2017年6月16日金曜日

レトロニム


レトロニム、という言葉があることを知った。

Wikipediaには

ある言葉の意味が時代とともに拡張された、あるいは変化した場合に、古い意味の範囲を特定的に表すために後から考案された言葉のことを指す

とある。
これだけ読んでも意味がわからないけど、

  • 携帯電話が主流になったので、それまで電話と呼んでいたものを「固定電話」と呼ぶようになった
  • 新幹線ができたので、それまでは鉄道と呼んでいたものを「在来線」と呼ぶようになった

といった類の言葉、といえばわかると思う。
「白黒テレビ」「アナログ時計」「地上波放送」など、新しい技術が普及すると古いものは名前を変えることを余儀なくされる。


中にはレッサーパンダのようにひどい例もある。
レッサーパンダはもともと単に「パンダ」と呼ばれていたが、ジャイアントパンダが人気になって「パンダ」といえばジャイアントパンダを指すようになってしまったため、わざわざ「レッサー(小さいほうの)」という言葉を付けられて呼ばれるようになってしまったという。

ぼくの通っていた中学校でも同じことが起こっていた。
シマという苗字の男子生徒が2人いて、身体が大きくて喧嘩が強いほうのシマくんは「シマくん」と呼ばれ、学年でいちばん背の低かったシマくんは「コジマ」と呼ばれていた。
レッサーパンダの件といい、つくづく弱者には厳しい世の中だ。


しかし、おごれる人も久しからず、ただ春の夜の夢のごとし。
どんなものであっても繁栄は長くは続かない。

自動車が普及したことで、それまでただ単に「車」と呼ばれていたものは「人力車」になってしまった。
しかし今ぼくらが「車」と呼んでいるものだって、きっと近いうちに「ガソリン車」とか「手動操縦車」とか「タイヤ車」とか呼ばれるようになるのだろう。

世の中が便利になることはありがたいことだけど、ちょっと寂しい気もする。
年寄りが「昔はよかった」というように、ぼくも歳をとったら「有人店」で「経口摂取食品」や「液体酒」を飲み食いしていた日のことを懐かしむことだろう。

だがノスタルジーで世の中の変化は止められない。
古いものは追憶の彼方へと消えてゆく。

もっと先の人たちにとっては、「太陽系地球」で「肉体生活」をしていた「ホモサピエンス人」のつまらない感傷など、想像することすらないだろう。



2017年6月15日木曜日

【読書感想エッセイ】我孫子武丸 『殺戮にいたる病』


我孫子武丸 『殺戮にいたる病』

内容紹介(e-honより)
永遠の愛をつかみたいと男は願った―。東京の繁華街で次々と猟奇的殺人を重ねるサイコ・キラーが出現した。犯人の名前は、蒲生稔!くり返される凌辱の果ての惨殺。冒頭から身も凍るラストシーンまで恐るべき殺人者の行動と魂の軌跡をたどり、とらえようのない時代の悪夢と闇を鮮烈無比に抉る衝撃のホラー。

読む前に「驚きの結末」「かなりエグい話」という前評判を聞いていた。

いくつか「驚きの結末」「ラストの大どんでん返し」系のミステリを読んでいる身としては、「たぶん○○は××じゃないんだろうな」と思いながら読むわけで、そういう読み方をしてしまうと正直『殺戮にいたる病』のトリックは予想の範疇だ。
「ははあ、語り手が交代しながらストーリーが進むということはあのパターンね」と思ってしまうわけで、その予想通り「ま、そんなことじゃないかと思ったよ」という結末である。
母親パートのミスリードが強引でフェアじゃないしね。

とはいえ『殺戮にいたる病』が平凡なミステリであるという気はまったくない。
ひとつは、この作品が1992年に発表されたということ。25年前の作品をつかまえて「この手のトリックはもう使いふるされてるよね」とのたまうのはフェアじゃない。25年前にこの作品がミステリ界に与えた影響は並々ならぬものだっただろうと容易に想像がつく。


