2017年6月7日水曜日

歴史を変えた読書感想文

読書感想文の宿題が好きだった。
だけど、生来のへそまがりの性格と本に対する偏執的な愛情がじゃまをしてうまく書けなかった。

高校2年生のとき、夏休みの宿題で読書感想文が課された。
周囲は「高校生にもなって読書感想文かよ」と愚痴をこぼしていたが、ぼくは燃えていた。
すごい感想文を書いてやるぞ、と。

当時、ぼくは月に30冊くらい本を読んでいた。
読書家としては「まあまあ多い」ぐらいのレベルだけど、井の中の蛙だった高校生は「こんなに本を読んでる高校生なんて他にいないんじゃないの?」と思っていた。

そんな読書家であるぼくが人と同じような読書感想文を書くわけにはいかない!





高校1年生のときは対談形式で書いた。
2人の登場人物をつくりあげ、彼らが1冊の本について語るという趣向だ。
今にして思うととりたててめずらしいスタイルとも思わないが、当時のぼくは「なんて斬新な手法なんだろう!」と思っていた。
2人の登場人物には詳細な背景を設定し、設定の新奇さを際立たせるため題材にはあえてオーソドックスな夏目漱石を選んだ。
「これはすごい。読書感想文の歴史を変えるかもしれない」と、自信満々で感想文を提出した。

まったく反響はなかった。
国語の教師は何も言わなかったし(たぶん読んでなかったと思う)、『文藝春秋』から「貴君の読書感想文を掲載したいのだがよいか」という連絡も来なかった。



だがぼくはくじけなかった。
翌年は、前年の反省を活かして『架空の本の読書感想文』を書くことにした。
対談形式で書くなんて表層的なことでしかない。根幹から読書感想文を揺るがすようなものを書かなくては!

もちろん、架空であることは誰にも伝わらない。
国語教師だって題材となっている本をいちいち読むわけじゃないから、ぼくの書いたものが架空の小説の感想だということには永遠に気づかない。
完全に自己満足だったが、ぼくは情熱に満ちあふれていた。
「誰にも伝わらない孤独な闘いを通して読書感想文の虚無性を描く、架空の読書感想文を書くという行為こそが痛切な風刺文学だ!」

架空の小説家による架空の小説。"風明社出版" という架空の出版社までつくりあげた。
誰も知らない、ぼくの頭の中にすら存在しない小説。


何を書いてもいいのだからかんたんだな、と思っていたが、架空の本の感想文を書くのは思っていたよりもずっとたいへんだった。
なにしろとっかかりが何もないのだから。
仕方ないので、ある程度架空の本のストーリーを作り、自分で作ったストーリーに対する批判をこめたスタンスで書いた。
何度も書いては直し、消してはまた書いた。
そして1週間後、どうにかこうにか架空の読書感想文を書き終えたぼくは思った。「ふつうに書いとけばよかった……」と。


文芸誌からの「歴史を変えた読書感想文を掲載させてください」という依頼は、まだない。


2017年6月6日火曜日

部活

「おまえらやる気あんのか!?」

「おまえらって言いましたけど自分自身のことはともかく他人の内面なんかわかるわけじゃないじゃないですかだいたい自分の内面だってわかるわけないし答えたところで検証しようがないんだから答えるだけ無意味だしそもそも何のやる気なんだって話だしやる気なんて数値化できるもんじゃないけど仮に数値化したとして0か100の間のどこにあったらやる気あるといえるのか定義されてないし仮に70以上がやる気あるとしてもふだんは90のやつが今日は75だったらそれやる気あるといえないと思うしじゃあ相対化して平常の125%以上だったらやる気あると定めたとしたら平素はやる気出さないほうがいってことになっちゃうしやる気があれば結果を出さなくても評価するってことにしたらそれこそ甘えなんじゃないかと思うし結局おまえらはやる気がないという結論に落としこみたいことが見え見えなわけでそれだったらおまえらにはやる気が感じられないっていう主観的な話として提示すれば身体的コミュニケーションの齟齬の問題として何らかの具体的解決を図れる可能性はあると思うし……」

「うわすげえやる気あった」


【読書感想文】 スティーヴン・ミルハウザー 『ナイフ投げ師』

スティーヴン・ミルハウザー/著
柴田元幸/訳
『ナイフ投げ師』

内容(「e-hon」より)
自動人形、空飛ぶ絨毯、気球飛行、百貨店、伝説の遊園地…ようこそ“ミルハウザーの世界”へ。飛翔する想像力と精緻な文章で紡ぎだす、魔法のような十二の短篇。語りの凄み、ここに極まる。表題作『ナイフ投げ師』でO.ヘンリー賞受賞。

