2017年11月30日木曜日

ふわふわした作品集/『文学ムック たべるのがおそい vol.1』【読書感想】


『文学ムック たべるのがおそい vol.1』

西崎 憲 (編集)


【執筆陣】
<巻頭エッセイ>
「文と場所/夢の中の町」 穂村 弘 
<創作>
「あひる」 今村 夏子 
「バベル・タワー」 円城 塔 
「日本のランチあるいは田舎の魔女」 西崎 憲 
「静かな夜」 藤野 可織
<翻訳>
「再開」 ケリー・ルース 岸本 佐知子・訳 
「コーリング・ユー」 イ・シンジョ 和田 景子・訳
<短歌>
「はばたく、まばたく」 大森 静佳
「桃カルピスと砂肝」 木下 龍也
「ひきのばされた時間の将棋」 堂園 昌彦
「ルカ」 服部 真里子
「東京に素直」 平岡 直子
<特集 本がなければ生きていけない>
「虚構こそ、わが人生」 日下 三蔵
「Dead or alive?」 佐藤 弓生
「楽園」 瀧井 朝世
「ただ本がない生活は想像のむこう側にも思い浮かばず」 米光 一成
穂村弘、岸本佐知子という「ぼくの好きな変な文章を書く人」の両巨頭が執筆陣に名を連ねているのを見て(岸本さんは翻訳だけど)購入。

小説、短歌、翻訳小説、エッセイから成るムックなんだけど、なんだかふわふわした作品が並んでいるという印象だった。夢を見ているみたいというか。
ぼくは地に足のついた物語のほうが好きなので正直あまり性に合わなかったな……。

しかし今村 夏子『あひる』と西崎 憲『日本のランチあるいは田舎の魔女』は、幻想的な雰囲気と妙なリアリティが融合していておもしろかったな。森見登美彦の描くファンタジーみたい。なさそうである、ありそうでない話。特に『日本のランチあるいは田舎の魔女』は劇団員のなんでもない日常から突然霊能力バトルになって意表を突かれた。どんな展開だと思ったが不自然ではなく、これは表現力のなせる業なんだろうなあ。



米光 一成『ただ本がない生活は想像のむこう側にも思い浮かばず』に出てくる一節。

 人にあげたり、処分したとたんに、必要になる(気がする)。名著は手に入りやすいが、トンデモな本(ありがとうの重要さを説くため何十ページもありがとうと繰り返し印刷されてる本や、短歌で綴った聖書や、とんでもない誤植がある本など)は、これを手放したら二度と手に入らないという恐怖のために手放せず、名著を評判の高いものばかり手放してしまう(「バカの棚になる」と読んでいる法則である)。

これ、本コレクターとしてはわかるなあ。
電子書籍のおかげでそんなことなくなったけど、基本的に本って一期一会だからねえ。不人気な本ほど二度と手に入らないからなかなか手放せないんだよねえ。
ぼくの本棚もバカの棚になってるなあ。まあバカな本ばかり買ってるからかもしれんけど。



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2017年11月29日水曜日

つくり笑いの教え方


つくり笑いがへただ。
ここはうそでも笑っといたほうがいいと頭ではわかっているのに、どうもうまく笑えない。


冗談というのは必ずしもおもしろくなくてもいい。場を和ますためにたいしておもしろくない冗談を言うことが必要なときもある。それは理解している。そして、おもしろくない冗談を言った人に対してはつくり笑いで返してやるのが人間関係をスムーズにする潤滑油であることも。
でもとっさに笑顔が出ない。ひと呼吸おいて「あっこれ笑ったほうがいい状況だ」と考えて、それからようやくひきつったように口の端を持ちあげる。せっかく和みかけた場が、ぼくのへたなつくり笑いのせいでまたぎくしゃくしてしまう(ように感じる)。

我ながら愛想がないなあと思う。でも世の中の人だってほとんどがはじめからできていたわけじゃないだろう。ひたすら慣れるしかないのだろうな。
体育会系の先輩のギャグを見せられたり、上司と酒を飲みにいって冗談を傾聴したり、そうしたことの積み重ねでつくり笑いはうまくなっていくのだろう。ずっとそういう場から逃げてきたぼくがうまくつくり笑いをできないのは当然のことなのだ。

中島みゆきの『ルージュ』という曲にこんな歌詞がある。
つくり笑いが うまくなりました
世渡りがうまくなった自分を悲観的にうたっている歌だ。ぼくも二十歳くらいのときはこの歌を聴いて「ああ世間ずれしてしまうって悲しいなあ」と思っていた。そしてそんな自分が好きだった。
でも三十を過ぎた今、「つくり笑いがうまくなるのって悲しいことじゃなくてむしろ喜ばしいことだ」と思う。
つくり笑いがうまいほうがぜったい得だし、周りを幸せにするし、自分自身もハッピーになる。

だからわが子に対して「つくり笑いが上手な人になってほしい」と望んでいる。
でもつくり笑いを上手にするのってどうやって教育したらいいんだろうね。
だじゃれを連発する父親になるとか? でも父親相手にはつくり笑いなんてしてくれないだろうしね。家庭でつくり笑いを教えるのは無理なのかな。


2017年11月28日火曜日

偏差値三十の靴


女の人は男の靴を見るっていうじゃない。
服は少々無理をしていいものを着れるけど、靴にはほんとの余裕が出るって。
だから男の価値は靴で決まるって。

やめてくれ。見ないでくれ。
自慢じゃないがぼくの靴はへろへろだ。たぶん歩き方がヘンなんだと思う。すぐに足の甲のところに線が入る。磨くことはないからすりきれて黒い靴が白っぽくなってる。靴ベラを使わずに足をつっこむからかかとのところがふにゃふにゃになってる。結び目もヘンだ。
偏差値三十の靴だ。ここからの第一志望合格は厳しそうだ。


まあ見るのは勝手だけどさ。でもそれを公言しないでくれ。「女は男の靴を見るのよ。だからいい靴履きなさい。毎日磨きなさい。靴にはそれはそれはきれいな女神さまがおるんやで」ってプレッシャーをかけるのはやめてくれ。そっと見るだけにしてくれ。

男は女の胸元を見るとき、こそっと見る。見ていないような顔をしてちらっと見る。ましてそれを公言したりしない。口が裂けても「女の価値は胸で決まる」なんて言ったりしない。
なのに女は「女子はけっこう男性の靴を見てるよ」と堂々と言っちゃう。セクハラだ。エッチ。

これ以上女性が男の靴についてとやかく言うのならぼくだって……いや、これ以上はほんとのセクハラになるのでやめとこう。


2017年11月27日月曜日

血圧計がこわい


血圧計がこわい。
ポンプでしゅっしゅっってやる手動のやつじゃなくて、機械の筒の中に腕を入れて自動的に測定されるタイプの血圧計。

怖くないですか。あの腕をぎゅーっと締めつけてくるロボ。
もちろんこっちも「締めつけられるぞ」と覚悟して血圧計に対峙するんですけど、「これぐらいの強さで締めつけてくるだろうな」という想定の五割増ぐらいの力で締めつけてくる。毎回。毎回五割増。「五割増でくるぞ」と身構えているのに、さらにその五割増で締めつけてくる。

あんなに強く締める必要ある?
体温計を見てみなさいよ、腋の下にはさむだけ。つかずはなれずの適切な距離を保っている。
ところが血圧計は想定の五割増でぎゅーっですよ。アメリカ人の握手かってぐらいの強さ。いやアメリカ人にだってあの強さで握ったらファックとか言われちゃうよ。

隙あらばこっちの腕を砕いてやろう、みたいな意思を感じる。ほんとほんと。
医者とか看護師とかが近くにいるときはおとなしくしてるけど、もしも密室で血圧計と一対一だったらあいつは何してくるかわからない。そんな怖さがあるよね。
想像してみて。二畳ぐらいの狭い部屋。窓はない。扉は閉まっている。壁はぶあつくて、こちらの声は外に漏れない。その部屋の真ん中に血圧計が置いてあるの。あなたはそこに手を入れる勇気はある? ぼくはぜったい無理。


病院って命の危険と隣り合わせじゃないですか。
だからぼくは、いろんな検査を受けながら危険を回避するための脳内シミュレーションをおこなっている。
たとえば点滴を受けているあいだ。地震が起こったらどうしようか、と考える。初期振動を感じたら、あいているほうの手で管をつかみ、一気に引き抜く。多少の出血はあるかもしれないが、空気が血管に入るような事態よりはマシだろう。
たとえば採血。この看護師が急に注射器で血管に空気を送りこんできたらどうしようか、と考える。あいているほうの手で腕の根元を抑え、すかさず立ち上がって右足で注射器を蹴りあげ、大声を上げて出口に向かって走る。
万が一の事態にもすぐ対応できるように、ずっとそんなシミュレーションをしている。採血中に鏡で自分の顔を見たことはないが、きっと鬼のような形相で顔で看護師さんをにらみつけていることだろう。

ところが血圧計だけはどうシミュレーションをしても助かる道がない。
もしもこのロボが狂ってすごい力でぼくの左腕を砕きにきたら。
この力でがっちり抑えられたら、ほとんど身体を動かせないに違いない。できることといえば電源プラグをコンセントから引っこ抜くことぐらいだろうが、この位置からはコードに手を伸ばせない。こいつらが叛逆を起こせば、生身の人間に太刀打ちできる術はないのだ。

血圧計の前で人は無力だ。だからせめてぼくの番のときに叛逆を起こさないように、小声で「かっこいい機械ですね」とつぶやいて血圧計様のご機嫌をとることぐらいしかぼくにはできない。


2017年11月25日土曜日

引越バイトの六日間



大学時代、引越屋のバイトをしたことがある。
三月の繁忙期。引越バイトをしていた友人が「とにかく人が足りないから二足歩行できるやつなら誰でもいいから連れてこい!」と言われ、ぼくにもお声がかかった。

友人は高校時代はサッカー部に所属し、大学ではボクシング部(ところでボクシング部ってなんでウインドブレーカーの背中に『拳闘部』って書くんだろうね。ダサいよね)。筋肉質な体つきだった。
一方のぼくは高校では野外観察同好会で大学は持久走同好会。筋肉とは無縁の同好会員に肉体労働が務まるかなと一抹の不安もおぼえたが「日給一万五千円超えるで。一週間だけでいいし」という甘い言葉に乗せられて、バイトをやることにした。その言葉が地獄への片道切符だとそのときは知るよしもなかった(ちゃんと帰還してるけど)。

「まあ若いからなんとかなるか」というぼくの見通しは、「ユーチューバーになって楽しく生きていく」ぐらい甘い考えだったことをバイト初日の午前中に思い知らされた。
朝六時に起きて自転車で一時間かけて集合場所へ。その時点でこっちは「いやー今日はがんばったなー」ぐらいの気持ちになってるのに、なんと仕事はまだ始まってもいないのだ。あたりまえだが。

トラックに乗せられて七時半から作業をしたのだが、なんと最初の休憩が午後三時。その間、お茶を飲む時間すら与えられなかった。休憩なしで七時間半の肉体労働。ぎゃあ。思いだしただけで変な声が出た。
重い荷物を抱えて走りまわっているので汗びっしょり。のどが渇いた。他のバイトを見るとみんなペットボトルを持参しているのだが、バイト初日のぼくは何も用意していない。出たよ新人への洗礼。
休憩なしで走りまわっている人たちに「ちょっとジュース買ってきていいっスか」とは言うことができずに「すみません、トイレに行きたいんですけど……」と嘘をついて新築マンションのトイレを貸してもらった。水洗トイレを流すと手洗い場から水が出る。それを飲もうと思いついたのだ。
ところが新築なので水道が通ったばかりらしく、石灰の混じった白濁した水が出てきた。おいどこまで試練をお与えになるんですかと遠藤周作『沈黙』ばりに神に問いかけたのだが、神はただ沈黙するばかり。しかたないのでトイレの白濁水を飲んだ。なんだこの仕打ちは。捕虜か。

本気で脱走も考えはじめた午後三時、ようやく引越作業が終わり、昼飯となった。お茶もおにぎりもめちゃくちゃうまかった。
はあたいへんだったと安堵していたのだが、甘かった。ようやく一軒目が終わったに過ぎなかったのだ。
その日は三軒の引越を担当した。すべて終わったのは午後九時。社員の人が「だいたいカタがついたからバイトは帰ってもいいぞ」と言い残して次の引越先に向かっていった。フルマラソンを走った後に「この後フットサルやるけど来る?」と言われるようなものだ。引越会社の社員とはなんという体力の持ち主なのだろうと恐怖すら感じた。
疲れたが家まではまた自転車で一時間走らねばならない。「うわああああああ」と大声を出しながら帰った。なんで世の中のやつはこんなに引越するんだよ、と日本国憲法に定められた居住移転の自由を恨んだ。