『殺戮にいたる病』が非凡な作品であるもうひとつの理由は、まったく容赦ないグロテスクな描写で、この点に関しては25年たった今でも少しも古びていない。

「今度の犯人にも、その……タナトス・コンプレックスが感じられると?」
「そう……そういうことになるかな。筋金入りのネクロファイルだという気がする。大抵の屍姦者には多かれ少なかれサディズムの傾向が見られるものだ。その暴力的傾向が高まるがゆえに相手を死に至らしめてしまう。死体を責め苛む。またそれによって快感を得る。――今度の犯人は、快感を得るためでなく、死体の一部を切り取り、持ち去った。一部でもいいから手元に置いておきたかったのだと思う。フェティッシュな死体愛好者だ。モノとなり、肉塊となっても愛せる男だ。
 アメリカのエド・ゲインという男は、十年余りの間に二人の女性を殺し、また、九人の女性の死体を墓場から掘り起こして家に持って帰り、性的満足を得ていた。そのどれもが満月の夜に行われたそうだ。彼は死体の一部を食べたり首を切っただけでなく、剝いだ皮膚でチョッキを作ったり皮椅子を修理したり、ベルトを作ったりもしていた。
 また、一九七二年から合計八人の女性を殺し、繰り返し屍姦を行ったエドマンド・ケンパーという男もアメリカにいる。この男もイギリスのクリスティと同様、生きている女相手では不能になるのではないかと恐れていたようだ。血を洗い流した死体とさまざまな性行為に耽り、首なし死体とでもセックスしたという。今度の犯人が、切り取った性器をセックスの道具に使ったとすれば、ケンパーの上を行くネクロファイルだといえるだろう」

ちなみにこの引用部分は、比較的マイルドなところだからね。ただの会話文だし。
犯人がとる行動の描写たるや、ここで引用するのは気が引けるほど。

ぼくは飯を食いながら解剖の話を読んでも平気なぐらいグロテスクな描写に耐性のあるほうだけど(そしてお行儀の悪いほうだけど)、『殺戮にいたる病』で犯人が屍体の一部を切り取って持ち帰るシーンではさすがに「これを読むのは精神的にきついな……」とため息が出た。

ようこんなの書けるわ、と作者に対して感心半分、呆れ半分。


シリアルキラーを主軸に据えたミステリには 殊能将之『ハサミ男』 という白眉があって、これはシンプルながらよくできたトリックがあり、読み終えた後に表紙をもう一度見て「あーそういうことかー」とつくづく感心させられた。
巧みながらわかりやすいトリック、ラストの意外性、後味の悪さ(ぼくは後味が悪い小説が好きなんでね)と、『ハサミ男』のほうは人にも勧められる作品だ。
でも『殺戮にいたる病』はよくできたミステリだけど、人には勧められない。自分の人間性を疑われそうで。
「殺人犯が人を切り刻む描写がいい小説ない?」と聞かれたときには、自信を持ってこの作品を勧めようと思うけどね。どんな質問だ。




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2017年6月14日水曜日

【読書感想エッセイ】NHKスペシャル「消えた子どもたち」取材班 『ルポ 消えた子どもたち』

NHKスペシャル「消えた子どもたち」取材班

 『ルポ 消えた子どもたち』

内容紹介(e-honより)
一八歳まで自宅監禁されていた少女、車内に放置されミイラ化していた男の子―。虐待、貧困、保護者の精神疾患等によって監禁や路上・車上生活を余儀なくされ社会から「消えた」子どもたち。全国初の大規模アンケート調査で明らかになった一〇〇〇人超の実態を伝えると共に、当事者二三人の証言から悲劇を防ぐ方途を探る。二〇一四年一二月に放送され大きな反響を呼んだ番組取材をもとに、大幅に加筆。

いろんなケースが紹介されるけど、やはり18歳になるまで家の中に監禁されて、学校に一度も通わせてもらえなかった女性の話のインパクトが強烈。
もちろん学校や教育委員会も彼女が一度も学校に来ていないことは把握していたが、ずっと放置していた。

(中学二年相当)今後の対応について、学校と教育委員会、児童相談所、民生委員らで協議した。児童相談所は、学校と親との関係が保たれているように見えたこと、就学前に虐待の情報がなかったことなどを評価して、虐待のおそれは低いと判断してしまった。この判断に基づき、児童相談所が直接介入するのではなく、親との関係を持っている小学校が家庭訪問を繰り返し行い、児童相談所と教育委員会が適宜連絡を取り合う方針とした。

