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2017年9月13日水曜日

ゴルフと血糖値と傘


ぼくはゴルフやらないんだけど、ゴルファーの会話ってどうしてあんなにスコア聞くんだろうね。
絶対言うよね。
「ゴルフやるんですか」
「そうなんですよ」
「いくつで回るんですか?」
「こないだ90でした」
「ほーすごいですねー」
みたいな。

すぐ聞く。中には聞かれてもないのに言うやつもいる。
病院の老人か。すぐに血圧と血糖値の話しだす老人か。

ゴルフとボーリングはやたらとスコアを聞く。あとTOEICも。

まあTOEICはわかる。スコアをとるためにやってるわけだし。

ボーリングもまあわかる。全員共通の指標だからね。
スコア200のやつは180のやつよりうまい。

でもさ。ゴルフっていろんなコースがあるわけでしょ。
当然、いいスコアを出しやすいコースとそうじゃないところがあるわけでしょ。
一応パー4とか決めてるけど、かんたんなパー4とむずかしいパー4があるわけでしょ。

だったら違うコースで出したスコア比べても意味なくね?

それ野球でさ。
「こないだソフトバンクホークス相手に投げたんですよ。7回5失点でした」
「じゃあおれのほうが上だ。先週の草野球で5回2失点だったから」
みたいなことでしょ。
その比較、何の意味もないよね。

ボーリングだってレーンによって多少は差はあるんだろうけど、ほんとに微々たるもんでしょ。
でもゴルフってコースによって距離も地形もぜんぜん違うし、天候や風の影響も大きい。
そのへんの諸々を無視して比べても、まるで比較にならない。

だからゴルファー同士の会話では、スコアじゃなくてもっと比較しやすいものを言いあうようにしたらいい。
「スイングの速さ」とか「サンバイザーをいくつ持ってるか」とか「てもちぶさたなときに傘とかでゴルフの素振りをしてしまうことが1日に何回ぐらいあるか」とか。


2017年9月12日火曜日

報われない愛の呪縛


芸能に 興味のない人間なので、アイドルに入れあげる人の気持ちが理解できなかった。
いくら熱狂しておかしくなっているファンであったとしても、アイドルがファンの一人になびく可能性がないことぐらいはわかるだろう。
それなのに、なぜアイドルに莫大なお金を投下するのだろう?
同じCDを何枚も買ったり、すべてのコンサートに足を運んだりするのは度を越しているとしか言いようがない。もはやそこまでいったら楽しみよりも苦痛のほうが大きいのではないだろうか?
それだけやっても、得られるものといえばせいぜい握手ができるぐらい。
同じお金と労力を他にかけていたらもっと多くのものを手にしていたのでは?
リターンがないとわかっている投資をするのはなぜなのだろう?


と、かねがねアイドルファンに対して疑問に思っていたのだけれど、子どもを育てるようになって「いや、リターンがないからこそハマるのかもしれない」と思うようになった。

何かにハマる度合いというのは、得られたもの、得られそうなものではなく、投下したものに比例するのではないだろうか。


小学校1年生から 毎日野球をやってきた子が、高校3年生の春に「受験に集中したいから野球部やめるわ」という決断を下すことは、かなり困難だろう。仮にそこが弱小校で甲子園に出場できる可能性がほぼゼロだったとしても。
でも1週間前に野球部に入った生徒なら「練習きついし、どうせ甲子園出られないし、もうすぐ受験だから」という理由で、ずっとかんたんに辞められる。
”甲子園出場” というリターンがほぼゼロなのはどちらのケースも同じ。それでも多くの資本を投下してきた前者の子は、「せっかくここまでやってきたのだから」というもったいなさに引きずられて合理的な判断を下すことができない。
「いやいや甲子園出場だけが野球をする目的ではない。続けることでこそ得られるものもあるんだ」という人もあろうが、それは1週間前に野球部に入った子も同じだ。むしろ初心者のほうが上達のスピードが速いから得られるものは大きいだろう。


子育てを していると、子育てはコストが大きくてリターンがゼロの行動だと思う。
夜中に泣き声で起こされたり、夜中にゲロ掃除をしたり、夜中におねしょで濡れた布団を洗ったり、朝早くにおなかの上に飛び乗ってきて起こされたり、「やってらんねえよ」と言いたくなることばかりだ(ぼくは眠れないのがいちばんつらい)。
それでもなんとかやっているのは、無償だからだ。
「夜中に起こされてゲロ掃除をしたら350円もらえます」なんてシステムだったら「いや350円いらないから寝かせて」となっている。

子どもが将来自分の老後を見てくれる、なんてリターンがないわけでもないが、そんな不確実なことのために多大なる金と労力を使うぐらいなら貯金して上等な介護施設に入居するほうがずっと効率がいい。お金を払って他人に世話されるほうがずっと気楽だし。


母親はどうかしらないけど、父親であるぼくは正直、子どもが生まれた直後は愛情なんてほとんど持っていなかった。ちっさくてかわいい足だなとは思ってはいたけど、仔犬のほうがずっとかわいいと思っていた。
それでも夜泣きにつきあわされたりウンコまみれのお尻を洗ったりしているうちに、我が子が愛おしくなってきた。何かしらのリターンがあったからではない。投下した労力が大きくなってきたからだ。

「バカな子ほどかわいい」という言葉があるが、これはまさに「投下した資本が大きいほどハマる」を言い表している。



報われない愛 の呪縛は随所で観測される。

スポーツで弱いチームのファンほど熱狂的だったり(今でこそ強くなったけど、昔の阪神タイガースや浦和レッズは弱くてファンが熱狂的だった)、
ギャンブルで負けてばかりの人がなかなかやめられなかったり、
ブラック企業の社員が自殺するまで辞めなかったり、
いたるところで人々は「せっかくここまでがんばってきたんだから」に拘束されている。子育てはどうかわからないけど、往々にして不幸な結果を生んでいるように見える。

もしかすると、太平洋戦争末期における日本軍も「報われない愛」の呪縛に陥っていたのかもしれない。
多くの兵士を失い、戦艦を沈められ、戦闘機を墜とされ、失ったものは数知れず。ひきかえに得られたものは何もない。
後の時代の人間からすると「長引かせても悪くなる一方だったんだから早めにやめときゃよかったのに」と思えるが、長引かせても悪くなる一方だったからこそ抜けだせなかったのかもしれない。

個人レベルならまだしも、国家単位で「報われない愛」の呪縛に囚われると大惨事になる。
国民年金・厚生年金なんか、この呪縛に陥っているように見えてならない。


2017年9月7日木曜日

困ったときはステゴサウルスにしとけ


ステゴサウルス っているじゃないですか。いないけど。こないだいなくなっちゃったね。こないだっていうか1億年くらい前。
背中にへんな五角形がいっぱいついてるやつ。20個ぐらい。五角形が20個あったら将棋1式できるじゃない。2頭いたら対局できるね。
将棋やってたのかもね。そんでいらない駒を背中につけてたのかも。あ、もしかしてステゴサウルスって名前、捨て駒からきてるとか? ステゴマサウルスがなまってステゴサウルスになったとか。違うか。


まあ変な形状してるよね。
化石から形を再現した人も困っただろうね。頭部とか脚とか背骨とか組み立てて、
ん? なんか五角形のパーツが20枚余ったんだけど? これどこのパーツだ?
将棋の駒? ちがうよね。だって「と」とか書いてないもんね。
この五角形なんだろう。ホームベース? 絵馬? ペンタゴン?
んー。とりあえず背中に並べとくか。余らすわけにもいかんしな。

そんな感じであの形状になったんだろう。


地球に隕石が つっこんできて粉塵がまきあがって大氷河期がきたとする。
人間はもちろん、大型の動物はほとんど死に絶えるよね。その中には、もちろんキリンも。

そんで1億年して、またべつの知的生命体が地球上に繁栄して、そいつらがキリンの化石を見つける。
頭はここ、脚はここ、これが首で、
ん? 首の骨みたいなやつがいっぱい余ったぞ?
これ全部首の骨? まさかね。そんなことしたら首だけが長いアンバランスな生物になっちゃうもんな。

どこにつけたらいいんだろう。
んー。とりあえず背中に並べとくか。余らすわけにもいかんしな。



2017年9月4日月曜日

VBAで魔法呪文のマクロを組んでみた


魔法使いは呪文を唱えることが多い。「チンカラホイ!」とか(『のび太の魔界大冒険』より)。
なぜ唱えるのだろうか。ぼくは魔法を使ったことがないのでよくわからない。

わざわざ呪文を口にすることにはデメリットがいくつかある。
まず、発動までに時間がかかる。
スポーツ漫画だと「トルネードアロースカイウイングシュート!」と言いながらシュートを打ったりするが(『キャプテン翼』より)、どう考えても時間の無駄だ。「トルネードアロースカイウイングシュート!」と叫ぶためには相当長い”溜め”をつくることが必要で、PKのときならともかく、ゴール前でそんなことを叫んでいたらあっという間にボールを取られてしまうだろう。

