され、帰国後は肺炎や子どもの死を経験しながらもさまざまな職を転々とした人。
そんな一市民の人生を描くことで、戦前~戦中(シベリア収容所)~戦後の雰囲気がありありと伝わってくる。

戦争体験について書かれた本は多いが、こういう本はめずらしい。
あとがきで筆者も書いているが、ひとつには戦中だけでなく戦前から戦後数十年にわたって戦争体験者の一生を追いかけていること。もうひとつは、主役が軍幹部やエリート、著名人ではなく、さらに「これは伝えたい!」という熱い感情を持っていないこと。
今でこそ誰でもブログやSNSで気軽に情報発信できるようになったが、少し前までは著名人や強い熱情(とある程度のお金)を持った人しか情報発信する機会がなかった。息子がライターでなければ小熊謙二さんの生涯がこうして本になることはなかっただろう。そういう点で稀少かつ価値のある本だ。



事実を淡々と、かつ詳細に書いているのがいい。ときおり「あのときはこう思った」という謙二さんの言葉がさしこまれるが、「特に気にしなかった」とか「たいへんだとは思ったが仕事が忙しくてそれどころじゃなかった」とか、終始冷静だ。語られる人も語る人も感情的でないことで、かえって情景が伝わってくる。リアルな日本人の実感、という感じだ。
たとえば東日本大震災だって、遠く離れた所に住んでいる人の大半からしたら「たいへんなことが起こったとは思ったがすぐにふだんの生活に戻った」というのが偽らざる心情だろう。真珠湾攻撃も玉音放送も、歴史の本を読むと天地がひっくり返るような出来事として書いているけど、ほとんどの人はそんな心境だったんじゃなかろうか。

たとえば、軍に召集される直前の心境についての回想。

「自分が戦争を支持したという自覚もないし、反対したという自覚もない。なんとなく流されていた。大戦果が上がっているというわりには、だんだん形勢が悪くなっているので、何かおかしいとは思った。しかしそれ以上に深く考えるという習慣もなかったし、そのための材料もなかった。俺たち一般人は、みんなそんなものだったと思う」

何かおかしい、と思いながらも声を上げず、深く考えることもやめて、破局に向かっていく。
こういう後世には伝わりにくい"空気"を文章にして後世に残す、というのはとても有意義なことだと思う。たぶん次の戦争のときも同じようなことになるだろうから。
ぼくは今の時代のあれやこれやに対しても「何かおかしい」と思っている。でも特に行動を起こしていない。まさに、同じ心境なんだろうな。



南京大虐殺について。

「米軍の残虐行為は報道で知ったが、日本軍の残虐性にくらべれば、米軍のやっていることはオモチャみたいなものだと思った。中学生のころには、クラスのなかで同級生が、中国戦線から帰った兵隊からもらったという写真を内緒で見せあっていた。捕虜の中国人の首を、軍刀でちょん切る瞬間だった。中学生でもそういうものに接する機会が、当時の日本にはよくあったと思う」
「シベリアの収容所にいたとき、『日本新聞』に南京事件のことが載った。同じ班に『満州日日新聞』の記者がいて、「この事件は日本では伏せられていたが、外国ではオープンで知れ渡っていた」と言っていた。収容所では、中国戦線の古参兵である高橋軍曹が、猥談のついでに残虐行為の話をしていた。戦火をさけて中国人の婦女子だけが隠れている場所を発見し、集団暴行をしたというような内容だった。ほかにも古参兵たちの伝聞で、日本軍がどんなことをやっていたのかはだいたいわかった」
「だから「南京虐殺はなかった」とかいう論調が出てきたときは、「まだこんなことをいっている人がいるのか」と思った。本でしか知識を得ていないから、ああいうことを書くのだろう。残虐行為をやった人は、戦場では獣になっていたが、戦後に帰ってきたら何も言わずに、胸に秘めて暮らしていたと思う」

この人だけじゃなく、多くの戦争経験者がこういう話をしている。規模の違いこそあれ、あったことはまちがいないのだろう。
こういう話を聞いても「なかった。でっちあげだ」と言う人って、どうかしてるとしか思えない。経験者の多くがあったと言っているのに、その時代に生まれていなかった人がどうして否定できるんだろう。
これでも「南京事件はなかった」と言う人って証拠を欲しているわけじゃないから、仮にタイムマシンができて実際に見たとしても信じないんだろうね。




この本を読むまで知らなかったのだが、基本的に日本政府は戦争被害者に補償はおこなっていないらしい。

シベリア抑留された人に対しては、戦後四十年以上たった1988年、"補償金"ではなく"慰労金"として10万円と銀杯が支給されただけだとか(ちなみに他国では捕虜として労働に従事した場合はその労働に対する賃金がもらえるそうだ)。
数年働いての報酬としては雀の涙だが、徴兵されていた朝鮮人に対してはそれすら支給されていなかった。
その不支給がおかしいといって元日本軍の朝鮮人が日本政府を訴えた裁判で、小熊謙二さんは共同原告として証言台に立つことになる。
そのときの演説が胸を打つ。

 数年前私はシベリア抑留に対する慰労状と慰労金を受け取りました。しかし日本国は彼が外国人であるとの理由で対象としておりません。これは納得できないことであります。
 何故、彼がシベリアで抑留生活を送らねばならなかったかを、考えて下さい。かつての大日本帝国は朝鮮を併合して朝鮮民族の人々を日本国民としました。その結果私と同じく彼も日本国民の義務として徴兵され、関東軍兵士となり捕虜となったのであります。慰労がシベリア抑留という事実に対し為された以上、彼はそれを受ける権利があります。
 日本国民であるからと徴兵しシベリア抑留をさせた日本国。その同じ日本国が無責任にも、今になってあなたは外国人だからダメというのは論理的に成り立ちません。
 これは明らかな差別であり、国際的に通用しない人権無視であります。

 この陳述書を裁判官たちの前で読み上げたことについて、謙二はこう述べている。
「勝つとも思えなかったが、口頭弁論で二〇分間使えるというので、言いたいことを言ってやった。むだな戦争に駆り出されて、むだな労役に就かされて、たくさんの仲間が死んだ。父も、おじいさんもおばあさんも、戦争で老後のための財産が全部なくなり、さんざん苦労させられた。あんなことを裁判官にむかって言っても、むだかもしれないけれど、とにかく言いたいことを言ってやった」

戦争に駆り出されたことにも、シベリアの過酷な環境で強制労働をさせられたことにも、財産を失って戦後に苦しい思いをしたことにも、「そういう時代だったから」とぜんぜん恨みがましいことを言っていなかった人が、どんなに理不尽な目に遭ってもじっと耐えてきた人が、それでも我慢できなくなってにじみだすようにして語るこの言葉。
小熊謙二さんの、静かで、深い怒りが伝わってくる。

特に政治家には読んでもらいたい本だ。戦前・戦中・戦後を生きた人の肌感覚を多少なりとも理解するために。


この人が典型的日本人だとは思わないけど、こういう考えの人は決して少数派ではないと思う。なのに多数派の考え、人生は、いつの時代も世に出ることがほとんどない。
これはすごく貴重な一冊だ。息子がライターだったから、さらに戦後思想史に十分な知識があったからこそ生まれた、偶然のような一冊。
著名人も出てこない、個性的な人も出てこない、ドラマチックな出来事も起こらない。なのにめちゃくちゃおもしろい。

NHK大河ドラマで、こういう市井の人の生涯を一年かけて描いたらすごくおもしろいだろうなあ。朝ドラみたいに安っぽいメッセージは込めずに、ただ事実をありのままに再現する。
観てみたいなあ。


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2017年12月19日火曜日

『約束のネバーランド』に感じた個人芸術としての漫画の終焉


『約束のネバーランド』

白井カイウ(原作) 出水ぽすか(漫画)

内容(e-honより)
母と慕う彼女は親ではない。共に暮らす彼らは兄弟ではない。エマ・ノーマン・レイの三人はこの小さな孤児院で幸せな毎日を送っていた。しかし、彼らの日常はある日突然終わりを告げた。真実を知った彼らを待つ運命とは…!?

宝島社『このマンガがすごい! 2018』でオトコ編1位だったので購入。
本屋大賞は嫌いだけど(理由は これ とか あれ とか)、『このマンガがすごい』は信頼してる。

一見幸せいっぱいに見える孤児院にはじつは裏の顔があった。里親に引き取られていったはずの子が殺されていることがわかり……。
というサスペンスっぽい導入の話。
最新刊(6巻)まで読んだけど、どうやって孤児院を脱走するか、孤児院の外はどうなっているか、世界観から細部までよく練られており、評判にたがわぬおもしろさだった。


おもしろかった。うん、おもしろかった。おもしろかったんだけど……。

なんだろう、あんまりわくわくしなかった。
「この先どうなるんだろう!?」って緊迫感が味わえなかった。
ひとつには、ぼくがおとなになっちまったからってのもあると思う。多くのストーリーに接したせいで感受性が鈍った。
でも、周到につくりこまれた綿密な原作も、"わくわく感" を損なう原因になっているように思う。


このマンガ、ほんとによくできてる。一切の無駄がない。伏線がほどよくわかりやすい形でちりばめられている。どのエピソードもなくてはならない。どうでもいいセリフがない。ひとコマひとコマ丁寧に描かれている。
でもそれがかえって、窮屈な印象を与えている。

主人公たちがどんなにピンチになっても「はいはい原作にのっとってピンチになったのね」って感じしかしない。「おいおいこれ助かるのか!?」って思えない。「予定通りピンチになったのね」と思えてしまう。
よくできすぎてるからなんだろうな。

比べるようなものではないと思うけど、名作『ドラゴンボール』は行き当たりばったり感が強かった。伏線もほとんどなかったし、たぶん作者自身が「次どうしよう」って考えながら描いていたのだろう。当然、読者からしたらまったく先が読めない漫画だった。
だから、悟空が死んだときは「おいおい主人公が死んじゃったよ。どうすんだよ」と思ったし、フリーザ様が「私の戦闘力は530000です」といったときには絶望感しかなかった。
「この先、うまく解決するの?」と不安になった。