「虐待のおそれは低いと判断してしまった」という記述に驚いた。
小学校にも中学校にも一度も来ない児童が「虐待のおそれが低い」んだったら、いったいどのケースが虐待になんねん! と思うんだけど。

彼女は18歳のときに自力で逃げだして救出されるんだけど、その後は監禁していた母親の言い分ばかりが聞き入れられ、母親に対して科せられたのはなんと罰金10万円。

人を18年間監禁して罰金10万円。
ううむ。被害者である女性が厳罰を望まなかったから、ってのもあるらしいんだけど、はたして18年監禁されて学校にも一度も行ったことのない人が監禁を解かれてすぐに下した判断を正常な判断とみなしていいのか。
こういう判決が出てしまうと「親は、我が子を殺しさえしなければどれだけ虐待してもほとんど罰は受けない」ということになってしまうよなあ。


また、こんなケースも紹介されている。

 たとえば、十七歳(二〇一四年当時)の少年が祖父母を殺して金を奪ったという事件。これだけ聞けば、なんという凶悪な少年だ、と思うだろう。実際、まさにこの原稿を書いているときに二審の判決が出たが、懲役一五年の刑が言い渡された。
 しかし、この子もまた小学校5年から学校に通わせてもらえず、公園やラブホテル、簡易宿泊所を転々とし、母親からネグレクトされ、養父から暴力を受けて生きてきた「消えた子ども」のひとりだった。少年自ら働き、ゲーム浸けの母親と新たに生まれた幼い妹の面倒を見るも、母親の浪費によって金は尽き、少年自身が祖父母などの親戚に無心する生活だった。ついに断られるようになり、母親に「殺してでも金をとってこい」と言われた末の犯行だった。

もちろん同じ境遇でも殺人を犯さない人もいるだろうからこの少年が無罪だとは思わないけど、どう考えたって母親のほうに責任がある。
このケースで母親に下された処罰はわからないけど、まちがいなく直接手を下した少年よりは軽いはず。

「子どもは親の所有物だからある程度は自由に扱っていい」という近代的な意識が判決にも影響を与えているように思える。


さまざまな "消えた子ども" の話を読んで、手塚治虫の『奇子』という漫画作品を思いだした。
戦後すぐの農村を舞台に、家族にとって都合の悪い出来事(身内の殺人)を目撃してしまったがゆえに10年以上土蔵に閉じ込められてしまう少女の生涯を描いた話だ。ムラ社会の醜悪な部分を露骨に描いた作品である。
また、藤子・F・不二雄にも『ノスタル爺』というSF短篇があり、これも土蔵に閉じ込められる男が描かれている。
『奇子』も『ノスタル爺』もフィクションだけど、近代以前の日本の農村を描いた作品には「扱いに困った家族を土蔵に閉じ込める」というモチーフは決してめずらしいものではない。
家制度が強かった時代、家長の大きな権力、恥の文化、農村の広い屋敷。そういう「閉じ込めやすい」条件が重なっていた時代だから、監禁はめずらしいことではなかったんだろう。経済的な事情で学校に来ない子も多かっただろうし、戸籍制度も今ほどしっかりしていなかっただろうし。
アクシデントでも起こらないかぎりは閉じ込めたほうも閉じ込められたほうも語らない(語れない)から明るみに出たのはごく一部だったんだろうけど。

だから「家族を幽閉する」という行為は異常なことではあるけれど、ごく一部の異常者だけの話かというとそんなことはない。
ほとんどのケースにおいて「閉じ込める人」「閉じ込められる人」の他に、「見て見ぬふりをする人」の存在があるわけで、たぶんいくつかの条件さえ重なってしまえば、ほとんどの人は「見て見ぬふりをする人」にまわりうる。

そういう「一定の割合で起こりうる悲劇」を100%防ぐことはできないし、対策としては意識を高めるとかじゃなくて制度的に早めに検知できるようにするしかない。



このルポはすごく意義のある調査だったんだけど、著者が書いている
「どうして教師が気づいてやれなかったのか」
「地域で見守っていくことが大事」
といった主張にはまったく共感できない
個人の責任に帰していてもぜったいに状況は良くならない。

