2016年2月29日月曜日

【映画感想】『長い長い殺人』

『長い長い殺人』(2007年)
暴走車に轢かれ、頭部を殴打された男の死体が発見された。被害者の妻・法子(伊藤裕子)は愛人がいる派手好きな女、しかも夫に3億円の保険金をかけていたことが発覚する。世間やマスコミは法子と愛人・塚田(谷原章介)に疑惑の目を向けるが、2人のアリバイは完璧だった。そして事件を担当する所轄刑事の響(長塚京三)、探偵の河野(仲村トオル)は不可解な連続殺人事件へ巻き込まれていく。

原作は宮部みゆきの同名の小説。

原作を読んだのはもう20年以上前なのでストーリーはほとんど忘れてしまった。
覚えていることといえば、
「小説の語り手が財布」だということと、
「おもしろかった」ということだけ。

(あの頃の宮部みゆきはほんとに神がかっていた。それまでミステリといえば江戸川乱歩と赤川次郎しか読んだことのなかった中学生のぼくにとって、『我らが隣人の犯罪』『スナーク狩り』『長い長い殺人』はめまいがするほどおもしろかった)


さて。
映画『長い長い殺人』、丁寧な作りの秀作だった。

映像化にあわせてストーリーを調整しながらも、原作者のメッセージの中核となるところにはしっかりと時間を割いている。
重みを置くべきところを心得ている、というアレンジのしかただ。

10ほどの章に分かれていて、かつ章ごとに視点が変わるという独特な構成。ともすれば散漫な印象にもなりかねなかったが、そのあたりもうまく処理している。
章のたびに緊迫感のある展開を用意していて、退屈させない。

まず事件の概要を説明し、容疑者が浮上し、観客の中でもこいつが犯人だという確証が高まったところで、決定的な証拠を提示。
いよいよ逮捕かというところで容疑者の無罪を証明する完璧なアリバイを出してきてひっくり返してしまうという展開は、ほんとにスリリング。

全体的に静かな映画だったが、それがかえっていい緊張感を与えていた。


ただ惜しむらくは「語り手が財布である」必然性を感じなかったこと。

原作では、視点をころころ変えるわけにはいかないこと、事件関係者を語り手にしてしまうと情報を小出しにできないこと、といった小説特有の事情があり、いつも身近にあってプライベートな情報を多く持つ“財布”というアイテムからの視点にすることが優れた効果を生んでいた。

だが映像の場合は、視点を変えることも情報をあえて描かないことも比較的容易だから、あえて財布に語らせる必要はなかったとおもう。
「語り手が財布」というのが小説の最大の特徴だから切り捨てにくかったんだろうけど。

あと、『長い長い殺人』の重要なテーマとなっている劇場型犯罪者の心理については、20年前には斬新だったのだろうが、その数年後に、やはり宮部みゆきが『模倣犯』という金字塔的な作品が送り出した後の今となっては、正直目新しさは感じない。

ただ映画化された『模倣犯』は超がつく失敗作だったので、それと比べると『長い長い殺人』は完璧に近い映像化だといってもいいね。


2016年2月28日日曜日

【エッセイ】完全犯罪の夢

月に1回くらいのペースで、完全犯罪のトリックを思いつく夢を見る。

夢なので、起きたときにはほとんど覚えていない。
今朝も「完璧なトリックを思いついた!」と思って目が覚めた。
このままだと忘れちゃう! と思ってあわててメモをとった。
だが、今メモを見たら、

・てんとう虫に糸を結びつけて飛ばすことで脱出可能

という謎の記述だけ。

おそらく密室殺人のトリックだと思うのだが、いったいこれでどうやって犯行現場から立ち去れるのかは、今となっては完全に迷宮入りだ。

1ヶ月のメモを見ると

・カーニバルの日に交通事故に見せかけて殺す

とある。
トリックもわからないし、そもそもカーニバルの日がいつなのかもわからない。

それでも、メモしたときは
「すごいトリックを思いついた! 来年の乱歩賞はぼくのものだ!」
という興奮さめやらぬまま書いているのだから、きっとすばらしいトリックだったのだろう。

とはいえ。
実際のところ、乱歩賞どころか、ミステリ小説を書こうとすら思っていない。
それどころか、最近はほとんどミステリを読んですらいない。
それなのに、どうして完全犯罪(らしきもの)の夢ばかり見るのか。
これは、誰かを殺したいという真相心理の表れなのではないだろうか。



私は、胸のうちに密かな殺意を飼っている。

あまり私を怒らせないほうがいい。
さもないと、カーニバルの日に、糸のついたてんとう虫があなたの部屋から飛び立つことになりますよ。

ふっふっふっ……。


2016年2月26日金曜日

【クイズ】ものとその重さ

シンプルだけど難しい物理の問題。
某国立大学の物理学科卒の友人でも答えられなかった。

問1
体重計に乗り、壁を強く押す(壁に体重を預けるぐらい強く)。
体重の目盛りはどうなる?

1 増える
2 減る
3 変わらない


問2
体重計に乗り、前方に腕をすばやくつきだす(正拳突きをする)。
その瞬間、体重計の目盛りはどうなる?

