2017年10月26日木曜日

現代人の感覚のほうが狂っているのかも/堀井 憲一郎『江戸の気分』【読書感想】

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『江戸の気分』

堀井 憲一郎

目次
病いと戦う馬鹿はいない
神様はすぐそこにいる
キツネタヌキにだまされる
武士は戒厳令下の軍人だ
火事も娯楽の江戸の街
火消しは破壊する
江戸の花見は馬鹿の祭典だ
蚊帳に守られる夏
棺桶は急ぎ家へ運び込まれる
死と隣り合わせの貧乏
無尽というお楽しみ会
金がなくても生きていける
米だけ食べて生きる

落語通の堀井憲一郎氏が、落語というフィルタを通して現代社会について考えた本。
江戸の人の視点で眺める現代というか。落語に出てくる江戸の人に向かって「今から200年後、あんたたちの子孫はこんなふうに生きてるぜ」と説明するというか。

 近代人は、病気をすべて「外のもの」として捉えるのがいけないやね。
 外のものがやってきて、自分のからだを侵食していくから、これをまた外に排除してくれ、医者だったら排除できるだろう、と考えているのは、近代人の異常性だとおもう。これは江戸時代から見なくても、ふつうに異常です。
 たしかにそういう病いもある。ウイルス性の病気など、薬で体外に出せば治る病いもあるけど、もっとよくわからない身体の不都合はいっぱいある。たとえば、ガンはどう考えても外から来てないだろう。内で自分で作ってる。それを外からやってきた毒みたいに扱おうったって、それは無理だとおもうんだけど、もちろん現場の医者は痛いほどそのことは知ってるだろうけれど、近代人はそうは考えないですね。ガンを外に出してくれ、と考えてしまう。あまつさえ戦おうとしたりする。

現代人は昔の人よりもずっと正しい医学の知識を持っていると思っていて、それはじっさい正しいんだけど、根本的な考え方でいうとひょっとしたら江戸人のほうが正鵠を射ているのかもしれない。

健康的な生活をしていると「健康=正常」で、病気になることは突発的なエラーが起こっているような気になるけど、はたしてそれは正しいのだろうか。

こないだ読んだ山口雅也『生ける屍の死』(感想はこちら)にこんな台詞が出てきた。
「死じゃよ。生命のない物質から生命が発生したという事実にもかかわらず、彼らは死という言葉で生を説明しようとしない。自然界においては、死とは平衡状態のことであり、生命活動に必要な外からの補給がなくなったときすべての生命が達する自然な状態なのじゃよ。だからな、論理的に言えば、生の定義は『死の欠如』ということになろう」
死んでいる状態こそが自然な状態であり、動的に活動している生の状態こそが異状なのだ、という解釈だ。

さすがにそれは極端な考え方だが、ぼくも歳をとって身体のあちこちにガタがくるようになると「どこかしら悪いほうがふつうで、絶好調のときのほうが例外的」と思えるようになってきた。

江戸時代だったら視力が悪いのも矯正できないし虫歯になっても治せないし、たぶん今よりずっと「身体が悪くてあたりまえ」という感覚は強かったのではないだろうか。
死も今よりずっと身近に存在していたから、身体についての理想的な状態は今よりずっとハードルが低かっただろう。「とりあえず目が見えて耳が聞こえて立って歩けて生きてたらオッケー」ぐらいのものだったかもしれない。

江戸にかぎらず人類の歴史としてはそっちのほうがずっと長かったわけで、今の「具合が悪かったら病院へ」の時代のほうがずっと異常な時代なのだろう。

あと何十年かしたら「毎日身体チェックをして病気になる前にその芽をつぶす」時代が訪れるだろうから、「病気を治す時代」なんてのは長い人類の歴史においてたった100年ぐらいので終わるかもしれないね。





江戸の経済成長の話も興味深かった。

 ただ江戸期の後半は、商品経済が農村に入り込んでゆき、この制度と現実が乖離していく。「米だけでは、もう、何ともなりませんずら」ということになってゆくのだが、政府は「いやいやいや、米さえ獲れて、それをきちんとまわせば、世は安泰じゃろ」という方針を最後まで崩さなかった。となると、あまり金銭が出回ってもらっては困るし、世の中が発達してもらっても困るのである。高度に発達した資本主義社会の端っこから見てるとこれは意味のわからない風景だが、当時は本気である。民のことを考え、世間の安定を考えて、そうしていたのだ。
 つまり国総がかりで「金は不浄のものである」と示していた。政府が強く「金からものを考えるな」と言ってる社会での金銭感覚を、いまのわれわれが想像しようとしても、まあ、無理である。「発展しないことが善」というのを信じるところから想像を始めるしかない。
 金がなくても生きていける、それが江戸の理想の世の中である。
 この理念は、昭和の中ごろまではまだ残っていた。それを昭和の後半から末期にかけて、みんなで懸命に押し潰していった。何とか押し潰しきったとおもう。それがいいことか悪いことかは判断がつかない。社会全体が「金」でものごとを測ると決めたのだから、社会の端まで徹底的にそれで染めていったばかりである。ひとつ価値を社会の隅々まで広めないと気が済まないのは、うちの国の特徴であり、病気であり、また強みでもある。


江戸時代の人口は、戸籍がなかったので正確にはわからないけど、1600~1750年の間で1.5~2.5倍くらいの増加らしい。
昭和時代が約60年で倍になっているから(しかも大戦で多くの国民が死んだにもかかわらず)、150年で2倍くらいというのはだいぶ緩やかだ。1年で1.0046倍ずつ増えていけば、だいたい150年で2倍になる。
ということは年に0.5%経済成長すれば経済成長ペースが人口増加ペースを上回るわけで、単純に考えると人々の暮らしはよくなることになる。

なるほど、それなら革新的な政策を打ちだして経済成長をしようとするより、社会の安定(ひいては幕府の安定)をめざすのも納得できる。
0.5%ぐらいだったらやれ軍需だアベノミクスだと言わなくても自然に達成できそうだし。



ぼくは経済のことはさっぱりわからないけど、肌感覚としては、インフレもデフレも経済成長もなくて「今ぐらいの状態がずっと続いてくれる」のがいちばんいい。

それなら将来の備えもしやすいし。

日本はどんどん人口が減っていくわけで、もう経済成長を捨てて大きな実害が出ないようにちょっとずつ日本をシュリンクさせていきましょう、ってな方向にもっていけないもんですかね。

グローバル競争とかもういいじゃない。さっさと負けを認めて競争からおりましょうよ、と言いたい。

未来のための撤退戦、ってのはできない相談なんでしょうかね。

やっぱりあれですかね。江戸時代みたいに鎖国するしかないんですかね。


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