2017年8月17日木曜日

パパ友の口説き方


「ママ友」の検索結果 約1300万件

「パパ友」の検索結果 約38万件


ということで どうも世のお父さん同士はあまり友だちにならないらしい。
(しかし「ママ友」も「パパ友」もネガティブな検索結果が並んでるな……)

ぼくには4歳の娘がいるが、パパ友はいない。
学生時代の友人に子どもが生まれたので子どもと一緒に遊びにいく、ということはあるが、子どもを介して友人になった人はいない。

毎朝娘を保育園に送っているので、他の保護者とも顔を合わせる。
保育園に通わせている人は基本的に共働きだから父親が送りにくる家庭もめずらしくない。
必然的によく顔を合わせるお父さんも決まってくる。
ぼくは常々まっとうな人間として生きていきたいと願っているからあいさつをする。「もうすぐ発表会ですね」とか「今日も〇〇ちゃんは元気ですね」といった言葉も交わす。
でもそれ以上の踏み込んだ話をすることはない。


休みの日には たいてい子どもと遊びにいく。しかし「この人(娘のこと)はお父さんとばかり遊んでいいのだろうか」と心配になる。
一人っ子だし、もっと同年代の子と遊ぶ機会をつくってあげたほうがいいんじゃないか。

あるとき、娘と公園に行ったら保育園の同じクラスの子とばったり会った。
子どもたちはおいかけっこをはじめて、そのとき娘はぼくが見たこともないぐらい速く走っていた。
犬を飼ったことのある人は知っていると思うが、犬は散歩のときリードを持つ人の速さにあわせて歩く。老人と散歩するときはゆっくり歩くし、若くて元気な人が散歩をさせると犬は「この人のときは走ってもいい」と思って速く走る。
同い年の子どもと全速力で走って遊ぶ娘を見て、「ああ、4歳の娘もぼくと遊ぶときは、老人と散歩する犬のように遠慮していたのだな」と気づいた。ショックだった(犬から見た老人の扱いをされていたことも含めて)。

もっと同じ年代の子と遊ばせてあげたい。しかし近所にはパパ友がいない。
ちくしょう! 娘よすまない、ぼくが社交的でないばっかりに……!


忸怩たる 思いいを抱えていたぼくだが、少し前にこんなことを書いた。

娘の保育園に行ったときに他の子の父親から「休みの日ってどこに連れていってます?」と訊かれたので、これはチャンスと思い「こないだプール行ったんですけど子どもは喜んでましたよ。今度子ども連れて一緒に行きませんか?」と誘ってみた。

言われたお父さんは「あーいいですねえ」とニコニコしながら言って、あれ? この後どうしたらいいんだ? 具体的な日程を決めたらいいのか? それとも今日は連絡先の交換だけにしておいて後日LINEとかでやりとりしたほうがいいのか? いやでも「いいですねえ」と言っただけで「行きます」って言ったわけじゃないしこれは断りかたがわからなくて困ってるパターンか? とかいろいろ考えているうちになんとなく次の会話がなくなってしまって、うやむやになってしまった。

コミュニケーション能力が低いばかりに千載一遇のチャンスを棒に振ってしまったのだが、あきらめきれなかったぼくは「あのお父さん(Nちゃんのお父さんとする)とプールに行く」という目標を立てた。

そこで、まずは娘に
「Nちゃんとプール行こっか。Nちゃんに、一緒にプール行こうって言ってみたら?」
と吹きこんでみた。

娘とNちゃんの間で「プールに行こう」という約束ができる
 ↓
Nちゃんが家でお父さんに「〇〇ちゃんとプール行きたい!」と言う
 ↓
Nちゃんのお父さんが、今度会ったときにぼくに「娘が行きたがってるんでプール行きましょう」と言う

という展開を期待したものだ。
自分では声をかける勇気がないので子どもたちを経由して、しかも向こうから誘ってもらおうという巧妙かつ意気地なしの作戦だ。好きな女の子から告白されるのを待って自分からは何のアクションも起こさなかった学生時代からまったく成長していない。


その後も 何度かNちゃんのお父さんと会う機会があったのだが、いっこうにプールの話が出ない。
うちの娘のところで止まっているのか、それともNちゃんで止まっているのか。なにしろ4歳児なのであてにならない。大人でも報連相はむずかしい。
もしかしたらNちゃんのお父さんのところまで話は届いているのに「あいつと出かけるのイヤだな」と思われているのかもしれない……。

くよくよ考えていても結論は出ない。
ここは直接的に誘うにかぎる。

ある日、保育園に娘を送った後、少し前をNちゃんのお父さんが歩いているのを見つけた。
小走りでNパパに近づく。すっと横に並び、たまたま出くわしたかのように「あ、おはようございます」と声をかけた。

そして、前から準備していた台詞を、まるで今思いついたかのように言う。
「ああそういえばですね、こないだプールの話したじゃないですか。あれ以来、娘がNちゃんとプールに行きたいって毎日のように言ってるんですよ。どうでしょう、今週末にでも一緒に行きませんか?」
娘が毎日のようにプールに行きたいと言っている、というのはもちろん嘘だ。また娘を利用させてもらった。

で、
「いいですよ。行きましょう」
「じゃあLINE交換してもらっていいですか」
と、事前に脳内シミュレーションしていたやり取りを経て、見事一緒にプールに行く約束をとりつけることに成功した。


学生時代に 好きな女の子を誘ったときぐらい周到に準備したのが功を奏した。
休みの日は家族でゆっくりしたいのに誘ったら迷惑じゃないだろうかとか断られたらその後保育園で顔を合わせたときに気まずいなとか思い悩んでいたが、杞憂に終わった。
プールに行くときも「ダサいと思われたくないから新しい服を着ていこう」と前日から準備をして、何があるかわからないから一応銀行でお金おろし、気持ちは完全に初デート前日の高校生だった。


プールでは娘たちも楽しんでいたし、「また一緒に遊びに行きましょうね!」と言って別れたのだが、その日からまたべつの悩みが生まれた。

次はどう誘ったらいいのだろうか。

前回はこっちから誘ったから、次は向こうが誘ってくるのを待ったほうがいいのだろうか。
いやでも待つだけの姿勢では自然と疎遠になってしまうかもしれない。
かといってすぐにまた誘うのも「しつこい人だな」と思われるんじゃないだろうか。
どれぐらいの間隔を開けるのがベストなんだろう。1ヶ月ぐらいだろうか。
前回は「プール」という夏らしいイベントがあったけど、次は何を誘ったらいいのだろう。公園遊びとかは平凡すぎるだろうか。

パパ友をつくるってこんなにたいへんなプロジェクトだったのか。
そりゃなかなか作れんわ。


2017年8月16日水曜日

官僚は選挙で選ばれてないからこそ信用できる/堀井 憲一郎 『ねじれの国、日本』【読書感想】


堀井 憲一郎 『ねじれの国、日本』


内容(「e-hon」より)
この国は、その成立から、ずっとねじれている。今さら世界に合わせる必要はない。ねじれたままの日本でいい―。建国の謎、天皇のふしぎ、辺境という国土、神道のルーツなど、この国を“日本”たらしめている“根拠”をよくよく調べてみると、そこには内と外を隔てる決定的な“ねじれ”がある。その奇妙で優れたシステムを読み解き、「日本とは何か」を問い直す。私たちのあるべき姿を考える、真っ向勝負の日本論。

建国記念日、天皇制、中国との関係、戦争のとらえかた、神道といった日本人なら誰もが知ってるのに外ではあまり話題にしにくい ”デリケートな話題” を通して日本の抱える「ねじれ」について語った本。
堀井 憲一郎さんに対して「どうでもいいことを大まじめに考える人」というイメージがあったんだけど(悪口じゃないよ)、まじめな話題をまじめに語る本も出してるのか、と意外だった。