家に帰り、こんな生活があと六日もあるのかと絶望を感じるひまもなくあっという間に眠りについた。いろんな夢を見た。たぶん肉体が疲れすぎていてレム睡眠百パーセントだったのだと思う。


運が良かったのか悪かったのか、一日目がいちばんきつい現場だった。
二日目以降はは一日に三軒の引越を担当することもなかったし、七時間半休憩なしという現場も最初だけだった。なぜいちばんきつい現場にド新人を割り当てるのか。洗礼か。
また、慣れてくるにつれて力の入れ方のコツをつかんで、ベルトに荷物を乗せてだいぶ楽に運べるようになった。初日は軍手だったのだがゴム手袋をするようにしたらぐっと楽になった。
大きなミスといえば六人がかりでピアノを運んでいる最中に指がすべって「あああぁぁムリです!」と叫んでピアノを落としかけてこっぴどく怒られたぐらいで、それなりに充実感も味わえるようになってきた。

ぼくがいちばん嫌だった仕事は、エレベーターのないマンションの三階まで書籍がたっぷり詰まった段ボールを運ぶことでもなく(あらゆる荷物の中で書籍がいちばん密度が高い)、ピアノが廊下を通らないからワイヤーで吊りあげて窓から入れる作業でもなく、トラックの誘導だった。バックするトラックの背後にまわって「オーライ!オーライ!」と叫ぶあれである。

「おまえ誘導やれ」といきなり指名されたときは面食らった。単身者の引越で荷物が少ないため、社員ひとりとぼくひとりという現場だったのだ。
ぼくは二年前に普通運転免許をとっただけのペーパードライバーで、もちろん誘導なんて一度もやったことがない。
「えっでも……」という間もなく、社員のおっちゃんはトラックの運転席に乗りこんでバックをはじめた。いやちょっと待てよと思いながら一応「オーライ、オーライ……」と言うと、運転席から「ぜんぜん聞こえねえぞ!!」とキャッチャーが外野手に声をかけるときぐらいの大声がとんできた。これだから体育会系は嫌なんだよ、野外観察同好会では大声出すシチュエーションなかったんだからしょうがないじゃないかと思いながらやけくそになって「オーライ! オーライ! ストーップ!」と叫んだら、トラックから降りてきたおっちゃんに「三メートルも余裕あるじゃねえか!」と怒鳴られた。
「もう誘導なしでいいや」と言うとおっちゃんは運転席に戻り、塀の五十センチ手前でぴたりとトラックを止めた。誘導なしでできるやんけ、と思った。
「誘導なしでできる、って思ったやろ?」とトラックから降りてきたおんちゃんがにやりと笑った。「俺ぐらいになるとひとりでもできるけどな、一応後ろについて確認せなあかんルールやねん」


引越屋のバイトは六日で終わった。ほんとは七日やる予定だったが六日目の夕方に筋肉が「もう無理です」と泣きついてきたので一日早く終わりにしてもらった。筋肉と対話できたのは後にも先にもあのときだけだ。
めちゃくちゃハードな仕事で不慣れなぼくは何度も怒鳴られたが、引越屋の社員はみんないい人だった。
ただ、早朝から働いているくせに夜九時に「やっと調子出てきたな」と笑っていたり、さんざん重い荷物を運んでるくせに休憩時間にまで腕立て伏せをしていたりしてして、イカれている人がやたらと多かった。
そんなところも含めて、なかなかいい経験だったと今になって懐かしく思う。ただ、二度とやりたくはない。


2017年11月24日金曜日

紙が消えた世界


五年ぐらい前にKindleを買って、はじめは慣れなくてやっぱり紙の本のほうが読みやすいなんて思っていたが、慣れるにつれてすっかり電子書籍派になった。

たいてい電子版のほうが紙の本より安いし、場所をとらないし、いつでも買えるし、売り切れがないし、いつでも読めるし、メモや引用もしやすいし、検索もしやすいし、一度に大量に持ち運べるし、あんまり褒めすぎてAmazonのまわしものだということがばれるといけないのでこのへんでやめとくが、とにかくメリットが多すぎる。
今でも紙の本を読むが(電子版が出ていない場合にかぎり)、「紙の本しかないのか……。だったら買わなくていいかな。電子版なら買ってたんだけどなー」と思うこともある。

本を多く読む人ほど電子書籍のメリットを享受できるから、数年に一冊ぐらいしか本を読まない人を除いて、どんどん電子書籍にシフトしていくだろう。


紙の本は減る一方。
流通数が減ればその分印刷コストも輸送コストも高くなるから、今よりずっと高価になる。高価になれば買われなくなる。さらに高くなる。
電子版だと五百円だけど書籍版は五千円です、みたいな時代がじきにやってくる。もう著者との握手券とかつけて限定版として売るしかない。
紙の本は、あえてレコードを聴くのが贅沢、葉巻は不便なのがいい、みたいなごく一部の好事家の趣味になるだろう。


紙の本の最大のメリットといえば、なんといっても検閲をかいくぐりやすいこと。
ビック・ブラザー的な統治者が言論の自由を封じようと思ったら、まっさきにインターネットと電子書籍を抑えるだろう。一斉チェックが容易だから。
一方、印刷物は完全に掌握するのがむずかしい。自宅で印刷して路上で配布されたら、出所を突きとめるのはきわめて困難だ。
監視カメラ、監視マイクが至るところに置かれている時代、反体制的な言論は印刷物を介してのみおこなわれることになる。
ということで時の政府は個人や組織が勝手に印刷をすることを嫌い、紙の流通を禁止する。
かくして世の中から紙が消える。本や新聞はもちろん、紙幣も消えて電子通貨のみになる。
禁制品となった紙は地下マーケットでのみ流通することとなり、千円札サイズの紙が末端価格一万円を超える価格で取引される。
新しいメディアに抵抗の少ない若年マフィアが紙を使いこなし、紙を介した犯罪が摘発されるたびに老人たちは「紙メディアの闇」と「人の顔が見えない紙媒体による犯罪」と煽りたて、インターネットニュースでは真っ暗な部屋の中で紙が煌々と光る映像が使われるようになるのだ。



2017年11月23日木曜日

結婚は慎重に。


高校時代からの旧友に彼女ができたらしい。三十代半ばで、人生二人目の彼女。

「おお、よかったやん」と祝福して、ひととおりなれそめを聞く。
お相手も同い年。付き合って三カ月だが今のところ不満もないのでいずれは結婚も考えたい、とのこと。

先に結婚しているものとして、一応アドバイスした。
「だったら早いとこ結婚しようって言ったほうがいいんじゃない? 年齢も年齢やし。結婚生活がうまくいくかどうかなんてどうせ何年付き合ったってわからんで。結婚に最適なタイミングなんか待ってても永遠にこないから、結婚したいと思うんやったら思いきりの良さも大切やで」
と。

すると旧友は「なるほどなー。ほかの既婚者たちからも同じようなこと言われたわ」と云う。

「そうやろ、結婚なんて運でしかないから思いきってやってみたらええねん」

「でもな、Fにだけは『結婚は慎重にしたほうがいいで』って言われたわ」

Fというのはやはり高校からの友人の女性で、数年前に結婚している。だが彼女の夫は浮気性らしく、女遊びをして家に帰らない日も多いらしい。離婚も考えている、という話をFから聞いたことがあった。


そうか、人って誰かにアドバイスをするときには自分の経験を語っているだけなんだな。

ぼくは結婚生活に大きな不満を抱いていないから「思いきって結婚したらええんちゃう?」と云った。同じようなアドバイスをした既婚者たちも、さほど不満は感じていないのだろう。だけど離婚したいと考えているFだけは「結婚は慎重に」とアドバイスした。

ぼくは旧友に対してうまくいってほしいと思って「思いきって結婚したらいいんじゃない?」と言った。Fも本心から相手のことを思ってアドバイスしたのだと思う。「勢いで結婚しないほうがいいよ」と。
どちらも相手の幸福を願ってしたアドバイスなのに、その内容は正反対だ。

助言というものはもちろん相手のことを考えておこなうわけだけど、その根拠となっているのは相手の人生ではなく自分の人生なんだなあ。


2017年11月22日水曜日

法よりも強い「空気」/山本 七平『「空気」の研究』【読書感想】


『「空気」の研究』

山本 七平

内容(Amazonより)
「空気を読む」ことが誰にも求められる現代の必読書!
社会を覆う「空気」の正体を正面から考察し、1983年の初版以来読み継がれ、日本の針路が云々されるたびにクローズアップされる古典的名著。
〈以前から私は、この「空気」という言葉が少々気にはなっていた。そして気になり出すと、この言葉は一つの〝絶対の権威〟の如くに至る所に顔を出して、驚くべき力を振っているのに気づく。(中略)至る所で人びとは、何かの最終的決定者は「人ではなく空気」である、と言っている〉
昭和期以前の人びとには「その場の空気に左右される」ことを「恥」と考える一面があった。しかし、現代の日本では〝空気〟はある種の〝絶対権威〟のように驚くべき力をふるっている。あらゆる論理や主張を超えて、人びとを拘束することの怪物の正体を解明し、日本人に独特の伝統的発想、心的秩序、体制を探る、山本七平流日本学の白眉。

ときには法よりも強く社会を支配してしまう「空気」。

最近「福井県で中学生が自殺した事件を受けて、文部科学省が全国に生徒指導の見直しを通知した」というニュースを見た。「空気に支配されすぎだろ」と感じた。
たしかに人が死んでるから大きな事件だし再発防止に向けた取り組みはしていかないといけないんだけどさ。でも教育って「今日から変えます!」っていって来月に成果が出るものじゃないわけで。結果が出るまでには早くたって十年かかる。それを「なんとかしなきゃいけない"空気"だから」ってトップが右往左往してたらそれにふりまわされる現場はたまったものじゃないだろうな。
一人の自殺者のために一万人の生徒の教育プログラムを変更するってどう考えてもおかしいんだけど、でも「自殺した生徒はお気の毒ですけど、それはそれとして一過性の雰囲気に流されずに従来通りの方針でやっていきます」とは言いだせない"空気"だったんだろうな。文部科学省は。

会社で会議をやったときなんかに、その場の出席者全員が「こんな会議意味ない」と思いながら、空気的に誰もそれを口に出すことができず「では目標達成に向けて各人がさらに努力してまいるということで……」みたいななんの意味もない結論を出して、誰も「もう終わりにしよう」とは言えないまま毎週会議が開かれつづける、ということがよくある。

たぶん行政や政治の世界では、利益追求という明確な指標がない分、より空気に支配された決定をおこなっているのだろう。

岩瀬 彰『「月給100円サラリーマン」の時代』に、戦争に向かう時代のサラリーマンについてこんな記述があった。
 当時のホワイトカラーも、極端な貧富の格差の存在や政財界の腐敗には内心怒りを感じてはいた。だが、多くのサラリーマンはただじっとしていた。文春のアンケートで資本主義は行き詰まっていると訴えた二十九歳のサラリーマンは「自分の生活のためと、プチブル・インテリの本能的卑怯のために現代社会生活の不合理と矛盾を最もよく知りながらも之が改革運動の実際に参与出来ない」と言い、それが「一番の不満です」と述べている。
空気に支配され、空気に逆らうことができず、徴兵されて死んでいった。命を落とすような状況になっても空気には抗うことができなかった。
たぶんぼくもその時代に生きていたら同じ末路をたどったと思う。
独裁者が始めた戦争ならその人物が退けば流れは止まったかもしれないが、空気ではじまった戦争だけにかんたんに止められなかったのかもしれないな。


この『「空気」の研究』、内容は何回でいまいち理解できなかった。自動車公害とか共産党とか田中角栄の話とか、「当時は誰でも知っていた話」があたりまえのように例えとして出てくるので、三十年以上たった今読むと「例え話があることでかえってわかりにくい」という印象を受ける。

ただまあ、「ぼくたちはたやすく空気に支配される」ということを自覚できるだけでも読む価値はあるかなと思う。

 一方明治的啓蒙主義は、「霊の支配」があるなどと考えることは無知蒙昧で野蛮なことだとして、それを「ないこと」にするのが現実的・科学的だと考え、そういったものは、否定し、拒否、罵倒、笑殺すれば消えてしまうと考えた。ところが、「ないこと」にしても、「ある」ものは「ある」のだから、「ないこと」にすれば逆にあらゆる歯どめがなくなり、そのため傍若無人に猛威を振い出し、「空気の支配」を決定的にして、ついに、一民族を破滅の淵まで追いこんでしまった。戦艦大和の出撃などは〝空気〟決定のほんの一例にすぎず、太平洋戦争そのものが、否、その前の日華事変の発端と対処の仕方が、すべて〝空気〟決定なのである。だが公害問題への対処、日中国交回復時の現象などを見ていくと、〝空気〟決定は、これからもわれわれを拘束しつづけ、全く同じ運命にわれわれを追い込むかもしれぬ。

センセーショナルな出来事が起こるたびに右往左往してもろくな結果は生まないからね。
おい文部科学省、おまえらのことだぞ!