たとえるなら、『ドラゴンボール』は道なき道を走る暴走トラックだったのに対し、『約束のネバーランド』はレールの上を一直線に走る快速列車。快速から見える風景もきれいなんだけど、どこに連れていかれるのかわからないドキドキ感はない。

『ドラえもん』に、『あやうし! ライオン仮面』というエピソードがある。
フニャコフニャ夫という人気漫画家が、〆切に追われるあまり先の展開をまったく考えずに連載漫画主人公・ライオン仮面をピンチに陥れてしまう。そしてその先の展開が思いつかず、未来の『ライオン仮面』を読んだドラえもんから続きのストーリーを教えてもらう……というタイムパラドックスを扱った名作SFエピソードだ。
この『ライオン仮面』、たぶん雑誌連載で読んでいるのび太たちにとってはめちゃくちゃおもしろかったにちがいない。だって作者にすら先が読めていないんだもの(もっとも『ドラえもん』の読者からするとぜんぜんおもしろくない)。



『約束のネバーランド』が、漫画界の最高峰といってもいい『このマンガがすごい!』大賞に選ばれたのは、個人の創作活動としての漫画が終焉に近づいているということの示唆なのかな、と思う。

たいていの漫画はプロダクションで複数人によって制作されていると思うが、基本的に作者として名前が表に出るのはひとりだけ。企画も話作りも構成もキャラクターデザインも作画も、作者がやっている(ということになっている)。他のスタッフはその他大勢のアシスタントで、せいぜい誰も読まない単行本最後のページに「special thanks!」みたいな形でちょろっと名前が出るだけだ。

アメリカのコミック、いわゆるアメコミは徹底した分業制をとっているそうだ。話作りと作画と着色とすべて別の人が担当し、さらにそれぞれ複数人が担当している。タイトルは同じ『バットマン』でも、いろんな絵柄の『バットマン』が存在する。バットマンは個人の創作物ではなく、映画のような共同作品だ。

『約束のネバーランド』にも同じようなものを感じた。
原作者と漫画家が別だから、だけじゃない。
丁寧かつわかりやすく伏線が張りめぐらされていること、無駄なエピソードやセリフがないこと、お手本のような起承転結ストーリーになっていること、あまりにもよくできていて「セオリーにのっとってシステマチックに作ったなあ」という印象を受ける。


悪口を言ってるみたいになってきたけど、最初にも書いたようにおもしろい漫画だと思う。
ただ、個人芸術ではなくこれはもう工業製品だなー、とも思う。
漫画雑誌は人気競争だから、他の漫画はこの大手メーカーによる大量生産車のような漫画と闘っていかなくてはならない。あと何年かしたら個人の漫画は駆逐され、SNSやブログで細々と発表する趣味のものだけになり、商業漫画は漫画制作会社が会議を繰り返して作った製品だけになるんじゃないだろうか。

それが業界の成熟ってことだろうし全体のレベルが上がって読者としては楽しめるようになるんだろうけど、漫画がシステム化されてゆくことに一抹の寂しさも感じる。



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2017年12月18日月曜日

見て見ぬふりをする人の心理 / 吉田 修一『パレード』【読書感想】


『パレード』

吉田 修一

内容(e-honより)
都内の2LDKマンションに暮らは男女四人の若者達。「上辺だけの付き合い?私にはそれくらいが丁度いい」。それぞれが不安や焦燥感を抱えながらも、“本当の自分”を装うことで優しく怠惰に続く共同生活。そこに男娼をするサトルが加わり、徐々に小さな波紋が広がり始め…。発売直後から各紙誌の絶賛を浴びた、第15回山本周五郎賞受賞作。

吉田修一氏の小説を読むのは『元職員』『怒り』に次いで三作目。
公金を使いこんだ男の逃げ場のない焦燥感がにじむ『元職員』、隣人が殺人犯かもしれないと思い疑心暗鬼になって不幸になっていく人々が描かれる『怒り』、どっちも嫌な小説だった(褒め言葉ね)。
だから吉田修一といえば嫌な小説を書く人というイメージだったんだけど、こんな「四人の若者が共同生活を通して少しずつ変わっていく」みたいな青春ストーリーも書けるのかー。

……と思いながら読んでいたら。
おおっと。後半で思わぬ展開に。
やっぱり "嫌な小説" だった。前半が青春ぬくぬく小説、みたいな感じだったから余計に後半の醜悪さが際立っている。
こういう裏切り、ぼくは好きなんだけど、嫌な人はとことん嫌だろうね。

以下ネタバレ。



『パレード』では、共同生活を送る住人のひとりが通り魔をやっている。それを隠して、同居人に対しては明るく楽しく接している。会社ではまじめに仕事をしている。信頼も厚い。
彼にとっては、友人や同僚の前で見せる面倒見のいいすてきなおにいさんも真実の姿だし、夜道で女性を殴りたくなるのも彼の本当の姿。
怖い。怖いんだけど、でもわかる。
ぼくは通り魔はやらないけど、人に言えない秘密は持っている。家族に見せる顔と友人に見せる顔と仕事の顔と知らない人向けの顔はそれぞれ少しずつ違う。
だから「親しい人の前では気のいいにいちゃんが、じつは通り魔」というシチュエーションは共感はできないけど理解できる。
もしぼくが通り魔だったとしても、24時間通り魔らしいふるまいをしたりはしない。人に親切にすることもあるだろうし、近所の人にはあいそよくふるまうだろう。

『パレード』でぼくが怖いと感じたのは「同居人たちも実は彼が通り魔だと気づいているのに気づかないふりをしている」というとこ。
あえて口をつぐんでいる理由も、同居人が通り魔だと知った後の心境も書かれていない。だから何もわからない。わからないから怖い。



自分の家族や親しい友人が「どうも犯罪者らしい」と気づいてしまったら、ぼくならどうするだろう。
「問いただす」「自首を促す」「本人が自首しないなら警察に通報する」
法治国家の市民としてそれが適切な対応だとわかっているけど、でもいざそういう状況になったときに正しく行動できるか自信はない。
よほど決定的な証拠を見つけてしまわないかぎりは、見て見ぬふりをしてしまうのではないだろうか。ごまかせるものならうやむやにしてしまいたい、と願うのではないだろうか。

以前、自宅の一室に少女を十年近くも監禁していた男が逮捕される、という事件があった(新潟少女監禁事件)。
犯人の男は母親と同居しており、当時「人を部屋に監禁していたら同居人が気づかないわけがない。母親も共犯だったのでは」と問題になった。でも結局、母親の関与はなかったとされて立件はされていない。
ふつうに考えれば「家族が自宅に人を十年監禁していたら気づかないわけがない」だろう。ぼくもそう思う。でも、「気づかないことにしてしまうかもしれない」とも思う。

家族が殺人罪で逮捕したら、ぼくは家族の無実を信じると思う。
でもそれは愛情からくる美しい信頼ではなく、「めんどくさいことになってほしくない」という身勝手な願望から信じるだけだ。嫌な事実を受けとめる強さがないから、ありえなさそうだけどあってほしい都合のいい嘘を信じる。新潟少女監禁事件の犯人の母親がたぶんそうだったように。

「人を部屋に監禁していたら同居人が気づかないわけがない」というのはまっとうな言い分だが、みんながみんな強く正しく行動できるわけではないと思う。ぼくも自信がない。

『パレード』は、そんな己の身勝手さ、弱さを眼前につきつけてくるような小説だった。


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吉田 修一 『怒り』 / 知人が殺人犯だったら……

吉田 修一『元職員』




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2017年12月11日月曜日

お金がないからこそ公共事業を!/藤井 聡『超インフラ論 地方が甦る「四大交流圏」構想』


『超インフラ論
地方が甦る「四大交流圏」構想』

藤井 聡

内容(e-honより)
「日本は道路王国で、もう高速道路なんて必要ない」「公共事業は、国の『借金』を膨らませるだけで、税金の無駄使いだ」。こんな言説をよく耳にする。しかし、それは全くの「デマ」に過ぎない。じつは日本は、先進諸外国に比してはるかに「インフラ後進国」であり、さらに、インフラ投資は地方を甦らせる最短の道なのである。今こそ、これまでの常識を「超」えて、景気停滞や人口減少を解決するための「超インフラ論」を力強く推し進めていかなければならない―。「大阪都構想」反対派急先鋒として注目を集めた著者による、渾身の最新刊。

社会工学を専門とする学者による、インフラ論。
この人、大阪都構想に反対していることもあって橋下徹とすごく仲が悪い。ちょうどこないだ橋下徹・元大阪市長の講演を聴く機会があったのだけれど、橋下氏は「あの京大の藤井っていうクソヤローが……」と悪口をまき散らしていた。
でもその公演の中で橋下氏はインフラ(鉄道、高速道路)の重要性を語っていて、一方で藤井聡氏もこの本の中でインフラ整備がいかに重要かをくりかえし書いている。犬猿の仲なのに主張の内容は同じなんだなあ、と笑ってしまった。方向性が近いからこそ敵対するのかな。