太平洋戦争について。

 ただ二度目のとき、つまり明治維新から近代国家と呼ばれる、いかにもわれわれの身にそぐわなそうな衣装を装備したときには、度合いがわからず、かなりの無茶をやった。日本のラインを守ろうとして、でもその守るラインをどこに置けば適当なのかがわからず、やみくもに外側に防衛ラインを置き、だから結果として、少なくとも周辺の国からは、日本は天皇を戴いてそのまま世界へ押し出していった、というスタイルに見えた。もちろん押し出していってるわけだけど、ただわれわれの理屈は、ずっと身内だから、アジアだから、大東亜共栄圏だから、という内向きの方向でしか述べられていない。そんな理屈だけで外地でやったさまざまな非人道的が許されるわけではないが、心持としてはずっと内向きである。そんな気持ちのまま、海外に進出していったから問題が大きくなったわけでもあるのだけれど。要は、日本の中に抱えてる何かを守ろうとして、防衛ラインを大きく構えすぎた、ということである。


日本が戦争に至った経緯をいくつかの本で読んだけど、感じるのは「このままじゃまずい」という焦りなんだよね。その時代に生きていなかったから想像するしかないんだけど、「外国に攻めていって大儲けしてやろう」という雰囲気ではなく、「何もしなければやられる」という逼迫した空気が戦争に駆り立てたんだろうと思う。
アジアの国が次々に欧米の植民地になっていくのを見ていたら「日本だけは大丈夫でしょ」とは到底思えなかっただろう。
やったことはまちがいなく侵略戦争なんだけど、少なくとも国内のマインドとしては防衛のための戦争だったんだろうなあ、と想像する。

次に戦争をするときも同じだろうな。他国からどう見えるかはべつにして、国内の意識としては自衛のための戦争。今でも「日本が何もしなければ××国に蹂躙される」って鼻息荒く主張してる人がいるけど、そういう人は仮に日本が先制攻撃したとしても「やらなければやられていたからこれは自衛戦争だった」と言うのだろう。
まあこれは日本だけじゃなく世界共通の考え方だけど。
子ども同士の喧嘩で、双方ともに「相手が先に叩いてきた」って主張するのと同じだね。





 近代国家システムを作るときに、もっとも大事だったのは何かというと、廃藩置県だ。それぞれの小国がそれぞれ、小国として独立していた全エリアを、強引に”日本”という一つのものにまとめたところ、でしょう。
 だからいまの日本で「地方分権」を唱える政治家を私は、まず信用しない。
 いまのわが国の政体は、地方分権国家だった江戸のシステムでは近代社会では徹底的に搾取される側にまわってしまうので、急ぎ必死で、命がけでそれこそいろんなものを捨てて殺して、実際に戦争までやって、「地方分権を続けてるとおれたちは国丸ごと滅んでしまう」という血塗られた叫びによって作られた国家であり政体なのだ。
(中略)
 地方分権を唱えてる連中は、まず「金と経済の話」しかしていない。金も経済も同じことだから、つまり、金の話しかしていないわけだ。
 おそらく経済がすべてに優先して大事だということなのだろうか。それは一般人の感覚であって、政治家が理念として掲げるようなものではない。


これも同感。
地方分権を主張する政治家の話って、結局、「おれの好きなようにやらせろ」しか言ってないんだよね。
ほんとにいい政策なら全国的にやったほうがいいし。
いや、わかるんだけど。みんなで足並みそろえてやってたら決定が遅くなるし動きづらくなるんだけど。でもそれをなんとか調整するのが政治家の仕事でしょ、って思うんだよね。おれはおれの好きなようにやるよ、ってのはビジネスの世界では通用しても政治でそれやっちゃだめでしょ。みんなが「うちの町内だけで通用する法律作ってやっていくことにしました」っていったらめちゃくちゃになるのは目に見えてる。
だって各自治体が好き勝手やっていいんなら、日本全体の便益を増やすよりも、隣の自治体から奪ってくるほうがはるかに手っ取り早いもん。みんなそうするよ。で、99%の自治体が損をする。ふるさと納税制度の失敗を見たら明らかじゃない。

最近EUは失敗だったとか言われてるけど、個別の国で見たら失敗なのかもしれないけど、トータルで見たらやっぱり成功だと思うんだよね。実際、中国みたいな「これからの国」はほとんどないにもかかわらずEU全体として経済成長してるわけだし。EU圏内の他国に対する防衛費を抑えられるってだけでとんでもないメリットだろうと、防衛費が年々上がっていく国に住んでいる者としてはつくづく思う。





ついこの前、「官僚は選挙によって選ばれたわけではないから官僚主導で物事が決まるのはおかしい。政治家が手綱を握って官僚をコントロールしなければならない」と主張している人(それなりの学者)がいて、その主張を読んでぼくはもやもやしたものを感じていた。
たしかに官僚は選挙に選ばれてるわけじゃないよなあ……。だからといって政治家が手綱を握るってのはどうも納得いかないような……。
で、ちょうどこの本にそのもやもやへのアンサーが書いてあった。

 国際政治方面は、日ごろの日本の思考法ではどうにもならないので、それ専門に通用するプロを鍛え上げて、そちらに任せるしかない。政治家はあまり外交部門にかかわらないほうがいい。政治家というのは、何も国民の中の優秀な人がなるのではなく、そのへんのおっさんのうち、押しが強くて、金を持っていて、調整が好きな人、がなるものなので、頭脳はべつに明晰でなくていいし、知識も豊富でなくてもつとまるのである。だって、そういうシステムを採用しているから。だから、政治家主導、なんて考えなくていいですからね。あれはほんとに、馬鹿って言われたから、おれ馬鹿じゃないもん、と必死で弁解してる馬鹿の姿そのもので、政治家は馬鹿だと言われることくらい我慢しなさい。与太郎だって我慢してるのに。そもそも政治家とは、考える人ではなくて、調整して、賢者の意見を聞いて、どれを採るか決断するのが仕事です。東アジアのボスは古来そういう姿しか認められていない。
 官僚は優秀な人たちを採用しつづけたほうがいい。


ああそうか、官僚は選挙で選ばれてないからこそ信用できるんだ。
選挙で選んだら、声がでかくて自分をよく見せるのがうまいやつだらけになるだろう。そういうやつが実務能力に長けているかどうかは、みなさんご存じのとおりだ。

政治家は優秀な実務家じゃない。
内閣と官僚を対立軸で語ること自体がおかしいんだけど、あえて比較するとして、選挙で選ばれた人気者と、優秀な大学を出て厳しい試験を突破してその道一筋で厳しい環境でやってきたプロフェッショナルである官僚。
どっちが政策運用において信用できますかっていったら、どう考えたって官僚だ。
選挙が人気投票になっても国家がちゃんと運営されるのは官僚が優秀だからだ(あとたぶん政治家の秘書も優秀だと思う)。


ぼくは選挙に行くけど、票を入れる人の実務能力なんてまったく知らない。政策に共感した人に入れるだけだ。みんなそうだろう。





『ねじれの国、日本』。個別の内容については同感できないこともあったけど、目をつぶって意識していないことについて考える機会を与えられるってのはなかなか心地いいね。
ふだん使わない筋肉を使った後のほどよい疲れみたいな感覚を味わった。



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2017年8月15日火曜日

ばか、なぜ寄ってくるんだ!