ファンタジー小説、なのかな……。

本屋で「変なタイトルの本だな」と思って手に取った。
作者のことは何も知らない。
新書サイズだったのではじめは小説とすら思わなかった。ヨーロッパに実在した職業について書かれた本なのかな、と思った。


人生において「うまく解釈できない」ことってある。

ぼくの場合、小学1年生ぐらいのときの体験がある。
布団で寝ていたら誰かが部屋に入ってきた。顔は見えない。男だということだけはわかる。男は部屋の片隅にあったタンスをごそごそと探っている。
直観的に「これはお父さんじゃない」と思った。「たぶん泥棒だろう」と思ったが、ぼくは何も言わずにじっと見ていた。こわいとは思わなかった。
男は黙って部屋を出ていった。
……という記憶。

後から考えると泥棒とは思えない。行動が大胆すぎる。
寝るときは常夜灯をつけていたから暗くて顔が見えないというのもおかしい。
たぶん夢か空想だったんだろう。
でも夢とは思えないたしかな実感があった(これはもう感覚としか言いようがない)し、今でもしっかりと覚えている。

この記憶は、今でもぼくの中に「うまく解釈できないこと」として残っている。



そういう「うまく解釈できないこと」を集めたような短篇集。


スリルと狂気に満ちた見世物を見たときに感じる自分の中の狂気にとまどう『ナイフ投げ師』。

久しぶりに会った友人は大きな蛙を妻にしていたが、何食わぬ顔をしてその場をやり過ごそうとする『ある訪問』。

大人に隠れて夜中に集まり、けれど何もしようとしない少女たち。彼女らの目的は?『夜の姉妹団』。

真夜中に女の子と遊ぶ夢か現実かわからない体験『月の光』。


夢幻のような感覚の小説が並ぶ。
本を読んでいるのに、白昼夢でも見ているような気分になる。

ファンタジー小説と呼ぶのをためらってしまうのは、幻想的でありながらも「味わったことがあるような感覚」があるからだ。
この感覚は、どこかで体験したことがある。でもいつどこでかは思いだせない。
もどかしい。そして懐かしい。

いつか見た夢 のような味わいの短篇集だった。


中でもぼくが気に入ったのは『新自動人形劇場』。

精巧かつ自動で動く人形による劇場が流行している未来。
人形の精密さはもちろん、観客の様子や人形職人の生活を丹念に描写することによって、見たことのない自動人形劇場の魅力がありありと伝わってくる。
どんどん精巧さを競った結果に原点回帰した朴訥な自動人形が復古するという流れもいかにも "ありそう" で、ほんとうに自動人形劇場が流行った時代があったのかな? という気持ちになる。
この説得力あふれる筆致は唯一無二のものだなあ。


小説って人物を描くことが多いけど、ミルハウザーの小説にはあまり「個を持った人物」が出てこない。ストーリーも起伏豊かとはいいがたい。
理想的な百貨店を描写した『協会の夢』、
斬新かつ進化を遂げつづける遊園地の顛末をつづった『パラダイス・パーク』、
地下道のある町を落ち着いた筆致で語る私たちの町の地下室の下』など、
「人」よりももっと遠い視点で「場」や「状況」を見つめた作品が多い。


小説を読んでいてこんなことを思うことはめったにないんだけど、短編映画にしても雰囲気豊かな名作になりそうな作品集だなあ。



 その他の読書感想文はこちら



2017年6月2日金曜日

多くの人に読んでもらいたいけど読まれるのが怖い


ブログを書く動機っていろいろあると思うけど、基本的には以下の2点に尽きると思う。

  • 書きたい
  • 読んでもらいたい

すごくシンプルだけど、まあこういうことでしょう。
「お金を稼ぎたい」で書く人も、分類すれば「読んでもらいたい」だよね。読んでもらわなきゃお金にならないんだから。


ぼくは他の場所でブログを書いていたのでもう10年以上書いているけど、最近になって「書きたい」と「読んでもらいたい」のバランスをとるのって難しいなあと思う。

せっかく書くからには読んでもらいたい。
誰にも読んでほしくないんだったら日記に書くわけだし(ちなみにぼくは20年ずっと日記をつけつづけている)。


ぼくのブログの読者は多くないけど、書いた内容によっては急に人が集まることがある。
多くの人に読んでもらうのはうれしい。でもちょっと困る。
批判的な意見も多く集まるからだ。