著者の主張はわりとシンプルだ。「高速道路や新幹線といった交通インフラを整備することで雇用は増え、社会資本は増え、経済は活性化する」と。

 我が国はインフラ先進国ならぬ、インフラ後進国と言わざるを得ない状況にある。
 しかも、自然災害の危機は、諸外国では考えられぬほどに深刻だった。普通に考えれば、インフラ政策費は増やしこそすれ、削減するなど、ありえないのではないかと言うところである。折しも我が国よりもより高いインフラを抱えている諸外国は、インフラ政策費を増やし続けているのである。それを踏まえるなら、彼らよりもより速いスピードで、インフラ政策費を増やしてもいいくらいなのだ。
 さらに付け加えるなら、高度成長期に大量につくられ始めたインフラは一挙に老朽化し、そのための維持更新費用もさらに必要とされている。だから、この一点だけをとってみても、インフラ政策費を増やさなければ、どうにも対応できなくなることは明白なのだ。
 こうした状況があるにもかかわらず、我が国は、インフラ政策費を「半分以下」にまで、過激に削減し続けているのである。
 このままでは、我が国の後進国化に、さらなる拍車がかかることは決定的だ。
 欧米と日本の格差は、さらに拡大していくことだろう。一方、かつては後進国と言われた中国は、想像を絶するほどのスピードでインフラを整備し続けている。そうした国々からも抜き去られ、近い将来、彼らの後塵を拝するようになっていくことは間違いない。

今の日本は「お金がないから」といって将来への投資をどんどん減らしている。本来なら、お金がないからこそインフラへの投資を増やしていかなければならないのに。

さらに「交通インフラが整備されれば東京への一極集中化も軽減され、災害リスクを減らすことにもなり、一極集中が緩和されれば国民の生活の質は上がり少子化にもブレーキがかかる」とも主張している。

 もちろん、グローバル化が進展する過激な国際競争に打ち勝つためには、都市に集中させることが必要なのだ──という意見がある。
 しかし、それは完全なるデマだ。
 そもそも、先進諸外国の中で、日本ほど首都にあらゆるものを集中させた国家はない(前掲の図6─1参照)。それにもかかわらず、我が国の過去十年、二十年間の経済成長率は、先進国中、文字通りの「最下位」だ。一方で、大きく力強い成長を続けるアメリカもドイツも一極集中どころか、それとは真逆に、主要都市の人口比は、年々低下しているのが実態だ。
 つまり、東京一極集中、太平洋ベルト集中構造を維持し続けなければならない合理的な理由なぞそもそも存在しない。あるとするならそれは、東京や太平洋ベルト地域の人々の「地域エゴ」くらいなのではないか。国益の視点から言えば、明らかにそのデメリットがメリットを上回っている。だからそれらの集中の解消は、今日の日本国家の最重要課題の一つであるのは明白なのだ。

通信機器の貧弱だった時代ならともかく、少なくとも情報通信の面においては物理的な距離の持つ意味合いが小さくなっているわけで、居住区やビジネスの拠点はもっと分散したほうがいいよね。

でも、今の日本で「もっと道路を! もっと鉄道を! 公共事業を!」と主張すると、「もう十分道路も鉄道もあるじゃないか」「利権を守りたいだけでしょ」っという話になってしまう。
ということで、日本がいかに他の先進国に比べて社会インフラの整備が遅れているか、インフラを充実させることでどれだけのプラスになるかということを、手を変え品を変えながら主張している。
論理はいたって明快で、少々強引なところはあるけど説得力がある。頭のいい人なんだろうなあ。



インフラ整備の重要性は納得できる。
ぼくも昔は「道路なんかもういらないだろ! 環境破壊になるし税金の無駄遣いだ!」と思っていた。でも大学に入って『公共政策論』という講義を聴いて、考えが変わった。
一兆円の減税は国民に一兆円のお金しかもたらさない(しかもそのお金は元々国民から出ているものだ)。でも一兆円の公共事業をやれば、賃金という形で国民に一兆円を渡すことができるうえに一兆円分の財を作ることができる。さらにそうやってつくった道路や橋を使って、より効率的な経済活動ができるようになる。
労働力は溜めておいて後でまとめて使うことができないのだから、特に不況期においては引き締めをするのではなくじゃんじゃん公共事業をおこなって市場にお金を回したほうがいい。
というのが『公共政策論』でぼくが教わったことだ。なるほどーな、と感心した。
おまけに公共事業をやれば労働者にまっさきにお金が回るわけだから、労働していない資産家→労働者という資産の再配分のためにも有効だ。不況だから還付金、というのがもっとも愚策だ(なんたって働いている世帯からまきあげて働いていない世帯にまわすのだから)。それ以来、減税だの還付金だの言う政治家をまったく信用していない。

公共事業が嫌われるのは、
・無駄なことに金を使う
・お金の流れが不正(特定の事業者が有利になる)
からであって、公共事業自体が悪いわけではない。悪い医者や誤った医療があるからといって「医療行為なんてものはいらない!」とならないのと同じように。

ふるさと創生事業(→Wikipedia)みたいな世紀の愚策が公共事業のイメージを地に落としてしまったんだろうね。地方に金をばらまいちゃだめですよ。



上でも書いた橋下徹氏の講演で、氏は「大阪の経済が停滞しているのは交通インフラが整備されていないからだ。それは府と市が別々に行動していて物事が決まらないからだ」と、大阪都構想の必要性を語っていた。
橋下氏の言うとおり、大阪市営地下鉄と私鉄の連携はすごく悪い。それは大阪市を越えたとたんに「府と市のどっちが金を出すんだ」という話になるために路線を延伸できないからだそうだ。

ぼくはインフラ拡張の主張には納得できるけど、だから大阪都構想だ、という話には賛同できない(数年前の住民投票でも反対に投じた)。
それを大阪でやる、大阪維新がやる、ということに納得できないのだ。
交通インフラを整備するのであれば、話は大阪市や大阪府だけにとどまることじゃない。「なんてみみっちい話をしてるんだ」と思えてしまう。
交通インフラ整備のためには近隣の都道府県、はたまた中四国や北陸・東海など、他地域とも連携しないといけない。他市長や県知事との連携を進め、さらには国を動かす。住民投票よりもそういうことをやるのが先だろうと。堺市長すら説得できない大阪維新にそれができんのかと。
もちろんとんでもなくたいへんなことだろうけど、政治家はそれぐらいの大きな構想を持っていてほしい、そして実行してほしいとぼくは思っている。



こないだNHKの『ブラタモリ』で黒部ダム建設の話をしていた。
着工から完成まで七年かかっているというから、計画段階も含めると十年以上だろう。それが「関西地方で停電が相次いでおり、電力不足を解消するために作られたというから驚きだ。十年後の電力不足解消をめざしてダム建設計画を立てる。なんと先を見据えたビジョンだろう。
2011年の東日本大震災の後、原発停止を受けて都市部が電力不足に陥った。そのとき、「じゃあ電力不足解消のために十年後の完成を目指してダムを造りましょう」と言える政治家がいただろうか(いたとしても国民が許さなかっただろうね)。そういうスケールの大きい話をできる政治家は、今ほとんどいないんじゃないだろうか。

二十年後を見すえた仕事をするのが政治家の仕事だと思う。
たとえば2016年に北海道新幹線が開業したが、北海道新幹線の計画が策定されたのは1972年だ。田中角栄が『日本列島改造論』を打ちだした年。四十年後を見すえた計画にのっとって作られた北海道新幹線は、当時の見通しのとおり、北海道に大きな利益をもたらしている。
はあ。感心してため息しか出ない。

ギザのピラミッドは数十年かかって作られたが、その後四千年以上たっても地域に富をもたらしている。公共事業というものはそういうものだ。
次の選挙に向けて減税だ増税先送りだと主張している政治家に、クフ王のミイラを煎じて飲めと言ってやりたい。そういや江戸時代にはミイラって薬だったらしいね。関係ないか。

社会インフラの整備って数十年スパンで考えないといけない話だから、国家単位でやらなきゃだめだと思うんだよね。地方分権とか言ってる場合じゃないでしょ。だいたい数十年後にその自治体が存続しているかどうかもわからないわけだし。



藤井聡氏の主張は明快であるがゆえに「ちょっと話がうますぎるんじゃないの?」と思えてしまうところもある。そんなにすべてうまくはいかんだろ、と(当然藤井氏はそのへんもわかっててあえて書いてないだけだと思うけど)。

でも「公共事業=悪」ではない、という点だけは深く納得できる。
これ以上日本に道路も線路もいらない、と思っている人にこそ読んでもらいたい一冊。



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2017年12月8日金曜日

不良中学生のチキンレースが生んだ殺人/大崎 善生『いつかの夏 名古屋闇サイト殺人事件』


『いつかの夏
名古屋闇サイト殺人事件』

大崎 善生

内容(e-honより)
2007年8月24日、深夜。名古屋の高級住宅街の一角に、一台の車が停まった。車内にいた3人の男は、帰宅中の磯谷利恵に道を聞く素振りで近づき、拉致、監禁、そして殺害。非道を働いた男たちは三日前、携帯電話の闇サイト「闇の職業安定所」を介して顔を合わせたばかりだった。車内で脅され、体を震わせながらも悪に対して毅然とした態度を示した利恵。彼女は命を賭して何を守ろうとし、何を遺したのか。「2960」の意味とは。利恵の生涯に寄り添いながら事件に迫る、慟哭のノンフィクション。

2007年に起きた強盗殺人事件。インターネットで知り合った初対面に近い男たちが共謀し、やはり面識のない女性を拉致して殺害した。いわゆる「闇サイト殺人事件(→Wikipedia)」。
かつては、今のように誰もがスマートフォンを手にしておらず、テレビの報道なんかでは「インターネットはネクラなやつがやる陰湿なもの」という扱いを受けていた時代。そうしたイメージを裏付けるような事件だったので、「インターネットの闇」というような言葉とともにセンセーショナルに報道されていた。

そんな事件について、被害者の生い立ち、犯行の一部始終、そして事件後の裁判まで克明に記録したノンフィクション……かと思ったら。

うーん、これはノンフィクションじゃなくて小説だなあ。それも趣味の悪い。

 左腕にできた激しい傷は語っている。
 私は生きたいのだ。
 それが富美子には聞こえる。体に残した傷痕で利恵は自分への最後のメッセージを伝えようとしている。言葉はもう届かない。手紙も電話もメールもできない。でもこうして、自分の体に傷を残すことで母に伝えることができるかもしれないと利恵は考えたのではないだろうか。母ならばきっとその意味を汲み取ってくれる。
 富美子は静かに利恵の手首を指でなぞった。
 そこには利恵の生きることへの強い意志が残されていた。

