2024年4月23日火曜日

【読書感想文】三井 誠『人は科学が苦手 ~アメリカ「科学不信」の現場から~』 / 宗教と科学が共存しない国

人は科学が苦手

アメリカ「科学不信」の現場から

三井 誠

内容(e-honより)
子どものころから科学が好きだった著者は、新聞社の科学記者として科学を伝える仕事をしてきた。そして二〇一五年、科学の新たな地平を切り開いてきたアメリカで、特派員として心躍る科学取材を始めた。米航空宇宙局(NASA)の宇宙開発など、科学技術の最先端に触れることはできたものの、そこで実感したのは、意外なほどに広がる「科学への不信」だった。「人は科学的に考えることがもともと苦手なのではないか」―。全米各地に取材に出かけ、人々の声に耳を傾けていくと、地球温暖化への根強い疑問や信仰に基づく進化論への反発の声があちこちで聞かれた。その背景に何があるのか。先進各国に共通する「科学と社会を巡る不協和音」という課題を描く。

 世界でいちばん多くノーベル賞受賞者を輩出し、科学の分野でトップを走るアメリカ。

 その一方で「地球温暖化は陰謀」など誤ったことを四六時中垂れ流すドナルド・トランプ氏を大統領に選ぶ国でもある。

 アメリカ特派員となった科学を愛する著者が見た「アメリカ人の科学に対する考え方」とその背景とは――。



「アメリカでは進化論を否定していて、神が全生物を創造したと信じている人が多くいる」という話を聞いたことがある。

 んなアホな、とおもった。

 そりゃあどの国にだってアホな人はいるだろう。日本人だって進化論をきちんと理解している人は少ない。現生のサルが進化してヒトになったと勘違いしている人も多い。

 でも、どうやら「どこにだって一定数のアホはいるよね」という話でもないようなのだ。

 米ギャラップ社の世論調査(2017年5月)によると、「神が過去1万年のある時に人類を創造した」との考え(創造論)を支持する回答が38%に上った。米国人の3人に1人は今でも、数百万年にわたる人類の進化を否定し、神が突然、人類を創造したと考えているのだ。「人類は数百万年にわたり進化してきたが、そこには神の導きがある」とする回答への支持も同じく38%だった。このグループは、「神が約6000年前に人類を創造した」とする保守的なキリスト教のグループとは違って数百万年にわたる人類進化を認めつつも、そこには「神の導き」があるとする。化石などの証拠との矛盾はないが、「神のおかげ」という考え方は維持している。

 神が1万年前に人類(今の人類と変わらないヒト)を創造したと考える人が4割近く。進化したことは認めつつも生存競争と自然淘汰によるものではなく神のお導きによるものだと考える人も4割近く。あわせると4人に3人が神の介入を信じている。

 アメリカには「創造博物館」なる博物館もあり、そこでは進化論をまっこうから否定して、「恐竜と人類が同じ時代に生きていた展示」などがおこなわれているらしい。


 まあ日本にも「南京大虐殺はでっちあげ!」派など歴史捏造が好きな人たちがいる。たぶんどこの国にもそういう人はいるのだろう。

 アメリカがすごいのは、この手の「創造論支持者」が政治的な力を持っていて、「学校で進化論を教えるな! 創造論を教えろ」という運動になり、州によっては州法で「創造論を教えること」「進化論に対する懐疑的な姿勢を育てるように」などと定められたこと。さすがは自由の国。自由の国にするということはこういうことも引き受けないといけないってことなんだなあ。


「創造論支持者」の考えは、何度読んでも理解しづらい。

 日本にも熱心な仏教徒やクリスチャンはいるが、科学を否定する話は聞いたことがない。

 生まれ変わるとか天国や地獄があるとか、科学と矛盾することについては「それはそれ、これはこれ」って感じで、わりと割り切っている。たぶん僧侶ですら、経典の教えを文字通り信じているわけではないだろう。「こう考えたほうがよりよく生きられますよね」ぐらいの考え方だとおもう。

 昔、エホバの証人の信者が、命を救うために輸血をした医師に対して訴訟を起こした事件があった。大きな話題となったが、それが大きな話題となるということは、それが特異な思想だったからだ。