家庭内で虐待されている子どもを救いだすことは教師の仕事じゃない。
専門知識もないし、そんなことやってたら学校に来ている児童の相手がおろそかになるだけ。
もちろん教師には「学校に来ていない子がいる」「どうも家庭内で暴行を受けているようだ」を報告する義務はあるけれど、そこから先は児童相談所なり民生委員なりの仕事だ。
虐待、親の経済的事情、親の精神病。子どもを学校に通わせない親にはさまざまな事情があるのに、すべての教師が万能に対応できるわけがない。

「地域で見守っていくことが大事」って主張も、何をねぼけたこと言ってるの? としか思えない。
もちろん地域のコミュニティが子どもを見守れたらいいけど、これから先、地域ネットワークが今より強固になることなんて100%ありえない。だいたい昔のムラ社会ですら防げていなかったのに、密閉性の高い家に住みプライバシー意識が高まっている現代でどうやって気づけって言うのか。

本気で防ごうと思ったら個々の努力に委ねるのではなく、システムをきちんと整備するしかない。
一定日数学校に来ていない、市区町村の健康診断や予防接種を受けていない、そういった児童がいれば必ず面会する。親だけでなく子どもにも会う。拒む親に対しては法的拘束力を行使する。児童相談所、民生委員には今以上の権力を持たせて、疑いがあれば半ば強引に調査することを可能にする。

もちろんこのやり方ですべての "消えた子ども" を助けることはできないけど、早期に発見できる可能性はかなり高まるはずだ。
「教師が注意深く見守りましょう」「地域で見守っていきましょう」なんてメッセージ、「原発事故を起こさないように気をつけます」って発言ぐらい空虚で間抜けだと思うね。



つい最近、ある有名スポーツ選手が自殺を考えている人に向けて「人のせいにするな、政治のせいにするな」というメッセージを発信して炎上していた。
非難殺到だったけど、ぼくは「それぐらい言わせたれよ」と思う。そのメッセージで前向きになれる人もいるだろうし(でもそういう人はそもそも自殺しないように思うけど)。

たしかに恵まれた身体を持って標準以上の家庭に生まれ育ったスポーツ選手が「自殺したくなるのを人や環境のせいにするな」と言うのは、たとえば18年間監禁されていた人に対する想像力に欠けた発言だと思う。
でも、そんなにありとあらゆる可能性を考えて発言しなきゃいけないの? と思う。
我々が何かについて語るとき、18年間家の中に監禁されて学校に通わせてもらえなかった人のことまでふつう想像しない。でもそれでいいと思う。

18年間監禁されてたという事件が明るみに出てホットなうちは「おたくのご近所は大丈夫?」と言いたくなる気持ちはわかるけど、どうせそんな意識が長続きするわけがない。
人の生命に関わるような重大な問題を "意識" や "想像力" なんて不確かなものに委ねてはいけない。
人を救うのは意識でも想像力でもなく、"システム設計" だ。意識や想像力はシステムを作るために使うべきだ。



児童相談所の人の話を少し聞いたことがあるけど、「あの家ちょっとおかしいな」と思っても個人情報保護だなんだで、なかなか調べることができないらしい。
確固たる証拠がなければ動けないし、確固たる証拠が出てくる頃にはもう手遅れになっている可能性も高いので、難しい仕事だと思う。

ぼくは、子どもの教育に個人情報保護を持ち込むべきではないと思う。
教育というのは公的なものであって、各家庭に属する私的なものではない。
「人に迷惑をかけてはいけません」と教えるのはその子のためじゃない。社会のためだ。
憲法にも「教育を受けさせる義務」があるように、親には「子どもを教育する義務」はあっても「子どもを好きなように育てていい権利」はない
私的な行為じゃないから当然ながら個人情報保護の対象とすべき事柄じゃない。

そのへんが勘違いされているのが近代の病だね。

ぼくもひとりの子の親として、「この子は自分だけのものじゃない」ということは常に忘れないようにしている。
「この子は私たち夫婦だけの子。教育のすべての権利もすべての義務も自分たちにある」と思ってたら親もしんどいし、子どもはもっとしんどいと思うよ。


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2017年6月13日火曜日

セミのような青春


小学校でも中学校でも、背の順だとちょうどクラスの真ん中ぐらいだった。
なのに、第二次性徴は異様に遅かった。
ちんちんの毛が生えてきたのも当時は真剣に悩むぐらい遅かったし、ひげが伸びるようになったのも26歳くらいからだ。