街中でビラを配っている人がいる。
ぼくはやったことがないが、つらい仕事だろうな、と思う。
夏は暑いし冬は寒いし立ちっぱなしだし、そしてなにより「人々から無視され、拒絶される」ということが心を削りそうだ。


ビラ配りに遭遇すると心が痛む。
少し先で、若い女性がコンタクトレンズのビラを配っているのが見える。
しかしぼくには不要なものだ。ぼくは以前レーシック手術をしたので両眼ともよく見えている。その証拠にほら、あんなに先にあるのにコンタクトレンズのビラだということがわかってるじゃないか。

拒絶するのは気が引ける。
向こうが「どうぞ」と言って差しだしたものを無下に断れば、彼女はきっと傷つくだろう。
人が人生に絶望するのは、大きな壁にぶつかったときだけではない。小さなストレスが積もりに積もり、最終的にほんの些細な出来事を引き金にして、自分自身や他人を傷つける行動にでるのだ。
ぼくの拒絶が、その引き金にならないともかぎらない。

といって「ありがとう。でもぼくは視力がいいからこれはぼくには不要なものだ。せっかくだから他の人に渡してくれるかい?」なんて丁重に説明して断られても薄気味悪いだけだろう。
「ヤベーやつに出会った」と思うこともきっとストレスだろう。

だったらもらっておいて後で捨てればいいじゃないか、と思うかもしれない。
しかし捨てると知りつつもらうことは彼女の前でいいかっこしたいばかりに自分に嘘をつくことになる行為だ。
ぼくがその余計な1枚を受け取ったことで、本来もらえていたはずの「コンタクトレンズ屋を探していた人」がビラをもらえなくなるかもしれない。


と考えると、「そもそもビラを差しだされないようにする」が最善手だ。
差しだされなければ傷つけれれることもないし、傷つけてしまった自分を苛むこともない。
「私たち、出逢わなければよかったのね。やりなおしましょう」

だからぼくは前方にビラ配りの存在を確認したら、針路を変えることにしている。道の右側にビラ配りがいたら、おもいっきり左に寄る。さらに視線もビラ配りから背ける。「私はビラをもらうつもりがありません」ということを全身で意思表示するのだ。


これでたいていの場合は八方丸く収まるのだが、中にはぼくの全身の訴えが届かないのか、道の反対側にまで駆け寄ってきてビラを差しだす強靭なハートの持ち主がいる。
やめてくれ。
数メートル前からあからさまに避けてるじゃないか。なぜ寄ってくるんだ。

『アドルフに告ぐ』に、ヒトラー・ユーゲントのアドルフ・カウフマンがドイツ在住のユダヤ人であるエリザの家族を逃がそうとするのだが、エリザの家族は財産を取りに家まで戻ってきてユダヤ人狩りに捕まるというシーンがある。まあ読んでない人にはさっぱりわからんと思うが、そのときカウフマンが「ばか、なぜ戻ってきたんだ! もう終わりだ!」と叫ぶ。
ビラ配りがすり寄ってきたときのぼくの心境も同じだ。
「ばか、なぜ寄ってくるんだ!」

そしてぼくは心を鬼にして、冷たい一瞥をくれてビラの受け取りを拒否する。

わざわざ寄ってきたおまえが悪いんだぞ!
そう思えば良心は傷まない。ビラ配りに胸を痛めている人にはおすすめの手法だ。というわけでぜひ、手塚治虫『アドルフに告ぐ』を読んでみてほしい。どんな結論だ。



2017年8月12日土曜日

自分はどうも信用ならん


自分のことが信用ならない。

ぼくは高いところが苦手で、橋の欄干近くを歩くときはすごくドキドキする。
そのとき頭をよぎるのは「急に橋がくずれたらどうしよう」とか「突風で飛ばされたらどうしよう」ではなく「急に飛び降りたくなったらどうしよう」という心配だ。
「よっしゃ飛び降りたれ!」という衝動に駆られたらと思うと、自分を制御できる自信がない。


駅のホームに立っていて、電車が近づいてくると「線路に飛び込んじゃだめだ。飛び込んじゃだめだ」と自分に言い聞かせる。
自殺なんて考えたことないのに。

貴志 祐介の『天使の囀り』という小説に、「スリルを味わいたくなる病気」なるものが出てくるが、その気持ちがちょっとわかる。

車を運転しているときにも「ここでおもいっきりアクセルを踏んだらとんでもないことになるな。でもだめだぞ」と思いながら運転している。
そんな人間が運転していると思うと、他の車や歩行者も怖くてしかたがないだろう。だからなるべくハンドルを握らないようにしている。



ぼくは今までにタバコを1本たりとも吸ったことがない。
二十歳くらいのときに友人から「吸ってみるか?」と勧められたことはあるが、好奇心よりも「1本吸ったらもう死ぬまでやめられなくなるんじゃないか」という恐怖心のほうが勝って、吸わなかった。タバコの煙に囲まれて死んでゆく未来の自分が見えた。
タバコやパチンコや覚醒剤を始める人間は「こんなものいつでも辞められる」と思って徐々にハマってしまうのだと聞く。よくそんなに自分のことを信用できるものだ、と感心する。ぼくは今までに何百回も自分に裏切られている(明日からはジョギングしよう、と思ったのにやらないとか)から、自分のことなどまったく信用していない。
自分のことを信用していないから、他人のことなんかもっと信用していない。


「信用」「信頼」という言葉はポジティブな意味で使われることが多いが、はたしていいことなんだろうか。

ぼくは自分を信用していないから危うきに近寄らないようにしているし、身体や社会に害のあるものに「1回だけ」と手を出すこともない。
また他人のことも信用していないから、人がミスをしたり悪さをしても腹も立たない。

困難なチャレンジをする際(たとえばダイエット)、自分を信じてポジティブにとらえる人(「きっと成功して半年後には痩せてるわ!」)よりも自分を信じていない人(「どうせ挫折して甘いものを食べてしまうよ……」)のほうが結果的に成功しやすいと聞いたこともある。

信用や信頼は捨ててしまったほうが世の中うまく回るんじゃないだろうか。


2017年8月11日金曜日

ぼくの好きなトーナメント表


トーナメント表が好きだ。

高校生のときから、高校野球のシーズンになると模造紙にトーナメント表を書いて部屋の壁に貼っていた。ちゃんと長さを計算して、寸分の狂いもないようにトーナメント表を書いていた。
それを眺めてはにやにやして、大会中はもちろん毎日勝敗や点数を書きこんで、大会後も次の大会が始まるまではずっと壁に貼ったままにしていた。

「勝ち上がってきた勝者同士が頂上でぶつかる」のが視覚的にわかるのがいい。
「勝者の後ろには多くの散っていった者が存在する」ことを感じられるのもいい。
負けたら終わりなので緊張感があること、一発勝負なので番狂わせが起こりやすいこと、消化試合がないこと。トーナメント戦には魅力がたっぷり詰まっている。

まだ1回戦がはじまってない状態でトーナメントを眺めて「あそことあそこが勝ったら準々決勝でぶつかるな……」とかいろいろ空想するのも楽しい。
大会が進むにつれて妄想する余地が減っていくので、「あっ、ちょっと待って。まだ始まらないでよ!」と思うこともある。
大会が終わってからもトーナメント表を見ると「3回戦の横浜ー星稜戦もいい試合だったな」と細かく思いだせる。

ぼくは高校野球が好きだが、もしトーナメント形式ではなく「総当たりで勝率1位のチームが優勝」というシステムだったとしたら、きっと今ほど好きじゃなかったと思う。
トーナメントだから好きなのだ。

プロ野球でも12球団によるトーナメント戦をやったらものすごく盛り上がると思うのにな。なんならサッカーの天皇杯みたいに学生チームや社会人チームも入れたトーナメント戦をやってほしい。


ぼくの好きなトーナメント表は、いびつな形をしたやつだ。
16とか32とか64より半端な数のほうがいい。シードが生まれるからだ。
運の入る余地があったほうがおもしろい。
高校野球でいうと、春の選抜は32校が出場し、夏の選手権大会は49校が出場する(記念大会除く)。春はシードがないので、ぼくは夏のほうが好きだ。