 大半の人は、信仰を持っていたとしても、信仰と科学は分けて考えている。でもアメリカには信仰で科学を上書きしている人が多いらしい。



「アメリカ人の多くが進化論ではなく創造論を信じている。人類と恐竜が同時代に生きていたとおもっている」と知ると「アホなんだな」とおもうかもしれない。

 が、どうやらそういうわけでもないらしい。


 知能が高く、かつ、十分な知識もある人でも、「人間の活動が地球温暖化を引き起こしているという話は陰謀だ!」と信じている人が多くいるという。

 それは、知性や、科学に対する知識よりも、党派性のほうが強い影響を持つから。

 具体的にいえば共和党支持であれば、温暖化に関する知識の多い人ほど「地球温暖化陰謀論」に傾き、逆に民主党支持者は温暖化に関する知識が多いほど「地球温暖化は人間の活動が引き起こした」と考えているらしい。

 お互いに「あいつらは知識が足りないからまちがった情報を信じているのだ。理解が深まればおれたちの考えに同意するに違いない」と信じている。ところが実際は逆で、知識が増えれば増えるほど溝は深まっていくのだ。


 ショッキングだったのは、銃規制の場合だ。政治的な思いに応じて結果が異なったのだ。銃規制に前向きな民主党支持者の場合、銃規制が効果を上げて犯罪が減ったとする想定の問題に取り組んだグループでは、計算能力が高い人ほど正答率が上がった。自分の思いを確認できる計算は、きっと楽しかったに違いない。「やっぱりそうだよな」といった感じだ。
 一方、銃規制のために逆に犯罪が増えたとする想定の問題、つまり自分の思い(銃規制をすると犯罪が減る)と異なる想定の問題に取り組んだ民主党支持者では、計算能力が高い人でも正答率は上がらなかった。
 政治的な思いが計算能力を奪っているのだ。銃を持つ権利を重視して銃規制に反対の姿勢を取る共和党支持者の場合でも、この傾向が確認できた。
 銃規制が効果を上げて犯罪が減ったとする想定の問題に参加した共和党支持者は、計算能力が高い人でも正答率がそれほど上がらなかったのだ。問題で示されたデータが、「銃規制すると犯罪が増える」という自分の思いに合わないからだろう。一方、銃規制のために犯罪が増えたとする想定の問題、つまり自分の思いとデータが一致した問題に取り組んだ共和党支持者では、計算能力が高くなるにつれて正答率が上がった。

「自分の信条と異なるデータ」を見せられて、計算問題を出題されると、なんと正答率が下がるという。「こんなはずはない」という思いが計算能力を狂わせるのだろう。

 単純な計算ですら、党派性の影響を受けて揺らいでしまうのだ。まして「総合的にどちらが正しいか判断する」なんて問題では、党派性で目がくらんで正確に判断できなくなるのは明らかだろう。


 政治家が、自分の推し進めている政策を批判されたときによく、「丁寧に説明して理解を深めていきたい」と口にするじゃない。

 反対する側としては「いやいや、理解していないから反対しているわけじゃなくて、理解しているからこそ反対してるんだよ」とおもう。万博の良さを知らないから反対しているわけじゃなくて、知った上でそれを上回る万博の悪さを知っているから反対しているんだよ、と。

 ぼくは政治家の「丁寧に説明して理解を深めていきたい」はその場しのぎの言い訳だとおもっていたんだけど、あれは本気で信じているんだろうなあ。本気で「反対するやつは理解が足りないから反対しているのだ」とおもっているのだ。どうしようもねえな。



 タイトルの通り、人は科学的に判断するのが苦手らしい。

 知能が足りないとか、知識が足りないとかいう理由もないではないが、それより「科学よりも感情や好き嫌いや思想信条を優先させてしまうから」らしい。だから科学者であってもよく間違える。いや、むしろ科学を生業にしている人のほうが、正誤が自身の人生の評価に直結する分、まちがいやすいかもしれない。


 この本には、地球温暖化対策で石炭の使用量が減り、仕事がなくなって困っていた鉱山労働者たちが地球温暖化を否定するトランプを支持した、なんて話も出てくる。こういうのはわかりやすい。その“科学”がまかり通ると自分が困る。だから“科学”を否定してしまう。