また、相手に察知されるというマイナス面もある。野球でピッチャーが「スライダー!」と叫びながら球を投げたら、打たれる可能性はまちがいなく高まる(ときどき嘘を混ぜれば効果的かもしれないが)。



かようなデメリットがあるにもかかわらず魔法使いが呪文を唱えるのは、そうしなければならない理由があるからだろう。

それはつまり、魔法というものは魔法使いの内なる力ではないということを意味する。
内なる力の発動であれば心の中で思うだけで十分だ。ピッチャーが黙ってスライダーを投げるように。
わざわざ言語化するのは他者に対して指示を与えているからだ。
たぶん精霊みたいなものが近くにいて、そいつに対して「こういう魔法を使いたいからよろしく!」というメッセージを発する、それが呪文なのだ。

構造としては、コンピュータを操作するときにコマンドを打ちこむことで望むとおりの動作をさせるのと同じだ。
つまり、魔法使いとは精霊を思い通りに動作させるプログラマーであり、呪文はプログラミング言語にあたるわけだ。



魔法は科学と対極にあるものとして語られることが多いが(『のび太の魔界大冒険』でも魔法が使える世の中では科学が迷信扱いされていた)、はたしてそうなのだろうか。

魔法を使いこなすためには、同一の条件下で同一の呪文を唱えたときは同一の動作が確認されなければならない。あるときは火が出て、あるときは氷が出て、あるときは相手を回復させるような呪文は使い物にならない。ドラクエシリーズには「パルプンテ」という何が起こるかわからない呪文があるが、これを常用するユーザーはまずいないだろう。
少なくとも呪文を唱えることによって何が起きたかという結果が確認できて、さらに「この呪文を唱えれば10回中8回以上は××という効果が生じる」といった傾向が把握できないと役には立たない。

すなわち魔法を有用なものとして使うためには検証可能性や再現性、測定可能性が求められるわけで、これはまさしく科学のアプローチそのものである。
魔法とは科学なのだ。



呪文が精霊に対するコマンドである以上、命令の内容は客観的・普遍的なものでなければならない。
たとえばドラクエシリーズにおける呪文”メラ”は「敵に対して小さな火球をぶつける」といった説明がなされているが、これはゲームユーザーに対する簡略化された説明であって、実際はこんな指示では魔法は発動できないはずだ。

まず”敵”のような漠然とした概念では場所を特定できないから、座標を用いて火球をぶつけるオブジェクト(対象)を指定してやる必要がある。
「呪文詠唱者を起点として真北から方位角132度の方向6.1メートルの位置」といった一点に定まる座標の指示を与えなければならない。
方位角や距離を正確に把握するためには三角法に対する正しい知識と素早い計算能力が必要になるから、魔法使いは相当数学に強くないとやっていけない。


さらに”小さな火球”といった曖昧な表現では精霊はうまく対応できないから、サイズ、温度、継続時間といった指標を設定する必要がある。
ただし”敵”は毎回変わるのに対して”小さな火球”は毎回同じものでもかまわないから、マクロのようなものを組んで毎回の発動を簡素化することができる。
一般にはそのマクロの名前が呪文と呼ばれるのだろう。
(ドラゴンボールに出てきた「タッカラプト ポッポルンガ プピリットパロ」のように極端に長い呪文はマクロではなくコードをそのまま読みあげているものだと予想する。神龍の召喚のように数年に一回しか使わないコマンドはマクロとして登録する必要性があまりない。)


ということで、VBAでメラのマクロを組んでみた。



2017年9月2日土曜日

子どもを野党に入れるには




以前Twitterにこんなことを書いた。
そっちを覚えんのかい!


親として娘に望むことはいろいろあって、その中のひとつが「素直に謝れる人になってほしい」だ。
たいていの場合、早めに謝ったほうがトクをする。意地を張っていいことなんかない。
だから娘がぼくの足を踏んだときとか、寝ているときにおなかに飛び乗ってきたには(想像してほしい。睡眠中に17kgの塊が腹部に落ちてくるのを)、「痛かったよ。ごめんは?」と厳しく注意している。

で、昨日保育園の先生から聞いたのだけれど、娘は失敗をした園児に対してとても厳しいらしい。
少しぶつかられただけで「痛かった! ごめんは!?」と強い口調でまくしたてるのだという。

そっちを覚えんのかい!
素直に謝ることではなく、相手に謝らせる方法を学んでしまったらしい。

以前「子どもは親に言われたことはしない。親がすることをする」と聞いたことがあるが、まったくそのとおりだ。

他人の失敗を厳しく糾弾するのは、とても感じが悪いのでやめてもらいたい。
野党の議員には向いている資質かもしれないけど。


2017年8月31日木曜日

ビールでタコを煮た無人島


無人島の七人

学生時代、無人島でキャンプをした。

瀬戸内海の1周3kmほどの小さな島。男7人、2泊3日のキャンプ。
海沿いの小さな駅で降り、こじんまりとしたスーパーマーケットで買い占めちゃうんじゃないかってぐらい肉や酒を買いこみ、漁港の市場でタコや貝を買って、タクシーフェリーに乗せてもらって無人島に渡った。

男が7人もいたらアウトドアの達人が1人ぐらいはいそうなものだけど、ぼくらの中に「できるやつ」はひとりとしておらず、苦労しながらテントを斜めに立て、食材はそのへんに投げだして、がさつなだけのカレーをつくって食べた。涙が出るほどうまかった。


ビールは山ほど買っていったのに水をあまり買っていかなかったせいで2日目にして深刻な水不足におちいった。
水を節約するために海水で米を研ぎ、ビールでタコを煮た。酒より水のほうが貴重というソ連みたいな状況だった。「タコのビール煮ってなんかおしゃれじゃない?」とうそぶきながら食べた。じっさいはまずくて、でもうまかった。


せっかくの無人島なんだから大きな声を出さなきゃ損とばかりに無意味に島中に響きわたるほどの声を張りあげた。最終日は7人とも声ががらがらだった。


3月の海に入ったら冷たすぎて痛かった。みんなで鼻パックをつけたまま一日すごした。島にあったマリア像が怖かった。豚肉を日なたに半日放置していたけど気にせず食べた。小さい島なのに遭難しそうになった。明け方は寒くて眠れなかった。早朝の浜辺で食う焼き芋はしみじみとうまかった。


10年以上たって振り返ると、2泊3日の無人島生活が1年もいたように感じるし、あっという間の夢だったようにも思える。
細かいことは忘れてしまったが、ただあの日々を味わうことはもう二度とないという実感だけが確かなものとして今は存在する。



無人島の七人


2017年8月26日土曜日

室内ゲリラ豪雨の夜


「人生における愚かな夜」のベスト3を決めるとするならば、家の中で水鉄砲を撃ちあった晩は確実にランクインするだろう。


20歳のときだった。
大学の夏休みで、実家に帰っていた。
その日は父母が墓参りでおらず、ぼくは大喜びで高校時代の友人たちを招待した。
「おれんち誰もいないから来いよ」

リビングで酒を飲んでばか話をしていると、ふと傍らにあった水鉄砲が目に留まった。
昼間川で遊んだときに使ったものだ。水鉄砲は3丁あった。猟銃タイプの、水量も水圧もあるやつ。
ぼくはこっそり水鉄砲を手に取り、洗面所に向かった。水を入れ、そっとリビングに戻ると友人の背中に向けて少量の水を放射した。
友人は「ひゃっ!」と大声を上げて驚き、それを見たぼくらはげらげらと笑った。
些細ないたずらだった。

そこから水鉄砲3丁を使っての撃ちあいになるまではあっという間だった。
はじめは遠慮しながらちょろちょろと水をかける程度だったが、酔っぱらっていることもあり、頭から服からずぶ濡れになるにつれてためらいはなくなった。室内ということも忘れて全員おもいっきり引き金を引いていた。

ぼくはビデオカメラを持ってきてこの狂った饗宴を撮影した。1人は実況役にまわり、残る3人はそれぞれ水鉄砲を持って互いに撃ちあった。
ぼくもビデオカメラを片手に家中を走りまわりながら「いいぞ、もっとやれ!」「トイレに逃げこんだぞ、追え!」と叫んで大笑いした。

たぶん、第一次世界大戦のときも こんなふうに一瞬で戦場が拡大したのだと想像する。

セルフイメージはこんなんだった

家の中で水鉄砲の撃ちあいをやったことのある人ならわかると思うが、水鉄砲戦争は野外でやるより室内のほうが7.5倍おもしろい。

まず隠れる場所が豊富にあるので戦術が立てやすい。
トイレに隠れて扉のすき間から狙い撃つ、洗面所で待機しておいて弾切れで給水にやってきた反撃不可能なやつに一方的に射撃を浴びせるなど、さまざまな作戦が可能になる。

また、家の中がびしょびしょになるのも楽しい。
相手を追いつめることに熱中するあまり、濡れたフローリングにすべってずっこける、という事態が何度も生じた。
そのたびに他の面々は大笑いしながら、死者にとどめを刺すように集中豪雨を浴びせた。

なにより背徳感が楽しい。
家の中を水びたしにするのは悪いことだ。だから楽しい。そこに理屈はない。
ビデオカメラで撮影していたおかげでそのときの映像はいまだに残っているが、誰もがほんとにいい笑顔をしている。