こういう描写がちりばめられていて、すごく気持ち悪さを感じた。

「無計画で残忍無比な犯人」と「最期まで毅然として立派だった被害者」という対比として書いているのはまあいいとして、作者の「こうあってほしい」という理想を含んだ描写が強すぎて、人が残酷に殺された事件を美談にするなよという嫌悪感が生じる。

たとえばこんな文章とか。
(「瀧」は被害者の恋人の男性、「利恵」は被害者)

 瀧にとっては忘れられない光景。
 目に染みるような浴衣姿の利恵。
 手にはビールとイカ焼き。
 ベンチに並んで座り、自分の方へ向けて団扇をあおいでくれる利恵。
 いつまでも失いたくない。
 そう思うと胸が苦しくなる。
 これが愛しさなんだ。
 そんなことを教えられた真夏の一日。

おえー。なんだこのポエム。
いやポエムを書いてもいいんだけど、勝手に実在の人物の心情を代弁すること、そして殺人事件を使って美しい物語にしあげることが気持ち悪い。

ノンフィクションって、作者が感情をあらわにしたらだめだと思うんだよね。事件が凄惨で衝撃的であるほど、冷静な筆致で書いてほしい。新聞記事のような客観的な文章のほうが、読む人の想像力がはたらくのに。

どうしてもポエティックな美談を書きたいなら、ノンフィクションの体裁をとらずに、事件を題材にした小説を書けばいいのに。桐野夏生の『グロテスク』(東電OL殺人事件が題材)や、やはり桐野夏生『東京島』(アナタハンの女王事件が題材)みたいに。


同じ作者の『聖の青春』『将棋の子』『赦す人』では、そんな気持ち悪さを感じなかったのにな。
ぼくは書かれたものに対してあまり倫理観を求めないほうだと思うけど(ピカレスクものなんかも好きだ)、それでも殺人事件を踏み台にして美しい物語を書くことには生理的な不快感をおぼえる。



とはいえ、犯人たちが殺人に至るまでの描写や、公判の様子なんかは丁寧な取材に基づいていて、かつ冷静に書かれていて良質なルポルタージュだった。

ずっとこんな調子だったらいいノンフィクションだったんだけどな。

 神田がこれまで主にやってきたことはほとんどが詐欺である。神田にとっては強盗などという短絡的なことではなく、詐欺組織のようなものを立ち上げてゆっくりと稼いでいこうという考えがあった。しかし目の前にいる男たちは金に困っていた。堀も今週中に何とか三十万円欲しいという。川岸も西條も同様に切羽詰まっている。「殺すのか」という神田の問いに、同意する二人。
 川岸は後に虚勢の張り合いだったと言っているが、しかし見知らぬ三人が見栄を張り合っているうちに強盗殺人も辞さない方向へといつの間にか話は転げ落ちていく。

犯人の三人が集まったときは、おそらく誰も人を殺そうとは思っていなかった。詐欺や強盗で金さえ手に入れられればいい、と思っていた。どうやって金を手に入れようかといきあたりばったりに行動していることや、犯人のひとりが犯行直後に自首していることからも、「闇サイト殺人事件」という言葉から連想されるような殺人願望はなかったんだろう。
でも、三人が(当初は四人)顔を突きあわせ「おれのほうがワルだぜ」という意地の張り合いをしているうちに、誰も「殺人はやめとこう」と言いだせないまま突き進んでしまった、というのが本当のところなんじゃないだろうか。いってみれば、不良中学生のチキンレース。「びびってんじゃねーよ」と言われるのが怖くて降りるに降りられなくなってしまっただけ。

でもそんなばかばかしいチキンレースでも、とうとうほんとに人を殺すところまで突き進んでしまうのだから集団心理というものは恐ろしい。
「悪友と一緒にいたせいで、ひとりではぜったいにしないような悪さをしてしまった」という経験はぼくにもあるから、犯人たちの心理状態もわからないでもない。もちろん人を殺すまで至る気持ちまでは理解できないけど。

この犯人たちだって、インターネット上で犯行計画を練っているだけなら冷静に「殺人はやめとこう」ってなって振り込め詐欺ぐらいで済んでいたかもしれないと思う(それもあかんけどさ)。じっさいに顔をあわせてしまったことでマウントのとりあいがはじまり、殺人事件にまでエスカレートしてしまったんじゃなかろうか。
だからこの事件、「闇サイト殺人事件」という名前はふさわしくないと思うんだよね。ほんとに恐ろしいのは生身のコミュニケーションだ。


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2017年12月4日月曜日

パワーたっぷりのほら話/高野 和明『13階段』


『13階段』

高野 和明

内容(e-honより)
犯行時刻の記憶を失った死刑囚。その冤罪を晴らすべく、刑務官・南郷は、前科を背負った青年・三上と共に調査を始める。だが手掛かりは、死刑囚の脳裏に甦った「階段」の記憶のみ。処刑までに残された時間はわずかしかない。二人は、無実の男の命を救うことができるのか。江戸川乱歩賞史上に燦然と輝く傑作長編。
過失致死で服役後に仮出所した青年がとある死刑囚の疑いを晴らすために刑務官と証拠探しをする、というストーリー。

導入はちょっと不自然。そんなにうまく事が運ぶかね、よく知らない人が持ってきた話にほいほい乗りすぎじゃない? という印象だった。作者としては早く「冤罪を晴らすための証拠探し」に持っていきたかったんだろうけど、そこはもうちょっと丁寧に話を進めてほしかったな。
死刑囚が「おれは冤罪だ!」と主張しているならともかく、彼は犯行時の記憶がなく、さらに被害者の遺品を持っていたわけで、そんな「誰がどう見ても犯人」な見ず知らずの人の言い分をそうかんたんに信じることができるだろうか?

ということで導入はいまいち入りこめなかったが、大量に散りばめられた伏線が最後に次々に回収されていくところではページをめくる手が止まらなくなった。真相は偶然が過ぎるけど、それにしても見事な筋書き。これを個人で考えてるってのがすごいよね。大作映画ぐらいの複雑に入り組んだプロットだ。
これがデビュー作かー。死刑制度に関する重厚な知識といい複雑かつ丁寧な物語の組み立て方といい、途方もないスケールだ。
江戸川乱歩賞ってすごいね。新人賞でこのレベルが求められるのか。


高野和明の小説を読むのは『ジェノサイド』に続いて二作目。『ジェノサイド』もそうだけど、すごく上手にほらを吹く人だね。よくよく考えたら到底ありえない話なんだけど、圧倒的な情報、綿密に設定されたディティール、映像的な迫力ある描写で嘘を嘘と思わせない。「でもそんなにうまくいかないでしょ」という批判を力でねじ伏せるというか。
小説家としてすごい力を持ってる人だと思う。



死刑と冤罪というテーマって意外とミステリでは多くないよね。
ミステリの世界では連続殺人事件もめずらしくないから、その犯人たちの多くは死刑になっているはずなんだけど、ミステリの多くは謎の解明と犯人逮捕(または逃亡)がゴールになっているから、裁判→死刑確定→死刑実行が描かれることはほとんどない。

「ああ犯人が捕まってよかった」と思っているところに「でもこの犯人は後に処刑されます。刑務官がボタンを押して絞首刑にされます」って書いちゃうとすっきりしないもんね。

ミステリでも現実でもぼくらはなるべく死刑について考えないようにしているんだなということを改めて気づかされたね。


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2017年11月30日木曜日

ふわふわした作品集/『文学ムック たべるのがおそい vol.1』【読書感想】


『文学ムック たべるのがおそい vol.1』

西崎 憲 (編集)


【執筆陣】
<巻頭エッセイ>
「文と場所/夢の中の町」 穂村 弘 
<創作>
「あひる」 今村 夏子 
「バベル・タワー」 円城 塔 
「日本のランチあるいは田舎の魔女」 西崎 憲 
「静かな夜」 藤野 可織
<翻訳>
「再開」 ケリー・ルース 岸本 佐知子・訳 
「コーリング・ユー」 イ・シンジョ 和田 景子・訳
<短歌>
「はばたく、まばたく」 大森 静佳
「桃カルピスと砂肝」 木下 龍也
「ひきのばされた時間の将棋」 堂園 昌彦
「ルカ」 服部 真里子
「東京に素直」 平岡 直子
<特集 本がなければ生きていけない>
「虚構こそ、わが人生」 日下 三蔵
「Dead or alive?」 佐藤 弓生
「楽園」 瀧井 朝世
「ただ本がない生活は想像のむこう側にも思い浮かばず」 米光 一成
穂村弘、岸本佐知子という「ぼくの好きな変な文章を書く人」の両巨頭が執筆陣に名を連ねているのを見て(岸本さんは翻訳だけど)購入。

小説、短歌、翻訳小説、エッセイから成るムックなんだけど、なんだかふわふわした作品が並んでいるという印象だった。夢を見ているみたいというか。
ぼくは地に足のついた物語のほうが好きなので正直あまり性に合わなかったな……。

しかし今村 夏子『あひる』と西崎 憲『日本のランチあるいは田舎の魔女』は、幻想的な雰囲気と妙なリアリティが融合していておもしろかったな。森見登美彦の描くファンタジーみたい。なさそうである、ありそうでない話。特に『日本のランチあるいは田舎の魔女』は劇団員のなんでもない日常から突然霊能力バトルになって意表を突かれた。どんな展開だと思ったが不自然ではなく、これは表現力のなせる業なんだろうなあ。



米光 一成『ただ本がない生活は想像のむこう側にも思い浮かばず』に出てくる一節。

 人にあげたり、処分したとたんに、必要になる(気がする)。名著は手に入りやすいが、トンデモな本(ありがとうの重要さを説くため何十ページもありがとうと繰り返し印刷されてる本や、短歌で綴った聖書や、とんでもない誤植がある本など)は、これを手放したら二度と手に入らないという恐怖のために手放せず、名著を評判の高いものばかり手放してしまう(「バカの棚になる」と読んでいる法則である)。