 己の損得が科学的な目を曇らせてしまう。それはまだわかる。誰しも陥る罠だ。

 ただ問題は、「科学が苦手」ではなく「科学を悪用する人」もいることだ。

 地球温暖化の科学を認めれば、温室効果ガスを抑えるための政府の規制強化を受け入れることになりかねない。だから、「地球温暖化は起きているかもしれないけれど、人間の影響かどうかはわからない」「地球温暖化が進んだらシロクマは困るだろうが、私たちには関係ない」などと言って、地球温暖化の研究者の見解に異議を差し挟んでいる。
 地球温暖化へのそうした異議を、ヘイホーさんは「本当の意図を隠す煙幕だ」と指摘した。戦場で味方の動きなどを隠す人工的な煙が煙幕だが、ヘイホーさんがいう煙幕は、懐疑派の人たちが「規制が嫌い」という本当の意図を隠すために使う、目くらましのようなものだ。「規制が嫌いだから」とそのまま言うと、わがままなだけと思われるので、「地球温暖化の科学は疑わしい」という「煙幕」を使っているという構図だ。
 だから、煙幕を真正面から受け止めてデータや事実を積み上げて説得しても、議論は空回りになるだけなのだろう。

 人々の経済活動が地球温暖化を引き起こしているとなると、活動が規制されてしまい、儲けが減る。だから「温暖化は陰謀だ」と主張する。

 タバコ業者が「タバコが健康に悪いという決定的なデータはない」と言い逃れをおこない(ほんとはデータがあるのに)、タバコに対する規制を先延ばしにする。

 公害問題が明らかになっても、原因物質を排出している企業が「この物質が原因だという決定的な証拠がない」と言い(たとえどんなに可能性が高くても)、対策を遅らせる。

 原発推進しないと利益が得られない人が「原発は絶対に安全だ」と嘘をつき、強引に稼働させようとする。

 その手の、意図的に誤った結論に誘導しようとする人に対しては、そもそも科学的な議論が成り立たない。なぜならその人や会社にとっては結論が決まっているのだから。どうあっても「だったら二酸化炭素排出の規制を強化しよう」「いったん原発の稼働は見送ろう」という結論に至るつもりはないのだから。だからあるはずのリスクをゼロに見積もってしまう。


「科学は苦手」はアメリカだけではなく、どの国にもあてはまることなんだろうね。ぼくも気をつけねば。


【関連記事】

【読書感想文】ポール・A・オフィット『禍いの科学 正義が愚行に変わるとき』 / 科学と宗教は紙一重

【読書感想文】いい本だからこそ届かない / ターリ・シャーロット『事実はなぜ人の意見を変えられないのか』



 その他の読書感想文はこちら


2024年4月16日火曜日

【読書感想文】奥田 英朗『噂の女』 / 癒着システムの町

噂の女

奥田 英朗

内容(e-honより)
「侮ったら、それが恐ろしい女で」。高校までは、ごく地味。短大時代に潜在能力を開花させる。手練手管と肉体を使い、事務員を振り出しに玉の輿婚をなしとげ、高級クラブのママにまでのし上がった、糸井美幸。彼女の道行きにはいつも黒い噂がつきまとい―。その街では毎夜、男女の愛と欲望が渦巻いていた。ダークネスと悲哀、笑いが弾ける、ノンストップ・エンタテインメント!

 最初の章である『中古車販売店の女』を読み終えた時点での感想は、「奥田英朗作品にしてはつまらないな」だった。

 同僚が中古車を買ったらすぐ故障した。クレームをつけにいくのに付き添いで中古車販売店に行ったら、学生時代の同級生の女がいた。学生時代は地味で目立たない女の子だったのに、やたら肉感的で男好きのするタイプになっていた。昔の同級生に詳しい話を聞くと、中古車販売店社長の愛人をやっているという噂も流れてきた――。

 という話。タイトル通りの「噂の女」で、「田舎にちょっと派手でミステリアスな女がいると暇な人たちの噂のタネになるよね」という話。しかし噂は噂でしかないので、小説の題材としては弱すぎるよな……。