あとこれは第二次性徴とは関係ないのかもしれないけど、17歳まで乳歯があった。
他の人にいうと驚かれる。
でも17歳のぼくはそれが異状だと思っておらず「ちょっと人より遅いけどまあよくあること」と左利きぐらいの珍しさだと思っていた。

高校の授業中に乳歯が抜けたので手を挙げて
「先生、歯が抜けたので口をゆすいできます」
と言ったら、先生はまさか高校生に乳歯がまだあるとは思わなかったようで、永久歯が抜けだのだと思ってめちゃくちゃ心配して、
「大丈夫!?救急車呼ぶ!?」
と言いだした。
たかが乳歯が抜けたぐらいで救急車だなんて世間知らずの先生だとあきれた記憶がある。
今思うと世間知らずなのはぼくのほうだ。いや、ぼくの親知らずが世間知らずなのだ。


第二次成長が遅かったかかと思うと、ここ数年で白髪が急速に増えてきて、いっぺんに老け込んでしまった。
26歳でひげが生えてきて三十代前半で白髪だらけだなんて、なんと短い青年期なんだろう。セミみたいだ。


2017年6月10日土曜日

【読書感想エッセイ】中野潤 『創価学会・公明党の研究』


中野潤
『創価学会・公明党の研究
自公連立政権の内在論理』

内容(「e-hon」より)
暴走の歯止め役か、付き従う選挙マシンか。深まる創価学会と公明党の一体化に伴い、ますます自民党は選挙において創価学会への依存度を高めていく。はじめて明かされる創価学会と政界の攻防。

まずはじめに立場を明確にしておくと、ぼくは公明党の支持者ではないし、ということはもちろん創価学会員でもない。
創価学会を蛇蝎のごとく嫌っている人も世の中にはいるけど、ぼくは自分が嫌な目に遭わされたこともないので特にマイナスの印象も持っていない。
学会員って個人として付き合う分には社交的で接しやすい人が多いしね。

創価学会が嫌いという人の話を聞くと、
「選挙前になると会員たちが家を訪問してきて公明党議員に投票するようしつこく呼びかける」
ことが最大の原因らしい。
だけどぼく自身は選挙運動をほとんど経験したことがない(自分の親は少し困らされていたけど)。一度だけぼくのもとにも創価学会員である元同級生が来たことがあったけど、そいつは親が会員の2世会員だったのでぜんぜんやる気なくて
「知り合いでこういう人が出馬するから、もし他に投票する先を決めてないなら……」
と申し訳なさそうに言っただけだった。
「噂に聞いていた学会の選挙活動ががついにきた!」と身構えていたぼくにとっては「え、それだけ? もっとしつこくくるんじゃないの?」となんとも拍子抜けする結果だった。



じつは、主要政党の中でぼくが政策にいちばん共感できるのが公明党だ。
やや護憲派で、小さな政府には反対。すぐは無理にせよ将来的には原発をなくしてほしい。だけど共産党や社民党の掲げる政策は現実的ではないと思っている。
そんなぼくの思想に、公明党の政策はおおむねあてはまる。
おまけに与党なのである程度力を行使できる立場にある。

そう考えると公明党を支持するべきなんだろうけれど、でもじっさいには公明党に票を投じたことは一度もない。
その理由はふたつある。

ひとつはやっぱり「宗教団体がバックについているのでなんとなくきなくさい」からで、もうひとつは「公明党自体の動きが信用できないから」だ。


新聞やテレビで政治ニュースを見ていても、公明党の動きは理解しがたい。
特に最近は。

「平和と福祉の党」を標榜しておきながら、集団的自衛権法案には賛成にまわった。
最近でもテロ等準備罪(共謀罪)を成立させようとがんばっている。
傍から見ていると「その法案が成立しちゃったら創価学会も狙われかねないんじゃないの?」と思うんだけど、自民党と一緒に半ば強引に推しすすめている。
(なにしろ創価学会の創設者である牧口常三郎氏は治安維持法で捕まって獄死しているのに!


