2015年8月31日月曜日

それが男の優しさ

「今日は食欲ないから晩ごはんいらないわ」
と妻に告げる。
 すると彼女は
「大丈夫? 明日仕事休んで病院に行ったほうがいいんじゃない?」
と私の身体を気づかった。

 その気持ちはありがたい。
 だが妻よ。
 男が、それぐらいのことで仕事を休むなんて弱音を吐くわけにはいかない。
 それが男のせいいっぱいの強がりってもんだ。

 ましてや、
「家に帰る途中で誘惑に負けてラーメンを食べちゃったから、満腹で妻が用意してくれた晩ごはんを食べられない」
なんてことは口が裂けても言うわけにはいかない。
 それが男のせいいっぱいの優しさってもんだ。
 そうだろう?

2015年8月30日日曜日

ラブコメの宿命

ラブコメ漫画って、けっこう早い段階で主人公とヒロイン(ヒーロー)がひそかに両想いになってしまって、もう結末は決まってしまう。
でもそれだと話がつづかないから、 お互いの勘違いによってぎくしゃくさせたり、フラれるとわかりきっているライバルを登場させたりするよね。

あれって、ドラゴンボールでいうと、
もうセルは死んでるのにまだ生きていると誤解している悟空たちが一生懸命修行をしていたり、
さあフリーザと闘うぞってときに今さらヤムチャが新キャラとして登場したり、
みたいなもんだよね。

2015年8月29日土曜日

【読書感想】真鍋 博『超発明: 創造力への挑戦』


『超発明: 創造力への挑戦』

真鍋 博

「BOOK」データベースより
星新一との仕事でも知られる天才イラストレーター・真鍋博が、頭の体操として考え、あたため、育ててきた“夢の発明品”129個の大博覧会!実現可能に見えるものからユーモアにみちた珍発明まで、ポップで精細なイラストとその解説文で、未だ実現しない夢に見る“日本の未来”を40年も前から語り続けています。日本SF界を支えた“思考”と“発想”をご堪能あれ!

 昔の人の「未来予想」は愚かでおもしろい。だってはずれているに決まっているから。
 自分だけが答えを知っているクイズのように、にやにやしながら「君たちにはわかんないよねー。難しいよねー」と底意地の悪い楽しみかたができる。
 明治時代のとある学者が「このままだと東京の街は馬車の馬糞でいっぱいになる」と真剣に憂慮していたらしいが、そういう的はずれな予想がぼくは大好きだ。

 真鍋博の『超発明』も、今から40年以上前に刊行された本なので、いわば”昔の人の未来予想”だ。当時の科学技術を土台に、ありったけの想像力というスパイスをふりかけて考案された発明たち。
 これがなんというか、性格の悪いぼくにとっては残念なことに、40年たった今でも色褪せていないのだ。今年書かれたと言われても信じてしまうくらいの鮮度の良さだ。
 予想は古くなるが空想は古びないのだと教えてくれる。

 真鍋博といえば星新一作品のイラストで有名だが、あらゆる刺激をなくして死を疑似体験する『無刺激空間』や、増えすぎた生物を狩る『天敵ロボット』なんて発明は上質のショートショートような味わいだ。
 諷刺やエスプリがたっぷりと効いて、さらなる想像をかきたてられる。

 輸送や陳列のコストを削減する『四角い卵』、味を記憶する『録味盤』、光そのものを絵の具にする『オプティカル・パレッ ト』、物体の一部分だけの重さを量る『部分体重計』のような、もうすぐ実現するんじゃないかという発明(ぼくが知らないだけでもう開発されているのかもしれないが)も魅力的だが、突拍子もないナンセンスな発明にこそ真鍋博の豊かな想像力が光る。

たとえば次の発明。
『球体レコード』
 円盤より球体の方が表面積は大きい。そして球体レコードがその歴史的発展の単なる延長でない点は、エンドレスであり、一個のレコードに何億曲でも収録できることだ。
まだレコードしか録音手段がなかった時代なので「レコードをいかに改良するか」という発想になるのは当然だ。だがそこから出発して、現代ではほぼ実現したといってもいい“一個のレコードに何億曲でも”という着地点にまで持ってくるのは、単なる空想にとどまらない、現実的な視点も必要になる。
 理論に裏打ちされた空想、これもやはり星新一に共通するものがある。

 最後に、ぼくがいちばん気に入った発明を。
 『空砲』
 かつて人類は人類同士の闘争のため大砲を撃ち合ったが、未来は人類が人類を救うためお互いに酸素の爆弾を落とし合い、空気の大砲を撃ち合わねばならないだろう。
 闘うのは人間の本能であり、それを否定した平和は不自然そのもの。しかし、それが花であり、鳥であり、きれいな空気の弾であれば、闘争はより建設的であり、より平和的であるといわねばならない。
美しいほどにリアリスティックでロマンティックな発想だ。
 隣国同士が憎み合わずに互いに贈り物をすれば世の中はよくなる。だが、それを支えるのは親切心ではない。愛は地球を救わない。なぜなら愛は長続きしないから。
 だが競争心や闘争心は持続する。数々の戦争が数多の偉大な発明を生んだように、米ソの対立が宇宙開発につながったように、『憎悪は地球を救う(可能性もある)』のではないか。