1時間以上は撃ちあっただろうか。
アルコールが入っている状態で走り回り大声を上げていたので、さすがに誰しも疲れきった顔をしていた。
「そろそろやめよっか」
誰からともなく言い、改めて部屋の様子を眺めた。

見事なぐらいびしょ濡れだった。
床や壁はもちろん、天井やソファにまで水がかかっていた。テレビも濡れていて、電源を入れたら一瞬ファミコンがバグったときみたいな破滅的な色彩になって「やばい、壊れた!」と焦ったが、よく拭いたら直った。
家中いたるところに銃撃戦の痕跡が残っていたが、和室だけは無事だった。日本人としての良心 がかすかに残っていたのだろう。

2017年8月25日金曜日

「道」こそが「非道」を生む


「報道」という言葉について。

報道、という言葉はどうも鼻持ちならない。
自分で「報道やってます」という人間はどうも信用ならない。「ニュース番組作ってます」とか「新聞記事書いてます」は事実だから何とも思わないんだけど。

思うに「道」という言葉がついているのが、自称"報道関係者"の態度を尊大にさせるのではないだろうか。

ニュースを伝えることなんて、いってみりゃただの商売だ。「報道」なんておこがましい。「報業」で十分だ。
「広告道」とか「製造道」とか「サービス道」とか言わないじゃないか。「農道」は農地脇の道だし。

商売には正しさは必要だ。広告だって製造だってサービスだって同じだ。
法を破ってはいけない、人を傷つけてはいけない。そんなことはあたりまえだからわざわざ「道」をつけたりしない。
「報道」という言葉には「おれたちは他の商売とはちがうんだぜ」という意識が透けて見える。


「道」をつけると、どうしても「正しき道を追い求める者」ということになる。
宮本武蔵のような求道者のイメージだ。
しかし正しい道を求めることは危険極まりない行為だ。

人が度の過ぎた悪に手を染めるのは、正義のために行動するときだ。
「抑圧されている人々を救うため」「正しい世界をつくるため」といった大義名分をふりかざしはじめたとたん歯止めは利かなくなり、あとは自らが破滅するか他者を破滅させるかしかないことは多くの戦争が教えてくれている。
太平洋戦争だって、指導者たちが「金儲けのため」と思っていたらほどほどのところで手を引いていただろう。
金儲けのためなら「これ以上やったら赤字」という損益分岐点があるが、正義には引き際がない。


「報道」はときに正義のために暴走する。災害救助の邪魔になるような取材をしたり、罪のない被害者やその遺族を苦しめたりする。
商売のためにニュースをつくっているという意識があれば「さすがにこれはやりすぎだな」とブレーキがかかるのに、「報じることが正しい道」と思えばどこまででも突き進んでしまう。

正義の色眼鏡をかけて突き進むことでこそ得られる真実もあるのだろうが、これだけ多くの情報にかんたんにアクセスできるようになった時代、報道に求められるのは「道」を捨てることじゃないかな。

2017年8月22日火曜日

走者一斉救助のツーベースヒット


友人と話していたとき、野球の「ファール」はおかしくないか? という話になった。

[foul]を辞書で引くと、[悪い] [汚い] などの意味がある。
サッカーやバスケットボールの「ファール」は理解できる。敵チームの選手をケガさせかねない危険なプレーに対して与えられるものだから、[悪い][汚い]行為とのそしりはまぬがれない。
だが野球のファールは、べつに卑怯なプレーでもなんでもない。ただの打ち損じだ。失敗は誰にでもある。汚いなんて言われる筋合いはまったくない。

さらにファールフライは漢字で「邪飛」と表される。ラインの外にボールを打ち上げただけで、なぜ邪(よこしま)なんて汚名を与えられなくてはならないのだろう。
テニスやバレーボールでは、サーブを失敗することを「フォルト」と呼んでいる。野球の打ち損じも「フォルト」でいいのではないだろうか。



よく言われていることだが、野球用語には物騒な言葉が多い。
死んだり殺したりしてばかりいる。
一死、二死、牽制死、盗塁死、刺殺、捕殺、併殺、挟殺、三重殺……。こんなに人が死ぬスポーツは他にない。「犠牲バント」も死だ。得点することをわざわざ「生還」というぐらいだから、基本的に死ぬのがあたりまえの世界なのだ。

しかし解せないのが「死球」だ。さっきあげた野球用語の「死」や「殺」はアウトの意味だ。だが、デッドボールを直訳したのだろうが、死球の「死」はアウトではない。むしろチャンス拡大だ。
すなわち、野球には2つの意味の「死」がある。死球で出たランナーが牽制死すると二度死ぬことになる。007か。


死だけではない。不穏な用語は他にもある。
たとえば「盗塁」。これもスチールの訳だろうが、なぜ盗むのかよくわからない。
バスケットボールにも「スチール」という用語があるが、これは敵が持っていたボールを奪うことだから納得できる。
だが野球のスチールは何も奪っていない。ルールに基づいて懸命に走ってチャンスを拡大したのに盗っ人扱いだ。「到塁」とかでよかったんじゃないか。


「走者一掃のツーベースヒット」という言い方も穏やかでない。
走者一掃、なんてまるで邪魔者を排除するような言い方ではないか。ランナーにしたら懸命に走ってチームに得点をもたらしたのに、なぜ「一掃する」とゴミのような扱いを受けなければならないのか。
ヒットによってランナーを「死」から救ったのだから「走者一斉救助のツーベースヒット」とかでいいんじゃないだろうか。


「自責点」も嫌な言葉だ。
チームスポーツでは「誰のせいで負けたか」という戦犯探しは暗黙の了解としてしてはならないことになっている。明らかに誰かのミスが原因で敗れたしても、少なくとも建前としては「しょうがないよ、みんなの力が足りなかったんだ」ということにするのが潔いということになっている。
しかし野球ではそこのとこをわざわざ明白にする。自責点なる概念をつくり、誰の責任でどれだけ点をとられたかということを厳密に算定する。
さらに不公平なことに、自責点はピッチャーにしかつかない。野手がどれだけエラーをしようが、点をとられた責任はすべてピッチャーにおしつけ、あまつさえ「負け投手」なんて呼び名をつける。チームスポーツなのに、まるで負けた原因がすべてピッチャーにあると言わんばかりだ。
許せないのは、それを監督が甘んじて受け入れていることだ。部下にすべての責任を押しつけるなんて責任者失格だ。
潔く「責任はすべて私にある。自責点は私につけてくれ!」と言える監督がいてもいいんじゃないだろうか。
そして、その行動に対して「そなたの部下を思う気持ち、誠にあっぱれ! 自責点はゼロとしよう!」と名裁きを見せる大岡越前のような審判がいてもいいのに。



2017年8月19日土曜日

競争力の高いバターになっとけ


「競争」って重きを置かれすぎじゃない?
ビジネスでも学業でもそうなんだけど。
競争なんか、しなくて済むならそれに越したことはない。


忍者が麻を使って修行する話、知ってる?
忍者が麻の種を植えて毎日その上を飛び越えてたら、麻はすごい勢いで成長するから、それにあわせて跳んでるうちにいつのまにか忍者も3メートルぐらいジャンプできるようになってるって話。
そんなわけないよね。嘘にもほどがある。ぼくは小学生のとき信じてたけど。
麻に対抗心燃やしたからって人間が3メートルもジャンプできるようにはならない。

その忍者の話を信じてるのか知らないけど、競争させたら成長すると信じてる人が多い。
いや、二流はそうかもしれない。他人よりいい点とるために勉強する。そういう人がいるのはまちがいない。
義務教育はそれでいい。全体のレベルを引き上げるのが目的だから。

でも一流の人は競争するから成長するわけじゃない。
学ぶことが楽しいから勉強する。絵を描くのが好きだから絵を描く。で、そういう人が業界を牽引する。彼らにとって競争なんて成長を阻害する要因でしかない。

スポーツは競争を楽しむためのものだから競争こそが選手を成長させるかもしれない。
だけど学問や芸術はそうではない。真理に近づくことやより善なるものや美を追求することが成長を促す。個ではなく全体の成長を。


前職を 辞めたのは、競争に対する考え方も原因のひとつだった。
ぼくは一応管理職という立場にあったんだけど、会社は社員たちをむやみに競争させようとしていて、ぼくはそれに反発していた。
みんなそれぞれ別の業務をやってるから競争させることに意味がない、競争させてそれを計測するのにもコストがかかる、競争させて足の引っ張り合いになったらトータルでマイナスになる、そもそも競争させないと仕事をしないようなやつはいらない、とかいろんな理由があって。
全員がゴールを狙うサッカーチームが勝てるわけない、と言って結局は会社を辞めた。

なんでもかんでも競争の原理を持ちこむのは、二流半を二流に引き上げるために一流の足を引っ張る行為だ。
大学が「競争力を高めるため」って理由で独立法人化させたのなんかまさにそれ。結果が出るかわからない研究、短期的に結果が出ない研究をする余裕をどんどんなくしていって、「競争力」だけの二流の大学ばかりになっていく。