【関連記事】

【読書感想エッセイ】岩瀬 彰 『「月給100円サラリーマン」の時代』



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2017年11月21日火曜日

くだらないエッセイには時間が必要/北大路 公子『流されるにもホドがある キミコ流行漂流記』【読書感想】

『流されるにもホドがある
キミコ流行漂流記』

北大路 公子

内容(e-honより)
好きなものは、おビールとお相撲と蟹など。平和と安定を好むキミコ氏が、まったく興味のない「流行」に挑んだ!人気アプリに触発された感涙の人情話、某流行ランキングに従い、北陸新幹線に乗って金沢を目指す旅行記、かの名作に想を得たハロウィン物語、北海道の土産についての考察と試食レポなど。多彩な筆致を堪能できる傑作エッセイ集。

流行にまったく興味のないエッセイストの北大路公子さんが、あえて苦手な流行りものに挑む、というエッセイ。

「流行りものについてほとんど情報がない状態であれこれ考察する」というパートと、「いざ流行りものを見にいく/食べてみる」というパートに分かれてるんだけど、前者はじつに味わいがある。

相撲はいいよう。なにしろルールがずっと一緒だもの。変更とか全然ないもの。「足の裏以外のところが土俵についたら負けね」「あと土俵から出ても負けね」って、もう何百年もそれしか言ってないもの。
 時折、百年前の横綱の写真をネットで見つけては、うっとりと眺める。同じだ、と思う。髷で裸で化粧まわしで仁王立ち。おしなべて顔がデカい印象はあるけれど、それ以外は今の横綱と完璧に同じ。粗い画質の写真を前に、私は「ウェアのデザイン性」という概念のない世界の安定感を心ゆくまで味わう。変わらないって本当に素晴らしい。私の安寧はここにある。

言葉選びのセンスと内容の無さが光っている。

ところがルポルタージュ部分はいまいちキレが悪い。いいかげんなことを書いちゃいけない、情報を伝えないといけないという思いが先行しているからか、「どうでもいいことをテキトーに書くおもしろさ」がすっかり鳴りをひそめている。
業務報告的な文章になってしまっていて、せっかくのおもしろさが死んでるなあと残念だった。
「実体験してみて、三年後に記憶だけでそのときの様子を書く」とかだったらもっと肩の力が抜けておもしろいエッセイになっただろうなあ。




ぼくもこうしてインターネットの隅っこでブログをつづっているけど、最近あった出来事ってどうも書きにくい。
情報がありすぎて、どうでもいいことまで書いちゃうんだよね。札幌に行ったときにこんなことがありました、って伝えたいのに、関空から飛行機で千歳空港へ行ってそこから鉄道で……みたいに主題と関係のないことをだらだらと書いちゃう。「札幌で」から派内をスタートさせりゃあいいんだけど、情報を捨てるのって難しいんだよね。せっかくだから書きたい。
でも十年前のことを記憶だけで書こうと思ったら、たいしておもしろくない情報はとっくに脳内から消えている。必然的に印象に残った出来事だけを書くことになり、ぽんぽんとテンポよく書けて気持ちがいい。

ビジネス文書は新鮮なうちに素材をそのまま形にしたほうがいいんだろうけど、くだらないエッセイを書くときは脳内で寝かせておいて粗熱をとったほうがいいものが書ける、というのがぼくの経験上の法則。



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2017年11月20日月曜日

苦痛を回避できるようになったら/小出もと貴『アイリウム』【読書感想】


『アイリウム』

小出もと貴

内容(Amazonより)
1錠飲めば1日分の記憶を飛ばすことができる薬、アイリウム。薬が効きはじめると、他人から見れば意識もあり普段通りの生活をしているように見えて、その間の記憶がまったくなくなってしまう。つまり、嫌な思いをする出来事の前に飲んでおけば、その事を思い出すことなく日常生活が送れるのだ。記憶を薬でコントロールできるようになった時、その人の生はどんな彩りになるのか…。

「薬が効きはじめると、他人から見れば意識もあり普段通りの生活をしているように見えて、その間の記憶がまったくなくなってしまう薬、アイリウム」をめぐる短篇漫画集。
映画監督の卵、兵士、ロックンローラー、ママ友、ホストなどがアイリウムを使い、アイリウムに翻弄される姿が描かれている。

アイデアはおもしろいのだが、設定の雑さが気になってしまう。
薬の効き方に個人差がまったくないこととか、大量服薬したら1錠あたりの効き目が落ちるのではなくなぜか増幅することとか、記憶がすっとぶという超ヤバい薬なのに法的にぜんぜん規制されていないこととか。いくらなんでも甘すぎるだろう。
いやSFでがっちがちに整合性を求めるのは野暮だとわかってるけど。でも中途半端にこの薬ができた経緯とか設定しているから、だったらほかの矛盾点にも納得のいく説明をつけろよな、と思ってしまう。もっと上手に嘘をついてくれ。できないんだったら星新一みたいに「こんな薬ができました」ぐらいにして非リアリティに徹したらいいのに。



「1日分の記憶が消える薬」はできないだろうけど、「嫌なことを感じなくなる薬」はそのうちできるんじゃないだろうか。苦痛、悲しみ、怒りなどを感じる脳の部位を麻痺させる薬。いってみたら精神的な麻酔薬だね。
兵士とか死刑執行人とかが「嫌だけどやらなきゃいけないこと」をするときにあらかじめ飲んでおくと、ストレスを感じたりPTSDになったりしない。仕事で謝りにいかなきゃいけないときとか、恋人と別れ話をするときとかにも使える。

苦痛を回避できるようになったらどうなるんだろうなあ。とってもハッピーな生活が待っているのだろうか。
しかし苦痛を感じないというのはブレーキが効かなくなることでもあるわけで、みんなが精神的麻薬を使ったら社会の秩序は崩壊するかもね。ポジティブな人って周囲に迷惑かけまくりだったりするもんね。世の中って「怒られるのが嫌だから」「捕まりたくないから」とかで成り立っているところも大きいもんなあ。

って考えると、薬学が進歩してもぼくらが嫌なことから逃れられる日は来ないかな。
嫌なこととは一生付き合っていくしかないか。嫌だけど。



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2017年11月19日日曜日

お菓子問題のソリューション


とうとうこの日がきた。 会社のデスクの上から2番目の引き出しをお菓子入れにしてるんだけど、今日、引き出しが閉まらなくなってしまった。お菓子の入れすぎだ。

数えてみたら引き出しには17種類のお菓子が入っていた。
定番のキットカット、ミルキー、LOOKチョコ、ダース、チェルシー、チロルチョコから、ピスタチオ、みたらし餅やトマト飴まで。Blendyのコーヒーと紅茶もあるし、しかも机の上にはみかんが6つ置いてある。
どう考えても備えすぎだ。
大地震が起きて帰宅難民になっても、2週間くらいは食いつないでいけそうだ。

こう書くとぼくが仕事中ずっとお菓子ばかり食べている人みたいだが、そんなことはない。
ぼくが飲み食いしている正味の時間は、勤務時間の8分の1、つまり1時間くらいだ。
では、たったの1時間しか食べていないのにどうして引き出しがいっぱいになるのか。
それは食べる分以上に買ってしまうからだ。

ぼくの実家では、みんなそれほどお菓子を食べるわけじゃないのに常に数種類のお菓子が置いてあった。急な来客に対応するためだろうか(急な来客なんてないのだが)。
だからだろうか、お菓子のストックがなくなると不安になる。
読書好きの人ならわかると思うが、常に未読の本が手元にないと居ても立っても居られない。あの感覚だ。

いくら甘いものが好きだといってもそうたくさんは食べられない。
でもお菓子は買いたくなる。
人にあげればいいのだと思って、ことあるごとに同僚にお菓子をあげるようにしている。
とはいえあまり頻繁にやっていると、引き出し内がお菓子だらけの人だと思われそうで恥ずかしい。与えすぎて懐かれても困るし。

この引き出しに小人が棲みついてくれないかな。 ときどきお菓子を食べてもいいから、ぼくが居眠りをしている間に仕事をやっといてくれるってのがいちばんいいソリューションなんだけど。


2017年11月18日土曜日

高級食パンが教えてくれた残念な真実


職場の近くに、行列のできる食パン屋さんがある。
「高級生食パン」と店には書いてある。いつも人が並んでいるのだからよほどおいしいのだろう。

ずっと気になっていたのだが行列が嫌いなので買ったことがなかった。
ところがある日、店の前を通りかかるとたまたま行列がゼロだった。これはチャンスと中に入ってみた。どうやら閉店間際のようだ。
「まだパンありますか」と訊くと、店員のお姉さんは言う。

「一斤のパンは売り切れてしまったんです。でも二斤を半分にしたものならまだありますが」

???

一斤はない、しかし二斤を半分にしたものはある。
ぼくの頭は混乱した。二斤を半分にしたものは一斤じゃないのか。わけがわからない。こんなに混乱したのは高校の化学の授業で「1モルの二酸化炭素の中には1モルの炭素原子と2モルの酸素原子があります」と習ったとき以来だ。
どういうことだ。一斤という単位はモルのようなものなのか。一斤のパンは何モルのイースト菌に相当するんだ。

パニックのあまり「うわああああ」と声を上げる寸前で、見かねた店員さんが説明してくれた。
「一斤用の型と、二斤用の型があるんです。一斤用の型で焼くと周囲すべてに焼き後がつくんですが、二斤用のパンを半分にしたものには焼き後のない面があります」

ふむ。正直よくわかんなかったが、とりあえずわかったような顔でうなずいた。化学の先生が一生懸命モルの説明をしてくれた後に「長々と説明してくれたのはありがたいですがさっぱりわかりませんでした」と言う勇気がなくてあいまいにうなずいた高二の夏と同じように。

一斤四百円もした。たけぇ、と声に出しそうになった。これ買うんだったらベンツ買えるじゃん、と思った。どんなベンツだ。
しかし今さら「持ちあわせがないのでやめときます」とは言えずに、なけなしの四百円をはたいて高級食パンを購入した。





翌朝、食べてみた。焼かずにそのままちぎってお召しあがりくださいと書いてあったので、ほんとはトーストしてバターとハチミツをたっぷり塗って食べたかったのだが、言われるがままにそのまま食べてみた。

ふうん、まあふつうの食パンよりはおいしいね。うん、そのまま食べても苦にならない。ぜんぜん食べられるな……。

ここで気がついた。

ぼくは食パンが嫌いなんだ。

おまえは今まで食ったパンの枚数を覚えているかと問われても困ってしまうぐらい多くの食パンを食べてきたけど、そしてずっと気がつかなかったけど、ぼくは食パンが嫌いだったんだ。
ジャムを塗ったりハチミツをつけたりチーズを乗せて焼いたりしてごまかしていたけど、そもそも食パンが好きじゃなかったんだということに三十数年生きてきてはじめて気がついた。
マイナスからスタートしているから、「めちゃくちゃおいしい食パン」を食べても「これなら苦にならない」ぐらいの残念な感想しか出てこない。いやほんとはすごくおいしいんだと思う。じっさい、妻はおいしいおいしいと言いながらほおばっていたし。
でも妻はパン好きで、ふつうの食パンを+50ぐらいで食べているから高級食パンを食べて+95ぐらいの喜びを味わうことができる。でもぼくはふつうの食パンを-30ぐらいに設定しているから高級食パンを食べても+15ぐらいにしか感じられない。

「うん、まあいけるね」なんて言いながらも、我慢できずに途中からハチミツを塗って食べてしまった。
パンをつくった人にはほんとに申し訳ないと思う。新鮮なマグロの大トロをシーチキンにしてマヨネーズとあえて食べちゃうぐらいもったいない食べ方だと思う。
だからというわけじゃないけれど、これだけは言わせてほしい。高級食パン、四百円もするだけあって、ふわふわもちもちのすばらしいパンだった。ほんとにおいしかったよ(主にハチミツが)。