 という印象だったのだが、二篇目、三篇目と読んでいくうちに印象が変わってきた。

 連作短篇集になっていて、登場人物は毎回変わるのだが、噂になっている“糸井美幸”という女だけは共通している。

 そして次第に明らかになってゆく“糸井美幸”の正体。最初は中古車販売店の従業員や雀荘のアルバイトだったのに、主婦になり、高級クラブのママになり、檀家総代になり、大きな金や権力を動かすようになる。

 どうやら社長の愛人らしい、どっかの社長と結婚したらしい、その社長が風呂で死んで遺産を相続したと聞いた、睡眠薬を入手しているようだ、県会議員の愛人なんだそうだ、寺の住職が糸井美幸にそそのかされているらしい……。

 ひとつひとつは単なる噂でも、積み重なっていくと信憑性が増してくる。ただし糸井美幸本人の内面は一切語られない。そもそもほとんどの人は「噂」「属性」で糸井美幸を判断し、彼女自身と向き合おうとしていない。

 はたして糸井美幸は噂通りの悪女なのだろうか。それとも噂は噂でしかないのか。

 このあたりの書き方が実にスリリング。最後まで糸井美幸自身の内面がつまびらかにされないのも、余韻を持たせてくれていい。




 この小説、糸井美幸という女も魅力的なのだが、舞台である岐阜の地方都市の書き方が実にリアルでいい。作者の出身地だけあって、方言まじりの会話も活き活きしている。


 なにがいいって、無関係の人間から見るとこの町が「どうしようもない町」なんだよね。

 中小企業は社長が会社の金を私的に流用して税金をごまかし、そこの社員はやる気をなくしてサボり経費をちょろまかす。失業者は失業保険を不正受給してパチンコ屋に入りびたり、公務員は知人から賄賂をもらって公団住宅の入居権を斡旋する。資産家の家族は遺産をめぐって対立し、ろくな働き口がないシングルマザーは半ば売春の商売をする。土建屋は談合をし、役所の職員は談合を見逃すかわりに甘い天下り先を手に入れる。寺の住職は色仕掛けにころっと騙され、刑事は市民そっちのけで派閥争いに明け暮れる……。

 ほんと、どうしようもない。しがらみ、汚職、利権、天下り、裏金など不正がはびこっており、ほとんどの人間が「こういうものだ」とおもって受け入れている。

「うちもアカン。あやうくお茶ひくところやった。十時になって団体客が来たけど、中央署の警察官の送別会の流れ。もう最悪」
「うそー。可哀想」
「警察官やとあかんの?」博美が聞いた。
「当たり前やないの。平塚さん、知らんの。警察なんかやくざより性質が悪いわ。体は触るわ、威張り散らすわ――」
「そうそう。それに店も大赤字やし」
「なんで赤字になるの」
「警察はどんだけ飲み食いしても一人三千円。この界隈の昔からの決まりごと。ママに聞いたら、店を開いたとき、飲食店組合の上の人が来て、警察とは持ちつ持たれつやでそうしてくれって強制やあらへんけど、いろいろな付き合いを考えると、アンタの店もそうしたほうがええよって言われたんやと。そんなもん脅しやないの」
 博美は彼女たちの打ち明け話に驚いた。世の中に裏はつきものだが、実際に知ると唖然とする。「まあ、その代わり、駐車違反は見逃してもらうけど」
 仲間の建設会社の社長が、役人の再就職受け入れを渋るようなことを言い出したので、日頃親しくしている同業者団体「躍進連合会」のメンバーでその会社に押しかけ、説得にあたることにした。
 躍進連合会とは、名目上は親睦団体ということになっているが、内情は公共事業に携わる地元建設業界の談合組織である。だから説得というより、詰問に近かった。業界のしきたりを破ってどうするつもりだ、というわけである。
 県庁及び市役所の建設部や水道部の退職者を、定年時の役職に応じて四百万円から七百万円の年収で五年間雇用するというのが、会の決まりだった。幹事役は連合会の理事で、もちろん役所側にも斡旋係がいる。談合と天下りが世間で批判されて久しいが、地方は基本的に昔と変わらない。地縁血縁の社会に競争はそぐわないのである。
 幹部が異動する際には餞別を集めるのが、警察のしきたりだった。中でも署長が交代するときは、地域の商工会や飲食店組合が「栄転祝い」を包むのが慣例化していて、その合計金額は数百万円と言われている。署長はおいしいポストなのだ。
 通常は、地元とのつながりが深い地域課や生活安全課が、企業や商店組合を回って集めていた。やくざのミカジメ料とどこがちがうのかと、最初は尚之も驚いたが、今は感覚が麻痺して違和感も消えた。組織のやることに疑問を抱かないのが、警官の出世の早道なのである。