それが1%だったとしても、1万人に読まれたら100人から批判されることになる。
これがつらい。なかなか慣れない。
1人に批判されるだけだったら「世の中には変なやつもいるね」とスルーできるけど、100人に非難されたら世界中から石をぶつけられているような気分になる。

コメントとかいちいち見なきゃいいじゃんと思うかもしれないけど、やはり読んだ人のリアクションは気になるから見てしまう。


結局、虫がいい話だけど「自分の書いたことを好意的に受け止めてくれる人だけに読んでほしい」ってのが本音なんだよね。
そんなことはありえないってわかってるんだけど、それを望んでしまう。

Facebookとかだとそれに近いことができるよね。良ければ「いいね!」だし、悪くてもふつうはいちいち批判しないし。
だからFacebookは居心地がいいんだろうね。
ぼくも「ぜったいに否定されたくないこと」はFacebookに書くし。家族のこととか。

でも一方で「そんな生ぬるい環境にいたらだめだ!」という思いもあって、Facebookだけに安住の地を求めることはできないんだよねえ。



【DVD感想】6人のテレビ局員と1人の千原ジュニア

『6人のテレビ局員と1人の千原ジュニア』

内容紹介(Amazonより)
2016年3月25日。
恵比寿ザ・ガーデンホール。
今をときめくテレビの演出家達が千原ジュニアを自由にプロデュース。
1人の芸人が1つの舞台で全く違った世界を演出された実験的かつ革新的なライブ。
チケットが即完した同ライブ待望のパッケージ化。

2006年に上演された『6人の放送作家と1人の千原ジュニア』の続編的なライブのDVD(『6人の放送作家と~』のほうは観ていないけどね)。

テレビのディレクターたちが周到に準備した舞台に何も知らされていない千原ジュニアが挑む、という実験的な企画。

で、いきなりケチをつけるけど、本編には5人のテレビ局員の舞台しか収録されていない。
公演では加地倫三(テレビ朝日)のパートもあったらしいけど、DVDには収められていない。
『アメトーク』や『ロンドンハーツ』のプロデューサーが何をやったのかは正直見たかったけど、まあしかたない。いろんな権利の問題があるんでしょう。舞台をDVD化するときにはよくある話だ(全部収録しないほうが劇場に足を運ぶメリットも感じられるしね)。

ただ、収録しないんだったらDVDのタイトルは変更したほうがいいんじゃないの?
『6人の』と謳っておきながら5人分しかないのは羊頭狗肉が過ぎるんじゃなかろうか……。




以下、感想。

 末弘 奉央(NHK)


『超絶 凄ワザ!』などの担当ディレクター。
千原ジュニアに対して大喜利のお題を出し、その後『プロフェッショナル 仕事の流儀』風のVTRが流される。
いろんな芸人が「千原ジュニアはいかにすごいか」を語り、捏造をおりまぜながらそのすごさを強調する。
構造としては「むやみにハードルを上げる」という一点のみなんだけど、NHKならではの質の高いドキュメンタリータッチな映像と、絶妙に粗い捏造の対比がおもしろい。

うん、これはたしかにテレビではできないよね。特にNHKなら。
いくら千原ジュニアからの「捏造や!」というツッコミがあるとはいえ、「冗談としての捏造」を真に受けてしまう人も観るテレビだとこれはできない。

「大喜利の天才」と上がりまくったハードルに対してどう答えるのかが見ものだったけど、見事に乗り越えてみせた(というかうまく逃げた)千原ジュニア。さすがだねえ。

ラストにピークがくる構成もよかったし、いちばん演出と演者のバランスがちょうどよかったのがこのコーナーだったな。

ただ惜しむらくは9割がVTRで構成されていたためライブ感には欠けていたこと。
これは悪い意味でNHKらしさだね。NHKって生放送でもライブ感がないもんね。

とはいえ1人目としては十分すぎる出来だった。



内田 秀実(日本テレビ)


『ヒルナンデス』などの担当ディレクターが手がけたのは、『千原ジュニアを知らない世界』という企画。
もし千原ジュニアが若手芸人だったとしてもやっぱり売れるのか? ということで、さまざまなシチュエーションに挑戦させられる千原ジュニア。

申し訳ないけど、ほんとにつまらなかった。
雑な大喜利に答えさせられるジュニアがかわいそうに見えてきた。

ゴールまでの道が一直線に決められているから、せっかく即興でやっているのに「どうなるかわからない」というライブ感がない。
この後にやった藤井健太郎の企画が真逆で遊びが多かった(そしてそこがことごとくハマっていた)ため、余計に筋書きの貧相さが目立ってしまった。