そもそも「競争力」という言葉がばか丸出しだと思う。国際競争力をつけよう、とか。
競争は手段あるいは結果にすぎないのにそれを目的化しているのがほんとに愚かだ。

囲碁とかオセロとかビーチフラッグみたいなゼロサムゲームであればともかく、マクロ経済とか教育とか政治とかの世界で「競争力」という言葉を使うやつは、そいつら同士で追いかけっこをしすぎてバターになればいいのに。世界のバター市場で勝負できる競争力の高いバターに。



2017年8月17日木曜日

パパ友の口説き方


「ママ友」の検索結果 約1300万件

「パパ友」の検索結果 約38万件


ということで どうも世のお父さん同士はあまり友だちにならないらしい。
(しかし「ママ友」も「パパ友」もネガティブな検索結果が並んでるな……)

ぼくには4歳の娘がいるが、パパ友はいない。
学生時代の友人に子どもが生まれたので子どもと一緒に遊びにいく、ということはあるが、子どもを介して友人になった人はいない。

毎朝娘を保育園に送っているので、他の保護者とも顔を合わせる。
保育園に通わせている人は基本的に共働きだから父親が送りにくる家庭もめずらしくない。
必然的によく顔を合わせるお父さんも決まってくる。
ぼくは常々まっとうな人間として生きていきたいと願っているからあいさつをする。「もうすぐ発表会ですね」とか「今日も〇〇ちゃんは元気ですね」といった言葉も交わす。
でもそれ以上の踏み込んだ話をすることはない。


休みの日には たいてい子どもと遊びにいく。しかし「この人(娘のこと)はお父さんとばかり遊んでいいのだろうか」と心配になる。
一人っ子だし、もっと同年代の子と遊ぶ機会をつくってあげたほうがいいんじゃないか。

あるとき、娘と公園に行ったら保育園の同じクラスの子とばったり会った。
子どもたちはおいかけっこをはじめて、そのとき娘はぼくが見たこともないぐらい速く走っていた。
犬を飼ったことのある人は知っていると思うが、犬は散歩のときリードを持つ人の速さにあわせて歩く。老人と散歩するときはゆっくり歩くし、若くて元気な人が散歩をさせると犬は「この人のときは走ってもいい」と思って速く走る。
同い年の子どもと全速力で走って遊ぶ娘を見て、「ああ、4歳の娘もぼくと遊ぶときは、老人と散歩する犬のように遠慮していたのだな」と気づいた。ショックだった(犬から見た老人の扱いをされていたことも含めて)。

もっと同じ年代の子と遊ばせてあげたい。しかし近所にはパパ友がいない。
ちくしょう! 娘よすまない、ぼくが社交的でないばっかりに……!


忸怩たる 思いいを抱えていたぼくだが、少し前にこんなことを書いた。

娘の保育園に行ったときに他の子の父親から「休みの日ってどこに連れていってます?」と訊かれたので、これはチャンスと思い「こないだプール行ったんですけど子どもは喜んでましたよ。今度子ども連れて一緒に行きませんか?」と誘ってみた。

言われたお父さんは「あーいいですねえ」とニコニコしながら言って、あれ? この後どうしたらいいんだ? 具体的な日程を決めたらいいのか? それとも今日は連絡先の交換だけにしておいて後日LINEとかでやりとりしたほうがいいのか? いやでも「いいですねえ」と言っただけで「行きます」って言ったわけじゃないしこれは断りかたがわからなくて困ってるパターンか? とかいろいろ考えているうちになんとなく次の会話がなくなってしまって、うやむやになってしまった。

コミュニケーション能力が低いばかりに千載一遇のチャンスを棒に振ってしまったのだが、あきらめきれなかったぼくは「あのお父さん(Nちゃんのお父さんとする)とプールに行く」という目標を立てた。

そこで、まずは娘に
「Nちゃんとプール行こっか。Nちゃんに、一緒にプール行こうって言ってみたら?」
と吹きこんでみた。

娘とNちゃんの間で「プールに行こう」という約束ができる
 ↓
Nちゃんが家でお父さんに「〇〇ちゃんとプール行きたい!」と言う
 ↓
Nちゃんのお父さんが、今度会ったときにぼくに「娘が行きたがってるんでプール行きましょう」と言う

という展開を期待したものだ。
自分では声をかける勇気がないので子どもたちを経由して、しかも向こうから誘ってもらおうという巧妙かつ意気地なしの作戦だ。好きな女の子から告白されるのを待って自分からは何のアクションも起こさなかった学生時代からまったく成長していない。


その後も 何度かNちゃんのお父さんと会う機会があったのだが、いっこうにプールの話が出ない。
うちの娘のところで止まっているのか、それともNちゃんで止まっているのか。なにしろ4歳児なのであてにならない。大人でも報連相はむずかしい。
もしかしたらNちゃんのお父さんのところまで話は届いているのに「あいつと出かけるのイヤだな」と思われているのかもしれない……。

くよくよ考えていても結論は出ない。
ここは直接的に誘うにかぎる。

ある日、保育園に娘を送った後、少し前をNちゃんのお父さんが歩いているのを見つけた。
小走りでNパパに近づく。すっと横に並び、たまたま出くわしたかのように「あ、おはようございます」と声をかけた。

そして、前から準備していた台詞を、まるで今思いついたかのように言う。
「ああそういえばですね、こないだプールの話したじゃないですか。あれ以来、娘がNちゃんとプールに行きたいって毎日のように言ってるんですよ。どうでしょう、今週末にでも一緒に行きませんか?」
娘が毎日のようにプールに行きたいと言っている、というのはもちろん嘘だ。また娘を利用させてもらった。

で、
「いいですよ。行きましょう」
「じゃあLINE交換してもらっていいですか」
と、事前に脳内シミュレーションしていたやり取りを経て、見事一緒にプールに行く約束をとりつけることに成功した。


学生時代に 好きな女の子を誘ったときぐらい周到に準備したのが功を奏した。
休みの日は家族でゆっくりしたいのに誘ったら迷惑じゃないだろうかとか断られたらその後保育園で顔を合わせたときに気まずいなとか思い悩んでいたが、杞憂に終わった。
プールに行くときも「ダサいと思われたくないから新しい服を着ていこう」と前日から準備をして、何があるかわからないから一応銀行でお金おろし、気持ちは完全に初デート前日の高校生だった。


プールでは娘たちも楽しんでいたし、「また一緒に遊びに行きましょうね!」と言って別れたのだが、その日からまたべつの悩みが生まれた。

次はどう誘ったらいいのだろうか。

前回はこっちから誘ったから、次は向こうが誘ってくるのを待ったほうがいいのだろうか。
いやでも待つだけの姿勢では自然と疎遠になってしまうかもしれない。
かといってすぐにまた誘うのも「しつこい人だな」と思われるんじゃないだろうか。
どれぐらいの間隔を開けるのがベストなんだろう。1ヶ月ぐらいだろうか。
前回は「プール」という夏らしいイベントがあったけど、次は何を誘ったらいいのだろう。公園遊びとかは平凡すぎるだろうか。

パパ友をつくるってこんなにたいへんなプロジェクトだったのか。
そりゃなかなか作れんわ。


2017年8月15日火曜日

ばか、なぜ寄ってくるんだ!



街中でビラを配っている人がいる。
ぼくはやったことがないが、つらい仕事だろうな、と思う。
夏は暑いし冬は寒いし立ちっぱなしだし、そしてなにより「人々から無視され、拒絶される」ということが心を削りそうだ。


ビラ配りに遭遇すると心が痛む。
少し先で、若い女性がコンタクトレンズのビラを配っているのが見える。
しかしぼくには不要なものだ。ぼくは以前レーシック手術をしたので両眼ともよく見えている。その証拠にほら、あんなに先にあるのにコンタクトレンズのビラだということがわかってるじゃないか。

拒絶するのは気が引ける。
向こうが「どうぞ」と言って差しだしたものを無下に断れば、彼女はきっと傷つくだろう。
人が人生に絶望するのは、大きな壁にぶつかったときだけではない。小さなストレスが積もりに積もり、最終的にほんの些細な出来事を引き金にして、自分自身や他人を傷つける行動にでるのだ。
ぼくの拒絶が、その引き金にならないともかぎらない。

といって「ありがとう。でもぼくは視力がいいからこれはぼくには不要なものだ。せっかくだから他の人に渡してくれるかい?」なんて丁重に説明して断られても薄気味悪いだけだろう。
「ヤベーやつに出会った」と思うこともきっとストレスだろう。

だったらもらっておいて後で捨てればいいじゃないか、と思うかもしれない。
しかし捨てると知りつつもらうことは彼女の前でいいかっこしたいばかりに自分に嘘をつくことになる行為だ。
ぼくがその余計な1枚を受け取ったことで、本来もらえていたはずの「コンタクトレンズ屋を探していた人」がビラをもらえなくなるかもしれない。


と考えると、「そもそもビラを差しだされないようにする」が最善手だ。
差しだされなければ傷つけれれることもないし、傷つけてしまった自分を苛むこともない。
「私たち、出逢わなければよかったのね。やりなおしましょう」

