2017年3月28日火曜日

やっぱりデモより広告のほうが効率いい

自腹を切ってデモの不毛さを検証してみた

という記事を少し前に書いた。

  • デモって非効率でしょ?
  • WEB広告を使えば同じ労力と費用でもっと効果挙げられるんじゃない?
  • じっさいに広告費使って配信してみたら、2,000円で数百人に記事を読んでもらえたよ
  • 「考え方を知ってもらって共感者を増やす」という目的のためにはデモは効果薄いでしょ

って内容。

その記事も、1,000円使ってTwitterで広告配信してみた。


広告で配信された回数が5,773回、広告以外で見られた回数が2,531回。
ぼくの不人気Twitterの投稿はふだんは200~300インプレッションぐらいなので、広告によってだいぶ接触が増えたことがわかりますね。

配信した結果、賛同・批判それぞれ意見をいただいた。
けっこう拡散もしてもらえた。

おもしろかったのは、ぼくはデモをやる人を応援するつもりで「もっといい方法があるよ!」という記事を書いたんだけど、彼らからはぜんぜん支持されなかったこと。
「デモに参加してきました!」というツイートを書いている人からは批判されて、政治的なツイートをほとんどしない人からは「そのとおり! デモを見ても嫌いになるだけだからやめればいいのに!」という意見をもらった。
あと、なぜか反対の立場の人(つまり政権擁護派)からもけっこう支持された。タイトルだけ読んで「デモ反対ってことはこいつは政権支持者だな」と思われたのかな。


「政治闘争は極右でも極左でもない中道の人をどれだけ味方につけるかで決まるのに、デモは中道に訴えかける手段としては適切でない」
と考えてたんだけど、やっぱりそのとおりの結果になったなーという感想。
やっぱり政治に関心の薄い人にはデモは響かないんじゃないかな。

とはいえ、これまでがんばってきたデモを「それ効果薄いんじゃね?」って言われたら自分を否定されたようで腹立つのは当然だろうから、その点は反省点。
「デモに関するツイートをしている人」を対象に広告配信したんだけど、むしろ「デモや政治に関心のない人」をターゲットにしたほうがよかったかもしれない。

人間誰しも自分がやってきたやり方を改めるのはむずかしいので、今デモをがんばっている人に「やり方を変えろ」と言うつもりはない(言ってもムダだろうしね)
でも、これからデモに参加しようかなーとか、自分もデモを主催してみようかなーとか考えてる人には、「もっといいやり方があるのでは?」と考えてほしいですね。

個人が情報発信できる手段がなかった100年前と同じやり方に固執する必要はないよ。



こんなご意見がありました。


いただいたご意見の紹介と、それに対するぼくの見解。
たくさんのご意見をいただきました。

「デモをやってマスコミを動かせば多くの読者に届くよ」
→ たしかにいくらかはマスコミを動かせるだろうけど、かけた労力と費用に対して、効果が薄いよね……。
1万人のデモが、1人の「保育園落ちた日本死ね」に負けてる現実を考えると、メディアを動かすより自分がメディアになるほうがいいんじゃないかと思う。
小さなメディアがたくさん動けば、マスメディアも動かざるをえないだろうから。


「デモのほうが多くの人に知ってもらえる」
→ それはそうかもしれない。でも、知ってもらえたとしても必ずしもプラスにはたらくとはかぎらないよね。
自宅や会社の前でデモの声が大音量で聞こえてきたときに、賛同して仲間になってくれる人より「うっせえな」って反感持つ人のほうが多いんじゃない?
ま、広告もうっとうしいからそこはどっこいどっこいかもしれないw


「デモはゼロコストだからデモのほうがいい!」
→ どういう計算をしたらゼロになるんだろう。仮に道具を一切使わずに徒歩でデモ会場まで行ったとしても、確実に時間は消費するわけだから機会損失は発生する。
まあ賃金労働のできない子どもなら、デモのコストはゼロと言えるのかな。


「デモを使って金儲けするな!」
→ これはまったくの検討外れ。ぼくは儲けてないどころか損してる。3,000円くらい使っただけ。ブログにAdsense貼ってるから一応収益はあったけど、50円くらい。金儲けできたらいいけど、その仕組みはぼくには思いつかないなー。
まあ損してるっていっても、デモに参加することに比べればぜんぜん大したことないけどね。
「ぼくだったらもっとうまく運用する」って書いたのが、「そんなこと言って自分の懐を肥やす気だろ」と思われたのかな。書かないほうがよかったね。
万が一ぼくに運用の依頼があったなら、思想的に100%共感できるところだったらタダでもやるし、共感できないところならナンボ積まれてもやらん、と言いたいところだけど、まあ額によるかな……。


