2017年3月20日月曜日

感動をありがとう

街中で募金を集めている女の人が、
「善意の寄付をお願いします」
と声をはりあげていた。

あれっ。

いつから善意は他人にたかるものになったのだろう。
たかられて施すのは善意なんだろうか。
善意を人質にとって募金を集めるのはもう脅迫なんじゃないだろうか。

ただ単に「寄付をお願いします」でいいじゃないか。
その寄付が善意によるものなのか、使命感なのか見栄なのか税金負担軽減なのか宗教の教義なのかは寄付をする側の内なる問題なんだから。



同じような気持ち悪さを感じる言葉が「感動を与える」だ。

オリンピックの選手が
「日本中に感動を与えたいですね(キリッ)」
なんてことを恥ずかしげもなく語る。
映像がスタジオに戻ると、アナウンサーが負けじと
「日本中に感動を届けてくれることを期待しています!」
と紋切り型の文句をならべる。

感動を押しつけたい人がいて、感動をめぐんでもらいたい感動乞食がいるから、需給のバランスはとれている。好きにすればいい。

だが迷惑なことに、やつらはすぐに「日本中」を巻き込もうとする。
ぼくは夕方のスーパーで半額になってるおかずみたいなできあいの感動なんて欲しくないんだから、勝手に「日本中」でやらないでほしい。せめて「都内」でやってほしい(ぼくは都民じゃないから関係ない)。


感動は与えてもらわなくたって、人は何にだって感動できる。

前のロンドンオリンピックでぼくがいちばん感動したのは、
柔道の試合でアフリカの国の代表選手が時間稼ぎのためにわざと柔道着の帯をゆるく結んでは帯がほどけたといって何度もタイムをとり、審判に注意されてもくりかえしくりかえし帯をゆるめつづけたがために、とうとう怒った審判から反則負けを宣告されたという試合に対してだった。
「帯をちゃんと締めなかったために反則負けなんて超ダサい! 感動した!」


かの柔道選手は、アジアの片隅のひとりの男性に「感動を与えたい!」と思って帯をゆるめつづけたわけではない。
にもかかわらず、ぼくは涙が出るほど感動した(じっさい笑いすぎてちょっと涙が出た)。



感動なんてその程度のものだ。

今朝ぼくが電車に乗っているときに隣の女の人の胸元がちらりと見えたことで心がうち震えるほど感動して明日への活力がみなぎってきたわけだけど、彼女はぼくに対して「感動を届けたい」と思ったわけでも「元気をあげたい」と思ったわけでもない。たぶん。
ぼくが勝手に感動した、ただそれだけのことだ。

だからぼくはその女の人に向かって「感動をありがとう」とは言わなかったのだ。あえて。


2017年3月17日金曜日

【自民党の話】 ばらばらな組織になってほしい

政治の話します。


最近の自民党を見ていると、脆弱な組織になったなあと感じる。
ずいぶん平板な組織だと。
トップが右と言ったらみんなが一斉に右を向くような。それって政権与党としてもろすぎるんじゃないのと心配になる。

かつての自由民主党はそうじゃなかった。
党内にいくつも派閥があって、常に何人かは虎視眈々とトップの座を狙っていた(ように思う)。
55年体制が40年近くも続いたのは、党内に有力者を幾人も抱えていて、それぞれがバランスをとっていたからだとぼくは見る。

それが、民主党から政権を奪い返して以降(つまり第2次安倍政権になって)、党内の団結力が高まったように思う。安倍晋三首相の力なのか菅義偉官房長官の尽力によるものなのか知らないけど。

「党内の団結力が高まったのならいいことじゃないか」という向きもあると思う。
たしかにメリットも大きい。
決定はスピーディーだし、党内の調整に余計な労力を使う必要はないし。
会社でもそうだ。
トップのワンマンで動く組織は決定が速い。ビジネスにおいてスピードは大事だから、スピード感のある組織はどんどん業績が伸びる。