だからぼくは前方にビラ配りの存在を確認したら、針路を変えることにしている。道の右側にビラ配りがいたら、おもいっきり左に寄る。さらに視線もビラ配りから背ける。「私はビラをもらうつもりがありません」ということを全身で意思表示するのだ。


これでたいていの場合は八方丸く収まるのだが、中にはぼくの全身の訴えが届かないのか、道の反対側にまで駆け寄ってきてビラを差しだす強靭なハートの持ち主がいる。
やめてくれ。
数メートル前からあからさまに避けてるじゃないか。なぜ寄ってくるんだ。

『アドルフに告ぐ』に、ヒトラー・ユーゲントのアドルフ・カウフマンがドイツ在住のユダヤ人であるエリザの家族を逃がそうとするのだが、エリザの家族は財産を取りに家まで戻ってきてユダヤ人狩りに捕まるというシーンがある。まあ読んでない人にはさっぱりわからんと思うが、そのときカウフマンが「ばか、なぜ戻ってきたんだ! もう終わりだ!」と叫ぶ。
ビラ配りがすり寄ってきたときのぼくの心境も同じだ。
「ばか、なぜ寄ってくるんだ!」

そしてぼくは心を鬼にして、冷たい一瞥をくれてビラの受け取りを拒否する。

わざわざ寄ってきたおまえが悪いんだぞ!
そう思えば良心は傷まない。ビラ配りに胸を痛めている人にはおすすめの手法だ。というわけでぜひ、手塚治虫『アドルフに告ぐ』を読んでみてほしい。どんな結論だ。



2017年8月12日土曜日

自分はどうも信用ならん


自分のことが信用ならない。

ぼくは高いところが苦手で、橋の欄干近くを歩くときはすごくドキドキする。
そのとき頭をよぎるのは「急に橋がくずれたらどうしよう」とか「突風で飛ばされたらどうしよう」ではなく「急に飛び降りたくなったらどうしよう」という心配だ。
「よっしゃ飛び降りたれ!」という衝動に駆られたらと思うと、自分を制御できる自信がない。


駅のホームに立っていて、電車が近づいてくると「線路に飛び込んじゃだめだ。飛び込んじゃだめだ」と自分に言い聞かせる。
自殺なんて考えたことないのに。

貴志 祐介の『天使の囀り』という小説に、「スリルを味わいたくなる病気」なるものが出てくるが、その気持ちがちょっとわかる。

車を運転しているときにも「ここでおもいっきりアクセルを踏んだらとんでもないことになるな。でもだめだぞ」と思いながら運転している。
そんな人間が運転していると思うと、他の車や歩行者も怖くてしかたがないだろう。だからなるべくハンドルを握らないようにしている。



ぼくは今までにタバコを1本たりとも吸ったことがない。
二十歳くらいのときに友人から「吸ってみるか?」と勧められたことはあるが、好奇心よりも「1本吸ったらもう死ぬまでやめられなくなるんじゃないか」という恐怖心のほうが勝って、吸わなかった。タバコの煙に囲まれて死んでゆく未来の自分が見えた。
タバコやパチンコや覚醒剤を始める人間は「こんなものいつでも辞められる」と思って徐々にハマってしまうのだと聞く。よくそんなに自分のことを信用できるものだ、と感心する。ぼくは今までに何百回も自分に裏切られている(明日からはジョギングしよう、と思ったのにやらないとか)から、自分のことなどまったく信用していない。
自分のことを信用していないから、他人のことなんかもっと信用していない。


「信用」「信頼」という言葉はポジティブな意味で使われることが多いが、はたしていいことなんだろうか。

ぼくは自分を信用していないから危うきに近寄らないようにしているし、身体や社会に害のあるものに「1回だけ」と手を出すこともない。
また他人のことも信用していないから、人がミスをしたり悪さをしても腹も立たない。

困難なチャレンジをする際(たとえばダイエット)、自分を信じてポジティブにとらえる人(「きっと成功して半年後には痩せてるわ!」)よりも自分を信じていない人(「どうせ挫折して甘いものを食べてしまうよ……」)のほうが結果的に成功しやすいと聞いたこともある。

信用や信頼は捨ててしまったほうが世の中うまく回るんじゃないだろうか。


2017年8月11日金曜日

ぼくの好きなトーナメント表


トーナメント表が好きだ。

高校生のときから、高校野球のシーズンになると模造紙にトーナメント表を書いて部屋の壁に貼っていた。ちゃんと長さを計算して、寸分の狂いもないようにトーナメント表を書いていた。
それを眺めてはにやにやして、大会中はもちろん毎日勝敗や点数を書きこんで、大会後も次の大会が始まるまではずっと壁に貼ったままにしていた。

「勝ち上がってきた勝者同士が頂上でぶつかる」のが視覚的にわかるのがいい。
「勝者の後ろには多くの散っていった者が存在する」ことを感じられるのもいい。
負けたら終わりなので緊張感があること、一発勝負なので番狂わせが起こりやすいこと、消化試合がないこと。トーナメント戦には魅力がたっぷり詰まっている。

まだ1回戦がはじまってない状態でトーナメントを眺めて「あそことあそこが勝ったら準々決勝でぶつかるな……」とかいろいろ空想するのも楽しい。
大会が進むにつれて妄想する余地が減っていくので、「あっ、ちょっと待って。まだ始まらないでよ!」と思うこともある。
大会が終わってからもトーナメント表を見ると「3回戦の横浜ー星稜戦もいい試合だったな」と細かく思いだせる。

ぼくは高校野球が好きだが、もしトーナメント形式ではなく「総当たりで勝率1位のチームが優勝」というシステムだったとしたら、きっと今ほど好きじゃなかったと思う。
トーナメントだから好きなのだ。

プロ野球でも12球団によるトーナメント戦をやったらものすごく盛り上がると思うのにな。なんならサッカーの天皇杯みたいに学生チームや社会人チームも入れたトーナメント戦をやってほしい。


ぼくの好きなトーナメント表は、いびつな形をしたやつだ。
16とか32とか64より半端な数のほうがいい。シードが生まれるからだ。
運の入る余地があったほうがおもしろい。
高校野球でいうと、春の選抜は32校が出場し、夏の選手権大会は49校が出場する(記念大会除く)。春はシードがないので、ぼくは夏のほうが好きだ。

『幽遊白書』の暗黒武術会トーナメントもすごくいびつでよかった。あのトーナメント表を見たときは、当時の読者はみんなゾクゾクしたはずだ。


でも、プロスポーツでは意外とトーナメントをやらない。
ときどきやる(サッカー天皇杯とか大相撲トーナメントとか)ことはあっても、興行のメインではない。大相撲トーナメントなんかテレビ中継すらしないし。
野球のクライマックスシリーズではトーナメント表はあるが、あれは「負けたら終わり」ではないのでぼくはトーナメント戦として認めていない。
ゴルフのツアーのことを「トーナメント」と呼ぶが、これももちろんいわゆるトーナメント戦ではない。
ほとんどのスポーツはリーグ戦がメインで、トーナメントが興行のメインとなっているプロスポーツは、ぼくが知っているかぎりテニスぐらいのものだ。あとスポーツじゃないけど将棋。

トーナメント戦は試合数が必要最小限(出場チーム数-1)になってしまうので、プロスポーツとしては収入面で割にあわないのだろうな。負けたチームはひまを持てあますし。

プロスポーツは難しいかもしれないが、会社の採用試験とか、お見合いパーティーとか、市長選挙とか、もっといろんなところでトーナメント形式をとりいれてもらいたい。



2017年8月10日木曜日

笠地蔵の失礼すぎる恩返し



『かさじぞう』という昔話がある。
 たいていの人は知っていると思うが一応あらすじを書いておくと、

年の瀬におじいさんが笠を売りに出かけるが、笠はひとつも売れなかった。
帰る途中、おじいさんは地蔵を見かけ、雪が積もってはかわいそうだと思い売れ残りの笠を地蔵にかぶせてあげる。足りない分は自分の笠をかぶせる。
その夜、地蔵が恩返しのために餅や米俵や財宝を持ってきてくれた。

という話だ。

 この話、どうも納得できない。

 構造としてはいたってシンプルだ。「人(地蔵だけど)に親切にしてあげるといいことがありますよ」という話だ。それはわかる。
 しかし、おじいさんが地蔵に対して親切にして、その直後当の地蔵から恩返しをされる、という点が納得できない。



 どうやって恩返しをしたのか?


 まず、地蔵はどこから餅や米俵や小判を持ってきたのか? という疑問が浮かぶ。
 石づくりの地蔵が餅や米を常備しているとは思えないから、おじいさんに渡すためにどこかから調達したのだろう。山菜やキノコだったら「地蔵が山に行って取ってきた」ということも考えられるが、餅や米俵は自然界にはないから、地蔵が持ってくる以前は誰かのものであったはずだ。

「悪いやつ」がいれば、そいつから餅や米俵を奪って持ってくるという『義賊システム』も考えられる。
 だが『かさじぞう』に悪人は出てこない。
 仮に物語には出てこない悪党がいたとしても、地蔵が餅や米俵や小判を奪うというのは話として無理がある。



 地蔵には神通力があったのか?