 もちろん小説なので、すべてがほんとにあるかどうかはわからない。

 でも、どっかにはあるんだろうな。少なくとも過去にはまちがいなくあった。

 しがらみや癒着がはびこっているのは地方だけではない。都市にだってある。でも、まだ都市には「不正に手を染めずに生きていく道」がある。

 けれど若い人が減っているような地方で金持ちになるには、権力者にうまくとりいって、ときには不正に手を染めて、もらえるチャンスがある金は不正なやりかたでももらう……という道しかないんだろうなという気がする。だってそういうシステムができあがってるんだから。システムから離れて大っぴらにやっていくことはできない。目立つとシステムの中にいる人たちにつぶされてしまうから。

 しがらみや癒着を前提にしたシステムが嫌いな人は都会に出ていくから、余計に地方のしがらみシステムは強固なものになる。

 『噂の女』の糸井美幸という女は(たぶん)とんでもなない悪女だが、これはこれで適者生存というか、癒着が前提となっている地方都市で何も持たない女がのしあがろうとおもったらこういう方法を選ぶしかないよなあ。まじめに働いている者が報われる社会じゃないんだもの。


「みんなのお金をなんとかしてうまくかすめとる」というシステムで、全体が発展することはない。国体をやろうがオリンピックをやろうが万博をやろうが、それは本来別の誰かがもらうはずだった金をかすめているだけなので全体が潤うことはない。そして地方経済は衰退し、若い人は流出していき、減った利権を守るためにますます不正が横行し……。

 そりゃあ衰退するわな。地方の衰退、国家の衰退の原因がここに詰まっている気がする。

 ま、もちろんそれだけじゃないんだけど。人口減が最大の要因であることはまちがいないんだけど。でも、人口が減っている中で「じゃあいらないところは切ってもっとコンパクトに効率的にやっていきましょう」とできない理由もまた、ここにあるんだよな。

 

 こういう「コネや賄賂や談合や天下りや癒着や便宜がなくなると困る!」って人が世の中にはいっぱいいるんだもの、そりゃあ国政も腐敗しますわなあ。


【関連記事】

【読書感想文】岡 奈津子『〈賄賂〉のある暮らし ~市場経済化後のカザフスタン~』 / 賄賂なしには生きてゆけない国

【読書感想文】山内 マリコ『ここは退屈迎えに来て』 / 「ここじゃないもっといい場所」は無限にある



 その他の読書感想文はこちら


2024年4月9日火曜日

【読書感想文】平山 夢明『或るろくでなしの死』 / ぼくらはみんなろくでなし

或るろくでなしの死

平山 夢明

内容(e-honより)
良識を示そうとした浮浪者が誰にも相手にされずに迎える「或るはぐれ者の死」、他国で白眼視されながら生きる故郷喪失者の日本人が迎える「或る嫌われ者の死」、自らの欲望に女の子を奉仕させようとしたくだらない大人が迎える「或るろくでなしの死」、過去の栄光をよすがにダメな人生をおくるぼんくらが迎える「或る英雄の死」…。本人の意志や希望と関係なく不意に訪れる7つの“死”を描いた傑作短編集!

 とにかくグロテスクで救いようのない物語が続く短篇集。


 作者によるあとがきにはこうある。

 此処に収められた七つの物語は全てが<死>にまつわるものです。
 物理的な<死>は勿論のこと、なかには生き甲斐の<死>主人公の<死>よりも周囲の世界の<善>が死んでしまう場合もあります。
<或るはぐれ者の死>では、まともを装っている世間の顔を引っぺがそうとした浮浪者が、
<或る嫌われ者の死>では、祖国を失い他国で嫌われ者として生きなければならない日本人が、
<或るごくつぶしの死>では、他人を家具のように扱いながら逃げ切ろうとした青年が、
<或る愛情の死>では、災厄による悲劇をナルシシズムに置き換え自らを崇めた母親が、
<或るろくでなしの死>では、ある少女を取り巻く世界が、
<或る英雄の死>では、過去の栄光を、よすがにしていたぼんくら男たちの友情が
<或るからっぽの死>では、皮肉な力を身につけた青年の愛が、
それぞれ徹底的に蹂躙され、破壊されていきます。