『幽遊白書』の暗黒武術会トーナメントもすごくいびつでよかった。あのトーナメント表を見たときは、当時の読者はみんなゾクゾクしたはずだ。


でも、プロスポーツでは意外とトーナメントをやらない。
ときどきやる(サッカー天皇杯とか大相撲トーナメントとか)ことはあっても、興行のメインではない。大相撲トーナメントなんかテレビ中継すらしないし。
野球のクライマックスシリーズではトーナメント表はあるが、あれは「負けたら終わり」ではないのでぼくはトーナメント戦として認めていない。
ゴルフのツアーのことを「トーナメント」と呼ぶが、これももちろんいわゆるトーナメント戦ではない。
ほとんどのスポーツはリーグ戦がメインで、トーナメントが興行のメインとなっているプロスポーツは、ぼくが知っているかぎりテニスぐらいのものだ。あとスポーツじゃないけど将棋。

トーナメント戦は試合数が必要最小限(出場チーム数-1)になってしまうので、プロスポーツとしては収入面で割にあわないのだろうな。負けたチームはひまを持てあますし。

プロスポーツは難しいかもしれないが、会社の採用試験とか、お見合いパーティーとか、市長選挙とか、もっといろんなところでトーナメント形式をとりいれてもらいたい。



2017年8月10日木曜日

かさじぞうの失礼すぎる恩返し



『かさじぞう』という昔話がある。
たいていの人は知っていると思うが一応あらすじを書いておくと、

年の瀬におじいさんが笠を売りに出かけるが、笠はひとつも売れなかった。
帰る途中、おじいさんは地蔵を見かけ、雪が積もってはかわいそうだと思い売れ残りの笠を地蔵にかぶせてあげる。足りない分は自分の笠をかぶせる。
その夜、地蔵が恩返しのために餅や米俵や財宝を持ってきてくれた。

という話だ。


この話、どうも納得できない。

構造としてはいたってシンプルだ。「人(地蔵だけど)に親切にしてあげるといいことがありますよ」という話だ。それはわかる。
しかし、おじいさんが地蔵に対して親切にして、その直後に当の地蔵から恩返しをされる、という点が納得できない。




 どうやって恩返しをしたのか?

まず、地蔵はどこから餅や米俵や小判を持ってきたのか? という疑問が浮かぶ。
石づくりの地蔵が餅や米を常備しているとは思えないから、おじいさんに渡すためにどこかから調達したのだろう。山菜やキノコだったら「地蔵が山に行って取ってきた」ということも考えられるが、餅や米俵は自然界にはないから、地蔵が持ってくる以前は誰かのものであったはずだ。

「悪いやつ」がいれば、そいつから餅や米俵を奪って持ってくるという『義賊システム』を採用することも考えられる。
だが『かさじぞう』に悪人は出てこない。仮に物語には出てこない悪党がいたとしても、善行を体現する存在である地蔵が餅や米俵や小判を奪うというのは話として無理がある。




 地蔵には神通力があったのか?

「いやいや、どうやって入手したのか考えるなんて野暮だよ。地蔵は仏様の使いだからね。神通力があるんだよ。その神通力で餅や米や財宝を生みだしたんだ」
と言う人もいるだろう。
では地蔵に神通力があったとしよう。好きなものを出現させられる幽波紋(スタンド)だ。

だったらなぜはじめから笠を出さなかったのか?
雪に凍えてつらかったのなら笠を出せばいい。八十八の手間をかけてつくると言われているお米を出現させるよりも、ばあさんが内職で作れる笠のほうがかんたんだろう。
いや、神通力があるのだから笠といわずにダウンコートとかヒートテックとか屋根とか石油ストーブとかを出現させればいい。
なぜやらなかったのか? 答えはひとつ、「必要なかったから」だ。
あたりまえだ。神通力を備えている地蔵、しかも石づくり。吹雪なんか屁でもない。
つまり、おじいさんがした笠をかぶせるという行為はまったくのおせっかいだったのだ。




気持ちの問題か?

「いやいや、おせっかいというのはドライすぎるでしょ。地蔵は、おじいさんの気持ちこそがうれしかったんだよ。だから恩返しをしたんだ」
という意見もあろう。
なるほど、実益を伴わなくても行動してくれたことがうれしいということはある。ぼくも、4歳の娘が「はい、お父ちゃんにあげる」と言ってダンゴムシを差し出してきたときは、行為は迷惑千万だったが好意はうれしく感じたものだ。

だが、売れ残りの笠をかぶせてくれたこと(しかもおせっかい)に対するお返しが「餅と米俵と小判」というのはどう考えてもやりすぎだ。逆に失礼じゃないか?

考えてみてほしい。食べきれないほどのイチゴをもらったので、お隣さんにおすそ分けをする。その直後にお隣さんが「イチゴのお礼です」と言って百万円を持ってきたら、あなたは受け取るだろうか? もしくは地蔵のように夜中にこっそりやってきて郵便受けに百万円を入れていたら?
まず受け取らないだろう。気持ち悪いから。
どう考えても不釣り合いすぎる。ばかにされているように感じるかもしれない。




お返しの作法

人から親切にしてもらったらお返しをするのは礼儀だが、お返しにはいくつかのお作法がある。

 1. 別の形でお返しする
 2. 時間をおいてお返しする
 3. 少なくお返しする

これがお作法だ。

『1. 別の形でお返しする』についてはわかりやすいと思う。イチゴをもらったら、お返しにイチゴを持っていってはいけない。イチゴに対してイチゴでお返ししたら、「あなたがくれたイチゴはいりませんでした」という意味だと受け取られかねない。
ピーマンをもらったからパプリカでお返し、というのもよろしくない。ぜんぜん違うもののほうが望ましい。
また、現金を渡すのもなるべく避けたほうがいい。価値が一目瞭然だからだ。
「イチゴをもらった翌月、掃除のついでにお隣さんの家の前も掃いてあげる」だと、どっちがプラスなのかがわからない。この「損得をあいまいにする」ことこそが友好関係を築くコツだ。


『2. 時間をおいてお返しする』については、少しわかりづらい。
お返しをするなら早いほうがいいと思うかもしれないが、好意を受けてその場でお返しをしたら、それは「取引」になってしまう。ただの物々交換だ。
必要なのは、時間をおいて「好意をお預かりする」ことだ。
親しい人の間では貸し借りがあるのがふつうだ。引っ越しを手伝ってあげたり、車で家まで送ってもらったり、どちらかが「借り」をつくっている。
「誕生日プレゼントを贈る」というのも貸し借りを作る行為だ。そのためにやるといってもいい。なぜなら貸し借りのある関係こそが有効的な関係だからだ。

人間関係における貸し借りは清算してはならない。今までにしてあげたこととしてもらったことを数えあげて収支を合わせようとするのは、金輪際おまえとは付きあわないぞ、という意味になってしまう。
「恋人と別れたときに彼から借りていたものを全部宅配便で送りかえしてやった」というような話を聞いたことがあるだろう。あれはまさに「貸し借りを清算してあなたとの関係を絶つ」という明確な意思表示だ。


『3. 少なくお返しする』のも同じ理由からだ。相手が好意を向けてくれた場合、借りをつくらなければならない。
結婚式のご祝儀に対しては引き出物を贈るし、葬儀の香典には香典返しをするが、もらった額より少なく返すのが礼儀だ。同じ額、または上回る額でお返しするのはたいへん失礼だ。


と考えると、"その日のうちに" "もらった分よりはるかに多く" 返した地蔵の行動が、いかに礼を失したことだったかわかるだろう。




 地蔵はどうすべきだったのか

先ほどお返しのお作法を3つ紹介したが、実はもうひとつお作法がある。

 4. 直接お返ししない

というものだ。
特に目上の人から親切にしてもらった場合、本人にお返しをすること自体が失礼になることもある。

新入社員が上司にごちそうしてもらったときは、その上司に対してお礼の品を贈る必要はない。上司もそんなことは望んでいない。新入社員が上司になったときに部下にごちそうしてやればいい。