2017年11月17日金曜日

ロフトのある部屋


ロフトのある部屋に住んでいたことがある。
そう、部屋の中に急な階段があって、部屋内二階みたいな小さいスペースがあるアレ。


不動産屋に連れていかれてロフトを見た瞬間、即決した。

駅から遠かったけど、マンションの前はつぶれたラブホテルだったけど、そのつぶれたラブホテルは近くの外国人パブの寮になっていて南米人のおねえさんたちがやかましかったけど、「ロフトがあるのに住まない理由はない!」と思って即決した。

その部屋にはロフトはあるけど洗面所がなかった。
なんでなかったんだろう。風呂はあるのに洗面所はない。トイレの中に手洗いスペースはついているのに洗面所はない。今考えてもふしぎだ。
吉田戦車『伝染るんです』という漫画に、隠されていた洗面所を発見して「うちにも洗面所があったんだ!」と大喜びする家族が出てくる。ぼくも「どこかに洗面所が隠れてるんじゃないだろうか」と探しまわったけど、やっぱりなかった。
決して狭い部屋ではなかった。ロフトもあったし。廊下もあったし。なのに洗面所だけがなかった。
廊下のドアを開けると、そこが浴室だった。不動産屋と内見に行ったときはなんとも思わなかったけど、引っ越してきた日の晩に風呂に入ろうとして「あれ? どこで服脱いだらいいんだ?」と困惑してしまった。
まあひとり暮らしだからいいかと思って廊下で服を脱いだけど、すごく背徳的な気分になった。あと風呂から出たらそこが廊下なわけで、ぼくはあまり身体を拭かずに風呂から出る人間なので廊下がびしょびしょになった。
洗面所がないからひげを剃るのは風呂場だった。健康とか愛する家族とか失ってはじめてそのありがたさに気づくものっていくつかあるけど、洗面所もそのひとつだと気づいた。すごく不便だった。

しかしその不便さを補って余りあるのがロフトの存在だった。
だってロフトだもの。隠れ家感すごくない? ひとり暮らしなのに誰から隠れるんだよって冷静に考えたら思うけど冷静さなんかロフトの前ではひとたまりもないよね。

引っ越した当日、さっそくロフトに布団を持ってあがって寝た。
ベッドもあったがだんぜんロフトのほうが魅力的だ。
おまけにロフトの上には天窓があった!
布団にあおむけになると、目の前に星空が広がっているのだ。最高じゃないか。もっとも裸眼だと星なんかちっとも見えないぐらい視力が悪いのだけれど。
「もしこの天窓から誰かが顔をのぞかせたら超こわいな」と思ったらめちゃくちゃ怖くなったので、それは考えないことにした。



引っ越して一週間ぐらいすると、完全にロフトを持てあますようになった。

なにしろ不便なのだ。
ロフトの上にはコンセントがなかった。テレビとかパソコンとか充電器とか、電化製品を持ちこめないのだ。

はじめはロフトの上に布団を敷いて寝ていたが、トイレに行きたくなったときに急な階段を降りるのは面倒だった。またシーツを洗ったり布団を干したりするたびに階段を昇り降りするのもたいへんだった。すぐにベッドで寝るようになった。

書斎にしようかと思ったが、ロフトの上は薄暗く、夜の読書に適していなかった。電気スタンドを持って上がってからコンセントがないことを思いだし、すごすごとスタンドを片手に階段を降りた。

物置きにしようかと思ったけど、ぼくの趣味と呼べるのは読書ぐらいだ。本がいっぱい詰まった重い段ボールを抱えてはしごを上がるのは危険きわまりない。おまけに先述したようにそこそこ広い部屋だったので、わざわざロフトに上げなくても階下に十分本を置くスペースがあった。

また、ロフトの上にある天窓を開けると風が通りぬけてすこぶる気持ちよかったのだが、すぐに天窓から大量の虫が入ってくることに気がついた。天窓には網戸がなかったのだ。
生ごみに群がる小バエを掃除機で吸いながら、二度と天窓を開けるものかと心に誓った。

そんなわけでロフトは引っ越しのときに使った段ボール置き場となり、天窓を開けることもなく、ひと月もしないうちにぼくはロフトに昇らなくなり、階段は無用の長物となった(それどころかときどき足の小指をぶつける凶器と化した)。

それからぼくはロフトと階段を見ると憎々しい気持ちになるのでなるべく見ないようにして(だから小指をぶつけたのかもしれない)、洗面所のない部屋で小バエと戦いながら暮らした(天窓を閉めてもどこからか小バエが入ってきたのだ)。
外国人パブのおねえさんたちが露出の多い服でうろうろしていること以外にいいところはない部屋にうんざりして、仕事を辞めたこともあり、わずか四カ月でロフトのある部屋を引きはらった。

たぶん二度とロフトのある部屋に住むことはないだろう。


2017年11月16日木曜日

1970年頃の人々の不安/手塚 治虫『空気の底』【読書感想】


『空気の底』

手塚 治虫

【目次】
ジョーを訪ねた男
野郎と断崖
グランドメサの決闘
うろこが崎
夜の声
そこに穴があった
カメレオン
猫の血
わが谷は未知なりき
暗い窓の女
カタストロフ・イン・ザ・ダーク
電話
ロバンナよ
ふたりは空気の底に
手塚治虫中期の短篇集。
これらの作品が発表されたのは1968~1970年。この3年間に起こった事件を調べてみると、3億円事件、学生運動による東大入試中止、人類初の月面着陸、大阪万博、よど号ハイジャック……。なんとまあ盛りだくさん。超濃密な3年間だね。
今ぼくが「昭和」という言葉から漠然とイメージするのはこのあたりの時代だな。高度経済成長で勢いがあり、公害や安保闘争といった社会のひずみが表面化した時代でもある。

で、そんな時代の空気を色濃く反映した、グロテスクで虚無的な内容の短篇が集まっている。
ベトナム戦争帰還兵と黒人差別を絡めた『ジョーを訪ねた男』、田舎の村に伝わる伝説と公害病をつなげた『うろこが崎』、東京に核爆弾が落とされる『猫の血』、人類最後の生き残りの恋愛を描いた『ふたりは空気の底に』など、なんとも救いのないショートショートが並んでいる。オチは鋭くないが、じわっとした不快感・不安感が広がる。

1970年頃の人々の不安を表しているんだろうな。
冷戦まっただなかで、いつ核戦争がはじまるかわからない世界情勢。公害や環境問題が問題視され、科学の進歩の先にあるのが希望ではなく絶望ではないかと気づきはじめた時代。それが手塚治虫の漫画ににじみ出ている。

こうした不安は今でも解消されていないけど、たぶん50年前よりはずっと軽減されている。
今でもあちこちで戦争は起こっているけど、世界中を巻きこむ大国同士の核戦争はたぶんしばらく起こらないだろう(とぼくらは思っている)。
エネルギー不足や環境問題は依然としてあるけれどひところよりは状況が改善しているし、きっとどこかの賢い人が解決してくれるだろう(と思っている)。

今のぼくたちが抱えている不安は「貧困への不安」じゃないだろうか。
50年前、それなりの会社に勤めていて、子どもにも恵まれた人は「将来自分が貧困生活を送るかもしれない」という不安はどれぐらい感じていたんだろう。想像するしかないけど、ほとんど感じていなかったんじゃないだろうか。暮らしは右肩上がりで良くなっていくし、年金はあるし、困ったら子どもが助けてくれる。そんな思いが強かったはずだ。
今それと同じように将来に対して楽観視している人はほとんどいない。会社勤めでも、そこそこの貯金があっても、年金に加入していても、子どもがいても、その不安は拭えない。
若者が減って老人が増えて人口が減っていくという人類が経験したことのない時代に直面して、ぼくらは貧困生活に転落しないかと不安でいっぱいだ。



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2017年11月15日水曜日

ヴァカンス・イン・桂林


今までいちばん贅沢な時間を過ごしたのはいつだろうと考えてみると、十数年前に中国・桂林で過ごした日々に思いあたる。

学生の貧乏旅行で友人ふたりと中国をまわり、中国南部の桂林という田舎町に数日滞在して、鉄道でベトナムに渡る予定だった。
ところがハプニングがありチケットが取れず、最終的に旅行会社と喧嘩をして「だったらいらんわ!」と日本語で啖呵を切って、ビザが切れるギリギリまで桂林に滞在することになった。今だったらスマホでささっと検索をして新しい目的地を見つけるんだろうけど、そこまでインターネットが身近でもなかった時分のこと、また中国各地を転々とする生活に疲れていたこともあり、そのまま桂林に二週間滞在することにした。

当時の北京の物価が日本の十分の一ぐらいだったが、桂林はもっと安く、三元(五十円くらい)出せば腹いっぱい飯を食えた記憶がある。外国人向けのわりと上等なホテルに泊まっていたが、それでも一泊千円くらいではなかったか。だから学生でも悠々とホテル住まいができたのだ。日本でひとり暮らしで自炊生活をするよりも中国でホテル住まい&外食のほうが安くつくぐらいだった。

ほとんどの人は桂林と聞いてもぴんと来ないだろう。それもそのはず、特に何もないからだ。
一応鍾乳洞とゾウの鼻みたいな形をした岩が有名だったが、そんなものは一日あれば見てまわれるので、あっというまにやることがなくなった。
ぼくは気管支炎になって病院に行き、そこでなぜか医者(若い兄ちゃん)に誘われて一緒に食事をして観光地をまわったり、飯を食いに行った店でなぜか料金を請求されなかったのでそのまま何食わぬ顔で店の外に出て食い逃げに成功したりしたが、めずらしい体験と呼べるのはそれぐらいであとはのんべんだらりと過ごしていた。

朝起きると、ホテルの食堂に飯を食いにいく。餃子や中華饅頭といった点心を食う。
午前中の涼しいうちに近所の商店街を散歩して、暑くなってきたらホテルに戻ってテレビ観戦(中国では人気なのか、やたらとビリヤードやモータースポーツの番組をやっていた)。昼頃近くの丼屋に行く。丼の上に好きな具をトッピングしてもらえるシステムの店で汗をかきながら昼めし。汗をかいたのでホテルに戻り、シャワーを浴びて昼寝。
夕方涼しくなってきたら街に出て、目についた店でビールを飲みながら夕食。一元(十五円ぐらい)のアイスクリームを食べながら夜の街を散歩してホテルに戻り、床に就く。

というなんとも自由気ままで自堕落な生活を送っていた。こんな暮らしを十日ばかり。今思い返しても天国のような日々だ。
史上最高に贅沢な時間だった。何が贅沢って「何もしない」ということが贅沢だった。もう二度とあんなゆとりのある暮らしはできないかもしれない。

トッピングを選べる丼屋。最高にうまかった。

とはいえ、わずか二週間ばかりの期間と数万円のお金があればできる贅沢だから、その気になればいつでもできるんだけどな。ちょっとした勇気の問題なんだが。
ヨーロッパの人たちは夏にまとまったヴァカンスをとると聞くから、毎年そんな生活をしているのだろう。なんともうらやましい。日本人にはなかなか心理的ハードルが高い。
ドラえもんのマッドウォッチ(時間の進み方を部分的に早くしたり遅くしたりできる道具)が実用化されるのをただ待つばかりだ。


2017年11月14日火曜日

行司にスカウトされた男/三十六代 木村庄之助『大相撲 行司さんのちょっといい話』【読書感想】


『大相撲 行司さんのちょっといい話』

三十六代 木村庄之助

内容(e-honより)
大相撲生活49年!その正確な裁きと美しい所作から名行司と称され行司の最高位「木村庄之助」を襲名。その後、惜しまれつつ引退した著者がコッソリ明かす、土俵のウラ話エッと驚き、フムフムと納得!大相撲ファンはもちろん、「裏方仕事」に興味津々の方も必読!