でも成長の速い組織は、つぶれるのもあっという間だ。
ワンマン社長のやり方が時代に合わなくなると誰も止められない。そして、状況が悪くなったときにおこなわれる決断は、たいていの場合、悪手である。ひとたび悪い方向に転ぶと、止める力がないから坂を転げるように悪化していく。
業績は悪化し、社内の風通しは悪くなり、有能な人は辞め、労働環境は悪くなり、ますます業績は悪くなる。



ローマ帝国が400年近くも続いたのは、権力がほどよく分散していたからだという話がある。
しょっちゅう暗殺が起こり、政権交代が起こっていた。
物事には必ず善悪の両面があり、暗殺にもそれはいえる。圧倒的に悪いことだけど、いいこともないわけじゃない。
皇帝が暗殺されることが頻発すると「あまり無茶をすると殺される」というブレーキになる。

船頭多くして船山に登るという言葉もあるとおり、頭でっかちな組織は良くない。
けれど、船頭は1人しかいないとしても「いざとなったら船頭の代わりが務まるヤツ」や「船頭に進言できるヤツ」や「船頭のやり方に不満を抱えているヤツ」もある程度いたほうが、組織としては強固になる。
こういう組織は船頭が進路を誤ったときに早めに修正ができるから、「自浄作用がある」とも言える。

かつての自由民主党は、「一枚岩じゃない」のが強みだった。
「政権にしがみつきたい」という点以外は政策もバラバラで、なんでおまえら同じパーティー組んでるんだと言いたくなる状態だったが、今にして思うとそれこそが多様な意見を吸い上げることにつながり、長期政権を支えていたのだろう。

一枚岩ではなく、小岩の集まりが強固な石垣になるように。

強固な石垣



ほんの10年ほど前まで、「日本の首相は毎年変わる」と言われていた。
2006年から2011年の6年間に首相を務めたのは7人いた。
1991年~1996年の6年間でも総理大臣は6人いた。
「毎年変わる」は大げさでもなんでもなかった。

トップが頻繁に変わっても、市民の生活は特に変わらなかった。これはすごいことだ。
「どうせ誰がやっても同じでしょ」と思えるのは、強固なシステムが備わっているからだ。
これぞ近代国家と胸を張っていい。

『HUNTER×HUNTER』という漫画に幻影旅団という窃盗集団が出てくる。
「クモ(幻影旅団の愛称)は頭が死んでも手足が生き延びればいい」というセリフが出てくる(実際のクモは頭をとられたら死ぬけど)。
ぼくはあの言葉が好きで、組織というものはある程度の大きさになったらそうあるべきだと思う。
「おれがいないと仕事にならないから」と風邪をおして仕事に出てくる課長は、課を組織する資格がない。
自分が突然死しても、少し混乱しただけで他のメンバーは業務を続けられる。こういう組織を作ることが、リーダーの使命だ。

2000年に小渕恵三首相が脳梗塞で緊急入院したとき、発症からわずか3日後には後任の森内閣が誕生している。ごたごたはあったが、まあそれなりに落ち着いて大きな混乱も生じなかったのは、万が一に備えて森喜朗氏が後釜を狙っていたからではないだろうか。
トップが倒れても、たったの3日で建てなおす。なんとしなやかで強い組織だろう。



ぼくは今の内閣が好きじゃないけど、だからといって民進党や他の野党が政権を握ったほうがいいとは思わない。
共産党にはがんばってほしいけど、政権はとってほしくない(だってあそこは自民党以上に一枚岩だから)。

だから自民党に期待している。
以前のような、自浄作用のある組織に戻ってくれることを。

党内の意見がばらばらで、党内の権力闘争に明け暮れていて、決定の遅い組織に戻ってくれることを切に願う。

ぼくとしては、与党はそんなわけのわからん政党であるほうがずっと信用できる。


やさしさが服を着て歩いている教頭

「鷹揚に構えている校長と、権力の座を狙って立ち回る小ずるい教頭」
という学園モノで定番の図式があるけど、あれにまったく共感できない。

なぜなら、ぼくが通っていた中学校の教頭がとんでもない人格者だったから。
いや、人格者というより"お人好し"といったほうがいいかもしれない。
足立教頭という50歳くらいの丸顔のおじさん。
彼はやさしさが服を着て歩いているような人だった。