ぜんぶテレビでもできることだよね。というか、目まぐるしい場面転換もあったしテレビのほうが向いてる企画なんじゃないだろうか。
オチの手紙(妻からの手紙と思わせて実は別の人が書いていたというよくあるボケ)まで含めて、ことごとく笑えなかった。
なんでテレビで何度も見たパターンのボケを、チケットなりDVDに金払って見なあかんねん。

まあハズレがあるのもライブの魅力のひとつ、と思えば……。



藤井 健太郎(TBSテレビ)


『水曜日のダウンタウン』『クイズ!タレント名鑑』などの担当ディレクター。
以前に書いた(参照記事)けどぼくはこの人のファンなので、このDVDを購入したのも千原ジュニアを観たかったからではなく、藤井健太郎さんが何をやったのかが観たかったから。

で、藤井さんの企画が『ジュニアvsジュニア』というものだったけど、ぼくがこの人のファンだということをさしひいてもこれはすごかった。
これを観られただけでもDVD買ってよかったと思えたね。

さまざまなバラエティ番組やドラマや映画から集めた過去の千原ジュニアの映像をつなぎあわせて、現在の千原ジュニアとトークをしたり対決をしたりするんだけど、まあ鮮やか。
千原ジュニア(現在)が、困らせてやろうと意地悪な質問をしたりしても、ことごとく千原ジュニア(過去)にスマッシュを打ち返される。
完全に手のひらの上で転がされていたジュニア(現在)も素直に「すげえな」と言葉をもらし、悔しそうな顔をしていた。
なにしろこのライブでいちばん笑いをとっていたのが「過去のジュニア」だったからねえ。
(しかしDVD化するときに権利をとるのがたいへんだっただろうな。よくぞ収録してくれた!)

この企画はいい意味でテレビ的だった。

テレビ番組は基本的に無駄から成り立っている。NHKのドキュメンタリーだと30分番組のために2年も取材したりするというし、そこまでいかなくても放送時間の何倍もの映像を収録してそこから編集するのがあたりまえらしい。
つまり撮影したものの大部分が日の目を見ずに捨てられていく。
もったいない気もするけど、その無駄があるからこそ視聴者はおもしろい映像だけを楽しむことができる。

『ジュニアvsジュニア』も、膨大な無駄の上に構成された舞台だった。
いったいどれだけの映像を準備していたのだろう。たぶん舞台で流されたものの何倍もの映像が用意されていて、そのほとんどが使われていない。
(ちなみに3本対決のはずだったがうち1本は捨てられている。捨てられたことで笑いが生まれているから結果的には成功なんだけど、あれは予定通りだったのだろうか?)

藤井健太郎氏が自分で編集作業もしているという『水曜日のダウンタウン』も同じようにつくられていて、すっごくばかばかしいことに途方もない時間をかけて調査していたり、せっかく制作した映像を早送りで雑に流したりして、おもしろくなるためには惜しげもなく余計なものを捨てている。

舞台で活動している人には、「おそらく日の目を浴びることのないことのためにエネルギーを注ぐ」という無駄はなかなかできないだろうね。舞台って編集が入らないから。

テレビならではのやりかたを持ち込んでいる一方で、どういう展開になるかがプロデューサーにも演者にもわからないというライブならではの緊張感もあり、テレビと舞台の魅力がうまく融合していた企画だった。

笑いの量、すごいことをやっているという感動、終わりの潔さ。
すべて含めて完璧に近いステージだったと思う。



佐久間 宣行(テレビ東京)


『ゴッドタン』を手がける佐久間さんの企画は『千原ジュニアのフリートークvs○○ 3本勝負』。

「擬音で感じる女」「お笑いライブに足しげく通う女」「センチメンタル」という邪魔にも負けずにおもしろいフリートークをできるか? という企画。

まあ、『ゴッドタン』そのまんまだね。これを『ゴッドタン』でやったとしてもまったく違和感がない(番組の名物マネージャーも出てくるし)。
というか『ゴッドタン』の『ストイック暗記王』企画から劇団ひとりやおぎやはぎのコメントをなくしただけのように思えて、ものたりなさを感じた。

対決と言いつつ空気を読んだジュニアが負けにいってる時点で、「勝負」という前提が早々に崩れてしまった。
結果、即興にしては予定調和すぎる、台本にしてはぐだぐだすぎる、というなんとも中途半端な出来に。

プロデューサーが自分の得意パターンに持ちこもうとしすぎてたなあ。
新しいことに挑戦してほしかった。



竹内 誠(フジテレビ)


『IPPONグランプリ』『ワイドナショー』などの担当ディレクター。
素人の語るエピソードを千原ジュニアが代弁することでおもしろくするという『daiben.com』という企画だった。