「個人が広告なんかやったって誰も読まないよ」
→ これは大間違いで、この批判をしてきた人がまさに、広告を介してぼくのブログにやってきた人だった。広告の影響を受ける人は自分でもそうと気づかないことが大半だということを、彼は皮肉にも自ら証明してしまった。
ちなみにぼくのブログのアクセス数は以下の通り。
(Google Analyticsより)
3/26が広告配信した日(広告費1,000円分)。
1,000円でこの結果。
業界のことを知らない人が思っている以上に、人は広告を見て行動するのです。


「○○さんが書けば、広告なんか打たなくてももっと多くの人に読んでもらえる」
→ これはまったくそのとおり。すでに十分影響力を持ってる人にとっては、広告配信をするメリットは比較的小さい。でもぼくのような影響力を持たない人間にとっては、金さえ出せば有名人と同じ影響を与えられる広告という手段は大きな意味を持つ。
それに、自然な流入と広告では流入の質がまったく異なるんだよね。
たとえばTwitterのフォロワー数の多い人が何かつぶやけば多くのフォロワーにリーチできる。でもそのほとんどは、もともと彼の思想に賛同している人だ。言ってみれば身内。「やや賛成」「どちらかというと反対」「そもそも無関心」の人にはアプローチできない。だが重要なのはむしろその層だ。
上のグラフの新規セッション率を見ればわかるように、ぼくが広告によってリーチできたのは、90%以上が「これまでぼくのブログを読んだことのない層」。これは非常に重要なことだ。
「大賛成」の人と「大反対」の人は何をやってもまず変えられないから、票取りゲームにおいては放っておいてもいい。世の中を変えるために必要なのは、その中間の人。アメリカの大統領選を見ても、大事なのは「民主党支持」と「共産党支持」の間で揺れている州でしょ?
政治の戦いというのは、囲碁でいうところの「生き死にが確定していない石」をどれだけとるかが重要になる。
仲間内に向けて書いて、身内が「いいね!」をしても、「生き死にが確定していない石」はとるのにはあまり役に立たないと思う。


「WEB広告ではインターネットを見ない人にアプローチできない」
→ たしかにそうだね。インターネットにほとんどふれない人はまだまだ多い。
でもぼくの記事が政治家や記者の目に留まって、間接的にリーチできる可能性は十分にあると思わない?
ぼくは一例としてWEB広告を挙げただけで、デモより費用対効果の高い手段はほかにもいっぱいあるしね。
それにそんなことを言ったら、デモだって大きな駅前や国会議事堂前に行かない人には直接アプローチできないよ?


「素人が広告配信してもうまくいくはずない」
→ そうだろうね。だから知識のある人が一括してやってもいいし、やり方を教えてあげてもいい。効率を上げるためにはばらばらにやるより、数字にもとづいたルールを決めたほうがいい。今まで実践する人が多くなかったからルールを決めるのは容易じゃないだろうけど、難しいからってあきらめてしまうのはもったいなくない?


「みんなが記事を書いて広告配信できるわけじゃない」
→ そのとおり。だから全員がやる必要がない。
インターネット環境がない人、まとまった文章を書けない人、1,000円の広告費を出すぐらいなら半日つぶれるほうがいいという人はこれまでどおりデモをやればいい。
でも選択肢を多く持つことはマイナスにならないと思わない?


「クリックしまくってこいつに高額な料金の請求がくるようにしてやろう!みんなもクリックしてやれ!」
→ はっはっは。ぼくが使った広告はインプレッション課金(配信ごとに課金される方式)なのでクリック数は請求に関係ないんだよ。
ていうかリツイートは広告扱いにならない、って前回の記事の中で書いたんだけどなあ……。拡散してくれてありがとう! おかげでタダでフォロワーが増えたよ!