いや、なにも主義主張に100%従って行動しろといってるわけじゃない。政治というのはクレバーな立ち居振る舞いが求められるものだと思っているから、ときには「小を捨てて大に就く」ことも必要だと思う。
でも、連立与党にしがみつくために集団的自衛権法案に賛成している自称「平和と福祉の党」である公明党に対しては、「それって大を捨てて小に就いてるんじゃないの?」と
いう気がする。

国政では自民党と連立し、大阪では維新の会と選挙協力し、東京では都民ファーストの会と組んでいる公明党を見ていると
「政策もプライドもかなぐり捨てて勝ち馬に乗ってるけど、で、結局何がしたいの?」
と思ってしまう。



そんなわけで公明党に対しては「思想的にはけっこう共感できるのにどうも信用できない」という感情を抱いていた。
そんなときに書店でこの本を見つけたので読んでみた。

公明党のたどってきた道が丁寧に書いてあり、政治について詳しくないぼくでも「なるほど、そういうことだったのか」と腑に落ちることが多かった。
おかげで公明党に対する「よくわからないことからくる不信感」はなくなった。

まとめると、
  • 公明党は今は自民党べったりだけど、かつては自民党から「政教分離の憲法違反政党」と言われて強い批判を浴びていた
  • そのときに母体である創価学会を激しく攻撃された。その呪縛がずっと公明党の行動を縛っている
  • 公明党内部も必ずしも一枚岩ではない(もちろん他の政党に比べればずっと意思統一はできているけど)
  • 名誉会長である池田大作の影響はいまだに強く、公明党の動きは池田大作に左右される
  • ただし池田大作の体調の悪化により影響力は弱まりつつあり、そのことが公明党を変えつつある

なるほどね、公明党にとっては「勝ち馬に乗る」ことこそが最重要の行動原理なんだね。
政権を獲るために考え方のばらばらな人が集まっている自民党にもそういうところがあるけど、公明党に関してはもっと根が深い。
公明党がもっとも恐れているのは、九条が変えられることでも福祉が切り捨てられることでもなく、母体である創価学会が攻撃されること。
それを避けるためならば他の政策はすべて犠牲にしてもかまわない。
ってことだとぼくは解釈した。

ここを理解していないと公明党の行動は読みとけない。
逆にいうと、ここがわかれば公明党の動きはすごくわかりやすい。



2010年の参院選のときの話。

 公明党は、この時点ですでに一〇年間続けてきた自民党との連立の桎梏から簡単には抜け出せなくなっていた。創価学会側は、純粋に選挙で勝つためにどうしたらいいかという観点から自公連立を支持してきたが、党側は心理的にも自民党との連立に引きずられるようになっていたのだ。公明党が立党の原点に戻って存在感を発揮できるようにするのか、それとも目前の選挙を考えて自民党との協力関係を優先させるのか。答えのでないこの問いは、今に至るまで公明党の議員たちに突き付けられている。


創価学会のための選挙出馬だったのが、選挙のための創価学会になりつつある。
そして選挙のための自公連立だったのが、自公連立のための選挙になりつつある。
目的と手段が入れ替わり、向かっている先が誰にもわからない。しかし池田大作不在の今、思い切って舵を切れる人間はいない。
これからもしばらくは自公連立は続くんだろうね。何のために連立しているのか誰にもわからなくなっても。
それだけ公明党が力を持った、ってことなんでしょう。

この本の中には、民主党政権時代、民主党は創価学会とうまく協調することができず、それも政権転落の原因のひとつになったことが書いてある。
一方で自民党が安定政権を築けているのは、学会や公明党とうまくやっているからだと。

もはやキーパーソンとなっている公明党なしには日本の政治は語れない。そして公明党を語る上では創価学会のことは避けては通れない。なのにそのへんのことはタブー視されていて多くは語られない。池上彰がほんの1ミリ切り込んだだけで「池上彰すげえ!」って言われるぐらいだからね。
このへんのことが政治をわかりにくくしている原因でもあるんだろうね。

(少なくとも今の)公明党は政教分離の原則を犯しているわけでもないし、新聞やテレビでも堂々と語ったらいいのにね。
公明党にとっても、「よくわからない宗教団体の手先」と思われているよりは、立ち位置が明確になったほうが支持を広げるうえでプラスになると思うんだけど。