これ、本コレクターとしてはわかるなあ。
電子書籍のおかげでそんなことなくなったけど、基本的に本って一期一会だからねえ。不人気な本ほど二度と手に入らないからなかなか手放せないんだよねえ。
ぼくの本棚もバカの棚になってるなあ。まあバカな本ばかり買ってるからかもしれんけど。



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2017年11月22日水曜日

法よりも強い「空気」/山本 七平『「空気」の研究』【読書感想】


『「空気」の研究』

山本 七平

内容(Amazonより)
「空気を読む」ことが誰にも求められる現代の必読書!
社会を覆う「空気」の正体を正面から考察し、1983年の初版以来読み継がれ、日本の針路が云々されるたびにクローズアップされる古典的名著。
〈以前から私は、この「空気」という言葉が少々気にはなっていた。そして気になり出すと、この言葉は一つの〝絶対の権威〟の如くに至る所に顔を出して、驚くべき力を振っているのに気づく。(中略)至る所で人びとは、何かの最終的決定者は「人ではなく空気」である、と言っている〉
昭和期以前の人びとには「その場の空気に左右される」ことを「恥」と考える一面があった。しかし、現代の日本では〝空気〟はある種の〝絶対権威〟のように驚くべき力をふるっている。あらゆる論理や主張を超えて、人びとを拘束することの怪物の正体を解明し、日本人に独特の伝統的発想、心的秩序、体制を探る、山本七平流日本学の白眉。

ときには法よりも強く社会を支配してしまう「空気」。

最近「福井県で中学生が自殺した事件を受けて、文部科学省が全国に生徒指導の見直しを通知した」というニュースを見た。「空気に支配されすぎだろ」と感じた。
たしかに人が死んでるから大きな事件だし再発防止に向けた取り組みはしていかないといけないんだけどさ。でも教育って「今日から変えます!」っていって来月に成果が出るものじゃないわけで。結果が出るまでには早くたって十年かかる。それを「なんとかしなきゃいけない"空気"だから」ってトップが右往左往してたらそれにふりまわされる現場はたまったものじゃないだろうな。
一人の自殺者のために一万人の生徒の教育プログラムを変更するってどう考えてもおかしいんだけど、でも「自殺した生徒はお気の毒ですけど、それはそれとして一過性の雰囲気に流されずに従来通りの方針でやっていきます」とは言いだせない"空気"だったんだろうな。文部科学省は。

会社で会議をやったときなんかに、その場の出席者全員が「こんな会議意味ない」と思いながら、空気的に誰もそれを口に出すことができず「では目標達成に向けて各人がさらに努力してまいるということで……」みたいななんの意味もない結論を出して、誰も「もう終わりにしよう」とは言えないまま毎週会議が開かれつづける、ということがよくある。

たぶん行政や政治の世界では、利益追求という明確な指標がない分、より空気に支配された決定をおこなっているのだろう。

岩瀬 彰『「月給100円サラリーマン」の時代』に、戦争に向かう時代のサラリーマンについてこんな記述があった。
 当時のホワイトカラーも、極端な貧富の格差の存在や政財界の腐敗には内心怒りを感じてはいた。だが、多くのサラリーマンはただじっとしていた。文春のアンケートで資本主義は行き詰まっていると訴えた二十九歳のサラリーマンは「自分の生活のためと、プチブル・インテリの本能的卑怯のために現代社会生活の不合理と矛盾を最もよく知りながらも之が改革運動の実際に参与出来ない」と言い、それが「一番の不満です」と述べている。
空気に支配され、空気に逆らうことができず、徴兵されて死んでいった。命を落とすような状況になっても空気には抗うことができなかった。
たぶんぼくもその時代に生きていたら同じ末路をたどったと思う。
独裁者が始めた戦争ならその人物が退けば流れは止まったかもしれないが、空気ではじまった戦争だけにかんたんに止められなかったのかもしれないな。


この『「空気」の研究』、内容は何回でいまいち理解できなかった。自動車公害とか共産党とか田中角栄の話とか、「当時は誰でも知っていた話」があたりまえのように例えとして出てくるので、三十年以上たった今読むと「例え話があることでかえってわかりにくい」という印象を受ける。

ただまあ、「ぼくたちはたやすく空気に支配される」ということを自覚できるだけでも読む価値はあるかなと思う。

 一方明治的啓蒙主義は、「霊の支配」があるなどと考えることは無知蒙昧で野蛮なことだとして、それを「ないこと」にするのが現実的・科学的だと考え、そういったものは、否定し、拒否、罵倒、笑殺すれば消えてしまうと考えた。ところが、「ないこと」にしても、「ある」ものは「ある」のだから、「ないこと」にすれば逆にあらゆる歯どめがなくなり、そのため傍若無人に猛威を振い出し、「空気の支配」を決定的にして、ついに、一民族を破滅の淵まで追いこんでしまった。戦艦大和の出撃などは〝空気〟決定のほんの一例にすぎず、太平洋戦争そのものが、否、その前の日華事変の発端と対処の仕方が、すべて〝空気〟決定なのである。だが公害問題への対処、日中国交回復時の現象などを見ていくと、〝空気〟決定は、これからもわれわれを拘束しつづけ、全く同じ運命にわれわれを追い込むかもしれぬ。

センセーショナルな出来事が起こるたびに右往左往してもろくな結果は生まないからね。
おい文部科学省、おまえらのことだぞ!


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【読書感想エッセイ】岩瀬 彰 『「月給100円サラリーマン」の時代』



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2017年11月21日火曜日

くだらないエッセイには時間が必要/北大路 公子『流されるにもホドがある キミコ流行漂流記』【読書感想】

『流されるにもホドがある
キミコ流行漂流記』

北大路 公子

内容(e-honより)
好きなものは、おビールとお相撲と蟹など。平和と安定を好むキミコ氏が、まったく興味のない「流行」に挑んだ!人気アプリに触発された感涙の人情話、某流行ランキングに従い、北陸新幹線に乗って金沢を目指す旅行記、かの名作に想を得たハロウィン物語、北海道の土産についての考察と試食レポなど。多彩な筆致を堪能できる傑作エッセイ集。

流行にまったく興味のないエッセイストの北大路公子さんが、あえて苦手な流行りものに挑む、というエッセイ。

「流行りものについてほとんど情報がない状態であれこれ考察する」というパートと、「いざ流行りものを見にいく/食べてみる」というパートに分かれてるんだけど、前者はじつに味わいがある。

相撲はいいよう。なにしろルールがずっと一緒だもの。変更とか全然ないもの。「足の裏以外のところが土俵についたら負けね」「あと土俵から出ても負けね」って、もう何百年もそれしか言ってないもの。
 時折、百年前の横綱の写真をネットで見つけては、うっとりと眺める。同じだ、と思う。髷で裸で化粧まわしで仁王立ち。おしなべて顔がデカい印象はあるけれど、それ以外は今の横綱と完璧に同じ。粗い画質の写真を前に、私は「ウェアのデザイン性」という概念のない世界の安定感を心ゆくまで味わう。変わらないって本当に素晴らしい。私の安寧はここにある。

言葉選びのセンスと内容の無さが光っている。

ところがルポルタージュ部分はいまいちキレが悪い。いいかげんなことを書いちゃいけない、情報を伝えないといけないという思いが先行しているからか、「どうでもいいことをテキトーに書くおもしろさ」がすっかり鳴りをひそめている。
業務報告的な文章になってしまっていて、せっかくのおもしろさが死んでるなあと残念だった。
「実体験してみて、三年後に記憶だけでそのときの様子を書く」とかだったらもっと肩の力が抜けておもしろいエッセイになっただろうなあ。




ぼくもこうしてインターネットの隅っこでブログをつづっているけど、最近あった出来事ってどうも書きにくい。
情報がありすぎて、どうでもいいことまで書いちゃうんだよね。札幌に行ったときにこんなことがありました、って伝えたいのに、関空から飛行機で千歳空港へ行ってそこから鉄道で……みたいに主題と関係のないことをだらだらと書いちゃう。「札幌で」から派内をスタートさせりゃあいいんだけど、情報を捨てるのって難しいんだよね。せっかくだから書きたい。
でも十年前のことを記憶だけで書こうと思ったら、たいしておもしろくない情報はとっくに脳内から消えている。必然的に印象に残った出来事だけを書くことになり、ぽんぽんとテンポよく書けて気持ちがいい。

ビジネス文書は新鮮なうちに素材をそのまま形にしたほうがいいんだろうけど、くだらないエッセイを書くときは脳内で寝かせておいて粗熱をとったほうがいいものが書ける、というのがぼくの経験上の法則。



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2017年11月20日月曜日

苦痛を回避できるようになったら/小出もと貴『アイリウム』【読書感想】


『アイリウム』

小出もと貴

内容(Amazonより)
1錠飲めば1日分の記憶を飛ばすことができる薬、アイリウム。薬が効きはじめると、他人から見れば意識もあり普段通りの生活をしているように見えて、その間の記憶がまったくなくなってしまう。つまり、嫌な思いをする出来事の前に飲んでおけば、その事を思い出すことなく日常生活が送れるのだ。記憶を薬でコントロールできるようになった時、その人の生はどんな彩りになるのか…。

「薬が効きはじめると、他人から見れば意識もあり普段通りの生活をしているように見えて、その間の記憶がまったくなくなってしまう薬、アイリウム」をめぐる短篇漫画集。
映画監督の卵、兵士、ロックンローラー、ママ友、ホストなどがアイリウムを使い、アイリウムに翻弄される姿が描かれている。