 地に足のつかない理想を並べたてる輩よりも、こういうリアリスティックなアイデアにこそノーベル平和賞をあげたほうがいいんじゃなかろうか。
 ノーベル平和賞だって “競争心を平和のために利用する発明” だしね。


【関連記事】

未来が到来するのが楽しみになる一冊/ミチオ・カク『2100年の科学ライフ』



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2015年8月28日金曜日

2番組の神

 クローン技術や人工臓器の分野は、欧米のキリスト教国が「神の意思に背くことになる」と二の足を踏んでいる間に、日本がじゃんじゃん研究を進めてクローン人間でもつくればいいとおもう。
 仮に神が全智全能なら、とうぜん人間がクローン人間をつくることもわかった上で人に知恵をお与えになったのだろうから。
 ぼくからしたら、時間の概念をいとも簡単にねじまげてしまう「2番組同時録画機能付きHDDレコーダー」のほうがよほど神をもおそれぬ所業である。


2015年8月27日木曜日

閉店いたしました

 なぜだろう。
 お店のシャッターに貼られたお知らせを見ると泣きそうになるのは。

『喫茶シャンゼリゼは□□月□□日をもちまして閉店いたしました。長い間ご愛顧ありがとうございました』

 この手の貼り紙を見ると、つい足を止めて見入ってしまう。
「そっか……。閉店か……。
 ちくしょう、なんで店をたたむ前にぼくにひとこと相談してくれなかったんだよ!」
と叫ばずにはいられない。

 深夜1時。
 喫茶店シャンゼリゼの店主、山井伸彦(仮名)は部屋の灯りもつけずにじっと目を閉じていた。
 もう決めたことだ。今さらどうなるものでもない。わかってはいるが、身体が石にでもなったように動かない。
 しかしいつまでもこうしているわけにはいかない。伸彦は痛む腰を押さえながら座布団から立ち上がった。
 たしかここにしまっておいたはず。階段下の物置部屋からすずりと筆を引っ張り出してきて、文机の上にならべた。
 ふうっと深い息をついた。墨を手に取りすずりに当てる。
 いつか絶対役に立つからと小学生のときに習わされていた書道。それがこんなときにやっと役に立つなんて。人生は皮肉なものだな、伸彦は苦笑した。
 なんと書こうかと墨を動かしながら考えた。
 未練がましいことは書きたくなかった。最後まで喫茶シャンゼリゼにはダンディーな店であってほしい。
 考えがまとまらないうちに自然と筆が動きだした。
「喫茶シャンゼリゼは閉店いたしました。長い間のご愛顧ありがとうございました」
 もっと気の利いたことを書きたかったが、結局ありきたりな文章になってしまった。だがそれが今の心情を過不足なく表しているように思えた。
 これをシャッターに貼ればすべてが終わる。二十数年積み上げたことも、こんな紙切れ一枚で終わってしまうんだな。
 思った瞬間、伸彦の目からは涙がとめどなく……。


 そんな光景が貼り紙の奥に透けて見える。
 伸彦(仮名)の苦悩や無念さが想像されて、途方もなく悲しくなる。
 実際、酔っ払って帰ったときには、閉店したパン屋の前で涙を流してしまったことまである。
 そのパン屋を利用したことは一度もないのに。

 これだけでもちょっとした異常者だが、だんだんエスカレートしてきて、最近では閉店のお知らせだけでなく、なんでもないお知らせを見ただけで涙腺が熱くなるようになった。
『お盆休みのため、八月十三日から十七日までは休業させていただきます』
の貼り紙を見ただけで
「そっか……。お盆休みか……。
 ちくしょう、なんでひとこと相談してくれなかったんだよ!」
と条件反射的に悲しみがこみあげてくる。

 ここまでいくとほとんどビョーキだ。自分でも気持ち悪いと思う。
 そのうち『全品2割引!』とか『アルバイト募集』の貼り紙を見ただけで涙を流すようになるかもしれない。
 
 べつにぼくは感受性豊かでも、情に厚いわけでもない。どちらかといえば冷たい人間だと思う。
 葬儀中の家にでている「忌中」の貼り紙を見てもなんとも思わない。
 ふーん、人間誰しも死ぬしねー、と思って5秒後にはもう忘れている。

 なぜお店の貼り紙だけが心に響くのだろうか。
 医者でも神でもないぼくが人の死をくい止めることはできないが、閉店や休業ならなんとかできたかもしれないと思うから、悔しいのだろうか。

 だが実際には財力も人脈もないぼくには、お店がシャッターをおろすことさえ止められない。
 なんて無力なんだろう。

 ぼくにできることはただひとつ。

 山井伸彦(仮名)のお盆休みが幸せなものになるよう、心から祈ること。
 ただそれだけだ。