まず悪い点を言っておくと、つまんねえタイトルだってことだね。
なんかコンビニに並んでる安っぽいマンガのタイトルみたい。

まあタイトルはべつにして、内容はおもしろかった。

こないだ 『進学か、就職か、それとも行司か って記事を書いたんだけどね。
行司ってどんな人がなるんだろうと疑問に思ったよって話。力士はわかるじゃん。身体が大きくて力持ちがなるんだろうなって。でも行司を志す理由はよくわかんないなって。
この本に答えは書いてありました。今は相撲好きの少年や体格が伴わず力士になることを断念した少年が志願するらしい。でも三十六代木村庄之助さんの場合は、なんと"スカウト"だったんだって。
相撲部屋の親方のほうから鹿児島にいる少年を「君、行司になる気はないか」って誘ってきたのだとか。スカウトされて力士になったって話は聞いたことあるけど、行司もスカウトするのか。
そうやってスカウトした少年が後々行司の最高位となる木村庄之助になったわけだから、スカウトした親方の目に狂いはなかったわけだ。どこに光るものを感じたんだろうね。公平かつ迅速なジャッジをしそうとか、見る人が見ればわかるものなのかね。




一年を 二十日で暮らす いい男
って狂歌がある。
昔の相撲は年に二場所、一場所十番しかなかったから年に二十回相撲をとるだけでいいなんてうらやましい身分だ、って意味。もちろん稽古だの巡業だのあるけれど。

でも、もっといい男なのが行司だね。なんたって最高位木村庄之助ともなれば行司を務めるのは一日に一番、結びの一番だけなんだから。ハッケヨイって言っておけばいいんだから楽な商売だ。
なんて思いません? ぼくは思ってましたよ。

 行司の仕事は大きく分けて、5つあります。
 1つ目は、土俵に上がって、相撲の勝負を裁くこと。そして2つ目、本場所中は毎日、審判部と協議して、力士の取組を作ることもします。翌日の取組は、前日までの力士の星取表をあれこれ見比べながら、より盛り上がる取組を考えて、組み合わせていきます。3つ目は番付を書く(相撲字の習得)こと。また4つ目、本場所のとき「東方、稀勢の里、茨城県牛久市出身、田子ノ浦部屋」という場内アナウンスをおこなうのも、行司です。最後の5つ目には、地方巡業の時の会計や、引退相撲、力士の冠婚葬祭などのイベントごとの事務作業に携わるという業務もあります。

いろんな仕事してたんですね、ごめんなさい。
番付を書いたりアナウンスするのも行司なのね。意外。
体力、瞬発力、判断力、発声、書道、経理能力、事務処理能力などいろんなスキルが求められるわけで、これはたいへんな仕事だあ。

中でも番付を書くのはたいへんそう。
なんと手書きで、しかも下書きなしの一発勝負で書いているらしい。おまけに相撲字という独特のフォントを習得しないといけないため、番付を書くまでには何年もの修業が必要なのだとか。

 会議に立ち会った私は、自分自身で一覧表を作り、後日、相撲協会から出た正式なデータと見比べて、間違いがないかをチェックします。
 3〜4日間かけて、データをチェックした後、今度は協会に届いている改名届や引退した力士の情報をチェックして、人数を合致させる。それで、ようやく翌場所の番付を書く上でのデータが完成するのです。
 その後、助手2人と私で、データの読み合わせをおこなって、誤りがないか再度確認。「番付がすべての世界」であるがこそ、こうした作業はきっちりおこなわなければならないのです。
 番付を書くのは、10日間です。
 1日7時間から10時間程度、途中で1時間に1度は筆を休めながらの長丁場です。

ひゃあたいへんだ。しかも下書きなしで筆で書いていくわけだから、一ヶ所でもまちがえたら最初からやりなおしなのかな……。おお、おそろしい。[ ctrl ] + [ z ]で元に戻すってわかにはいかないもんね。
集中力のないぼくみたいな人間にはぜったいにできない仕事だ。こないだふざけて「行司になる道もあったのに進路指導の先生は教えてくれなかった!」って書いたけど、そうか、先生はぼくにはその資質がないと思ったからあえて行司を勧めなかったんだね。さすがだ先生、仰げば尊しわが師の恩。



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2017年11月13日月曜日

冤罪は必ず起こる/曽根 圭介『図地反転』【読者感想】


『図地反転』

曽根 圭介

内容(e-honより)
総力を挙げた地取り捜査で集められた膨大な情報。そのなかから、浮かび上がった一人の男。目撃証言、前歴、異様な言動。すべての要素が、あいつをクロだと示している。捜査員たちは「最後の決め手」を欲していた―。図地反転図形―図と地(背景)の間を知覚はさまよう。「ふたつの図」を同時に見ることはできない。ひとたび反転してしまったら、もう「元の図」を見ることはできない。
『鼻』『藁にもすがる獣たち』『熱帯夜』に次いで、曽根圭介作品を読むのは4作目。
今まで読んだ中でいちばんシリアスな話だった。
他の作品はグロテスクな描写の中にもどこか乾いたユーモアがあったのだが、『図地反転』は冤罪という重いテーマを扱っていることもあってか終始落ち着いた筆致だった。
個人的には曽根圭介のブラックユーモアが好きなのでちょっと寂しいね。

静岡県で起こった女児殺人事件を軸に、かつて妹を殺された刑事、実の娘からいわれのない罪を着せられている老人、無実の罪で服役していたと主張する元受刑者とそれぞれ立場の異なる三人の行動が語られる。
複雑にからんだプロットは曽根圭介らしいのだが、いくつかある謎は最終的に半分くらいしか解決しない。
放りだすような終わり方なのでスッキリ解決するミステリを読みたい人にはおすすめできないけど、個人的にはこういうしこりの残るエンディングは嫌いじゃない。冤罪事件という一筋縄ではいかないテーマを扱っている以上、安易なハッピーエンドにするよりも余韻を残して読者にパスして終わるほうが誠実だと思う。

とはいえ満足のいくミステリだったかというと、いやそれは……。
たぶんタイトルが良くなかったんだろうな。
タイトルの『図地反転』は、見方によってまったく異なるものが見える図形のことなんだけど(有名なのは表紙にも書かれているルヴィンの壺)、『図地反転』にそこまでの意外性のある展開はない。
あっと驚くどんでん返しを期待して読んでしまうタイトルだけに「えっ、ぜんぜん意外じゃないじゃない……」と肩透かしを食らってしまった。

たぶん同じように感じた読者が多かったのだろう、文庫版では『本ボシ』に改題されている。そのタイトルもいまいちしっくりこないけど『図地反転』よりはまだましかなあ……。



ぼくが "冤罪" について思うのは、いいかげんに冤罪は起こりうるという前提のシステムをつくろうよ、ってこと。
これまでにも多くの冤罪事件が起こっているし、まちがいなく今後も起こる。殺人事件の冤罪なんかだと大きく報道されるけど、軽微な犯罪だったらもっとたくさん起こっているんだろう。
とはいえあんまり冤罪を気にしすぎるあまり未解決事件が増えるのもそれはそれで良くない。このへんの綱引きは難しいところだ。

もちろん冤罪が起こらないに越したことがないけど、「冤罪をなくせ」ってのは意味がない話で、なくせるものならとっくにやっている。
ミスをなくすシステムは作れないのだから、ミスを減らすシステム、ミスが起こったときにリカバリーできるシステムを作らなきゃいけない。

だったら「一定数、冤罪は起こりうる」という前提で、冤罪被害をできるだけ小さくすればいい。
具体的には刑が確定するまで報道は差し控えるとか、実名報道はやめるとか。冤罪で受けるダメージって、拘束されるという時間的被害も大きいけど、著しく名誉が傷つけられてその後の人生に悪影響が出るってことも大きい。新聞でもテレビでも、無実の罪で捕まったときは実名で大きく報道されるのに、無罪だとわかった瞬間に匿名になるからね。逆だろ。

今の世の中って警察に対しても犯罪者に対しても、「一度ミスを犯した人に対して異常に厳しい社会」だよねえ。いや昔はもっとそうだったのかもしれないけど。
もうちょっと寛容であってほしいと、しょっちゅう人生の過ちを犯している人間としては切に願うばかり。

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清水潔 『殺人犯はそこにいる』




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2017年11月12日日曜日

おっさんにも人権を


痛ましい事件があったときにニュースで流れる「被害者の善良っぷり」がイヤだ。

小学校の同級生とかに「小さい子の面倒をよく見る優しい子だった」とか「美容師になりたいという夢を持っていた」とか語らせるアレ。

それで事件の残酷性や理不尽さを伝えたいんだろうけど、じゃあなにかい夢を持たない優しくない人だったら死んでもいいのかよ、と思ってしまう。
意地悪でその日暮らしの生活を送っている人は殺されても仕方ないのかよ、と。

「優しい少女の命がある日突然奪われるなんて絶対に許せない」というのは裏を返せば「優しくない少女が死ぬのはまあ許せる範囲か」ということだろう。そんなことあるかい。

被害者の人間性にかかわらず犯した罪の重さによって裁かれるのが法治国家というものだ。
気に入らないから石を投げてやれ、という前近代的な姿勢がまかりとおっていることには違和感をおぼえる。


あと「子どもや女性を狙った卑劣な犯行」って表現にも納得できない。
大人の男を狙った犯行は潔いのかよ。おっさんも庇護してくれよ。
善良なおっさんにも、あんまり善良じゃないおっさんにも人権をくれよ。


2017年11月11日土曜日

タイムカプセルの中にはシャケのおにぎり


高校三年生の秋。卒業まであと半年。
ぼくらは勝手にタイムカプセルを埋めた。

テスト期間中だった。
部活もないし、試験が終わるとみんなさっさと帰ってしまう。教師たちは採点や翌日以降の試験の準備に追われている。校門とは反対方向の北グラウンドに行く人なんて誰もいない。そのタイミングを狙ってやった。計画犯だ。
六人ぐらいで埋めたと思う。

タイムカプセルとして埋めたのは未来の自分に宛てた手紙と、成績表と、食べかけのおにぎりだった。おもしろいと思ったのだ。愉快犯だ。
タイムカプセルは湿気でダメになるという話を聞いていたので、缶の箱に手紙とおにぎりを入れ、セロテープで密封し、ビニール袋で二重にくるんだ。

北グラウンドにはちょうどいい具合に大きめのスコップが置いてあった。大きな樹から十メートル南に歩いたところに一メートルくらいの穴を掘った。
そんなに掘らなくてもいいのに掘っているうちに楽しくなってしまったのだ。一メートル掘ったが、掘り起こすときのことを考えて三十センチぐらいの深さのところにタイムカプセルを埋めた。



タイムカプセルを堀りかえしたのはそれから二年後、成人式の翌日。ちょうどみんな帰省してくるのでその日にした。この機会を逃すともしかするともう一生全員そろうことはないかもしれない。一月にはめずらしいぽかぽか陽気の日だった。


高校に入り、まっすぐ北グラウンドに向かった。
さて掘りおこそうと思って気がついた。スコップがない。
埋めたときはちょうどいい塩梅に転がっていたのに、今はない。スコップがなくなったという変化に二年という時の重さを感じて愕然とした。嘘だ。
あちこち探しまわって、駐輪場にツルハシがあるのを見つけた。少し扱いづらいが、掘れないことはない。北グラウンドでツルハシを振るっていると、体育教官室のほうから体育教師五人がこちらに近づいてきた。ジャージ、スポーツ刈り、重心の低い体形。体育教師の特徴を存分に兼ね備えたおじさんたちがやってくるのはなかなか迫力がある。そのうちのひとりが大声で叫んだ。「こらー! おまえら何やっとんじゃー!」

無許可で高校に入っているところを見つかったのだから怒られてもしかたない。現行犯だ。
とはいえOBにもなって教師からこんなに怒られるとは思ってなかった。
ぼくらがびっくりして立ちすくんでいると、体育教師のひとりが「あれ? おまえらか」と言った。ぼくらの顔を思いだしてくれたらしい。ほっとした空気がチーム体育教師の間に流れたのを感じた。

よくよく聞いてみると、生徒から「若者の集団が北グラウンドで刃物をふりまわしている」という通報が入り、それで体育教師たちが集団で駆けつけたらしい。
手にしているツルハシを見た。なるほど、たしかにこれも刃物にはちがいない。そういやその二年ぐらい前に、小学校に男が侵入して小学生を殺傷するという事件があって世間をにぎわせていた。特に過敏になっていた時期だったのだろう。

ぼくらは大学生だからみんなだらしない恰好をしているし、中には金髪にピアスのやつもいる。そんなやつらが刃物を持っているという通報があったのだから、教師たちもびっくりしたことだろう。すまないことをした。でも穴を掘っているだけで怒鳴りつけられたぼくらもびっくりした。

「何やっとるんや」
 「タイムカプセルを埋めたので掘り起こしてるんです」
「おまえら、まだそんなあほなことやっとるんか。そういうのはもっと時間たってから掘りかえすもんやろが」
 「じゃあまた十年後に掘りに来てもいいですか」
「あほか。そのときは確実に警察呼ばれるわ」
 「じゃあ今掘らせてください」
「掘りおわったらちゃんと穴埋めとけよ。あとツルハシは元あったところに返しとけよ」

そういって体育教師たちは立ち去っていった。おっかなかったが目が笑っていた。



掘り起こしたタイムカプセルは、どろどろに腐食していた。
ビニール袋自体が溶けており、缶は錆びていた。人工物がたった二年でこんなにも腐食するのかと自然の力に驚いた。
缶の中身はびちゃびちゃだった。缶を開けたやつが「おえっ」とえづいた。おにぎりのにおいだった。おもしろいと思って一緒に入れたのだが、ぜんぜんおもしろくなかった。怒りしか湧いてこないにおいだった。枝でつついておにぎりをばらばらにしてみると、茶色い米の中から真っ黒になったシャケが出てきた。動物性のものだからか、特にシャケのにおいが強烈だった。
手紙は水で濡れて貼りついていたのでほとんど読めなかった。