公明党の姿勢って、直感的には「日和見主義でイヤだなあ」と思うけど、でも現実的・功利的なところには感心するし、他の野党も見習ったほうがいい。
主義主張に徹してまったく影響力を発揮できないよりは、妥協できるところは妥協して少しは政策決定に携わらないと、国会議員をやってる意味がないんじゃないの? と思うし。

しかし宗教団体をバックにつけている公明党がいちばん功利的ってのもおもしろい話だよね。もっともビジネスマインドを身につけているように思える。
いちばん強硬な姿勢をとりそうなものなのに、なんとも柔軟でしなやか。
選挙での「得た議席数/立候補者数」が最大なのは公明党なんじゃないかな? 最小のコストで最大の利益を得る術を知っているよね。
創価学会って『現世利益』を唱えているので、政治姿勢にもそれが表れてるのかな。


そんな公明党にも、変化が訪れつつあるみたい。

 公明党は過去、PKO協力法案の採決や自衛隊のイラク派遣などで、創価学会婦人部の強い反対を押し切って自民党と歩調を合わせてきた。それゆえ、政府・自民党内には、「公明党は今回もどうせ最後には賛成するだろう」との楽観論が流れていたのだ。だが、公明党側には過去とは異なる事情があった。それが、池田大作の「不在」だった。
 従来、創価学会では、政治方針等をめぐって婦人部などが反対して組織内の意見が割れた際は、池田の了承という「錦の御旗」を背景に幹部たちが反対する婦人部などを説得して意思統一を図ってきた。ところが池田は事実上、最高指揮官としての能力を失っており、以前のように「(池田)先生も認めているのだから」と言って反対者を黙らせることはできない。しかも、創価学会の幹部たちは、「ポスト池田」の座をめぐって主導権争いを続けていた。
 そのため、そのレースの当事者である事務総長の谷川にも理事長の正木にも、婦人部が反対する政策を強引に進めて、婦人部の反発を招くことは極力避けたいとの心理が働いていた。集団的自衛権の行使容認問題でも、婦人部が「他国の戦争に巻き込まれる」「守るべき憲法九条の範囲を超える」として強く反対している以上、執行部もその意向は無視できず、連立離脱が現実味を帯びる可能性もあったのだ。

  • 会員がほとんど増えていない
  • 新たな会員のほとんどは二世なのでそれほど熱のある活動をしない
  • 政治の世界に打って出る道をつくった池田大作が退場しつつある
といった理由から、今までのように選挙に力を入れなくなる可能性もあるらしい。
公明党が手を引いたら政治の構図は大きく変わるよね。

 衆院に小選挙区比例代表並立制が導入されて二〇年以上が経ち、とりわけ自民党では、党首(総裁)の力が圧倒的に強まって、かつては「党中党」と呼ばれるほど力を振るった派閥は今や見る影もない。自民党内から批判勢力が消えたことについては、マスコミで批判的にとらえられることが多いが、派閥を弱体化させて首相(党首)の力を高め、迅速に意思決定ができるようにして、政策論争は「党対党」で行うという、この制度を導入した当初の目的が、まさに達成されつつあるということでもある。その意味では、公明党という自民党とはまったく別の政党が、安倍色に染まって多様性を失っている自民党に対するブレーキ役を果たしているという現状は、必ずしも悪いことではないだろう。それがある意味で、自民党の暴走を防ぎ、政治を安定させていると言うことができるのかもしれない。

ぼく個人としては「主義主張をねじまげてまで自民党と手を組む公明党」は信用がおけなかったんだけど、この本を読んで公明党のことをずいぶんと見直した。
ニュースだけを見ていてもわからなかったけど、公明党は水面下でずいぶん自民党と闘っていたということがわかる。
公明党がいなければ、政権はもっと強引に法案を通していたことだろう。

だけど、政権の暴走を抑えるストッパーなのか、暴走を助長させる存在なのかというと、今のところは後者の役目のほうが大きいんじゃないかという気がする。
(公明党の選挙協力がなければ自民党はおそらく単独過半数をとれなかったし)


はたして公明党は政治の中心から手を引くのか。
そしてそうなったときに自民党は力を失うのか、それともブレーキがはずれてさらなる暴走へと突き進むのか。

政治ニュースの見方を変えてくれる一冊。
「よくわからないけど公明党は苦手」って人は読んでみると新たな発見があっていいと思うよ。


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