「他者に返す」というのもお返しの作法のひとつだ。

他者に返すのは、目上の人から親切にしてもらったときだけではない。「困ったときはお互い様」という精神もある。
自然災害に遭って義援金をもらったら、義援金をくれた人ではなく、別の災害の被害者に対して寄付をすればいい。


だから吹雪の中でおじいさんから笠をもらった地蔵は、その恩をべつの困った人に対して向けるべきだったのだ。
地蔵が誰かを助け、助けられた人がべつの人に親切にし、善意の連鎖がまわりまわっておじいさんのところに戻ってくる。
こういうお話にしておけば、「他人におこなった親切はいつか戻ってくる」と同時に「善意に対して直接的な見返りを期待してはいけない」という教訓も得られるわけだし。




2017年8月9日水曜日

クソおもしろいクソエッセイ/伊沢 正名『くう・ねる・のぐそ』【読書感想】

伊沢 正名 『くう・ねる・のぐそ』

内容(「e-hon」より)
他の多くの命をいただいている私たちが、自然に返せるものはウンコしかない。著者は、野糞をし続けて40年。日本全国津々浦々、果ては南米、ニュージーランドまで、命の危険も顧みず、自らのウンコを1万2000回以上、大地に埋め込んできた。迫り来る抱腹絶倒の試練。世界でもっとも本気にウンコとつきあう男のライフヒストリーを通して、ポスト・エコロジー時代への強烈な問題提起となる記念碑的奇書。

40年間にわたってできるかぎり屋外でのウンコにチャレンジしつづけ、12,000回以上の野糞をしてきたによる伊沢正名さんによる半生記。
4793日連続でトイレで用を足さなかったという大記録を持ち、野糞のしやすさで仕事も済むところも決めるという、この世界で(どんな世界だ)右に出る者はいないという野糞界のレジェンド。

いや、これめちゃくちゃおもしろい本だね。
伊沢さんの本業は菌類などの写真を専門にするカメラマンなのでキノコや菌の話もあるが、ほとんどずっとウンコについて書いている。写真も豊富。なんと自分のウンコ(菌によって分解された後)の写真まで公開されている。ぼくは電子書籍で読んだのだが、文庫版では問題の写真は「袋とじ」になっていたらしい。細かいところまでよく作りこまれている。


伊沢さんが野糞をはじめたきっかけは、屎尿処理場建設反対の住民運動を知ったことだったという。
屎尿処理場の恩恵にあずかりながら、自分の生活圏の近くには設置してほしくないという住民のエゴに疑問を持ち、そもそも排泄物を処理するのにエネルギーを使い有機物(ウンコ)を生態系サイクルの外に出してしまうことは、自然環境にとってマイナスでしかないのではないだろうか、という疑問を持ち、ウンコを「自然にお返しする」ために野糞を始めたのだという。

さらに、紙も使わず葉っぱで拭いて仕上げに手に水をつけて拭くという「インド式」を導入している。立派な美学を持っているのだ。

 しかし、私が心底衝撃を受けたのはそのことではない。それは、ちり紙がこれほど分解されないという事実を目の当たりにしたことだった。ちり紙は木材が原料のパルプでできているのだから、土に埋めれば適度な湿気があり、菌類などの働きで短期間のうちに分解され、土に還ると思っていた。ところが実際には、分解の進む暑い夏を越え、すでにウンコも葉っぱも姿を消しているにもかかわらず、紙だけはほとんどピカピカの状態で出てきたのだ。快適な使い心地を追求してさまざまに加工されたちり紙は、もはや単なる植物繊維ではなかった。大木をも分解する強力な菌類すら寄せつけないちり紙とは、一体どのような物質を含んでいるのだろう。自然の循環に自らを組み込む目的ではじめた野糞によって、いくら使用量を減らしたとはいえ、こんな代物をあちこちの林に埋め続けていたとは!
 野糞率アップなどといい気になっていたが、結果的に私の野糞は、ただのゴミのばら撒きだったのではあるまいか。そう思うと強い自責の念に苛まれた。

この文章を読めばわかるように、なんとも真面目な人なのだ。真面目すぎるから、ぼくたちが看過している矛盾が許せないのだ。

伊沢さんの真面目さは、その記録や記憶にも現れている。
この本には伊沢さんが年別に何回野糞をして、野糞率(年間に野糞をした回数/全排便回数)も付記したデータが掲載されているが(こんなに役に立たないデータがかつてあっただろうか!)、それも彼が40年間排便のたびに手帳に記録をとりつづけていたからだ。


そして彼は、野糞のことをよく覚えてる。

 ところで、海岸での取材時には、野糞も当然海岸ですることになる。とはいえ波打ち際に近い砂浜では、あまりに見晴らしがよすぎて心もとない。排便という無防備な行為は、たとえ羞恥心のない野生動物でさえ、安心感のあるものでするものだ。私はすこし奥へ進み、腰くらいまで草が茂り、小さな松がまばらに生えたところでウンコをすることにした。地表は砂に覆われているが、すこし掘ると土が現れ、さらに植物の根っこも出てきた。穏やかな心持ちでウンコをしながら、ふと考えた。
 動物である私は、安心をもとめてここでウンコをしているが、植物の側から考えればどうなのだろう。海岸の痩せた砂地では、ウンコは貴重な栄養源だ。植物は身を隠す場を提供しつつ、そこで動物にウンコをさせて、必要な栄養を手に入れているのではなかろうか。動物は植物を利用しているつもりが、じつは植物の方でも動物の行動を、まんまと操っていたのかもしれない。共生の糸が張りめぐらされた自然の妙に、とんだところで気づかされた浜野糞だった。


ぼくも毎日のように用を足しているが、こんなふうに「いつ、どこで、どんなふうに、どんなことを考えながら」したかなんてまったく覚えていない。
間に合わずに漏らしたときか、よほど汚いトイレを使ったときしか記憶に残っていない。
だが伊沢さんは何十年も前の野糞を、じつに細かく描写している。状況が毎回変わる野糞をくりかえしていると、一回一回が「記憶に残るウンコ」となるのだろう。トイレで排便している人よりもはるかに充実した排便ライフを送っているわけで、ちょっとうらやましい。


さらに『くう・ねる・のぐそ』では、100回分以上の野糞を後日掘り返して、切断して断面を見たりにおいを嗅いだりして、ウンコの状態や経過日数によってどのように分解が進んでゆくかの記録が書かれている。

いや、これは人類史上はじめての試みだろう。というか40億年前に地球上に生物が誕生してから、100回以上も自分のウンコを掘り返した生物なんて他にいないだろうから、生物史上はじめての偉業だ。
(しかも伊沢さんは季節による変化を調べるため、夏にも冬にもやっている)

そして得られたこの結論。

 私はこれまで、どちらかと言えばウンコを始末してもらうという意識で野糞をしてきた。ヒトは動物として、栄養を他の生きものに依存して生きるしかない。いわば寄生虫的な生物だと卑下していた。だからせめてもの罪滅ぼしに、食べた命の残りであるウンコを、全部自然に返そうと野糞に励んできたのだ。
 ところが、この野糞跡の掘り返し調査では、多くの動植物や菌類が私のウンコに群がり、たいへんな饗宴を繰り広げている現場を目撃した。ウンコは分解してもらうお荷物などではなく、とんでもないご馳走だった。ウンコをきちんと土に還しさえすれば、もうそれだけで生きている責任を果たせそうな気がしてきた。三十数年間背負っていた重荷が、スッと消えてなくなった。

この本を読むと、野糞をしたくなる。というよりトイレで用を足すことに罪悪感を持ってしまう。

「野糞をするうえで気をつけることは?」
「野糞をする人が増えたら分解できなくなるのではないか?」
「都会で野糞をしたら生態系にダメージを与えることにならないか?」
といった疑問にも、百戦錬磨の著者がずばりと回答してくれる。