結果を見ると、ぼくらのタイムカプセル作戦は失敗だった。
手紙は読めなかったし、体育教師から怒鳴られた。
けれどそのとき撮った写真はみんな気持ちいいぐらいの笑顔で写っている。冬の晴天の日にふさわしい、失敗したことからくるからりとした顔だった。


タイムカプセルを掘り起こした経験のおかげでいくつものことを学んだ。
素人にタイムカプセルは難しいこと。穴を掘るときはスコップを持参すること。母校といえども学校に入るときはきちんと許可をとったほうがよいこと。そしておにぎりを埋めるならシャケじゃなくて昆布ぐらいにしておいたほうがいいこと。


2017年11月10日金曜日

記憶喪失に浮かれていた


クラスメイトが記憶喪失になった。高校生のときのことだ。


担任から「昨日クラスメイトのKくんがラグビーの試合中に激しくぶつかって、その衝撃で記憶喪失になった」と聞かされたときの衝撃は忘れがたいものがある。

「心配だ」という気持ちも1%はあったが、その99倍の好奇心が胸のうちを占めた。

みんな等しくきょろきょろと周囲を見まわし、落ち着かない様子で「記憶喪失?」「記憶喪失になったの?」と担任から言われていたことをおうむ返しにしていた。


みんな同じ気持ちを持っていたのだと思う。

「あの、ドラマや漫画でおなじみの記憶喪失が、現実に……!?」という興奮だ。

"白馬に乗った王子様" や "青い光とともに降り立つ宇宙人" と同じくらい非現実的な「ここはどこ? 私はだれ?」がまさか現実に……。

もし担任が「昨日Sさんのもとに白馬に乗った王子様が迎えに来ました」と言ったとしても、きっとぼくらは同じような反応をしていただろう。


ぼくらははじめて遭遇する記憶喪失に浮かれていた。完全に浮かれていた。

だって未知との体験なんだもの。

そんなぼくらに向かって釘を刺すように、担任は云った。
「思いだしたくても思いだせない状態やからな。刺激やストレスを与えたらあかんらしい。だから無理に昔のことを思いださせようとしたらあかんで」



記憶は失ったもののそれ以外に大きな問題はなかったのだろう、一週間くらいでKくんは学校に復帰した。

ひさしぶりに登校してきたKくんを、ぼくらは遠巻きに眺めるだけだった。

「昔のことを思いださせたらいけない人」と何を話せばいいというのだろう。
以前からの知り合いが何を話したって「刺激やストレス」になるんじゃないのか。
だからといって「はじめまして」というわけにもいかないし。

腫れ物にさわるように遠くからKくんを見つめるだけのクラスメイトたち。

そこに、Nくんが登校してきた。


Nくんはとても優しい男だったのだが、ひとつ大きな問題があった。
心がきれいすぎるあまり、まったくデリカシーがなかったのだ。
友人がとある女の子にひそかな恋心を抱いていると聞いて、「よし、〇〇と××ちゃんが仲良くなれるよう協力しようぜ!」と当の女の子にも聞こえるぐらいの大きな声で言っちゃうぐらいデリカシーがないやつだった。

Nくんは、ひさしぶりに登校してきたKくんの姿を見つけ、一片の躊躇もなく彼の席に近づき、
「おうK、ひさしぶり! おまえ記憶喪失になったんやって? おれのこと覚えてるー?」
満面の笑顔で話しかけた。

遠くからその様子を見ていたぼくらは凍りついた。

こいつ……。なんてデリカシーのないやつ……。

「刺激を与えてはいけない」「無理に昔のことを思いださせようとしてはいけない」という掟を、いともかんたんに背面跳びで飛び越えてしまった。

言われたKは、泣きそうな顔を浮かべて困ったように小さく首を振った。

「そっかー。早く思いだしてくれよ!」

一切の屈託もない笑顔でさわやかに手を振るNくん。

こういうやつが、サボテンに水やりすぎて枯らしちゃうんだろうな、とそのときぼくは思った。



2017年11月9日木曜日

驚異の行動力をもった公務員/高野 誠鮮『ローマ法王に米を食べさせた男』【読書感想】

『ローマ法王に米を食べさせた男
過疎の村を救ったスーパー公務員は何をしたか?』

高野 誠鮮

内容(e-honより)
北陸・能登半島の西端に位置する石川県羽咋(はくい)市は、かつて「UFOの里」として町おこしに成功し、NASA特別協力施設の宇宙科学博物館「コスモアイル羽咋」開設等で話題を呼んだ。その仕掛け人が、科学ジャーナリスト、テレビの企画・構成作家を経て帰郷し、羽咋市役所の臨時職員となった高野誠鮮氏だ。正職員に昇格した同氏はその後、過疎高齢化で「限界集落」に陥った農村を含む神子原(みこはら)地区の再生プロジェクトに取り組む。年間予算わずか60万円ながら、数々のユニークなアイディアにより、4年間で若者の誘致や農家の高収入化に成功した。本書では、「スーパー公務員」と呼ばれた高野氏自らが、プロジェクト成功までの経緯、方法、考え方等を公開。その後の取り組みも含め、地方創生のあり方に一石を投じている。著者は現在羽咋市教育委員会文化財室長。

おもしろかった!
過疎化・超高齢化が進む石川県羽咋市の神子原地区を「UFOの里」「ローマ法王が食べた米の生産地」として有名にした市職員の話。

書かれている話題は大きく三つ。
「どうやって神子原地区の農業の収益を高めたか」「UFOを使っての町おこし」「無農薬栽培でTPPに勝つ」
最後の無農薬栽培のあたりは『奇跡のリンゴ』を読んでいたので(感想はこちら)より理解しやすくておもしろかった。併せておすすめ。

この人の話はおもしろすぎるので話半分に聞かないといけないが、それにしてもこの行動力には驚嘆。

 神子原を英語に訳すと、
「the  highlands  where  the  son  of  God  dwells」
 になる。「サン・オブ・ゴッド」は「神の子」、神の子といえば有名なのはイエス・キリストではないか。すると神子原は、キリストが住まう高原としか翻訳できないんです!
 ならば、キリスト教で最大の影響力がある人は誰か? 全世界で11億人を超える信者数がいるカトリックの最高指導者であるローマ法王(教皇)しかいない。けれどローマ法王ベネディクト16世(当時)はドイツの出身、ふだんからお米を食べているか? いいえ、そんなこと考えるまでもありません。食べてもらうんです、食べてもらうよう説得するんです! 善は急げです。すぐに手紙を出しました。
「山の清水だけを使って作った米がありますが、召し上がっていただく可能性は1%もないですか」

こんなでたらめな思いつきで行動してしまうのだから(そしてほんとにローマ法王に食べてもらえるのだから)すごい。
これを読むと、自分がいかに想像力にふたをして生きているかがわかる。ふつうはどっかでブレーキをかけちゃうと思うんだよね。「神子原だからキリスト教だなんてこじつけもいいところだ」「ローマ法王が食べてくれるわけがない」「食べてくれたとしてもだからといって米が売れるとはかぎらない」って。
でもやったことといえばローマ法王宛てに手紙を出しただけ。失敗したって損するのは切手代数百円だけ。成功すれば大きなリターンが得られる。って考えたら断然やったほうが得なんだけど、でもふつうは"良識"がじゃましちゃってできないよね。

これができたのはこの人が裁量を持って仕事をしていたからで、上司が「犯罪以外なら何をやってもおれが責任をとる」って言ってくれたからだよね。
公務員でも大企業でも意思決定に多くの人が関わるほど、奇想天外な思いつきは排除されてしまう。
「組織内の事前確認」ってほぼマイナスにしかならないよね。ぼくも「組織内でお伺いを立てて確認をとって報告する」という業務の多さに嫌気がさして仕事を辞めたことがある。すごく手間がかかるわりに何も生みださない業務だからね。結果、前例と同じことだけやるのがいちばん楽ってなっちゃうし。


あとさ。
「山の清水だけを使って作った米がありますが、召し上がっていただく可能性は1%もないですか」
この訊き方、うまいよね。
ローマ法王に手紙を出しても読むのはたぶん法王本人じゃなくてお付きの人。「召し上がっていただけないですか?」だったら「いやーたぶん無理だと思いますわー」ってなるだろうけど、「召し上がっていただく可能性は1%もないですか」だと「1%もと言われると、確認とってみないとわかりません」になるもんね。で、確認をとってみたら案外いけたり。


高野誠鮮さんってほんとにすごい人なんだけど、でも実際、同僚だったらやりづらそうだなあ。どんどん突っ走っちゃうもんね。
きっと敵も多かったんだろうなあ。出る杭は打たれるから。
組織には出る杭も必要だよね。
もっとも、すごい人が出る杭だからといって、出る杭がすごい人とはかぎらないけどね。

公務員って守旧派ってイメージがあるけど、でもほんとは公務員こそどんどん挑戦するべきだよね。
失敗したってクビにはならないし、倒産するわけでもないし。
世の中には公務員が一円でも無駄にしたら烈火のごとく怒る人がいるけど、もうちょっと寛容でもええんじゃないかな。どうせ何百兆円もの借金抱えてる国なんだから。

失敗を繰り返さないと成功事例は作れないし、それを民の代わりに公がやってくれると思ったらありがたい。良くないのは、新しいことをやって失敗した人じゃなくて、失敗しているものをそのまま続ける人だと思う。年金制度とか。





 なぜ、神子原地区のコシヒカリはおいしいのか?
 ここは碁石ヶ峰の標高150mから400mの急峻な傾斜地にあるので、山間地特有の昼夜の寒暖差が激しいことから稲が鍛えられるのです。冬は2m以上も雪が積もる豪雪地帯なので、豊富な雪解け水の清流によって育てられているからです。他の農地のように生活雑排水が混じった川から水を引き入れていません。特定された棚田での収穫量は700俵と少なく、平野と比べると65%しか穫れません。これは化学肥料などを使って無理に増産していないということです。1反(10a)で10俵以上穫っている田んぼがよそには多くありますが、そこのお米はおいしくない。化学肥料を多く使って増産させた米で、おいしいものに出会ったためしがありません。

マイナス点も見方を変えれば長所になるって話があるけど、これなんかまさにその例だよね。

過疎(=マイナス)だから川の水がきれい(=プラス)。
多く獲ろうとしていない(=マイナス)だから米がおいしい(=プラス)。
非効率な方法で栽培している(=マイナス)だから稀少(=プラス)。

こういうのって内部にいる人にはなかなかわからないんだよねえ。

そもそも高野さんが思い切った改革を断行できたのも過疎化しきった神子原地区だったからできたわけで、これが「東京都の行政改革」とかだったらとてもこんな身軽に動けなかっただろうから、それだけでも「人が少ない」ってのは大きな強みだね。

一人の人がやれること、手に入れられる情報ってのは昔よりはるかに大きくなってるから、今後はどんどん「物量作戦」よりも「小回り・スピード」のほうが大事になってくるに違いない。
これから先、大企業はどんどんつぶれていって、中小企業や個人経営が席巻する時代になってくると思うな。



最後に、おもしろかったエピソードをひとつ。

 東京の田園調布から電話があった時には絶対売りませんでした。白金の人にも売らない。成城や目白の人にも売らなかった。全部で60件近く断りました。高級富裕住宅街から電話があった時は、「先日まではございましたが、たった今、売り切れました」と答えるようにしたんです。
「行きつけのデパートにお問い合わせされてはいかがでしょうか。ひょっとするとあるかもしれません」
 と。でも、ないですよ。私たち、デパートと取り引きしていないですから。
 何をしたかったかといったら、神子原米を高級デパートの食料品売り場に置いてほしかったんです。デパートが弱いのは富裕層なんです。私たちがお断りした客は、そのような人々です。だからおそらく贔屓のデパートに問い合わせて、「なぜ神子原米を置かないの?」と聞くはずです。すると大切なお得意様からの要望だから、デパートは置こうとする──。
 つまり、物を売りたい時には売らないことが、売る方法なんだということです。