「いやいや、どうやって入手したのか考えるなんて野暮だよ。地蔵は仏様の使いだからね。神通力があるんだよ。その神通力で餅や米や財宝を生みだしたんだ」
と言う人もいるだろう。
 では地蔵に神通力があったとしよう。好きなものを出現させられる幽波紋(スタンド)だ。

 だったらなぜはじめから笠を出さなかったのか?

 雪に凍えてつらかったのなら笠を出せばいい。八十八の手間をかけてつくると言われているお米を出現させるよりも、ばあさんが内職で作れる笠のほうがかんたんだろう。
 いや、神通力があるのだから笠といわずにダウンコートとかヒートテックとか屋根とか石油ストーブとかを出現させればいい。

 なぜやらなかったのか? 答えはひとつ、「必要なかったから」だ。
 あたりまえだ。神通力を備えている地蔵、しかも石づくり。吹雪なんか屁でもない。
 つまり、おじいさんがした笠をかぶせるという行為はまったくのおせっかいだったのだ。



気持ちの問題か?


「いやいや、おせっかいというのはドライすぎるでしょ。地蔵は、おじいさんの気持ちこそがうれしかったんだよ。だから恩返しをしたんだ」
という意見もあろう。
 なるほど、実益を伴わなくても行動してくれたことがうれしいということはある。
 ぼくも、四歳の娘が「はい、お父ちゃんにあげる」と言ってダンゴムシを差し出してきたときは、行為は迷惑千万だったが好意だけはうれしく感じたものだ。

 だが、売れ残りの笠をかぶせてくれたこと(しかもおせっかい)に対するお返しが「餅と米俵と小判」というのはどう考えてもやりすぎだ。逆に失礼じゃないか?

 考えてみてほしい。食べきれないほどのイチゴをもらったので、お隣さんにおすそ分けをする。その直後にお隣さんが「イチゴのお礼です」と言って百万円を持ってきたら、あなたは受け取るだろうか? もしくは地蔵のように夜中にこっそりやってきて郵便受けに百万円を入れていたら?

 まず受け取らないだろう。気持ち悪いから。
 どう考えても不釣り合いすぎる。ばかにされているように感じるかもしれない。



お返しの作法


 人から親切にしてもらったらお返しをするのは礼儀だが、お返しにはいくつかのお作法がある。

 1. 別の形でお返しする
 2. 時間をおいてお返しする
 3. 少なくお返しする

 これがお作法だ。

1. 別の形でお返しする』はわかりやすい。
 イチゴをもらったら、お返しにイチゴを持っていってはいけない。イチゴに対してイチゴでお返ししたら、「あなたがくれたイチゴはいりませんでした」という意味だと受け取られかねない。
 ピーマンをもらったからパプリカでお返し、というのもよろしくない。ぜんぜん違うもののほうが望ましい。
 また、現金を渡すのもなるべく避けたほうがいい。価値が一目瞭然だからだ。
「イチゴをもらった翌月、掃除のついでにお隣さんの家の前も掃いてあげる」だと、どっちがプラスなのかがわからない。この「損得をあいまいにする」ことこそが友好関係を維持するコツだ。


2. 時間をおいてお返しする』は、少しわかりづらい。
 お返しをするなら早いほうがいいと思うかもしれないが、好意を受けてその場でお返しをしたら、それは「取引」になってしまう。ただの物々交換だ。
 必要なのは、時間をおいて「好意をお預かりする」ことだ。
 親しい人の間では貸し借りがあるのがふつうだ。引っ越しを手伝ってあげたり、車で家まで送ってもらったり、どちらかが「借り」をつくっている。
「誕生日プレゼントを贈る」というのも貸し借りを生む行為だ。貸し借りをつくるためにやるといってもいい。なぜなら貸し借りのある関係こそが友好的な関係だからだ。

 人間関係における貸し借りは清算してはならない。
 今までにしてあげたこととしてもらったことを数えあげて収支を合わせようとするのは、金輪際おまえとは付きあわないぞ、という意味になってしまう。
「恋人と別れたときに彼から借りていたものを全部宅配便で送りかえしてやった」なんて話を聞いたことがあるだろう。あれはまさに「貸し借りを清算してあなたとの関係を絶つ」という明確な意思表示だ。


3. 少なくお返しする』のも同じ理由からだ。相手が好意を向けてくれた場合、借りをつくらなければならない。
 結婚式のご祝儀に対しては引き出物を贈るし、葬儀の香典には香典返しをするが、もらった額より少なく返すのが礼儀だ。同じ額、または上回る額でお返しするのはたいへん失礼だ。

と考えると、"その日のうちに" "もらった分よりはるかに多く" 返した地蔵の行動が、いかに礼を失したことだったかわかるだろう。




 地蔵はどうすべきだったのか


 先ほどお返しのお作法を3つ紹介したが、実はもうひとつお作法がある。

 4. 直接お返ししない

というものだ。
 特に目上の人から親切にしてもらった場合、本人にお返しをすること自体が失礼になることもある。

 新入社員が上司にごちそうしてもらったときは、その上司に対してお礼の品を贈る必要はない。上司もそんなことは望んでいない。新入社員が上司になったときに部下にごちそうしてやればいい。

「他者に返す」というのもお返しの作法のひとつだ。

 他者に返すのは、目上の人から親切にしてもらったときだけではない。
「困ったときはお互い様」という精神もある。
 自然災害に遭って義援金をもらったら、義援金をくれた人ではなく、別の災害の被害者に対して寄付をすればいい。


 だから吹雪の中でおじいさんから笠をもらった地蔵は、その恩をべつの困った人に対して向けるべきだったのだ。
 地蔵が誰かを助け、助けられた人がべつの人に親切にし、善意の連鎖がまわりまわっておじいさんのところに戻ってくる。

 こういうお話にしておけば、「他人におこなった親切はいつか戻ってくる」と同時に「善意に対して直接的な見返りを期待してはいけない」という教訓も得られるしね。


2017年8月8日火曜日

断られやすい誘い方をしろよ

断られやすい誘い方 をしろよ、と思う。

どういうことかというと、たとえばぼくが以前にいた会社では不定期でフットサルやバーベキューを開催していた。
そこで許せなかったのは、主催者の誘い方だ。

「再来月あたりにバーベキューやろうと思ってるんですけど、いつがいいでしょう?」
「土日のどこかでフットサルをやろうと思います。(8ヶぐらい候補日が書かれた紙を見せてきて)参加できる日に〇をつけてください」

という誘い方が多かった。
この誘いを受けるたびに、なんて相手のことを考えられない人なんだろう、と心底腹が立った。

こんな誘い方をされると、断ることがすごくむずかしい。


いい大人なんだから、相手に断りやすい逃げ道を用意してあげてから誘えよ、と思う。
「〇月□日か△日にバーベキューをやるんですけど」とピンポイントで指定すれば、一応手帳を見るふりをして「ああすみません、どっちも予定がありまして……。行きたかったんですけど」とさしさわりのない嘘をついて断ることができる。

あと、用件を言わずに予定が空いているかを訊くやつも、バーベキューに火種を忘れていって生野菜だけ食うことになればいいのにと思うぐらい嫌いだ。
「〇日ひま?」って訊かれても、バーベキューのお誘いなら「その日は予定が」と答えるし、「もう使わなくなった100万円の札束あげるから家まで取りにきてくれない?」だったら「何の予定もないよ!」と即答するから、先に用件を言えよ。



まあ、ぼくは会社の人からどう思われようとわりと平気な人間なので、
「再来月の週末はすべて結婚式に出席する予定があるので参加できません」
「靴は革靴しか持ってないのでフットサルはできません」
と、丸わかりの嘘をついて断っていたんだけど。


2017年8月4日金曜日

校長先生の特権


ふつうに生活していて、数十人の前で話をすることなんてどれぐらいあるだろうか。
学生時代はそれなりに機会もあったが、ぼくが高校卒業後に数十人の前で話したことといえば、
  • 職場の全社会議で、全社員約300人の前で所信表明を述べたとき。
  • 自分の結婚式で招待客約50名の前であいさつをしたとき。
  • 友人の結婚式2次会の司会をしたとき。
これぐらい。
教師、講師、アナウンサー、遊園地のアトラクションの司会者、ハイジャック犯といった仕事についてないかぎりは、数十人の前でしゃべる機会はないのがふつうだと思う。
せいぜい結婚式のあいさつや喪主のあいさつぐらい。

また、大勢の前で話すときはたいてい、自分の好きなことを話せるわけではない。
講師にしても司会者にしても喪主にしても、だいたいの話す内容は決まっている。多少冗談を挟むことぐらいはあっても(喪主は挟まないだろうが)、自身の主義主張やとりとめのないことを語ることは許されていない。それが許されているのは、講演会を依頼された著名人、政見放送・街頭演説をする政治家、朝礼の校長先生ぐらいのものだ。