アイデアはおもしろいのだが、設定の雑さが気になってしまう。
薬の効き方に個人差がまったくないこととか、大量服薬したら1錠あたりの効き目が落ちるのではなくなぜか増幅することとか、記憶がすっとぶという超ヤバい薬なのに法的にぜんぜん規制されていないこととか。いくらなんでも甘すぎるだろう。
いやSFでがっちがちに整合性を求めるのは野暮だとわかってるけど。でも中途半端にこの薬ができた経緯とか設定しているから、だったらほかの矛盾点にも納得のいく説明をつけろよな、と思ってしまう。もっと上手に嘘をついてくれ。できないんだったら星新一みたいに「こんな薬ができました」ぐらいにして非リアリティに徹したらいいのに。



「1日分の記憶が消える薬」はできないだろうけど、「嫌なことを感じなくなる薬」はそのうちできるんじゃないだろうか。苦痛、悲しみ、怒りなどを感じる脳の部位を麻痺させる薬。いってみたら精神的な麻酔薬だね。
兵士とか死刑執行人とかが「嫌だけどやらなきゃいけないこと」をするときにあらかじめ飲んでおくと、ストレスを感じたりPTSDになったりしない。仕事で謝りにいかなきゃいけないときとか、恋人と別れ話をするときとかにも使える。

苦痛を回避できるようになったらどうなるんだろうなあ。とってもハッピーな生活が待っているのだろうか。
しかし苦痛を感じないというのはブレーキが効かなくなることでもあるわけで、みんなが精神的麻薬を使ったら社会の秩序は崩壊するかもね。ポジティブな人って周囲に迷惑かけまくりだったりするもんね。世の中って「怒られるのが嫌だから」「捕まりたくないから」とかで成り立っているところも大きいもんなあ。

って考えると、薬学が進歩してもぼくらが嫌なことから逃れられる日は来ないかな。
嫌なこととは一生付き合っていくしかないか。嫌だけど。



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2017年11月16日木曜日

1970年頃の人々の不安/手塚 治虫『空気の底』【読書感想】


『空気の底』

手塚 治虫

【目次】
ジョーを訪ねた男
野郎と断崖
グランドメサの決闘
うろこが崎
夜の声
そこに穴があった
カメレオン
猫の血
わが谷は未知なりき
暗い窓の女
カタストロフ・イン・ザ・ダーク
電話
ロバンナよ
ふたりは空気の底に
手塚治虫中期の短篇集。
これらの作品が発表されたのは1968~1970年。この3年間に起こった事件を調べてみると、3億円事件、学生運動による東大入試中止、人類初の月面着陸、大阪万博、よど号ハイジャック……。なんとまあ盛りだくさん。超濃密な3年間だね。
今ぼくが「昭和」という言葉から漠然とイメージするのはこのあたりの時代だな。高度経済成長で勢いがあり、公害や安保闘争といった社会のひずみが表面化した時代でもある。

で、そんな時代の空気を色濃く反映した、グロテスクで虚無的な内容の短篇が集まっている。
ベトナム戦争帰還兵と黒人差別を絡めた『ジョーを訪ねた男』、田舎の村に伝わる伝説と公害病をつなげた『うろこが崎』、東京に核爆弾が落とされる『猫の血』、人類最後の生き残りの恋愛を描いた『ふたりは空気の底に』など、なんとも救いのないショートショートが並んでいる。オチは鋭くないが、じわっとした不快感・不安感が広がる。

1970年頃の人々の不安を表しているんだろうな。
冷戦まっただなかで、いつ核戦争がはじまるかわからない世界情勢。公害や環境問題が問題視され、科学の進歩の先にあるのが希望ではなく絶望ではないかと気づきはじめた時代。それが手塚治虫の漫画ににじみ出ている。

こうした不安は今でも解消されていないけど、たぶん50年前よりはずっと軽減されている。
今でもあちこちで戦争は起こっているけど、世界中を巻きこむ大国同士の核戦争はたぶんしばらく起こらないだろう(とぼくらは思っている)。
エネルギー不足や環境問題は依然としてあるけれどひところよりは状況が改善しているし、きっとどこかの賢い人が解決してくれるだろう(と思っている)。

今のぼくたちが抱えている不安は「貧困への不安」じゃないだろうか。
50年前、それなりの会社に勤めていて、子どもにも恵まれた人は「将来自分が貧困生活を送るかもしれない」という不安はどれぐらい感じていたんだろう。想像するしかないけど、ほとんど感じていなかったんじゃないだろうか。暮らしは右肩上がりで良くなっていくし、年金はあるし、困ったら子どもが助けてくれる。そんな思いが強かったはずだ。
今それと同じように将来に対して楽観視している人はほとんどいない。会社勤めでも、そこそこの貯金があっても、年金に加入していても、子どもがいても、その不安は拭えない。
若者が減って老人が増えて人口が減っていくという人類が経験したことのない時代に直面して、ぼくらは貧困生活に転落しないかと不安でいっぱいだ。



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2017年11月14日火曜日

行司にスカウトされた男/三十六代 木村庄之助『大相撲 行司さんのちょっといい話』【読書感想】


『大相撲 行司さんのちょっといい話』

三十六代 木村庄之助

内容(e-honより)
大相撲生活49年!その正確な裁きと美しい所作から名行司と称され行司の最高位「木村庄之助」を襲名。その後、惜しまれつつ引退した著者がコッソリ明かす、土俵のウラ話エッと驚き、フムフムと納得!大相撲ファンはもちろん、「裏方仕事」に興味津々の方も必読!

まず悪い点を言っておくと、つまんねえタイトルだってことだね。
なんかコンビニに並んでる安っぽいマンガのタイトルみたい。

まあタイトルはべつにして、内容はおもしろかった。

こないだ 『進学か、就職か、それとも行司か って記事を書いたんだけどね。
行司ってどんな人がなるんだろうと疑問に思ったよって話。力士はわかるじゃん。身体が大きくて力持ちがなるんだろうなって。でも行司を志す理由はよくわかんないなって。
この本に答えは書いてありました。今は相撲好きの少年や体格が伴わず力士になることを断念した少年が志願するらしい。でも三十六代木村庄之助さんの場合は、なんと"スカウト"だったんだって。
相撲部屋の親方のほうから鹿児島にいる少年を「君、行司になる気はないか」って誘ってきたのだとか。スカウトされて力士になったって話は聞いたことあるけど、行司もスカウトするのか。
そうやってスカウトした少年が後々行司の最高位となる木村庄之助になったわけだから、スカウトした親方の目に狂いはなかったわけだ。どこに光るものを感じたんだろうね。公平かつ迅速なジャッジをしそうとか、見る人が見ればわかるものなのかね。




一年を 二十日で暮らす いい男
って狂歌がある。
昔の相撲は年に二場所、一場所十番しかなかったから年に二十回相撲をとるだけでいいなんてうらやましい身分だ、って意味。もちろん稽古だの巡業だのあるけれど。

でも、もっといい男なのが行司だね。なんたって最高位木村庄之助ともなれば行司を務めるのは一日に一番、結びの一番だけなんだから。ハッケヨイって言っておけばいいんだから楽な商売だ。
なんて思いません? ぼくは思ってましたよ。

 行司の仕事は大きく分けて、5つあります。
 1つ目は、土俵に上がって、相撲の勝負を裁くこと。そして2つ目、本場所中は毎日、審判部と協議して、力士の取組を作ることもします。翌日の取組は、前日までの力士の星取表をあれこれ見比べながら、より盛り上がる取組を考えて、組み合わせていきます。3つ目は番付を書く(相撲字の習得)こと。また4つ目、本場所のとき「東方、稀勢の里、茨城県牛久市出身、田子ノ浦部屋」という場内アナウンスをおこなうのも、行司です。最後の5つ目には、地方巡業の時の会計や、引退相撲、力士の冠婚葬祭などのイベントごとの事務作業に携わるという業務もあります。

いろんな仕事してたんですね、ごめんなさい。
番付を書いたりアナウンスするのも行司なのね。意外。
体力、瞬発力、判断力、発声、書道、経理能力、事務処理能力などいろんなスキルが求められるわけで、これはたいへんな仕事だあ。

中でも番付を書くのはたいへんそう。
なんと手書きで、しかも下書きなしの一発勝負で書いているらしい。おまけに相撲字という独特のフォントを習得しないといけないため、番付を書くまでには何年もの修業が必要なのだとか。

 会議に立ち会った私は、自分自身で一覧表を作り、後日、相撲協会から出た正式なデータと見比べて、間違いがないかをチェックします。
 3〜4日間かけて、データをチェックした後、今度は協会に届いている改名届や引退した力士の情報をチェックして、人数を合致させる。それで、ようやく翌場所の番付を書く上でのデータが完成するのです。
 その後、助手2人と私で、データの読み合わせをおこなって、誤りがないか再度確認。「番付がすべての世界」であるがこそ、こうした作業はきっちりおこなわなければならないのです。
 番付を書くのは、10日間です。
 1日7時間から10時間程度、途中で1時間に1度は筆を休めながらの長丁場です。

ひゃあたいへんだ。しかも下書きなしで筆で書いていくわけだから、一ヶ所でもまちがえたら最初からやりなおしなのかな……。おお、おそろしい。[ ctrl ] + [ z ]で元に戻すってわかにはいかないもんね。
集中力のないぼくみたいな人間にはぜったいにできない仕事だ。こないだふざけて「行司になる道もあったのに進路指導の先生は教えてくれなかった!」って書いたけど、そうか、先生はぼくにはその資質がないと思ったからあえて行司を勧めなかったんだね。さすがだ先生、仰げば尊しわが師の恩。