都市部のマンション住まいのぼくには伊沢さんのようにいきなり「トイレでウンコをしない」というのはハードルが高いが、今度山登りに行ったときにはチャレンジしてみようかな。



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2017年8月8日火曜日

断られやすい誘い方をしろよ

断られやすい誘い方 をしろよ、と思う。

どういうことかというと、たとえばぼくが以前にいた会社では不定期でフットサルやバーベキューを開催していた。
そこで許せなかったのは、主催者の誘い方だ。

「再来月あたりにバーベキューやろうと思ってるんですけど、いつがいいでしょう?」
「土日のどこかでフットサルをやろうと思います。(8ヶぐらい候補日が書かれた紙を見せてきて)参加できる日に〇をつけてください」

という誘い方が多かった。
この誘いを受けるたびに、なんて相手のことを考えられない人なんだろう、と心底腹が立った。

こんな誘い方をされると、断ることがすごくむずかしい。


いい大人なんだから、相手に断りやすい逃げ道を用意してあげてから誘えよ、と思う。
「〇月□日か△日にバーベキューをやるんですけど」とピンポイントで指定すれば、一応手帳を見るふりをして「ああすみません、どっちも予定がありまして……。行きたかったんですけど」とさしさわりのない嘘をついて断ることができる。

あと、用件を言わずに予定が空いているかを訊くやつも、バーベキューに火種を忘れていって生野菜だけ食うことになればいいのにと思うぐらい嫌いだ。
「〇日ひま?」って訊かれても、バーベキューのお誘いなら「その日は予定が」と答えるし、「もう使わなくなった100万円の札束あげるから家まで取りにきてくれない?」だったら「何の予定もないよ!」と即答するから、先に用件を言えよ。



まあ、ぼくは会社の人からどう思われようとわりと平気な人間なので、
「再来月の週末はすべて結婚式に出席する予定があるので参加できません」
「靴は革靴しか持ってないのでフットサルはできません」
と、丸わかりの嘘をついて断っていたんだけど。


2017年8月7日月曜日

本格SF小説は中学生には早すぎる/ジェイムズ・P・ホーガン『星を継ぐもの』【読書感想】


ジェイムズ・P・ホーガン (著), 池 央耿(訳)
 『星を継ぐもの』

内容(Amazonより)
月面調査隊が真紅の宇宙服をまとった死体を発見した。すぐさま地球の研究室で綿密な調査が行なわれた結果、驚くべき事実が明らかになった。死体はどの月面基地の所属でもなく、世界のいかなる人間でもない。ほとんど現代人と同じ生物であるにもかかわらず、5万年以上も前に死んでいたのだ。謎は謎を呼び、一つの疑問が解決すると、何倍もの疑問が生まれてくる。やがて木星の衛星ガニメデで地球のものではない宇宙船の残骸が発見されたが……。

多くの読書好き中学生と同じように、ぼくも中学生のときはSF作品を多く読んだ。
星新一は小学生のときから好きだったから、そこから派生して、筒井康隆、小松左京、豊田有恒、かんべむさし、新井素子などあれこれ手を伸ばしていった。

でも、評価の高い筒井康隆の七瀬3部作なんかを読んでもいまいちぴんとこなかった。「筒井康隆もドタバタ短篇はおもしろいんだけど本格SFはあんまり楽しめないな……」
その頃読んだSF作品は数多くあるのだが、20年近くたった今でも記憶に残っているのは、星新一作品をのぞけば、新井素子『グリーン・レクイエム』ぐらいだ。『グリーン・レクイエム』は講談社文庫版 表紙の高野文子のイラストも含めて感動するほど美しい作品だった。借りて読んだのだが、あまりに良かったのですぐに買って本棚の特等席に並べた。
こういう本が絶版にならずに電子書籍で手に入る時代になったのはほんとにいいことだなあ。


話はそれたが、しばらくSFからは遠ざかっていたのだが、少し前にハインラインの『夏への扉』を読んで「SFってやっぱりおもしろいなあ」と思いを新たにした。

で、SF史上名作中の名作中の名作との呼び声高い『星を継ぐもの』(1977年刊行)を手にとった。

月面で人間の遺体が発見された。調べたが、地球上のどの国の人物でもない。遺体の年代を測定すると、彼は5万年前に死んでいたことがわかった。チャーリーと名付けられた遺体は、地球人なのかそれとも宇宙人なのか。彼はどうやって月面に降りたち、そしてなぜ死んだのか――。

という、なんともわくわくする導入。
そして期待を裏切らない展開。謎が謎を呼び、ひとつの謎が解決されるたびに新たな謎が浮上してくる。

「ここまでは、いいですね」ハントは先を続けた。
「その惑星が自転して、一日が自然の時間の単位であるという前提でこの表を眺めた時、これが、惑星が太陽を回る軌道を一周する期間を示しているとすれば、数字一つが一日として、その惑星の一年は千七百日ある計算です」「恐ろしく長いですね」誰かが混ぜ返した。「われわれから見れば、そのとおり。少なくとも、年/日の比率は非常に大きな値になります。これは、軌道が極めて大きな円を描いているか、あるいは自転周期が非常に短いことを意味します。その両方であるかもしれません。そこで、この大きな数のグループを見て下さい……アルファベットの大文字で括ってある分です。全部でそれが四十七。大半が三十六の数字から成っていますが、中の九つのグループは三十七です。第一、第六、第十二、第十八、第二十四、第三十、第三十六、第四十二、それに第四十七のグループです。ちょっと見るとこれはおかしいように思えますが、しかし、地球のカレンダーだってシステムを知らずに見たら変なものでしょう。つまり、どうやらこれはカレンダーとして機能するように調整が加えられているらしい、ということが想像されるのです」
「なるほど……大の月、小の月ですか」
「そういうことです。地球で大小の月に一年をうまくふり当てているのとまったく同じです。惑星の公転周期と衛星のそれとの間には、単純な相関関係が成り立たないためにそのような調整が必要になって来る。そもそも、そこには相関関係などあるはずもないのですから。つまり、わたしが言いたいのは、もしこれがどこかの惑星のカレンダーであるとするならば、三十六の数字のグループと三十七のグループが不規則に混じっていることを説明する理由は、地球のカレンダーの不規則性を説明する理由とまったく同じであるということ、すなわちその惑星には月があった、ということです」

ずっとこんな調子で、物理学、天文学、進化生物学、解剖学、考古学、言語学、化学、数学などありとあらゆる知識を総動員して、ひとつひとつの謎が丁寧に解き明かされてゆく。まるで推理小説のよう。
以前、『眼の誕生』という本を読んだとき、「どうやって生物は眼を持ったのか」という謎に対してさまざまな検証がおこなわれ、それが真実に向かって収束されていく展開に興奮をおぼえた。
『星を継ぐもの』を読んでいる間も、そのときに似た知識欲の昂ぶりを感じた。フィクションだとわかってはいるのに、まるで学術研究書を読んでいるかのような圧倒的なリアリティがあった。
小松左京も「知の巨人」と呼ばれていたけど、本格SF小説を書くには広く深い知識が必要なんだ、とつくづく思わされた。
SF小説の翻訳って難しいと思うけどこれは訳も良くてすんなり読めた。邦訳含めて名作だ。

『星を継ぐもの』は非常におもしろかったんだけど、ぼくが中学生のときにこの本を読んでいたら「おもしろくねえな」と思っていただろうと思う。
『星を継ぐもの』は、「5万年前に何があったのか?」の謎を解き明かす話なので、現在のストーリーだけで見ると退屈だ。科学者たちが集まってああでもないこうでもないと話しているだけだ。この物語のおもしろさは大胆すぎる想像を精緻な論理で形作っていくことにあるので、論理の流れが理解できなければ本の魅力は半分も感じられない。
天文学や進化生物学に関して少なくとも大学の一般教養程度の知識は持っていないと、謎解きについていけないと思う。