ぼくがここにブログを書くと、1記事につき数十人が見てくれているらしい。

人気ブログとは比べ物にならないアクセス数だが、数十人の前で話ができる、しかも制約なしに自分の好きなことを語れると考えれば、これはすごいことだ。

長年教師を務めて試験を受けて校長になるか、数百万円の供託金を支払って選挙に出馬するかしないと手に入れることのできなかった「人前で好きなことを語る権利」が、ずっとかんたんに手に入る世の中になったのだ。

今後は、校長先生をめざす人や泡沫候補として出馬する人は減っていくかもしれないね。



2017年8月2日水曜日

五千円札と五円玉の謎




本屋で働いていたとき、業務のひとつに「銀行に行ってお釣りを用意する」というものがあった。

で、ふしぎなんだけど、お金の種類によって「必ず減っていくもの」と「必ず増えていくもの」があった。
いくつかの店舗で勤務したことがあるけど、どこも同じだった。

五千円札はぜったいに減っていく。
20枚くらい用意していても1日でなくなる。
つまり「会計時に五千円札を出す人」よりも「一万円札を出してお釣りとして五千円札をもらう人」のほうがずっと多いのだ。

きっと誰しも経験があるだろう。一万円札を出したら「すみません、細かくなってしまうんですけど……」と千円札9枚を返されたことが。
あの状況がしょっちゅう起こっていた。毎日銀行に行って五千円札を用意していたにもかかわらず。





ふつうに考えれば、硬貨と千円札(と二千円札)だけで支払いができない場合、五千円札があれば五千円札を出す。なければ一万円札を出す。したがって財布内の五千円札の数は0枚または1枚で、2枚以上になることはない。

全員がこの方法で支払っていれば、店舗のレジ内にある五千円札の量は短期的には増減するが、長期的にはほぼ一定のはずだ。
だが、ぼくが働いていた書店では五千円札は減る一方だった。

月末はまだわかる。給料日の直後なので、銀行で一万円札をおろしてそれを使う人が多い。だから五千円札がなくなる。
でも、お釣りとして渡した翌月の給料日前になるとかえってくるかというと、そんなことはない。五千円札はいつでも出ていくほうが多い。
5年ほど働いていたが「前日よりも五千円札が増えた」ということは一度もなかった。

「五千円札があるのに使わない客」がいるのか? なんのために? 五百円玉貯金は聞いたことがあるが五千円札貯金は聞いたことがないぞ? 一万円札の札束はあっても五千円札の札束をつくる人がいるとは思えないぞ?
ふしぎだ。


そこで、こんな仮説を考えた。
客単価が5,000~10,000円ぐらいの店を想定する。ちょっといいレストランとか安めの居酒屋だったら客単価はそれぐらいだろう。
ここでは、「お釣りで五千円をもらう客」<「五千円札を出す客」であると推定される。
たとえば会計が7,000円だった場合、「五千円札と千円札2枚」または「一万円札」を出す人が多いからだ。
ひとつは、「一万円札と千円札2枚」を出して五千円札をお釣りとしてもらうのは、少し計算がややこしいから。
もうひとつは、細かいお釣りがほしいから。飲食店なら割り勘にすることもよくある。この場合、「五千円札1枚をお釣りとしてもらう」よりも「お釣りでもらった千円札3枚+財布内にあった千円札2枚」のほうがありがたい。分けやすいから。

この仮説はまちがってないと思う。
つまり、この店では五千円札が増える一方で、減ることはめったにない。

その分のしわよせが書店にまわる。
書店で5,000円を超える買い物をする客はめったにいない。99%が5,000円未満だ。
客は飲食店で五千円札を使っていることが多いので、財布に五千円札がある可能性は50%よりずっと低い。
そこで、一万円札か千円札で支払いをし、書店のレジからは五千円札がなくなっていく。

うん、これはありそうだ。





もうひとつの謎。

書店のレジにある硬貨は、五千円札ほど顕著ではなかったが、徐々に減っていっていた。
この理由はなんとなくわかる。

自動販売機やバスの運賃など、「硬貨は使えるけど紙幣は使えない/使いにくい」状況というものがある。
こうしたところで硬貨を使う分、店頭では紙幣を使うことが多くなる。
また、世の中には小銭は募金箱に入れたり、自宅で小銭貯金をしたりしている人もいる。結果、店舗で流通する硬貨は少しずつ減っていくことになる。

ここまではいい。
だがふしぎなのは、なぜか「五円玉だけはぜったいに増えた」ということだ。
五千円札が前日より必ず減っていたのとは逆に、五円玉は前日より必ず増えていた。
書店においては、五円玉を出す客のほうがお釣りで五円玉をもらう客より多かったのだ。

これは五円玉だけで、一円玉や五十円玉は少しずつ減っていっていた。

謎だ。
書店の五円玉が少しずつ増えていくということは、どこかに五円玉が少しずつ減っていく店もあると思うのだが、それがどういう店なのかも検討がつかない。

この謎はいまだ解けない。
「こういう理由じゃないか」という推理を思いつく人は、ぜひ教えてほしい。



2017年7月31日月曜日

くだらないでこそ喧嘩する


ぼくは妻がいて、ということは何年か前に結婚して、結婚前に8年交際して、で、その8年交際した妻という女性こそが、じつは今ではぼくと一緒に暮らしている女性なんです。
(「その女性が、今ではぼくの妻です」というオチの話をしたかった絶望的に話が下手な人)



ということで妻とは結婚前に8年付き合ったんだけど、その間、喧嘩らしい喧嘩を一度もしなかったのね。
どっちかが立腹することはあっても、その場で「あなたのこういうところが気に入らないから直してほしい」と伝えて、相手が謝罪するなり改善案を示すなりして、引きずらないように解決してきた。
だから「これこそが大人の付き合いってもんだよ。感情をぶつけあうなんてガキのやるもんだ。ぼくらは理性的な人間だから喧嘩とは無縁だ」って思ってた。

結婚式の準備をするまでは。


誰かが「結婚式はぜったいに揉める。そこで相手の人間性がわかる。それを見て、結婚を思いとどまるかどうか決める最後のチャンスだ。だからお金が許すかぎり結婚式はやったほうがいい」っていってたけど、いやあ真理だね。誰の言葉だったかは忘れたけど、言葉の内容はちゃんと覚えている。身に染みて痛感したから。


結婚式の準備もはじめは円満に進んだ。
なぜってぼくらの価値観はきわめて近かったからね。8年も付き合って、同じものを見て、同じ言葉で笑って、同じものを避けてきたからね。相手の好きなもの、嫌いなものをよく知っている。
結婚式の準備程度で揉めたりするわけないよね。

でもさ、やったことある人ならわかるけど、結婚式ってめちゃくちゃ決めることあるんだよね。
そりゃあさ、場所とか予算とか衣装とかは大事だから、いろいろ考えて決めるよね。
でもさ、「引き出物にかけるリボンの色はどれにします?」とか「歓談中の音楽はどうします?」とか「司会者の前に飾るお花についてなんですけど……」とかすっげえ細かいことまでいちいち相談されたら、さすがにむかついてくんのね。
うるせえよ、いちいち訊いてくんじゃねえよ、人間なんだからちょっとは自分で考えろよ、とか思うわけ。引き出物のリボンの色が青でも赤でも文句言わねえよ、って。
ぼくもいい大人だから、式場の人に「うるせえよ」とは言いませんよ。その人はいい結婚式にしようと思ってがんばってくれてるんだろうしさ。でも文句を言えない分、腹の中に鬱憤がたまってくる。

どうでもいいから一応1秒だけ考えたふりして「じゃあ……赤で」とか適当に答えてたんだけど、ぼくの妻(まだ結婚してなかったけど)はまじめな人だから、ひとつひとつに真剣に考えてんの。
「テーブルクロスの色はどうします?」って言われて3パターンぐらい見せられて、クロスのサンプルを手に取って眺めて、中空を見てちょっと想像して、また別のサンプルを手に取って、また考えて、さっきのやつもう一回手に取って、そんでこっちに向かって「うーん……。どうする?」って、それだけ考えてまだ決められへんのかーい!
ってなわけでその時点でかなり腹立ってきてね。他人の結婚式行って「いい式だったねー、テーブルクロスの色も2人のイメージによく似合ってたし」「ご祝儀3万円出してあのテーブルクロスの色はないわー」って思ったことあんのかよ、って言いたくなったけど、すんでのところでこらえたのね。

もうこんなことに1秒だって頭を悩ませたくないと思って、一番左のやつを指さして「ぼくはこれがいい」って言って、決めたのね。紫のテーブルクロス。べつに茶色でもグリーンでもなんでもよかったんだけどね。

その後またあれこれ決める時間が続いてね。招待状のデザインはどれにするかとか、司会者の胸につけるコサージュはどうするかとか、心底どうでもいい決断を迫られてね、「一刻も早く終わらせたい」って思いながらいろいろ決めていってた。
そしたら妻が言った。