 まともな人はほとんど出てこない。浮浪者、浮浪者にことさら厳しい警察官、他人をモノのように扱うクズ男、息子の死をきっかけに発狂した母親、殺し屋、娘を虐待する親、小動物を虐殺する子ども、痴呆老人をからかいにいく男、自死願望のある女とそれを利用して保険金を手に入れようとする親……。

 ひどいやつらばかり出てきて、ひどい行動ばかりとって、ひどい目に遭う。いやあ、救いがない。


 特にぼくの気が滅入ったのが「或るごくつぶしの死」。

 田舎から出てきた浪人生が幼なじみのおつむの足りない女と再会して、そのままヒモのような生活を送り、妊娠させて、どっちも責任感も決断力もないからずるずる中絶することなく日を過ごしてそのまま出産し、当然ながらふたりとも子どもを育てる気もないので劣悪な環境で放置され……というどうしようもない物語。どうしようもないけれど、こんなことって世の中には履いて捨てるほど転がってる話なんだろうな。


「やらなきゃいけないとわかってるのにどうしてもやる気がしなくて後悔するとわかっていながら先延ばしにしてしまう」って多かれ少なかれ誰にでも経験のあることだとおもう。


 小学四年生のときのこと。習字の宿題が出た。いついつまでに作品を提出せよ、と言われた。習字が大嫌いだったぼくは書く気がしなくて、ずっと提出しなかった。担任の先生が「提出されてる数がクラスの人数より五点少ないです」「まだ三人出してません」と言い、とうとう「一人だけ出してません」になった。ぼくだけだ。

 先生が「出してない人、手を挙げて」と言った。ぼくは手を挙げなかった。なんとかやりすごせないかとおもっていた。あたりまえだが、ごまかせるはずがない。先生はクラス全員を立たせ、ひとりずつ作品に書かれた名前を読み上げていき、呼ばれた人から座っていった。立っているのはぼくひとりだけになった。

 先生に「どうせわかるんだから正直に言いなさい」と怒られた。その通りだ。どうせ数分でばれることだ。でもその数分を、ぼくは先延ばしにしたかった。


 何年か前に、ある芸人が税金を滞納していたことが明らかになり、しばらく謹慎を余儀なくされていた。彼は「どうしようもなくルーズだった」と語っていた。たぶんその言葉は本心だったのだろう。ぼくには彼の気持ちがわかる。

 たぶん彼にはわかっていたはずだ。絶対に払ったほうがいいことを。ごまかせるはずがないことを。いつかはやらなくちゃいけないことを。後に延ばせば延ばすだけ状況が悪くなることを。

 でもやりたくない。このままずっと先延ばしにしていたら、万に一つ、うやむやになってしまうんじゃないか。

 そんな心境だったんじゃないかと想像する。




 今ではぼくは心を入れ替えて、「やらなきゃいけないこと」はなるべく早く終わらせる人間になった。夏休みの宿題は七月中に終わらせるタイプだった。

 でもそれはぼくがちゃんとした人間だからではなく、むしろ逆で自分の中に「どうしようもなくルーズ」な部分があることを自覚しているからこそだ。未来の自分を信じられないから、なるべく早く片付けてしまう。締切ギリギリになったら「万に一つ、うやむやになってくれるんじゃないか」という考えが首をもたげるかもしれないから。


 幸いぼくは今、定職について、所帯も持って、一応社会的にちゃんと生きているけど、ちょっと環境が変わったりしたら「或るごくつぶし」になっていたかもしれないとおもうんだ。


2024年4月5日金曜日

【読書感想文】武田 砂鉄『わかりやすさの罪』 / だめなんだよ、わかりやすくちゃ

わかりやすさの罪

武田 砂鉄

内容(e-honより)
「すぐわかる!」に頼るメディア、「即身につく」と謳うビジネス書、「4回泣ける映画」で4回泣く観客…。「どっち?」と問われ、「どっちでもねーよ!」と言いたくなる日々。納得と共感に溺れる社会で、与えられた選択肢を疑うための一冊。