おもしろすぎるのでどこまでホンマかわかんないけど、高野さんはストーリーを作るのがうまい人だねえ。
売りこみにいくのではなく、買いにこさせる。

これはマーケティングを仕事にしているものとしては勉強になるなあ……。



【関連記事】

『奇跡のリンゴ 「絶対不可能」を覆した農家 木村秋則の記録』




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2017年11月8日水曜日

われら鼻だけ水面に出してた人の子孫


女の人って、恋人候補として男性を見るとき、すごく身長を気にするじゃないですか。

男としてはあの気持ち、よくわかんないんだよね。

女の人にとっての「男の身長」って男が女を見るときのおっぱいぐらい重要視されてるような気がする。や、ぼくは女性をおっぱいで判断したりしてませんけど。えへへ。

しかし身長ってそんなに大事なんですかね。
筋肉質な男がいい、とかならまだわかるんですよ。
なんかあったときに守ってくれそう、とか。無人島に流れ着いたときに頼りになりそう、とか。他の動物を見てもだいたい強いオスってモテるからね。

でも身長と強さってそんなに比例しない気がするんだよね。そりゃ小柄なマッチョよりは大柄なマッチョのほうが強いんだろうけど、でもそれはマッチョ同士で比べた場合の話であって世の中の男はそんなにマッチョマッチョしてるわけじゃないから小柄な非マッチョと大柄な非マッチョを比べたときにどっちがよりマッチョに近いかっていったら同じぐらいでしょマッチョ。

たとえば稀勢の里関は身長187cm体重184kgだけど、大半の女性は身長187cm体重84kgの男のほうを好むと思うんだよ。でも強さでいったら断然稀勢の里のほうが上でしょ。だからどうも強さで選んでるわけじゃなさそうだよね。まあ稀勢の里は一緒に無人島に流れ着いたときに頼りになるどころか「自分の食べ物まで食われそう」って心配になるけど。


ぼく自身のことをいえば、女性の身長ってだいぶどうでもいい指標なんだよね。
好きになるかの基準として、顔とか話があうかとか教養があるかとかが上位にあって、あとついでだけどおっぱいもあって、ずっと下に「身長」がある。「だいたいこれぐらいの身長がいいな」っていう範囲はあるけど、優先順位でいうと「足がくさくないか」と「かわいい妹がいるか」の間ぐらい。だいぶどうでもいい。

そりゃあ足がくさいよりはくさくない異性のほうがいいし、ほくろの形が醜い人よりもナナホシテントウみたいに美しく並んでいる人のほうがいいけど、そりゃ欲を言えばきりはないしね。
足がくさい人はイヤだけど、靴を脱いだときに15センチ以内の距離で嗅いだら強烈にくさい、ぐらいだったらべつに実害ないもんね。その瞬間に15センチ以内に入らなければいいだけだから。
だからある程度くさくてもオッケー。シャケのおにぎりを2年ぶりに掘り起こしたときのにおいみたいにきつくなければ大丈夫。しかしあのシャケのおにぎりはくさかったな。なんで掘り起こしたかは長くなるから書かんけど。
あとなんとなく勢いで書いてしまったけどナナホシテントウの形に並んでるほくろって美しいのかよ。


そうはいっても背の高い人に魅力を感じる人は多いわけで、なんかあるんだろうね。遺伝子の奥底に潜んだ何かが。生存に有利な何かが。
あれかなノアの方舟のときかな。世界が水浸しになって、地上170センチまで水に浸かっちゃったとか。背が高い人は鼻だけ水面に出して生きのびた。
そのときの記憶が遺伝子にすりこまれていて、背が高い人がモテるようになったとか。

この仮説が正しいとすれば、鼻の位置がすっごく高い人もモテることになるね。あとエラ呼吸習得してる人と。


2017年11月7日火曜日

満員電車における偉い人


満員電車って、先に乗ってたほうが偉いみたいな感覚ないですか? ぼくはあるんですけどね。

混んでる電車に乗りこむじゃないですか。すみませんすみません、混雑に加担してすみません、さしつかえなければほんのちょっとでいいんでスペース使わせてもらっていいですか。や、ありがとうございます。ぼくみたいな人間のために詰めていただいて恐縮至極。みたいな気分なんですよね。

で、次の駅に着いて何人か乗りこんでくるじゃないですか。そうすると後輩に対してはすごく厳しい目でみてしまうんですよね。
なんだよこんなに混んでるのに乗ってくんのかよ。空気読めよ。ほんとにそこまでして出かけないといけないのかよ、どうせ大した用事じゃないんだろ。六駅ぐらいだったら健康のために歩けよ。えっ後から来たくせにそんなにスペースとるの? もっと遠慮しろよ。そこ、おしゃべりすんな。生まれてきてすみませんって顔しとけよ。みたいな心境なんですよね。

どうしてあんな気分になるんでしょうね。ふしぎですね。ぼくだけですかね。
はじめの一駅ぐらいは肩身狭く乗ってるんですけど、後輩ができたとたんに先輩風吹かしたくなるんですよね。
先に乗ろうが後に乗ろうが同じ距離乗ったら同じ運賃払ってるんですけどね。なのについつい後発組を差別してしまう。


部活で二年生が一年生にやたらと偉そうにするのも同じ感覚なんでしょうね。
年寄りが偉そうにしてるのも同じ理屈ですかね。日本列島という満員電車に先に乗っていたものとして、後から乗車してきた若者に憎しみを覚えてしまうのかもしれませんね。

もっといったらゴキブリも人類に対して同じ感情持ってるかもしれませんよね。
なんだよこんなに混んでるのに新しい種が誕生しやがって。空気読めよ。ほんとにそこまでして生きないといけないのかよ。どうせ大した人生じゃないんだろ。えっ新参者のくせにそんなにスペースとるの? もっと遠慮しろよ。

そういう意識があるから人間の居住空間にずかずか入りこんでくるのかもね、ゴキブリだちは。


2017年11月6日月曜日

進学か、就職か、それとも行司か


友人・花泥棒氏と話していて、野球の話からスポーツの審判の話になり、相撲の行司の話になった。
「相撲の行司ってどういう人がなるんでしょうね」


野球のアンパイアやサッカーのレフェリーになるのは、きっと野球やサッカーの選手だった人だろう。
いろんな事情で現役続行が困難になり、それでもなんらかの形で競技に関わりたいと思い、審判を志す。そんなケースが多いのではないだろうか。想像だけど。

でも相撲の行司はちがうような気がする。
見るからに力士とは別人種だ。部屋に入門して何年か稽古を積んだけどなかなか十両になれないので行司の道へ、みたいなコースではなさそうだ。元力士の体格ではないもの。

調べてみると、行司になるためには19歳までにテストを受けなければならないらしい。年齢制限があったのだ。
厳しいと言われている将棋の世界でも「23歳の誕生日までに初段に昇格できなければプロにはなれない」というルールだ。年齢制限だけでいうなら行司はもっと厳しい。
しかし行司が19歳までなんて知らなかった。ぼくが高校生のときの進路指導の先生は一言もそんなこと言ってくれなかった。
「おまえ進路どうすんだ。進学か、就職か、それとも行司か。進学したらもう行司にはなれないんだぞ」って教えてくれなかった。ひどい。こうして若者の可能性は潰えていくのだ。
行司になりたいと思っている高校生は早く進路を決めよう。時間いっぱい、待ったなしだ。

行司の人口は力士よりずっと少ない。相当な狭き門だ。
日本相撲協会の「行司一覧」によると、現在の行司の人数は44人らしい。
日本で44人。たぶん世界でも44人。少ない。超激レアカードだ。どれぐらい少ないかっていったら、たぶんプロの蛇使いが日本に44人ぐらいじゃないかな。それぐらいのめずらしさだ。合コンの相手が行司だったら自慢していい。恋の軍配も上がるはず。なんじゃそりゃ。

さらに調べていると、同じく日本相撲協会の「床山一覧」が目に留まった。

床山というのは力士の髷を結う職業の人だ。
これまた、どういう人がこの職に就くのか、素人には想像もつかない。
美容師専門学校に「床山コース」なんてのがあって、そこで指定の教育課程を修めた人が床山になるんだろうか。それとも宝塚音楽学校みたいに恐山床山学校みたいなのがあるんだろうか。
床山の人数は現在52名。これまた険しき門だ。

力士が四股名を持つように、床山にも床山ネーム(っていうか知らんけど)があるらしい。
相撲協会のHPには、こんな名前が並んでいる。

床蜂 (とこはち)
床松 (とこまつ)
床淀 (とこよど)
床鶴 (とこつる)
床弓 (とこゆみ)
床平 (とこひら)
……

圧巻の「床」一覧だ。

「床」ではじまる名前がずらり。50人ほどの床山がいるが、全員「床」がついている。
この一覧を見て、ぼくは『おそ松くん』を思いだした。おそ松、一松、チョロ松、カラ松、ジュウシ松……(あとひとり忘れた)。
兄弟で統一感のあるネーミングにしようとしてたら思いのほか子だくさんになって名付けに苦戦している親のようで、なんとなくおかしい。

しかし「床」ではじまる名前を50以上も考えなくてはならないのはたいへんだろう。
花泥棒氏は「和尚さんはたいへんだったでしょうね」と云っていた。
いきなり苗字を持つことを義務づけられた平民のように、みんな和尚さんに床山ネームをつけてもらいにいっていると想像するととてもユーモラスだ。
いやじっさい、和尚さんはたいへんだっただろう。「床藤はもう使ったっけ?」みたいになったりして。和尚さんなのかな。床山ネームをつけるのがうまい「床上手」みたいな職業の人がべつにいるのかな。

和尚さんも、はじめはその人のパーソナリティーにあった名前をつけていただろうけど、後半はネタ切れになってきて目に留まったものをつけたりしてそうだ。豆が落ちてたから床豆、とか。
「床鶏(とこけい)」という床山がいるが、これなんかは「おまえ昼飯何食った?」「ケンタッキーです」「じゃあ床鶏だ」みたいなやりとりがあったと想像される。


力士の髷がいちばん注目されるのは、なんといっても断髪式だろう。なくなる瞬間がいちばんスポットを浴びるというのも皮肉なものだ。
断髪式では感きわまって涙を流す元関取も多いが、床山はきっとそれ以上につらいだろう。
自分が丹精を込めて結った髷が、次々に切り落とされてゆくのだ。その心中たるや、想像するに余りある。

しかし力士が引退するときは断髪式というセレモニーがあるが、床山が引退するときはどうするのだろう。
引退試合ならぬ引退結いみたいなセレモニーがあるのだろうか。渾身の髷を結って最後はステージの真ん中に櫛をそっと置く、みたいな演出があるのかもしれない。


2017年11月5日日曜日

汚い手で選挙に勝つ方法


選挙に立候補したとするよね。小選挙区で。

出馬したのは自分ともう1人(以下Aとする)。

下馬評ではAがやや有利。

このとき、選挙事務所を構えて選挙運動をするよりも「対立候補者を増やす」って戦略のほうが有利なんじゃないかと思った。


どういうことかっていうと、人を雇って立候補させるわけ。自分と同じ選挙区に(これを泡沫候補B、泡沫候補Cとする)。

泡沫候補たちの公約は、対立候補であるAとまったく同じにする

つまり味方じゃなくて敵を増やすわけね。

Aとまったく同じ政策でAより若い泡沫候補B。Aとまったく同じ政策でAとは性別の異なる泡沫候補C。みたいな感じで。

浮遊票のうちAと考え方の近い人の票はA、B、Cに割れる。

結果、特定の支持者を持たない人からのAの獲得票が3分の1になり、自分にとって圧倒的に有利になる。



って戦略を考えたんだけど、どうでしょう。

すごく汚い手口だけど、有効なんじゃないでしょうか。

もちろん泡沫候補Bと泡沫候補Cの分の供託金は没収される可能性が高いけど、金にものを言わせられる候補者ならこの戦略をとればだいぶ勝ち目が高くなりそうですよね。

もしかしてもうやってる候補者とか、過去にやった候補者とかいるのかな。



2017年11月4日土曜日

ツイートまとめ 2017年6月


悲哀

物価

普通選挙

類似

努力

団体戦

足蹴

真実

失業期間


駅員

知的財産

苦役


2017年11月2日木曜日

家なんてしょせん家/牧野 知弘『マイホーム価値革命』【読書感想】


『マイホーム価値革命
2022年、「不動産」の常識が変わる』

牧野 知弘

内容(e-honより)
2022年、広大な面積の生産緑地が宅地となり、団塊世代の大量の「持ち家」が賃貸物件に回ることで、不動産マーケットが激変する。日本の3分の1が空き家になる時代、戸建て・マンションなどマイホームの資産価値を高める方策はあるのか?空き家問題、タワマン問題で注目を集めた不動産のプロが新たなビジョンを提示する!