「さっきのテーブルクロスだけどさ、やっぱりグリーンのほうがいいな」


そんでね、もうキレちゃった。
ふだん声を荒げることとかないんだけどね。付き合って8年、一度も声を荒げたことないんだけどね、自分でもびっくりするぐらいガラの悪い声で「ハァ!?」って言葉が出た。
「ただでさえどうでもいいことにこれだけ時間使ってんのに、一度決めたことを覆す? それやってたら永遠に終わらんやん。一生テーブルクロスとコサージュについて悩みながら過ごす気か!? ふざけんなよ」
みたいなことが口をついて出た。
「一回紫のに決めたんだから、ぜったい変えない!」と宣言した。

ちっちゃい人間だな、って思うよね。
ぼくもそう思う。ていうかそのときも思った。
ちっちゃいことで怒ってんなーって自分を客観的に見ていた。どっちでもいいよって言えよ、って思ってた。たかがテーブルクロスじゃないか。
でも、たかがテーブルクロスで揉めないといけないことに腹が立った。
8年喧嘩せずにやってきたのに、最初の喧嘩がテーブルクロスの色をめぐってかよ、って。

すっごくくだらないことに腹を立てて、くだらないことに腹を立てていることに腹が立った。





で、結婚して数年たった今だからわかるんだけど、人間ってくだらないでこそ喧嘩するんだよね。
住居選びのこととか仕事のこととか子どものこととか、重要なことをめぐっては意見が食いちがうことはあっても意外と感情的な衝突にはならない。
大事なことだから落ち着いて理性的に話そう、相手の意見もちゃんと聞き入れようって気になるんだよね。

でも「牛乳をこぼしたのは誰か」「トイレのスリッパをそろえないのはなぜか」みたいな些末な問題だとそういう意識ははたらかない(どちらも我が家で大喧嘩に発展したテーマだ)。
ちっちゃな問題だからどっちが悪くてもいいからさっさと頭を下げてしまえば済む話なのに、相手に対して「どうでもいいことなんだからさっさと非を認めろよ」と思ってしまい、結果、話し合いはこじれてしまう。


結婚式は、くだらないことの集合だ。
指輪の交換もケーキ入刀も無理やりケーキ食わすやつも余興も新婦の両親への手紙も退場したはずの新郎新婦が出口で待ち構えてて美味しくなさそうなクッキーを押しつけてくるやつも、ぜんぶやらなくてもどうってことない。
しかしそのくだらないことにこそ意味があるのではないだろうか。結婚生活はくだらないことの積み重ねだ、しかしくだらないことにこそ気を付けなければならない、ということを結婚式は教えてくれるのかもしれない。



2017年7月28日金曜日

読みかけの本を抱えて死ぬ




ぼくは常に5~6冊「読みかけの本」を抱えている。
今読みかけている本は以下の6冊だ。
  • 星 新一『殿さまの日』(時代小説)
  • 読売新聞 政治部『基礎からわかる選挙制度改革』(ノンフィクション)
  • ジェイムズ・P・ホーガン『星を継ぐもの』(SF小説)
  • NHKスペシャル取材班『僕は少年ゲリラ兵だった』(ノンフィクション)
  • 伊沢 正名『くう・ねる・のぐそ』(エッセイ)
  • 佐藤 義典『図解 実戦マーケティング戦略』(ビジネス)
ジャンルもテーマも書かれた時代もバラバラだ。
まだ読み終わっていない本があるのに他の本にも手を出すのだ。


寝る前に読む本


寝る前はKindleで電子書籍を読む。
なぜならKindleなら灯りを消したままでも読めるし、Kindleはブルーライトを発しないらしいからその後スムーズに睡眠につなげられる。さらにメモをとりたいときでも、端末にそのまま記録できるからメモ帳や携帯電話を取りだす必要がない。寝る前の読書に適している。
電子書籍リーダーは、紙の本以上に雨に弱いとか、充電が切れたら読めないとか、通信環境がないと書籍の購入ができないとかいくつか弱点があるけど、枕元で読む分にはそういった心配はすべて無縁だ。
Kindleは寝る前の読書でこそ最大のパフォーマンスを発揮すると思う。

ぼくのKindleには、読みかけの本が常に2冊入っている。そのときの気分で読みたいほうを読む。

通勤時に読む本


ぼくは電車通勤で、電車に乗っている時間は片道約20分。これは本を読むには長すぎず短すぎずちょうどいい。
電車では立って吊り革につかまって読むことが多いので、片手で持ちやすい文庫か新書を読む。
電子書籍で買った本が溜まってきたらKindleで読むこともあるが、誰かの足の上に落してしまったら怒られるだろうなとか、電車とホームの隙間に落としてしまったら大損害だなとかいろいろ心配してしまう。
やはり文庫か新書がいい。電車内は他にやれることがなくて集中できるので、難しめの内容でも頭に入ってきやすい。ノンフィクションをよく読む。

自宅ですき間時間に読む本


ぼくは寝る前を除き、まとまった「読書の時間」というものをほとんど持っていない。
家にいる間はたいがい何かをしながら本を読む。着替えながら読んだり、テレビの音だけ聞きながら読んだり、子どもと遊びながら読んだりしている。
リラックスしているし、他のことをやりながら読むので難しい内容は頭に入ってきにくい。だからこういうときは小説やエッセイを読むことが多い。

汚れてもいい本


先述したように、ながら読みをすることが多い。今は娘とお風呂に入ることが多いが、ひとりで入浴するときは湯船で本を読む。ひとりで食事をするときも、行儀が悪いけど本を広げながらめしを食う。
外食時では、なんとなく店の人に悪い気がしてカウンター席や混雑しているときは遠慮するけど、そうでなければ本を読みながら食べることも多い。そのために「本を読みながら食べやすいもの」という基準で料理を注文する。両手を使わないといけないものや汁が飛びやすいものは避ける。
また、休みの日は娘と公園に出かけるので、屋外で本を読むことも多い。

風呂や食卓や公園で読むと、本は汚れたり傷んだりしやすい。
図書館で借りた本はもちろん、ハードカバーの本もなんとなく汚すのは気が引けるので、外出先や風呂で読む本は文庫や新書が多い。

職場で読む本


仕事中、作業に疲れたときにぱらぱらと読む。さすがに仕事と関係のない本は読まない。


なぜ同時に読むのか


なぜこんな読み方になったのか。
べつに意識してやっているわけではない。数多くの本を読んでいるうちに、自然にこうなった。昔は1冊読みおわるまでは別の本にかからなかったけど、2冊になり3冊になり、いつの間にか5~6冊になっていた。
このやりかたがいちばん量をこなせるからだ。

まず、同じ本ばかり読んでいると飽きる。
「ページをめくる手が止まらなくて一気に最後まで読みました!」みたいな感想がよくあるが、そんな本は50冊に1冊あるかどうかだ。

本を読むのが苦手な人は、1冊だけを一生懸命読もうとするから読めなくなる。
いい本でも読むのが嫌になる瞬間はある。今の心境とあわない、というときもある。後半からおもしろくなるけど前半は退屈な小説も多い。
そんなとき、無理をして読むのはよくない。かといって投げだしてしまうのももったいない。いい方法は「寝かせておく」だ。
何冊か同時に読んでいるとそれができる。「本は読みたいけど今はこの本の心境じゃない」というときには、他の本に逃げるのが正解だ。

ぼくのKindleには常時2冊の未読本が入っていると書いたが、重めの小説と軽めのエッセイ、サイエンス系のノンフィクションと本格派でないミステリ小説、など「読むのにパワーがいる本」と「あまりパワーを要しない本」がセットで入っていることが多い。意識しているわけではなく、自然とそうなるのだ。


同時に読むことの効用


複数冊の本を並行的に読んでいると、当然ながら1冊を読み切るまでに要する時間は長くなる。常に頭のなかに本が溜まっているような状態だ。
そうすると、ときどき本と本がつながる瞬間が訪れる。「これは別の本に書いてあったことと似た考えだ」と気づく。
また本以外から得た情報とつながることもある。人から聞いた話が本の内容と関連していることを見つけたりする。
こういう発見は誰でもあると思うが、頭の中を本で埋めているその容積が大きいほど、その機会は増える。

……と書いたが、これは後付けの理由だ。
何冊も読んでいたら本が別の情報と有機的につながりやすいということに気付いただけで、狙ってはじめたわけではない。

読書にとって重要なのは「読んでいる時間」だけではない。「読みかけている時間」から得られるものも多い。ぼくが速読をしないのはそれが理由だ(うそ。やろうとして挫折しただけ)。


同時に読む人はけっこういる


成毛眞さんの『本は10冊同時に読め!』という本がある。
成毛さんというのはHONZという書評サイトを運営している読書家だ。

ぼくはこの本を読んだことがない。たぶんこの先も読むことがない。
なぜなら、たぶん同じような読み方をしているんだろうな、と思うからだ。もう実践してるからぼくには必要ない(もしぜんぜん違ったらごめん)。


同時に読む方法は、ある程度の量をこなすためにはいい方法だと思う。
だけどデメリットもある。

ついつい本を買いすぎてしまうこと。
家の中が本だらけになること。
気づくと何カ月も鞄に本が入っていてぼろぼろになっていること。

万人にはおすすめしないけど、「もっと本を読みたいけど読めない」という人はやってみてもいいんじゃないでしょうか。