「とにかく団結することが大事だ! インターネットでは団結できない!」
→ 文化祭やっとけw
デモって参加したことないけど、参加したらいくばくかの達成感があってきっと楽しいんだろうね。
団結することやデモをすることが目的になっている人には何も言いません……。
60年代の大学闘争も、大部分はそういう人だったらしいね。



敵陣営の嫌がることをしよう


たとえば内閣を退陣に追い込みたいと思ったら、政権が嫌がることをすればいいわけでしょ?
ぼくが政権の人間だったら、「野党支持者がデモを組んで団結すること」なんかぜんぜん怖くない。そんなことしたって野党支持者はほとんど増えないから。
「ほんのちょっと風向きが変わって無党派層が『なんか今の政権おかしくない?』と思うようになること」のほうが圧倒的にイヤ。

そのために必要なのって、大声でシュプレヒコールを叫ぶことじゃなくて、過激なツイートでもない。
1960年代に大学闘争がさかんだったけど、火炎瓶投げてゲバ棒振り回してるやつ見て、彼の思想に共感すると思う?
今のデモとはぜんぜんちがうと言われるかもしれないけど、無関心層からしたら、徒党組んで路上で大声あげてるやつも同じように見えるよ。

必要なのは、何ヶ月も何年もかけて、少しずつ少しずつ、考えにふれてもらうことだと思う。
いくつかの2ちゃんねる系まとめサイトが思想的に偏っていることが問題視されている。ぼくも見たことあるけど、あれは吐き気がするぐらいひどい。だけど広告戦略的にはすごく賢い。いいところはちゃんと見習うべきだ。

THINK AGAIN !

デモをやってる人たちって、本気で勝とうとしているように思えない。
戦略がぜんぜん見えない。
徒党を組んでのデモは、表現の自由が失われて通信も制限されたときの最後の手段としてとっておけばいいんじゃないかな?


2017年3月26日日曜日

【読書感想文】 ハリイ・ケメルマン 『九マイルは遠すぎる』

ハリイ・ケメルマン 『九マイルは遠すぎる』

商品の説明(Amazonより)
アームチェア・ディテクティブ・ストーリーの定番。 ニッキィ・ウェルト教授は『九マイルは遠すぎる、まして雨の中ともあれば』と言う言葉を耳にし、この言葉を頼りに前日起きた殺人事件の真相を暴き出す!! 難事件を次々に解き明かしていく、教授の活躍を描く傑作短編集8編。

安楽椅子探偵とかアームチェア・ディテクティブとか呼ばれる推理小説の、古典的名作。
動き回って証拠を集める探偵じゃなくて、聞いた情報をもとに、頭の中だけで事件を解決しちゃうってやつ。

推理小説界では有名なジャンルだけど、意外と安楽椅子探偵ものの作品って少ないよね。
どうしても現実味がなくなるからかな?
現在主流の社会派ミステリとは相容れないんだろうね。

ミステリは好きだけど、アームチェア・ディティクティブものはあんまり読んだことがない。今思い出せるのは阿刀田高の『Aサイズ殺人事件』ぐらい。あれはすごくおもしろかったけど、あれもコメディ要素が強かったな。
あとは小説じゃないけど、古畑任三郎の『ニューヨークでの出来事』の回は完全にアームチェアだったね。そういや古畑には、逆に犯人が現場に一歩も足を踏み入れない『頭でっかちの殺人』なんてのもあったなあ(「アームチェア・マーダラー」と呼んでいた)。

現実味には欠けるけど、フィクションとして楽しむなら「現場に足を一歩も踏み入れずに推理してしまう名探偵」というのはすごく魅力的だよね。超天才って感じで。



さて、『九マイルは遠すぎる』について。


表題作は、「九マイルもの道を歩くのは容易じゃない、まして雨の中となるとなおさらだ」という一文だけから推理を広げて、やがて大きな事件を突き止めるというお話。
期待して読んだんだけど、がっかり。
推理に穴がありすぎる。他にも可能性がいっぱいあるじゃないか。それにその街のことを知らないと推理に参加できないし。推理小説としてぜんぜんフェアじゃないよ(九マイルっていわれてもどれぐらいの距離か日本人にはぴんとこないしね!)。
しかもラストがあまりにもうまくいきすぎていて、いくらなんでもそりゃないだろって突っ込まずにはいられない。

しかしアームチェア・ディティクティブものの先駆け作品ということを考慮に入れれば、こうした不備は許容すべきなのかもしれない。

この作品は、ニッキィ教授という探偵のキャラクターを紹介するイントロダクションのような短篇と思ったほうがいいかもしれないね。
というのは、それ以降の短篇はおもしろいものも多かったから。



脅迫状にわざとらしく指紋がべったりとついていたのはなぜなのか? (『わらの男』)

チェスの駒の配置から殺人事件を解き明かす(『エンド・プレイ』)