「わかりやすさが大事だよ」と求められる風潮に逆らい、いやいやわかりにくいことこそ大事なんじゃねえのか、ということを手を変え品を変えわかりにくく書いた本。

 論旨は明快ではなく、話はあっちへ行きこっちへ脱線し、そうかとおもうと同じところをぐるぐるまわり、はっきりした結論がないままなんとなく終わる。

 とにかくわかりにくい本。しかしそのわかりにくさこそが重要なのだ。


 目の前に、わかりにくいものがある。なぜわかりにくいかといえば、パッと見では、その全体像が見えないからである。凝視したり、裏側に回ってみたり、突っ込んでいったり、持ち上げたり、いくつもの作用で、全体像らしきものがようやく見えてくる。でも、そんなにあれこれやってちゃダメ、と言われる。見取り図や取扱説明書を至急用意するように求められる。そうすると、用意する間に、その人が考えていることが削り取られてしまう。
 本書の基となる連載を「わかりやすさの罪」とのタイトルで進めている最中に、池上彰が『わかりやすさの罠』(集英社新書)を出した。書籍としては、本書のほうが後に刊行されることになるので、タイトルを改めようかと悩んだのだが、当該の書を開くと、「これまでの職業人生の中で、私はずっと『どうすればわかりやすくなるか』ということを考えてきました」と始まる。真逆だ。自分はこの本を通じて、「どうすれば『わかりやすさ』から逃れることができるのか」ということをずっと考えてみた。罠というか、罪だと思っている。「わかりやすさ」の罪について、わかりやすく書いたつもりだが、結果、わかりにくかったとしても、それは罠でも罪でもなく、そもそもあらゆる物事はそう簡単にわかるものではない、そう思っている。

 物事が「わかりにくい」のにはたくさん理由がある。

「説明が下手だ/足りないから」もそのひとつだが、それがすべてではない。「自分の前提知識や理解が足りないから」「断片しか明らかになっていないから」「誰かが嘘をついていてどれが真実なのか誰にもわからないから」「わかりやすい理由なんてないから」など、いろんな理由がある。

 池上彰さんがかつて(民放番組に出るようになる前)やっていたのは、「説明が下手だ/足りないからわからない」を取り上げて、わかりやすく解説するという仕事だった。

 だけど、考えることが苦手な人の要望に応えすぎた結果、「断片しか明らかになっていないから」「誰かが嘘をついていてどれが真実なのか誰にもわからないから」「わかりやすい理由なんてないから」みたいなことまで“わかりやすく”解説することを求められ、池上彰さんができる範囲で解説して、その結果、「どんなことでも上手な人の手にかかればわかりやすく説明できるものなのだ!」と考える人が増えてしまった。

 注意深く見ていれば、池上彰さんが「あえてお茶を濁していること」や「そもそも近づくことを避けているもの」に気づくのだが、ぼーっと見ている人は「このおじいちゃんは何でも説明できてしまうのだ」とおもってしまうのだろう。池上彰さんの番組に出る他の出演者は、「わかりそうなこと」しか質問しないしね。


 その結果、“わかりにくいもの”に出会ったときに「これは誰にもわからないものだな」とか「おれの知能や知識では判断できないものだ」と考えずに、「自分にでも理解できる説明がどこかにあるはずだ」と考えてしまう。



 少し前にも書いたけど、大谷翔平選手の通訳が違法ギャンブルをしていた件について「わかりやすい解説」をしている人がSNSにいた。多くの人が「なるほど、わかりやすい!」と言っていた。

 だめなんだよ、わかりやすくちゃ。

 だってそれはわからないことなんだから。当事者にしか、いやひょっとしたら当事者にすらわからないことなのに、誰かが“わかりやすい”解説をして、それに対して「なるほど、そうだったのか!」とうなずく。そして「やっぱり大谷さんがそんな悪いことするわけないとおもっていた」あるいは「やっぱりな。おれは前から大谷はいけすかないやつだとおもっていたんだよ」と元々持っていた思い込みを強化するための材料にする。