数年前、家を買うことを検討していた。
父親はバブルのさなかにローンを組んで一戸建てを買ったし、ぼくが育ったのは郊外の住宅地なので周囲も分譲一戸建てだらけで、大人になったら当然家を買うものだと思っていた。

新築建売住宅を見に行ったり、新築マンションのショールームに行ったり、不動産屋といっしょに中古マンションを見てまわったりした。

でも夫婦そろって優柔不断なのと、今の家(借家)にこれといった不満もないこともあってなんとなくふんぎりがつかず「まあ今のとこでいっか」ってな感じで今も借家に住みつづけている。

いやでもさ、世の中の人ってよく土地や家やマンションを買えるよね。

だって何千万円もの買い物だよ。
ぼくなんかたかだか2,000円ぐらいの毛布買うのに、いろんなサイト見て、寝具売場にも足を運んで、1ヶ月ぐらい迷って、そんでまだ買ってないからね。そんぐらい優柔不断だからね。

毛布ですらそれなのに、マンションなんて一度も住んでみることなく、へたしたら中身を見ることもなく(新築マンションはだいたいそう)決断しなきゃいけないんだよ。

無理じゃない? 最低でも一年ぐらい住んでみないと決められなくない?

もう博打だよね。結婚と一緒で。



あとさ、新築マンションのショールームを見に行ったことある人なら知ってると思うけど、広告宣伝費えげつなくない?

電車広告出して、SUUMOとかにも広告出して、どっかの土地借りてじっさいに住めるぐらいのモデルルームつくって、そこに最高級の家具を置いて、受付の人と営業社員を常駐させて、見にきた人には電話しまくってダイレクトメール送りまくってるんだよ?

どんだけ金かけとんねんな。
そして、どんだけマンション販売価格に広告宣伝費が上乗せされとんねんな。

宣伝やめたら1,000万円ぐらい安く売れるんじゃないの?
ゼロにするのは無理でも、四分の一ぐらいにはできんじゃないの?
ぜったいそっちのほうが買う人はうれしいだろうにね。

……みたいなことを考えたら家を買うのがばかばかしくなっちゃった。




というわけで牧野知弘さんの『マイホーム価値革命』を読む。
同じ著者の 『空き家問題』がめっぽうおもしろかったので(感想はこちら)期待して読んだんだけど、期待を裏切らない本だった。
いやあ、勉強になった。

そして、やっぱり不動産なんて持つもんじゃないな、って思いを強くした。

 かつては「ファミリー向けの賃貸住宅はない」などと言われてきましたが、第一章で解説したように、2022年を境に、団塊世代が購入した郊外ベッドタウンの家が一気に賃貸物件として不動産マーケットに登場するでしょう。東京でいえば、世田谷や大田、杉並といった都区部の住宅も大量に出てくることが予想されます。
 さらに「空き家第二世代」以降は、マーケットのニーズを汲み取る不動産会社やオーナーが増え、ファミリー向け賃貸物件が多く開発されることになるはずです。ワンルーム住宅ばかりを過剰供給する時代は長く続かず、「供給者の論理」はやがて淘汰されていきます。「高齢者は賃貸物件を借りられない」というもっともらしい理屈も、それほど心配する必要はなくなるでしょう。賃貸住宅大量供給時代はもうすぐそこです。競争が激しくなれば借り手は優位に立つことになりますので、貸し手側の大家も年齢で制限するような余裕がなくなってくるはずです。
 これからの時代、生涯を賃貸住まいで暮らす生き方は選択肢の一つとして定着し、マイホームをあえて「持たない」ことは、新たなライフスタイルになります。今まで「住みたいファミリー向け物件が見つからない」と嘆いていた人にとっても、いい時代になりそうです。

家の価値がどんどん上がっていた時代は、マイホームを買えば家賃を払わずに住めるし、おまけに持っているだけで価値が上がっていたから、少々高い住宅ローンを組んででも買ったほうが得だった。

ところが今後、長期的に値上がりを続ける物件はない。
ほとんどは下がる。
日本から人はどんどん減るし、大きな家を必要とする若い人はもっともっと減るし、2022年問題っていう生産緑地制度とやらに関連するアレのせいで土地や家は余る一方になる。
いくら不動産業界の人がSUUMOに広告載せて、マンションポエム書いても、需要が少なくて供給が多いんだから売れない。価格は下がる。

となると消費者がとる選択は、消耗品と思って住みやすい家を買うか、投資と思うなら短期的に値上がりしそうなところを買って早めに売り抜けるかだ。
要は「住む」か「売る」かで(あと「貸す」もあるけど)、昔のように「住んでから売る」で儲けることはまず無理だ。

しかし「売る」で儲けるのはリスクが大きいし、いかにも難しそうだ。
先のことを読まなければならないし、おまけに海外からもかんたんに買えるようになっているので世界中の投資家と競争しなければならない状況なのに、ど素人のぼくが勝てるとはとうてい思えない。
そんな博打できるぐらい心臓強かったらとっくに家買っとるわ。



そんで自分が住む家として考えたら、買うよりも賃貸のほうがいいと思うんだよね。
以前はやっぱり「俺の家を持ちたい!」って気持ちもあって、それは今でも持ってるんだけど、それ以上に家を持つリスクって大きいなと思うんだよね。

転勤とか隣人トラブルとか自然災害とかのときにすぐ動けるほうがいいのかな、と。

「隣にめんどくさい人が越してきた」とか「子どもが学校でいじめられてる」とかなったときに、「でもせっかく買った家だから……」という理由で引越しをためらっているうちにとりかえしのつかない事態になっちゃうかもしれない。
そんなときに「しょせん家なんてただの寝るスペースだから」ってなぐらいの気軽さでさっさと動ける人間でありたいなーと思う。


そんなふうに思うようになったいちばんのきっかけは、ぼくのおばあちゃんに関する話。

おじいちゃんが死んだとき、母はおばあちゃんに「うちの近くに引っ越してきたら? 気軽に様子を見に行けるほうが安心だし」と声をかけた。
でもおばあちゃんは「せっかく買ったマンションだからここにひとりで住む。おじいちゃんの思い出もあるし。わたしは元気だし」と言って一人暮らしをして、ほとんど誰とも話さない暮らしをした結果、一年ぐらいであっという間に認知症になってしまった。
孫のことも娘のことも忘れて、しょっちゅうものがなくなった泥棒に入られたんだって警察に電話して、外出したら家に帰らなくなるような絵にかいたような認知症。
やさしいおばあちゃんだったからつらかったよ。つらかったよって過去形で書いたけどまだ生きてるんだけどさ。

たらればを言ってもしょうがないんだけど、もし「一緒に住まない?」って声をかけられたときにおばあちゃんが賃貸住宅に住んでいたら、二の足を踏むことなく早めに引っ越していて、もうちょっと頭も元気でいられたのかもしれないなーと思う。いやどっちみち引っ越さなかったかな。


マイホームでも賃貸住宅でもいいんだけど、家なんてしょせんは地面と箱なんだし、それに固執してしまうがゆえに重要な決断を誤ってしまうようなことだけは避けたいなーと思うね。


【関連記事】

牧野知弘 『空き家問題』




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2017年11月1日水曜日

全銀河系の誰が読んでもくだらない小説/ダグラス・アダムス『銀河ヒッチハイク・ガイド』【読書感想】


『銀河ヒッチハイク・ガイド』

ダグラス・アダムス (著) 安原 和見 (訳)

内容(e-honより)
銀河バイパス建設のため、ある日突然、地球が消滅。どこをとっても平凡な英国人アーサー・デントは、最後の生き残りとなる。アーサーは、たまたま地球に居た宇宙人フォードと、宇宙でヒッチハイクをするハメに。必要なのは、タオルと“ガイド”―。シュールでブラック、途方もなくばかばかしいSFコメディ大傑作。

ある日、バイパスを通すために地球が破壊される。50年も前からバイパス工事のことはアルファ・ケンタウリで告知していたのに地球人は誰も見にこず立ち退かなかったから強制撤去――。

という、なんともバカバカしい導入のSFコメディ(バカバカしいのは導入だけでなく全編通してだけど)。
オリジナルは1978年にはじまったイギリスのラジオドラマで、その小説版。

ストーリーはめちゃくちゃなんだけど、そこかしこにブリティッシュ・ユーモアがちりばめられていて、くだらないんだけどおもしろい。

たとえば「人間そっくりの人格を持ったロボットをつくろう」というコンセプトで作られた、超優秀な(はずの)ロボット・マーヴィン。

「わかりました」とマーヴィン。「なにをすればいいんです?」
「第二搭乗区画に降りていって、ヒッチハイカーふたりをここまで連行してきて」
 一マイクロ秒の間をおき、細かい計算に基づいて声の高さと調子を微調整して(人が腹を立てて当然と思う限界を越えないように)、人間のやることなすことに対する根深い軽蔑と恐怖をそのひとことに込め、マーヴィンは言った。
「それだけですか」
「そうよ」トリリアンがきっぱりと言った。
「面白くない仕事ですね」とマーヴィン。

こんなロボットがいたらぶん殴ってしまいそうだ。

「ロボットをどれだけ人間に近づけるか」ってのはよく検討すべき問題だね。
人間と同じことをさせるんだったら人間を使うほうが低コストだし。そもそも人間ってお手本にするほど性能のいいものでもないし。ぼくらみたいな低レベルな人間が目標でいいのか。よくないだろ。

しかし人間をはるかに凌駕するロボットをつくったら、もはやどっちが主人かわかんなくなるね。
ロボットの性能を向上させた結果、ロボット様のためにつまんない仕事を人間がやるほうがはるかに効率的だ、ってなりそう。
じっさい、今もロボットは将棋やったり碁をさしたり、人間よりずっと高尚なご趣味をたしなんでらっしゃいますし。

ということはやっぱり、マーヴィンみたいに怠惰で後ろ向きで不満と言い訳ばっかり言ってるロボットのほうがぼくらの仲間としてはふさわしいのかもね。劣等感を味わわなくてすむから。





さっきも書いたけどこの本、ストーリーはめちゃくちゃだ。
都合のいい偶然だらけだし、行動の目的もないし、思いつきを積み重ねているかのようないきあたりばったりのストーリーだ。

ぼくは小学生のとき宇宙を舞台にした冒険小説を書いたことがあるけど、それがちょうどこんな感じだった。

しかし小学生の小説と一線を画しているのは、めちゃくちゃなストーリーなのに個々のエピソードには妙な論理性があること。

たとえば……。

この惑星では、年に百億人も訪れる観光客のせいで浸食が進むのを憂慮していて、惑星滞在中に摂取した量と排泄した量に差があると、出国するときにその正味差分を外科的に切除されることになっている。だから、トイレに行ったらなにがあってもかならずレシートをもらっておかなくてはならない。

これが「妙な論理性」ってやつです。

世の中には「この人変な人だな」って思う人がたくさんいるけど、ぼくが思うに、そういう人ってじつはそんなに変じゃないんだよね。
ほんのちょっとずれてるだけで、だからこそ小さな差異が他者との間で目立ってしまう。

ほんまにヤバイやつって一本芯が通っていて、そいつの中ではしっかりとした論理を持っているから一見まともそうに見える。ちょっと話しただけでは異常性がわからない。

「おれはナポレオンかもしれない……」って悩んでるやつはわかりやすいけど、「おれはナポレオンだ」と信じきってるやつはそれを裏付ける論理を自分の中できちんと持っているから、意外と目につかない。そんな感じ。


たとえばこないだ伊沢正名さんの『くう・ねる・のぐそ』ってエッセイを読んだ(感想はこちら)。
この人は何十年もトイレを使わずにずっとのぐそをしていて、しまいには研究のために自分のしたのぐそを数か月経ってから食べたりしている。
それだけ聞くとやばい人と思うかもしれないけど、この人の中では確固たるルールがあって、しかもそれがすべて合理的で理にかなっている。だからエッセイを読むと「トイレで用を足している自分のほうがおかしいんじゃないか」って気になってくる。

ほんとに変な人にはそれぐらいのパワーがある(伊沢さんをけなしているんじゃないですよ)。


で、「惑星滞在中に摂取した量と排泄した量に差があると、出国するときにその正味差分を外科的に切除される」というルールについてなんだけど、これもおかしいんだけどすごく筋が通っている。
たしかに質量保存の法則があるわけだから、多くの観光客がやってきてたくさん食べてたくさんのお土産を買って帰ったら、その惑星の物質はどんどんなくなっていく。
うん、その論理におかしなところなし。

だから出国時にその差分を切除するという話も……。うん、わかるようなわからないような……。明確に「このような理由でその制度はよくない」とは言い切れないよね……。


とまあ、絶妙な塩梅で常識を揺さぶってくれる小説ですわ。

全銀河系の誰が読んでも「くだらねえな」と思える物語。

あとこれだけはなんとしても言っておきたいんだけど、この小説から得られる知識とか教訓とかまったくないからな! ほんと何の役にも立たねえ小説だぞ!



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