ぼくが中学生のときにSF小説をいまいち楽しめなかったのは、ぼくの知識が足りなかったからというものあるんだろうな。
当時はおもしろくないと思っていた作品の中にも、今読み返したら楽しめるものもたくさんあったんだろうな。



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2017年8月4日金曜日

校長先生の特権


ふつうに生活していて、数十人の前で話をすることなんてどれぐらいあるだろうか。
学生時代はそれなりに機会もあったが、ぼくが高校卒業後に数十人の前で話したことといえば、
  • 職場の全社会議で、全社員約300人の前で所信表明を述べたとき。
  • 自分の結婚式で招待客約50名の前であいさつをしたとき。
  • 友人の結婚式2次会の司会をしたとき。
これぐらい。
教師、講師、アナウンサー、遊園地のアトラクションの司会者、ハイジャック犯といった仕事についてないかぎりは、数十人の前でしゃべる機会はないのがふつうだと思う。
せいぜい結婚式のあいさつや喪主のあいさつぐらい。

また、大勢の前で話すときはたいてい、自分の好きなことを話せるわけではない。
講師にしても司会者にしても喪主にしても、だいたいの話す内容は決まっている。多少冗談を挟むことぐらいはあっても(喪主は挟まないだろうが)、自身の主義主張やとりとめのないことを語ることは許されていない。それが許されているのは、講演会を依頼された著名人、政見放送・街頭演説をする政治家、朝礼の校長先生ぐらいのものだ。




ぼくがここにブログを書くと、1記事につき数十人が見てくれているらしい。

人気ブログとは比べ物にならないアクセス数だが、数十人の前で話ができる、しかも制約なしに自分の好きなことを語れると考えれば、これはすごいことだ。

長年教師を務めて試験を受けて校長になるか、数百万円の供託金を支払って選挙に出馬するかしないと手に入れることのできなかった「人前で好きなことを語る権利」が、ずっとかんたんに手に入る世の中になったのだ。

今後は、校長先生をめざす人や泡沫候補として出馬する人は減っていくかもしれないね。



2017年8月3日木曜日

若い人ほど損をする国/NHKスペシャル取材班 『僕は少年ゲリラ兵だった』

NHKスペシャル取材班
『僕は少年ゲリラ兵だった』

内容(「e-hon」より)
沖縄戦に埋もれていた衝撃の史実、日本“一億総特攻”計画の全貌。なぜ、本来守るべき子どもたちを、国は戦争に利用していったのか。そして、戦場で少年たちは何を見たのか。どのように傷つき、斃れたのか。生き残った者たちは、なぜ沈黙し続けなければならなかったのか。そしてその先にあったのは、子どもも含めた「国民総ゲリラ兵化」計画だった―。

戦中日本に護郷隊という組織があったことをご存じだろうか。
沖縄に存在したゲリラ戦部隊で、10代を中心とする兵士が戦場で戦っていた。

太平洋戦争開戦時、日本では満17歳以上でないと召集されないとされていた。青年のもとに赤紙が届いて「まだこんなに若いのに……」と母親が悔やむ、なんてシーンをドラマや映画で観たことのある人も多いだろう。
だが戦況が悪化するにつれ、召集年齢は引き下げられ、1944年12月からは14歳以上であれば志願したものにかぎり召集できるようになった。

志願者にかぎるとはいえ――。

「護郷隊の幹部が村役場を訪れ、役場の人が自分を呼びに来た。召集の紙なんかはなかった。強制的だった。役場で幹部と合流し、国民学校へと向かった。校庭には東村のほか、大宜見村、国頭村、読谷村から集められた少年たちがいた。翌日、岩波隊長が訓示した。『あんたたち、帰ってもいいが、ハガキ一本でこれだ(手刀で首を切るしぐさ))』と言った。今考えたら脅しみたいなものだ」

じっさいはこんな召集の仕方だった。
戦時中、刀を持った軍、狭い村。「おまえも志願するよなあ?」と言われて断ることは不可能だっただろう。

ナチスドイツのヒトラーユーゲントやISIL(イスラム国)の少年兵が有名だが、幾多の戦争で少年は兵士として使われている。
洗脳しやすい、攻撃的である、敵を油断させやすいなど、"コマ"として使いやすい条件がそろっているためだろう。

『僕は少年ゲリラ兵だった』では、田舎の少年たちがゲリラ兵へと変貌してゆく姿が書かれている。
「敵を殺せ、10人殺したら死んでもよい」という短くてインパクトのある言葉を叩き込まれ、過酷な訓練漬けにされ、彼らは兵士となっていく(「10人殺したら死んでもよい」ということは「10人殺すまでは絶対に逃げるな」ってことだよな)。

元少年兵の証言として、
「射撃をすることがおとぎ話の英雄になったみたいだった。大人と対等に戦えるのが痛快だった」
「生まれなかったと思ったらそれでいい」
「(仲間が死んでも)何も思わなくなっていた」
なんてインパクトのある言葉が並ぶ。
しかしこういったことも戦争から70年たったからこそ言えたことで、これでもだいぶ薄まった言葉なんだろうね。



衝撃的だったのはこの文章。

 44年末、沖縄の9の離島に、それぞれ1人か2人ずつ学校教員の辞令を受け、本土から突然やって来て着任した謎めいた男たちがいた。戦時下の沖縄ではほとんど授業が行なわれることはなく、そのかわりに彼らは、子どもたちや住民に軍事教練をしたり、島の警察や行政に巧みに入り込み、米軍が上陸した際の準備などを指導したりしていたというのだ。
 彼らは全員が偽名で、教員としての姿も偽りのものだった。その正体は、「残置諜者(残置工作員)」と呼ばれる陸軍の特殊任務の命を受けた者たち――陸軍中野学校で諜報・謀略、そして特に遊撃戦の特殊訓練を受けていた軍人だったのだ。

まるで映画の導入みたいなシーンだが、こういうことが日本でもおこなわれていたことに驚く。
彼らは教師という信頼されやすい立場を利用して住民の中に入りこみ、いざというときに住民に対して玉砕を指導するつもりだったらしい。

これは沖縄の話だが、本土でも同じような計画がされていたらしい。もし8月15日で終戦していなければ、住民のふりをした軍人たちの巧みな指示のもとで女も老人も子どもも関係のない捨て身の攻撃がなされていたんだろうね。



今の日本は、若い人ほど損をする国だなあとつくづく思う(昔はそうじゃなかったとか外国はそうじゃなかったとは言わないけど。よく知らないから)。

医療費とか年金とか労働環境とか、どう考えても若い人のほうが損をしている。
今の年寄りより現役世代のほうが損をしているし、現役世代よりも学生や子どもが大人になったときのほうがもっと損をするだろう。


たとえば国立大学の学費。
1975年の授業料は、年間36,000円。
その10年後の1985年は7倍の252,000円。
2003年以降は50万円超えとなっている。(文部科学省 国立大学と私立大学の授業料等の推移

一方、物価はというと、2005年の物価を100とすると、1975年の物価は52~56。(総務省 消費者物価指数(CPI)時系列データ

つまり、30年で物価の上昇は2倍未満なのに、大学の学費は約15倍となっているのだ。実質負担は7~8倍になっているわけで、とんでもない値上がり率だ。おお、こわ。どうやら国は若者に学んでほしくないらしい。

また、国民年金保険料を見ると、1975年は1,100円。現在は16,490円。(日本年金機構 国民年金保険料の変遷
こちらも約15倍。
さらに給付される年齢は徐々に引き上げられ、給付額もどんどん減少していく。
40年前の7~8倍もの保険料を支払っているのに、もらえる額はずっと少ない


要するに、若い人からとるお金は増えていき、若い人に使うお金はどんどん減っていっている、というのが今の社会だ。たぶんこの先もずっとそうだろう。
30代のぼくとしては、「ぼくたちってなんてかわいそうな世代なんだ」と思うと同時に、「これから大人になる人たちはなんてかわいそうな世代なんだ」とも思う。

