ハリイ・ケメルマン 『九マイルは遠すぎる』
安楽椅子探偵とかアームチェア・ディテクティブとか呼ばれる推理小説の、古典的名作。
動き回って証拠を集める探偵じゃなくて、聞いた情報をもとに、頭の中だけで事件を解決しちゃうってやつ。
推理小説界では有名なジャンルだけど、意外と安楽椅子探偵ものの作品って少ないよね。
どうしても現実味がなくなるからかな?
現在主流の社会派ミステリとは相容れないんだろうね。
あとは小説じゃないけど、古畑任三郎の『ニューヨークでの出来事』の回は完全にアームチェアだったね。そういや古畑には、逆に犯人が現場に一歩も足を踏み入れない『頭でっかちの殺人』なんてのもあったなあ(「アームチェア・マーダラー」と呼んでいた)。
現実味には欠けるけど、フィクションとして楽しむなら「現場に足を一歩も踏み入れずに推理してしまう名探偵」というのはすごく魅力的だよね。超天才って感じで。
さて、『九マイルは遠すぎる』について。
表題作は、「九マイルもの道を歩くのは容易じゃない、まして雨の中となるとなおさらだ」という一文だけから推理を広げて、やがて大きな事件を突き止めるというお話。
期待して読んだんだけど、がっかり。
推理に穴がありすぎる。他にも可能性がいっぱいあるじゃないか。それにその街のことを知らないと推理に参加できないし。推理小説としてぜんぜんフェアじゃないよ(九マイルっていわれてもどれぐらいの距離か日本人にはぴんとこないしね!)。
しかもラストがあまりにもうまくいきすぎていて、いくらなんでもそりゃないだろって突っ込まずにはいられない。
しかしアームチェア・ディティクティブものの先駆け作品ということを考慮に入れれば、こうした不備は許容すべきなのかもしれない。
この作品は、ニッキィ教授という探偵のキャラクターを紹介するイントロダクションのような短篇と思ったほうがいいかもしれないね。
というのは、それ以降の短篇はおもしろいものも多かったから。
脅迫状にわざとらしく指紋がべったりとついていたのはなぜなのか? (『わらの男』)
チェスの駒の配置から殺人事件を解き明かす(『エンド・プレイ』)
お湯を沸かしている音を聞いただけで盗難事件を推理する(『おしゃべり湯沸かし』)
など、推理の妙を存分に味わえる。
論理的推論の積みかさねで真実を明らかにしていくのは、パズルを解くような快感があるね。
こういう「頭の中でぜんぶ考えました」系の小説ってあんまり評価されない傾向があるんだけど(特に直木賞選考委員とかにね!)、でも小説のおもしろさってこういうところにこそあるのかもしれないなとも思う。
社会派の真実味のあるミステリって、迫力という点では結局ノンフィクションには勝てないわけじゃない。清水潔『殺人犯はそこにいる』より鬼気迫るフィクションある?
ノンフィクションも社会派ミステリも好きだけど、"小説家"として「すげえな」って思うのは、取材に基づかずに一から十まで脳内でストーリーを作り上げられる人のほう。
"推理"のおもしろさをめいっぱい味わえて、純度100%の"小説"だから、これぞまさに"推理小説"を代表する作品だね!
その他の読書感想文はこちら
0 件のコメント:
コメントを投稿