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2017年11月13日月曜日

冤罪は必ず起こる/曽根 圭介『図地反転』【読者感想】


『図地反転』

曽根 圭介

内容(e-honより)
総力を挙げた地取り捜査で集められた膨大な情報。そのなかから、浮かび上がった一人の男。目撃証言、前歴、異様な言動。すべての要素が、あいつをクロだと示している。捜査員たちは「最後の決め手」を欲していた―。図地反転図形―図と地(背景)の間を知覚はさまよう。「ふたつの図」を同時に見ることはできない。ひとたび反転してしまったら、もう「元の図」を見ることはできない。
『鼻』『藁にもすがる獣たち』『熱帯夜』に次いで、曽根圭介作品を読むのは4作目。
今まで読んだ中でいちばんシリアスな話だった。
他の作品はグロテスクな描写の中にもどこか乾いたユーモアがあったのだが、『図地反転』は冤罪という重いテーマを扱っていることもあってか終始落ち着いた筆致だった。
個人的には曽根圭介のブラックユーモアが好きなのでちょっと寂しいね。

静岡県で起こった女児殺人事件を軸に、かつて妹を殺された刑事、実の娘からいわれのない罪を着せられている老人、無実の罪で服役していたと主張する元受刑者とそれぞれ立場の異なる三人の行動が語られる。
複雑にからんだプロットは曽根圭介らしいのだが、いくつかある謎は最終的に半分くらいしか解決しない。
放りだすような終わり方なのでスッキリ解決するミステリを読みたい人にはおすすめできないけど、個人的にはこういうしこりの残るエンディングは嫌いじゃない。冤罪事件という一筋縄ではいかないテーマを扱っている以上、安易なハッピーエンドにするよりも余韻を残して読者にパスして終わるほうが誠実だと思う。

とはいえ満足のいくミステリだったかというと、いやそれは……。
たぶんタイトルが良くなかったんだろうな。
タイトルの『図地反転』は、見方によってまったく異なるものが見える図形のことなんだけど(有名なのは表紙にも書かれているルヴィンの壺)、『図地反転』にそこまでの意外性のある展開はない。
あっと驚くどんでん返しを期待して読んでしまうタイトルだけに「えっ、ぜんぜん意外じゃないじゃない……」と肩透かしを食らってしまった。

たぶん同じように感じた読者が多かったのだろう、文庫版では『本ボシ』に改題されている。そのタイトルもいまいちしっくりこないけど『図地反転』よりはまだましかなあ……。



ぼくが "冤罪" について思うのは、いいかげんに冤罪は起こりうるという前提のシステムをつくろうよ、ってこと。
これまでにも多くの冤罪事件が起こっているし、まちがいなく今後も起こる。殺人事件の冤罪なんかだと大きく報道されるけど、軽微な犯罪だったらもっとたくさん起こっているんだろう。
とはいえあんまり冤罪を気にしすぎるあまり未解決事件が増えるのもそれはそれで良くない。このへんの綱引きは難しいところだ。

もちろん冤罪が起こらないに越したことがないけど、「冤罪をなくせ」ってのは意味がない話で、なくせるものならとっくにやっている。
ミスをなくすシステムは作れないのだから、ミスを減らすシステム、ミスが起こったときにリカバリーできるシステムを作らなきゃいけない。

だったら「一定数、冤罪は起こりうる」という前提で、冤罪被害をできるだけ小さくすればいい。
具体的には刑が確定するまで報道は差し控えるとか、実名報道はやめるとか。冤罪で受けるダメージって、拘束されるという時間的被害も大きいけど、著しく名誉が傷つけられてその後の人生に悪影響が出るってことも大きい。新聞でもテレビでも、無実の罪で捕まったときは実名で大きく報道されるのに、無罪だとわかった瞬間に匿名になるからね。逆だろ。

今の世の中って警察に対しても犯罪者に対しても、「一度ミスを犯した人に対して異常に厳しい社会」だよねえ。いや昔はもっとそうだったのかもしれないけど。
もうちょっと寛容であってほしいと、しょっちゅう人生の過ちを犯している人間としては切に願うばかり。

【関連記事】

清水潔 『殺人犯はそこにいる』




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2017年11月9日木曜日

驚異の行動力をもった公務員/高野 誠鮮『ローマ法王に米を食べさせた男』【読書感想】

『ローマ法王に米を食べさせた男
過疎の村を救ったスーパー公務員は何をしたか?』

高野 誠鮮

内容(e-honより)
北陸・能登半島の西端に位置する石川県羽咋(はくい)市は、かつて「UFOの里」として町おこしに成功し、NASA特別協力施設の宇宙科学博物館「コスモアイル羽咋」開設等で話題を呼んだ。その仕掛け人が、科学ジャーナリスト、テレビの企画・構成作家を経て帰郷し、羽咋市役所の臨時職員となった高野誠鮮氏だ。正職員に昇格した同氏はその後、過疎高齢化で「限界集落」に陥った農村を含む神子原(みこはら)地区の再生プロジェクトに取り組む。年間予算わずか60万円ながら、数々のユニークなアイディアにより、4年間で若者の誘致や農家の高収入化に成功した。本書では、「スーパー公務員」と呼ばれた高野氏自らが、プロジェクト成功までの経緯、方法、考え方等を公開。その後の取り組みも含め、地方創生のあり方に一石を投じている。著者は現在羽咋市教育委員会文化財室長。

おもしろかった!
過疎化・超高齢化が進む石川県羽咋市の神子原地区を「UFOの里」「ローマ法王が食べた米の生産地」として有名にした市職員の話。

書かれている話題は大きく三つ。
「どうやって神子原地区の農業の収益を高めたか」「UFOを使っての町おこし」「無農薬栽培でTPPに勝つ」
最後の無農薬栽培のあたりは『奇跡のリンゴ』を読んでいたので(感想はこちら)より理解しやすくておもしろかった。併せておすすめ。

この人の話はおもしろすぎるので話半分に聞かないといけないが、それにしてもこの行動力には驚嘆。

 神子原を英語に訳すと、
「the  highlands  where  the  son  of  God  dwells」
 になる。「サン・オブ・ゴッド」は「神の子」、神の子といえば有名なのはイエス・キリストではないか。すると神子原は、キリストが住まう高原としか翻訳できないんです!
 ならば、キリスト教で最大の影響力がある人は誰か? 全世界で11億人を超える信者数がいるカトリックの最高指導者であるローマ法王(教皇)しかいない。けれどローマ法王ベネディクト16世(当時)はドイツの出身、ふだんからお米を食べているか? いいえ、そんなこと考えるまでもありません。食べてもらうんです、食べてもらうよう説得するんです! 善は急げです。すぐに手紙を出しました。
「山の清水だけを使って作った米がありますが、召し上がっていただく可能性は1%もないですか」

こんなでたらめな思いつきで行動してしまうのだから(そしてほんとにローマ法王に食べてもらえるのだから)すごい。
これを読むと、自分がいかに想像力にふたをして生きているかがわかる。ふつうはどっかでブレーキをかけちゃうと思うんだよね。「神子原だからキリスト教だなんてこじつけもいいところだ」「ローマ法王が食べてくれるわけがない」「食べてくれたとしてもだからといって米が売れるとはかぎらない」って。
でもやったことといえばローマ法王宛てに手紙を出しただけ。失敗したって損するのは切手代数百円だけ。成功すれば大きなリターンが得られる。って考えたら断然やったほうが得なんだけど、でもふつうは"良識"がじゃましちゃってできないよね。

これができたのはこの人が裁量を持って仕事をしていたからで、上司が「犯罪以外なら何をやってもおれが責任をとる」って言ってくれたからだよね。
公務員でも大企業でも意思決定に多くの人が関わるほど、奇想天外な思いつきは排除されてしまう。
「組織内の事前確認」ってほぼマイナスにしかならないよね。ぼくも「組織内でお伺いを立てて確認をとって報告する」という業務の多さに嫌気がさして仕事を辞めたことがある。すごく手間がかかるわりに何も生みださない業務だからね。結果、前例と同じことだけやるのがいちばん楽ってなっちゃうし。


あとさ。
「山の清水だけを使って作った米がありますが、召し上がっていただく可能性は1%もないですか」
この訊き方、うまいよね。
ローマ法王に手紙を出しても読むのはたぶん法王本人じゃなくてお付きの人。「召し上がっていただけないですか?」だったら「いやーたぶん無理だと思いますわー」ってなるだろうけど、「召し上がっていただく可能性は1%もないですか」だと「1%もと言われると、確認とってみないとわかりません」になるもんね。で、確認をとってみたら案外いけたり。


高野誠鮮さんってほんとにすごい人なんだけど、でも実際、同僚だったらやりづらそうだなあ。どんどん突っ走っちゃうもんね。
きっと敵も多かったんだろうなあ。出る杭は打たれるから。
組織には出る杭も必要だよね。
もっとも、すごい人が出る杭だからといって、出る杭がすごい人とはかぎらないけどね。

公務員って守旧派ってイメージがあるけど、でもほんとは公務員こそどんどん挑戦するべきだよね。
失敗したってクビにはならないし、倒産するわけでもないし。
世の中には公務員が一円でも無駄にしたら烈火のごとく怒る人がいるけど、もうちょっと寛容でもええんじゃないかな。どうせ何百兆円もの借金抱えてる国なんだから。

失敗を繰り返さないと成功事例は作れないし、それを民の代わりに公がやってくれると思ったらありがたい。良くないのは、新しいことをやって失敗した人じゃなくて、失敗しているものをそのまま続ける人だと思う。年金制度とか。





 なぜ、神子原地区のコシヒカリはおいしいのか?
 ここは碁石ヶ峰の標高150mから400mの急峻な傾斜地にあるので、山間地特有の昼夜の寒暖差が激しいことから稲が鍛えられるのです。冬は2m以上も雪が積もる豪雪地帯なので、豊富な雪解け水の清流によって育てられているからです。他の農地のように生活雑排水が混じった川から水を引き入れていません。特定された棚田での収穫量は700俵と少なく、平野と比べると65%しか穫れません。これは化学肥料などを使って無理に増産していないということです。1反(10a)で10俵以上穫っている田んぼがよそには多くありますが、そこのお米はおいしくない。化学肥料を多く使って増産させた米で、おいしいものに出会ったためしがありません。