1 増える
2 減る
3 変わらない


2016年2月25日木曜日

【思いつき】血を見ることになるぜ

おれも昔は相当悪かったよ……。

知らない奴との喧嘩は日常茶飯事。

目があっただけで殴りあいになったりした。
ましてや、会話なんかしたらすぐに喧嘩になってたよ。

“口を開けばすぐキレる”ってことで、
『冬場の乾燥くちびる』ってあだ名で呼ばれて恐れられてたぜ……。



2016年2月24日水曜日

【エッセイ】いちばん嫌いな映画

いちばん嫌いな映画ですか……。
たしかに、ちょっと難しい質問ですね。
「つまんない映画」は山ほどありますけどね。
でも、つまんない映画って意外と憎めないんですよね。
あそこもだめだった、ここもつまんなかった、って挙げていくのは愉しみですらありますからね。
そうやって悪口を云ってるうちに愛着が出てくるんでしょうね。
映画史に燦然と輝く駄作と名高い『シベリア超特急』『北京原人』『デビルマン』ですら、なんだかんだでけっこう愛されてますから。

前置きが長くなりました。
ぼくが選ぶ、嫌いな映画ナンバーワンは、2006年公開『手紙』ですね。
東野圭吾の原作を映画化したやつです。


あ、ことわっておきますが、原作小説はおもしろかったですよ。
嫌いなのは映画だけ。

映画『手紙』の何が嫌いって、ひとことでいえば「観客をなめてる」に尽きます。

まず主人公の職業が、原作ではミュージシャンだったのが、映画ではお笑い芸人に変わっています。
察するに、「歌のうたえない役者にミュージシャン役はムリだな。ま、お笑い芸人ならいけるっしょ!」って感じで職業変更したんでしょうね。
はい、観客をなめてるポイントその1ですね。

案の定、間もへったくれもないど素人のお笑い芸人の演技を見せられます。
イタい大学生のコンパを延々見せられてるような苦痛。

おまけに主人公が芸人としてそこそこ出世するというストーリーなので、リアリティのかけらもありません。
さらには原作では「ミュージシャンとして刑務所の慰問に訪れて、収監されている兄の前で歌おうとするも涙ぐんでしまい歌えない」というシーンだったクライマックスでしたが、
これをお笑い芸人にしてしまったせいで、
「漫才師として刑務所の慰問に訪れた主人公とその相方。収監されている兄の前で漫才を披露するも、事情を知っているはずの相方がなぜか兄いじりをはじめる。自分で兄いじりをはじめたくせに、やった後に直後に『しまった』という顔をする。もちろんまったくウケない。途方にくれた主人公はマイクの前で呆然と1分以上立ち尽くす」
というどうしようもないシーンに変わり果てています。

どこで感動すればいいんでしょうか。


次のなめてるポイントは、女優の妙な方言。
大阪弁っぽい言葉で話すのですが、大阪人じゃないぼくが聞いても、どうしようもなく耳ざわり。
イントネーションが汚すぎる。
まったく方言指導をしなかったんでしょう。

ま、それはいいです。
そんな映画、いくらでもあります。昔のハリウッド映画なら、日本人役のはずなのに中国語をしゃべってましたからね。

『手紙』がひどいのは、そもそも女優が大阪弁をしゃべる理由がまったくないってことです。
舞台はずっと関東。大阪に行くシーンもない。大阪から来ました、という描写もない。だから方言を話す必然性がまったくないわけです。
なのに大阪弁。そしてそれがどうしようもなくへたくそ。
何がしたいんだ、としか思えませんね。


ストーリーに関しては、原作がしっかりしているので、目も当てられないほどひどいということはありません。
ぼくは原作を読む前に映画を観たのですが、
「ああ、原作のほうはおもしろいんだろうな」
と思わせてくれる程度には、映画のストーリーは崩壊していませんでした(細かいところを挙げればキリがありませんが)。
だからこそ映画観賞後すぐに原作小説を読み、ああよかった東野圭吾はちゃんとしたものを書いていた、と安心したものです。


映画の話に戻りましょう。
いちばん観客をなめてると感じたのは、さっきも書いたクライマックスシーンです。
収監されている兄の前で漫才の慰問に訪れた弟が、相方から「おまえの兄貴は犯罪者ー!」といじられて涙ぐむというシーン(笑)ですね。
はっきりいって、失笑しかないですよね。

ここで、大音量で流れるのが小田和正の『言葉にならない』です。
テレビCMでも使われていた、いわゆる「泣ける曲」のド定番ですね。
これが唐突に流れます(主題歌よりもいいところで使われます)。

なんと親切なんでしょう。
「はいここが制作者が意図した泣くポイントですよー!」
とわかりやすく教えてくれているのです。

ぼくは劇場でこの映画を観ていたのですが、人間の反射というのはふしぎですね、それまで失笑に包まれていた劇場内で、この曲が流れたとたんにすすり泣きが聞こえてきたのです。

店内で『蛍の光』を耳にしたら「そろそろ帰らなきゃ」と思うように、『言葉にならない』を聴いたら「あっ、そろそろ泣かなきゃ」と思ってしまう人が世の中には少なからずいるのです。

「これ流しときゃどうせ泣くんでしょ♪」と、脈絡なく小田和正を流す。
観客をなめてるといわずしてなんといいましょう。

調べてみると、映画『手紙』の監督は生野慈朗という人。
テレビドラマの演出家だそうです。

ああ、どうりでいかにもテレビドラマ的な安い演出のオンパレードなわけです。
「こういうときはこうしときゃいい」というテレビドラマのセオリーが骨身に染みついてるんでしょうね。


というわけで、観客ばかりか映画そのものもなめきった態度で作られた『手紙』。

10年たってもいまだに不快感が消えないため、嫌いな映画ナンバーワンとして自信をもって推薦させていただきます!