「わからない」状態はストレスを感じる。「なるほど、腑に落ちた!」のほうがスッキリする。腑に落ちてしまったらそれ以上考える必要がないから。

 だから脳の体力がない人は「わかりやすい説明」に飛びつく。足腰の弱い人がエレベーターや動く歩道で移動するように。けれどエレベーターや動く歩道だけでは行ける場所が限られてしまう。誰かに用意された場所に連れて行ってもらえるだけ。



 わかりにくさを抱えることの重要性を説いているので、もちろんこの本はわかりやすくない。

本来、起きていることの全体像を見にいくためには、それなりに時間をかけて様子見しなければいけない。様子見しながら持論を補強していく。俺の意見がたちまち確定している人というのは、様子見に欠けている。第三者の当事者性には、相手を見る時間が必要。「馬鹿らしくて詳細など知るつもりもない」になってはいけないのだ。自分が「わからなさ」を重宝する意味は、こんなところからも顔を出す。つまり、ある判断を迫られた時、ある事象への意見を求められた時、ひとまずその意見は、暗中模索しながら吐き出されたものになる。わからない部分をいくばくか含みながら、吐露される。わからない自分と付き合いつつ、わからない自分の当事者性を獲得しつつ、その対象に向かっていく。

 うん、よくわからない。著者自身ですら考えがまとまっていないまま書いているんだろうな、って箇所も散見される。

 でもそのわかりづらさが新鮮だ。おもえば、インターネット上で見られる文章はどんどんわかりやすくなっている。

 昔は動画はもちろん画像ですら載せにくかったからテキストばかりで長文を書いていた。それがブログになり、ほとんどが1000字以内に収まるようになり、画像が増え、さらにSNSでは短文の羅列が中心になり、動画が増え、そこで語られる言葉はどんどんシンプルなものになっていく。わかりやすく、わかりやすく。

 この本を読むと、久々にわかりにくいものを読んだなーという気になる。久しく使っていなかった筋肉を動かしたような気持ちよさがある。


 ぼくが書いているこのブログは時代遅れだとおもう。ほとんど人の役には立たない。書いているのは「読書感想文」であって要約や嚙み砕いた解説ではない。書いていることに一貫性はなく、そのときどきでころころ変わる。ちっともわかりやすくない。

 わかりやすいものが増えている時代だからこそ、わかりにくいブログがあってもいいよね。


【関連記事】

【読書感想文】ポール・A・オフィット『禍いの科学 正義が愚行に変わるとき』 / 科学と宗教は紙一重

思想の異なる人に優しく語りかける文章 / 小田嶋 隆『超・反知性主義入門』【読書感想】



 その他の読書感想文はこちら


2024年4月4日木曜日

編集中 いちぶんがく その22

ルール


■ 本の中から一文だけを抜き出す

■ 一文だけでも味わい深い文を選出。



積み重なっていくCDの分だけ、遠藤のプライドもどんどん高くなっていく。

 (山内 マリコ『ここは退屈迎えに来て』より)




「うん、おれたちは死ぬんだよ、心配しなさんな」

リチャード・プレストン(著) 高見 浩(訳)『ホット・ゾーン ウイルス制圧に命を懸けた人々』より)




「お前はアルゼンチン国立図書館長か」

(杉元伶一『就職戦線異状なし』より)




さらに小声で申しますが、そういう人々は、あまり美しくない、まあ健康的かもしれないが人目にさらすべきではないような顔をしているのではないか、と思います。

(福田 和也『悪の対話術』より)




素直論に幻滅したようだった。

(矢部 嵩『保健室登校』より)




オーストラリアの砂漠で、重くて騒がしいバスケットボールを抱えて数年間を生きのびることができるだろうか。

(ヘレン・E・フィッシャー『愛はなぜ終わるのか』より)




嬉しい時にしか泣けない人なのだ。

(杉井 光『世界でいちばん透きとおった物語』より)




あなたにどうやって仕返しするか、時間をかけてじっくり考えなくちゃ。

(ジョージー・ヴォーゲル(著) 木村 博江(訳)『女の子はいつも秘密語でしゃべってる』より)




ありとあらゆる種類の負け犬と狂人をごった煮にしたスープ。

(平山 夢明『或るろくでなしの死』より)




最初に断っておくが、池上彰が悪いわけではない。

(武田 砂鉄『わかりやすさの罪』より)




 その他のいちぶんがく