シンプルでわかりやすいし、千原ジュニアというトークの達者な芸人を活かした企画だったけど、マイナス面も多く目立った。

たとえば、下敷きになった素人のエピソードが
「キノコの研究家が毒キノコを食べてみたときの話」
「お天気キャスターがプライベートで天候とどうつきあってるか」
という話だったこと。

それ自体が興味深い話だったので、千原ジュニアが代弁しなくてもおもしろかったんじゃないの? という印象がぬぐえない。
(代弁前のエピソードは観ている側にはわからないので千原ジュニアというフィルタを通したことでどれぐらいおもしろくなったのかがわからない)

また「素人が千原ジュニアにエピソードを語る時間」というのがあって、この間観客はひたすら待たされる。
DVDでは早送りで処理されていたけど、観客はただただ退屈だったはずだ。
高いお金を払って舞台に足を運んでいるお客さんをほったらかしにするという、悪い意味で「テレビ的」な時間だった。

この企画はおもしろいおもしろくない以前に、「観客に伝わらない」「観客を退屈させる」という点でそもそも失敗していたように思う。
決しておもしろくないわけじゃないけど、でも「これだったらテレビで『すべらない話』を観るほうがいい」と思う。



舞台とテレビの違いってなんだろう


テレビの制作者が舞台のプロデュースを手がけるということで、「舞台とテレビの違い」について考えさせられた。

このライブの間に挿入される映像でも、ディレクターたちに「舞台とテレビの違いはなんだと思いますか?」という質問がされている。
彼らの回答は「ライブ感」「観客との近さ」などだった。

でもライブ感も観客との近さも、決定的な違いじゃない。
VTRを使う舞台もあるし、生放送のテレビ番組もある。
観客を入れて収録するテレビ番組もめずらしくない。


じゃあ最大の違いはなにかって考えたら、それは「演者の代替可能性」じゃないかな。

舞台において、観客は演者に対してお金を払う。
もちろん入場料は劇場のオーナーや裏方のスタッフにも渡るわけだが(というよりそっちが大部分だろうけど)、観客の意識としては出演者に払っている。
だから主役級の演者が出られずに急遽代役が登場する、ということは基本的にありえない。
千原ジュニアのライブだったけど急病のため代わりに千原せいじだけが出てくる、ということは基本的に許されない(それはそれでおもしろそうだけど)。

ぼくは以前、まだ存命だった桂米朝一門の落語会のチケットを買ったことがある。
結局直前になって桂米朝が体調をくずし、公演は中止になった。
米朝さんが出られないならしょうがない。「他の演者は出られるんだから小米朝を代役に立てて公演をするべきだ」とは思わなかった。
そりゃそうだよね、米朝の落語を聴くためにチケットをとったんだもの。

一方、テレビの出演者は誰であっても代役が利く。
主役級が休んだとしても番組が放送中止になったりはしない。

かつて『たけし・逸見の平成教育委員会』という番組があった。
逸見さんが亡くなり、ビートたけしがバイク事故で入院して、番組の顔がふたりともいなくなったが、それでも代役を立てて番組は続いた。
島田紳助が引退してからも『行列のできる法律相談所』はやってるし、関西ではやしきたかじんが亡くなって何年もたつ今でもたかじんの番組が2つ放送されている(さすがに番組タイトルからは消えたけど)。
「この人なしでは考えられない」というような番組でさえも、意外と成立してしまうのだ。
もし明石家さんまが急に休業しても『踊る!さんま御殿』も『明石家電視台』も『さんまのまんま』もきっとしばらく続くだろう。


『6人のテレビ局員と1人の千原ジュニア』を観おわってまず僕が抱いた感想は、「テレビっぽいなあ」だった。

それはたぶん、準備が周到すぎたから。
「千原ジュニアには事前に企画の内容を知らせない」「編集でごまかせない舞台だから失敗は許されない」という条件が重なった企画、千原ジュニアがどう動こうが大勢に影響しない企画ばかりになってしまったんだと思う。
結果、千原ジュニアじゃなくても成立する企画になってしまった。

テレビをつくっている人間として「最後の最後を演者のパフォーマンスにゆだねる」ことは怖くてできなかったんだろうなあ。

すごく実験的でおもしろい企画だったんだけど、結果的に「テレビマンが舞台を成功させるのは難しい」という弱点を露呈させてしまった舞台だったのかもしれない。

ただ回を重ねればそのへんを打破するような企画をぶったててくれる人も現れると思うので、ぜひ同様の企画をまたやってほしいね。

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