マイナス点も見方を変えれば長所になるって話があるけど、これなんかまさにその例だよね。

過疎(=マイナス)だから川の水がきれい(=プラス)。
多く獲ろうとしていない(=マイナス)だから米がおいしい(=プラス)。
非効率な方法で栽培している(=マイナス)だから稀少(=プラス)。

こういうのって内部にいる人にはなかなかわからないんだよねえ。

そもそも高野さんが思い切った改革を断行できたのも過疎化しきった神子原地区だったからできたわけで、これが「東京都の行政改革」とかだったらとてもこんな身軽に動けなかっただろうから、それだけでも「人が少ない」ってのは大きな強みだね。

一人の人がやれること、手に入れられる情報ってのは昔よりはるかに大きくなってるから、今後はどんどん「物量作戦」よりも「小回り・スピード」のほうが大事になってくるに違いない。
これから先、大企業はどんどんつぶれていって、中小企業や個人経営が席巻する時代になってくると思うな。



最後に、おもしろかったエピソードをひとつ。

 東京の田園調布から電話があった時には絶対売りませんでした。白金の人にも売らない。成城や目白の人にも売らなかった。全部で60件近く断りました。高級富裕住宅街から電話があった時は、「先日まではございましたが、たった今、売り切れました」と答えるようにしたんです。
「行きつけのデパートにお問い合わせされてはいかがでしょうか。ひょっとするとあるかもしれません」
 と。でも、ないですよ。私たち、デパートと取り引きしていないですから。
 何をしたかったかといったら、神子原米を高級デパートの食料品売り場に置いてほしかったんです。デパートが弱いのは富裕層なんです。私たちがお断りした客は、そのような人々です。だからおそらく贔屓のデパートに問い合わせて、「なぜ神子原米を置かないの?」と聞くはずです。すると大切なお得意様からの要望だから、デパートは置こうとする──。
 つまり、物を売りたい時には売らないことが、売る方法なんだということです。

おもしろすぎるのでどこまでホンマかわかんないけど、高野さんはストーリーを作るのがうまい人だねえ。
売りこみにいくのではなく、買いにこさせる。

これはマーケティングを仕事にしているものとしては勉強になるなあ……。



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『奇跡のリンゴ 「絶対不可能」を覆した農家 木村秋則の記録』




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2017年11月2日木曜日

家なんてしょせん家/牧野 知弘『マイホーム価値革命』【読書感想】


『マイホーム価値革命
2022年、「不動産」の常識が変わる』

牧野 知弘

内容(e-honより)
2022年、広大な面積の生産緑地が宅地となり、団塊世代の大量の「持ち家」が賃貸物件に回ることで、不動産マーケットが激変する。日本の3分の1が空き家になる時代、戸建て・マンションなどマイホームの資産価値を高める方策はあるのか?空き家問題、タワマン問題で注目を集めた不動産のプロが新たなビジョンを提示する!

数年前、家を買うことを検討していた。
父親はバブルのさなかにローンを組んで一戸建てを買ったし、ぼくが育ったのは郊外の住宅地なので周囲も分譲一戸建てだらけで、大人になったら当然家を買うものだと思っていた。

新築建売住宅を見に行ったり、新築マンションのショールームに行ったり、不動産屋といっしょに中古マンションを見てまわったりした。

でも夫婦そろって優柔不断なのと、今の家(借家)にこれといった不満もないこともあってなんとなくふんぎりがつかず「まあ今のとこでいっか」ってな感じで今も借家に住みつづけている。

いやでもさ、世の中の人ってよく土地や家やマンションを買えるよね。

だって何千万円もの買い物だよ。
ぼくなんかたかだか2,000円ぐらいの毛布買うのに、いろんなサイト見て、寝具売場にも足を運んで、1ヶ月ぐらい迷って、そんでまだ買ってないからね。そんぐらい優柔不断だからね。

毛布ですらそれなのに、マンションなんて一度も住んでみることなく、へたしたら中身を見ることもなく(新築マンションはだいたいそう)決断しなきゃいけないんだよ。

無理じゃない? 最低でも一年ぐらい住んでみないと決められなくない?

もう博打だよね。結婚と一緒で。



あとさ、新築マンションのショールームを見に行ったことある人なら知ってると思うけど、広告宣伝費えげつなくない?

電車広告出して、SUUMOとかにも広告出して、どっかの土地借りてじっさいに住めるぐらいのモデルルームつくって、そこに最高級の家具を置いて、受付の人と営業社員を常駐させて、見にきた人には電話しまくってダイレクトメール送りまくってるんだよ?

どんだけ金かけとんねんな。
そして、どんだけマンション販売価格に広告宣伝費が上乗せされとんねんな。

宣伝やめたら1,000万円ぐらい安く売れるんじゃないの?
ゼロにするのは無理でも、四分の一ぐらいにはできんじゃないの?
ぜったいそっちのほうが買う人はうれしいだろうにね。

……みたいなことを考えたら家を買うのがばかばかしくなっちゃった。




というわけで牧野知弘さんの『マイホーム価値革命』を読む。
同じ著者の 『空き家問題』がめっぽうおもしろかったので(感想はこちら)期待して読んだんだけど、期待を裏切らない本だった。
いやあ、勉強になった。

そして、やっぱり不動産なんて持つもんじゃないな、って思いを強くした。

 かつては「ファミリー向けの賃貸住宅はない」などと言われてきましたが、第一章で解説したように、2022年を境に、団塊世代が購入した郊外ベッドタウンの家が一気に賃貸物件として不動産マーケットに登場するでしょう。東京でいえば、世田谷や大田、杉並といった都区部の住宅も大量に出てくることが予想されます。
 さらに「空き家第二世代」以降は、マーケットのニーズを汲み取る不動産会社やオーナーが増え、ファミリー向け賃貸物件が多く開発されることになるはずです。ワンルーム住宅ばかりを過剰供給する時代は長く続かず、「供給者の論理」はやがて淘汰されていきます。「高齢者は賃貸物件を借りられない」というもっともらしい理屈も、それほど心配する必要はなくなるでしょう。賃貸住宅大量供給時代はもうすぐそこです。競争が激しくなれば借り手は優位に立つことになりますので、貸し手側の大家も年齢で制限するような余裕がなくなってくるはずです。
 これからの時代、生涯を賃貸住まいで暮らす生き方は選択肢の一つとして定着し、マイホームをあえて「持たない」ことは、新たなライフスタイルになります。今まで「住みたいファミリー向け物件が見つからない」と嘆いていた人にとっても、いい時代になりそうです。

家の価値がどんどん上がっていた時代は、マイホームを買えば家賃を払わずに住めるし、おまけに持っているだけで価値が上がっていたから、少々高い住宅ローンを組んででも買ったほうが得だった。

ところが今後、長期的に値上がりを続ける物件はない。
ほとんどは下がる。
日本から人はどんどん減るし、大きな家を必要とする若い人はもっともっと減るし、2022年問題っていう生産緑地制度とやらに関連するアレのせいで土地や家は余る一方になる。
いくら不動産業界の人がSUUMOに広告載せて、マンションポエム書いても、需要が少なくて供給が多いんだから売れない。価格は下がる。

となると消費者がとる選択は、消耗品と思って住みやすい家を買うか、投資と思うなら短期的に値上がりしそうなところを買って早めに売り抜けるかだ。
要は「住む」か「売る」かで(あと「貸す」もあるけど)、昔のように「住んでから売る」で儲けることはまず無理だ。

しかし「売る」で儲けるのはリスクが大きいし、いかにも難しそうだ。
先のことを読まなければならないし、おまけに海外からもかんたんに買えるようになっているので世界中の投資家と競争しなければならない状況なのに、ど素人のぼくが勝てるとはとうてい思えない。
そんな博打できるぐらい心臓強かったらとっくに家買っとるわ。



そんで自分が住む家として考えたら、買うよりも賃貸のほうがいいと思うんだよね。
以前はやっぱり「俺の家を持ちたい!」って気持ちもあって、それは今でも持ってるんだけど、それ以上に家を持つリスクって大きいなと思うんだよね。

転勤とか隣人トラブルとか自然災害とかのときにすぐ動けるほうがいいのかな、と。

「隣にめんどくさい人が越してきた」とか「子どもが学校でいじめられてる」とかなったときに、「でもせっかく買った家だから……」という理由で引越しをためらっているうちにとりかえしのつかない事態になっちゃうかもしれない。
そんなときに「しょせん家なんてただの寝るスペースだから」ってなぐらいの気軽さでさっさと動ける人間でありたいなーと思う。


そんなふうに思うようになったいちばんのきっかけは、ぼくのおばあちゃんに関する話。

おじいちゃんが死んだとき、母はおばあちゃんに「うちの近くに引っ越してきたら? 気軽に様子を見に行けるほうが安心だし」と声をかけた。
でもおばあちゃんは「せっかく買ったマンションだからここにひとりで住む。おじいちゃんの思い出もあるし。わたしは元気だし」と言って一人暮らしをして、ほとんど誰とも話さない暮らしをした結果、一年ぐらいであっという間に認知症になってしまった。
孫のことも娘のことも忘れて、しょっちゅうものがなくなった泥棒に入られたんだって警察に電話して、外出したら家に帰らなくなるような絵にかいたような認知症。
やさしいおばあちゃんだったからつらかったよ。つらかったよって過去形で書いたけどまだ生きてるんだけどさ。

たらればを言ってもしょうがないんだけど、もし「一緒に住まない?」って声をかけられたときにおばあちゃんが賃貸住宅に住んでいたら、二の足を踏むことなく早めに引っ越していて、もうちょっと頭も元気でいられたのかもしれないなーと思う。いやどっちみち引っ越さなかったかな。


マイホームでも賃貸住宅でもいいんだけど、家なんてしょせんは地面と箱なんだし、それに固執してしまうがゆえに重要な決断を誤ってしまうようなことだけは避けたいなーと思うね。


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牧野知弘 『空き家問題』




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