やさしいことは、ときに罪になる。

授業中、足立教頭がAくんを指名して質問をする。Aくんは答えられない。
しかし足立教頭はあきらめない。ヒントを与えてヒントを与えて、なんとかAくんに答えさせようとする。ふつうの先生なら、ある程度の時間がたったらあきらめて答えを自分で言ったり、次の人を指名したりする。しかし足立教頭はAくんが答えるまで待つ。

当然ながら、授業は遅れた。


授業中に寝ている生徒がいると、足立教頭はにこにこしながら「〇〇くんは野球部やから朝練で疲れてんのかなあ」と言っていた。
そのやさしさに努力で応える気概のある中学生なんてほとんどいない。
足立教頭の授業では、起きている生徒のほうが少なかった。
委員長や風紀委員のような優等生ですら、彼の授業では寝ていた(授業がつまらなかったこともある)。


ぼくもまた、足立教頭をなめきっていた。
「この人なら、何をやっても怒られない」と思っていた。

だが、そんなぼくが冷や水をぶっかけられる事件が起こった。

その日、ぼくらは校長室の掃除当番だった。
校長は不在。
誰もいない校長室に、男子中学生。
遊ばないわけがない。
中に入るやいなや、「第1回全国中学校ふとももしばき選手権大会」が始まった。
ぼくらがキャッキャ言いながら遊んでいると、足立教頭が校長室に入ってきた。
ぼくは思った「あ、やべえ」。でも同時に「足立教頭でよかった」とも思った。

ふつうの教師なら怒鳴りつけるところだろう。
だが足立教頭は言った。
「おいおい、掃除しようぜ!」
そして。
ぼくにほうきを手渡し、自分は雑巾を手に取ると、しゃがんで床の雑巾がけを始めた。

「中学生に掃き掃除をさせ、自分が拭き掃除をする」
こんな教師がどれだけいるだろう。
生徒の足下ではいつくばって雑巾がけをできる教頭が何人いるだろう。

この人は何をやっているんだ。ぼくはこわくなった。
生意気な中学生だったぼくでも、さすがに教頭が雑巾がけをしている横で悠然としているわけにはいかない。
「いやいや教頭先生、ぼくが雑巾かけますよ」
と、雑巾をとりあげてまじめに掃除をはじめた。



ぼくは足立教頭から「人を動かす方法」を教わった。
それは恫喝や報酬ではない。恐怖だ。



2017年3月16日木曜日

【読書感想文】 伊坂 幸太郎 『ジャイロスコープ』


伊坂 幸太郎 『ジャイロスコープ』

内容(「BOOK」データベースより)
助言あります。スーパーの駐車場にて“相談屋”を営む稲垣さんの下で働くことになった浜田青年。人々のささいな相談事が、驚愕の結末に繋がる「浜田青年ホントスカ」。バスジャック事件の“もし、あの時…”を描く「if」。謎の生物が暴れる野心作「ギア」。洒脱な会話、軽快な文体、そして独特のユーモアが詰まった七つの伊坂ワールド。書下ろし短編「後ろの声がうるさい」収録。