今の年寄りが悪いというつもりはない。
悪いのはこういう社会システムがおかしいと知りながら変えようとしない人たちで、その中にはもちろんぼくも含まれるから、自業自得だ。
まあ自分が国民年金で大損こくのは自業自得だからしょうがないんだけど、でも今の子どもやこれから生まれてくる人に対しては「今後きみたちからたんまり搾取することになってしまうんや。かんにんな」と申し訳なく思う。といってもぼくがそのためにやることといったらせいぜい延命治療を拒否することぐらいなんだけど。


で、今後日本が戦争をする可能性は十分にあるよね。いくら憲法で戦力放棄をうたっていたって、そっちのほうがお得となったら「緊急事態だから」といっていろいろと理屈をつけて戦争をするために憲法を ねじ曲げる 解釈する人はいくらでもいるし。
そうなったときに誰がいちばん被害を受けるかっていったら、まちがいなく若い人たちだ。
なんとかして若い人に損をさせようとする国が、「戦争の最前線に立つ」といういちばん損をする役目を若い人にさせないわけがない。まかせたぜ若人よ。クールで美しい国のために、プレミアムな役割を君たちに与えよう。


堤美果さんの貧困大国アメリカ三部作(『ルポ 貧困大国アメリカ』 『ルポ 貧困大国アメリカ II』 『(株)貧困大国アメリカ』)には、アメリカ軍がどうやって若者を軍にリクルートしているかが丁寧に描かれている。
手法としては、軍に入隊することを約束した者に奨学金を出すことで、貧しい若者に「軍に入隊する」か「低学歴で一生貧困生活を送る」かを選ばせる、というものだ。
競争相手となる移民も多く、自己責任論の強いアメリカでは、一度貧困状態に陥るとそこから脱出することはきわめて困難だ。
だから高額な授業料を出せない家庭の子たちは軍からの誘いを断ることができない。
こうして入隊した若くて学歴もコネもない軍人たちは、当然ながらもっとも危険な最前線へと派兵されることになる。

日本ではそこまで露骨なリクルートは今のところ聞かないが、「教習所に通う金がないから免許を取るために自衛隊に入る」なんて話も聞くから、お金がないために自衛隊に入る人はある程度いるのだろう。
前述したように大学の授業料はどんどん高くなり、一方で給付型奨学金や無利息の奨学金は少なくなっている。親世帯の非正規率は上がっているから、奨学金を返せなくなる若者が増えているという。
ひとたび自衛隊員が不足したなら、リクルーターがこの層を狙わないはずがない。
「憲法九条を改正したら徴兵制が復活しますよ」なんて言って憲法に反対する人がいるが、それは誤りだ。赤紙なんか出さなくても金さえ出せば兵隊は集められるのだから。金を積めば"自主志願"する人はたくさんいる。

15歳で軍に入隊することになる時代は近いのかもしれない。




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2017年8月2日水曜日

五千円札と五円玉の謎




本屋で働いていたとき、業務のひとつに「銀行に行ってお釣りを用意する」というものがあった。

で、ふしぎなんだけど、お金の種類によって「必ず減っていくもの」と「必ず増えていくもの」があった。
いくつかの店舗で勤務したことがあるけど、どこも同じだった。

五千円札はぜったいに減っていく。
20枚くらい用意していても1日でなくなる。
つまり「会計時に五千円札を出す人」よりも「一万円札を出してお釣りとして五千円札をもらう人」のほうがずっと多いのだ。

きっと誰しも経験があるだろう。一万円札を出したら「すみません、細かくなってしまうんですけど……」と千円札9枚を返されたことが。
あの状況がしょっちゅう起こっていた。毎日銀行に行って五千円札を用意していたにもかかわらず。





ふつうに考えれば、硬貨と千円札(と二千円札)だけで支払いができない場合、五千円札があれば五千円札を出す。なければ一万円札を出す。したがって財布内の五千円札の数は0枚または1枚で、2枚以上になることはない。

全員がこの方法で支払っていれば、店舗のレジ内にある五千円札の量は短期的には増減するが、長期的にはほぼ一定のはずだ。
だが、ぼくが働いていた書店では五千円札は減る一方だった。

月末はまだわかる。給料日の直後なので、銀行で一万円札をおろしてそれを使う人が多い。だから五千円札がなくなる。
でも、お釣りとして渡した翌月の給料日前になるとかえってくるかというと、そんなことはない。五千円札はいつでも出ていくほうが多い。
5年ほど働いていたが「前日よりも五千円札が増えた」ということは一度もなかった。

「五千円札があるのに使わない客」がいるのか? なんのために? 五百円玉貯金は聞いたことがあるが五千円札貯金は聞いたことがないぞ? 一万円札の札束はあっても五千円札の札束をつくる人がいるとは思えないぞ?
ふしぎだ。


そこで、こんな仮説を考えた。
客単価が5,000~10,000円ぐらいの店を想定する。ちょっといいレストランとか安めの居酒屋だったら客単価はそれぐらいだろう。
ここでは、「お釣りで五千円をもらう客」<「五千円札を出す客」であると推定される。
たとえば会計が7,000円だった場合、「五千円札と千円札2枚」または「一万円札」を出す人が多いからだ。
ひとつは、「一万円札と千円札2枚」を出して五千円札をお釣りとしてもらうのは、少し計算がややこしいから。
もうひとつは、細かいお釣りがほしいから。飲食店なら割り勘にすることもよくある。この場合、「五千円札1枚をお釣りとしてもらう」よりも「お釣りでもらった千円札3枚+財布内にあった千円札2枚」のほうがありがたい。分けやすいから。

この仮説はまちがってないと思う。
つまり、この店では五千円札が増える一方で、減ることはめったにない。

その分のしわよせが書店にまわる。
書店で5,000円を超える買い物をする客はめったにいない。99%が5,000円未満だ。
客は飲食店で五千円札を使っていることが多いので、財布に五千円札がある可能性は50%よりずっと低い。
そこで、一万円札か千円札で支払いをし、書店のレジからは五千円札がなくなっていく。

うん、これはありそうだ。





もうひとつの謎。

書店のレジにある硬貨は、五千円札ほど顕著ではなかったが、徐々に減っていっていた。
この理由はなんとなくわかる。

自動販売機やバスの運賃など、「硬貨は使えるけど紙幣は使えない/使いにくい」状況というものがある。
こうしたところで硬貨を使う分、店頭では紙幣を使うことが多くなる。
また、世の中には小銭は募金箱に入れたり、自宅で小銭貯金をしたりしている人もいる。結果、店舗で流通する硬貨は少しずつ減っていくことになる。

ここまではいい。
だがふしぎなのは、なぜか「五円玉だけはぜったいに増えた」ということだ。
五千円札が前日より必ず減っていたのとは逆に、五円玉は前日より必ず増えていた。
書店においては、五円玉を出す客のほうがお釣りで五円玉をもらう客より多かったのだ。

これは五円玉だけで、一円玉や五十円玉は少しずつ減っていっていた。

謎だ。
書店の五円玉が少しずつ増えていくということは、どこかに五円玉が少しずつ減っていく店もあると思うのだが、それがどういう店なのかも検討がつかない。

この謎はいまだ解けない。
「こういう理由じゃないか」という推理を思いつく人は、ぜひ教えてほしい。



2017年8月1日火曜日

性格分類

【坊や】

おこりんぼ
わすれんぼ
あまえんぼ
あばれんぼう
あわてんぼ
くいしんぼう
けちんぼ
きかんぼう

【店舗】

うっかり屋
しりたがり屋
さびしがり屋
がんばり屋
のんびり屋
しっかり屋
めんどくさがり屋
めだちたがり屋
はずかしがり屋
てれ屋
わからず屋

【動物】

泣き虫
弱虫
一匹狼
天邪鬼
なまけもの