発表した時期も、発表された媒体もばらばらの短篇を集めた寄せ集め作品集。

久しぶりに手に取った伊坂幸太郎作品だったけど、まあ寄せ集めだけあって、正直、そんなにおもしろくなかったね。

初期の『陽気なギャングが地球を回す』『ラッシュライフ』『アヒルと鴨のコインロッカー』『重力ピエロ』あたりの作品は、現実感はない話なのにやたらと構成は緻密、っていうギャップがおもしろくてすごく好きだった。
でも『死神の精度』『ゴールデンスランバー』ぐらいから、思い切った仕掛けがなくなり、読まなくなってしまった。浮世離れした設定そのものはそんなに好きじゃないんだよなあ。
『ゴールデンスランバー』なんか、ストーリーの"緊迫感"と、文章の浮遊感とがまったくのミスマッチで、「大どんでん返しがあると思って我慢して読んでたら何もないってそれがいちばんのどんでん返しだわ!」と本を路上に投げ捨てたのを覚えています(本はリサイクルへ)。


で、それから10年。
当時は、ふだん本なんか読まないやつが面接で「どんな本を読みますか?」と訊かれたときに名前を挙げる筆頭だった伊坂幸太郎。
彼は今はどんな本を書いてるんだろう。

で、『ジャイロスコープ』なんだけど、最初の短篇である『浜田青年ホントスカ』を読んで、「おおっ、伊坂幸太郎っぽい!」。
ユーモアあり、非日常感あり、どんでん返しありで、(かつての)伊坂幸太郎らしさが存分に出ている。
ちょっと後味は悪いけど、でもこれはこれで嫌いじゃないよ。
いいねいいね。
すごくおもしろいわけじゃないけど短編集の一作目としては十分に及第点。この後が楽しみ。

と期待しながら次の『ギア』を読んだんだけど、あれおもしろくねえな……。
出会い系のスパムメールをそのまま掲載しているところはおもしろかったけど、あとはあんまり。
というかこの手のSFブラック・コメディって、筒井康隆が何十年も前に書いていたもので、しかも筒井康隆のほうが疾走感もイカれ具合もずっとまさってる。


他の作品もそんな感じで、どこかで読んだことのあるような設定が多いし、読者をだましてくれるトリックもないし、テクニックで魅せてくれるかというとそんなこともなくて「これだったら別の作家が書いたほうがおもしろくなっただろうな」って短篇が多い。

特に書き下ろしの『後ろの声がうるさい』は、むりやり他の短篇の登場人物を出したりして、小手先で書かれたように思える。
一言でいうと「昔の作品に比べて丁寧さがなくなっちゃった」って印象。
書き下ろしや連載じゃないから、手を抜いてるのかなあ。だったら本にしないほうがよかったのでは。


伊坂幸太郎作品は全部読んどきたい! っていうファン以外にはあんまりおすすめできない作品集かな。



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2017年3月15日水曜日

シャキーン!

『シャキーン!』を知っているでしょうか。
Eテレで朝の7:00からやっている子ども向け番組です。

この番組、ほんとイカれてる。
子ども向け番組だということを隠れみのにして、やりたい放題やっている。


こないだは、3人の西洋人に中世の貴族みたいな格好をさせて、

「さあ、どの貴族が一番早く段ボールの箱を組み立てられるでしょうか?」

というクイズをやっていた。
内容を聞いても意味わかんないでしょ?

実際に観ていたぼくでも、意味わかりませんでした。



また別の日は、

「空から、ナスとミイラが降ってくる映像が流れます。右手でナス、左手でミイラを数えよう!」

というゲームコーナーをやっていた。


完全にイカれてる。


朝の7時といえば、まっとうな大人はニュースを観ている時間。
ひまつぶしにテレビをつけるような時間帯でもない。
Eテレだから、視聴率もスポンサーも気にしなくていい。

と、「好き勝手やってもいい」条件がそろったスポット。
それが朝7時のEテレ。

きっと、『シャキーン!』を作っている人たちは、再生回数を気にしなくちゃいけないユーチューバーよりも自由に企画を出しているんだと思う。
だって「みなさまから徴収した受信料を使ってミイラとナスの数を同時に数えるゲームをやろう!」なんて、ふつうの人には思いつかないでしょう。マリファナでもやらないかぎりは。


満月や新月の晩は凶悪犯罪が増えるように、朝7時のEテレではクレイジーな企画が増えるので、要注目です。