お湯を沸かしている音を聞いただけで盗難事件を推理する(『おしゃべり湯沸かし』)

など、推理の妙を存分に味わえる。
論理的推論の積みかさねで真実を明らかにしていくのは、パズルを解くような快感があるね。

こういう「頭の中でぜんぶ考えました」系の小説ってあんまり評価されない傾向があるんだけど(特に直木賞選考委員とかにね!)、でも小説のおもしろさってこういうところにこそあるのかもしれないなとも思う。
社会派の真実味のあるミステリって、迫力という点では結局ノンフィクションには勝てないわけじゃない。清水潔『殺人犯はそこにいる』より鬼気迫るフィクションある?

ノンフィクションも社会派ミステリも好きだけど、"小説家"として「すげえな」って思うのは、取材に基づかずに一から十まで脳内でストーリーを作り上げられる人のほう。

"推理"のおもしろさをめいっぱい味わえて、純度100%の"小説"だから、これぞまさに"推理小説"を代表する作品だね!



 その他の読書感想文はこちら



【WEBマーケティング】自腹を切ってデモの不毛さを検証してみた

『デモは非効率』説


少し前に『WEBマーケターが考える、効率よく「印象操作」する方法』 という記事を書いた。
要約すると、
  • デモとか非効率すぎない?
  • デモに参加する労力を使ってメディアを作って記事を書いたら、ずっと多くの人に情報発信できるよ。
  • デモとかビラとかって、仲間を増やすどころか敵を増やしてるだけじゃないの?

って内容。
だって自宅や会社の近くでデモを見かけても「うっせーな」と反感を持つことはあっても、「こんなに多くの人が声を上げてるんだからおれも応援しなきゃ!」って考えに至ったことないでしょ?



自腹を切って検証してみたよ


どれだけデモが非効率か証明するために、WEB広告を配信してみたよ。
自腹を切ってね。
といっても、使った金額は2,197円。
「個人でもできる」
「少額でもできる」
ってのがWEB広告のいいところ。

 宣伝対象はこないだ書いた記事。
WEBマーケターが考える、効率よく「印象操作」する方法



1.Twitter広告

まずはTwitter広告
クレジットカードがあれば、数分で設定できる(※1)。

広告の見え方。
左下に「プロモーション」という文字がある以外は、ふつうのつぶやきと一緒。

半日ほど配信した結果がこちら。
クリックで拡大

広告業界以外の人には耳慣れないであろう言葉があるので、かんたんに説明しとくと……。

インプレッション
 広告がユーザーに配信された回数
エンゲージメント
 ツイートの合計クリック数
(リツイート、返信、いいね、ハッシュタグクリック含む)

インプレッション=広告を見た人の数
エンゲージメント=その広告に反応した人の数
と思っておけばだいたい間違いないです。



2.GDN(Googleディスプレイネットワーク)

Google Adwordsという、Googleが提供する広告配信サービス。
その中の、ディスプレイ広告を配信してみた。

こんな感じの広告。よく見るよね?
慣れたら数分で作って配信できるよ。
1クリックの最大入札価格20円で、広範囲に配信してみた。
で、結果がこちら。

クリックで拡大



費用対効果は?


ざっくり言うと、以下のような配信結果。
Twitter
 広告費1,200円で、
 5,000回以上広告を見てもらうことができ、
 800回以上関心を持ってもらえた。

Google
 広告費1,000円で、
 67,000回広告を表示することができ、
 60回クリックしてもらえた。

どう? びっくりするぐらい安いでしょ?

しかもTwitter広告は、配信された広告に関しては広告費がかかるけど、
リツイートされたものはどれだけ読まれてもクリックされても広告費がかからない。
ぼくのつぶやきは7リツイートされたけど、もしリツイートがリツイートを呼んでいれば1,200円の広告費で数万人に見てもらえることもありえた。

記事を書くのに約30分。広告配信設定をするのにTwitterとGoogleあわせて15分。
45分の手間と2,200円で、
数万人に自分の主張を伝えることができ、数百人に関心を持ってもらえた




デモよりもっといい方法があると思わない?


2015年8月30日に国会前でおこなわれた安保法案反対デモは、主催者発表で参加者12万人だったそうだ。
デモに参加したことないからわかんないけど、半日ぐらいはつぶれるのかな?
交通費、プラカード、拡声器の費用を考えたら、1人あたり1,000円は使ってるだろうね。

数万人の労働力と数千万円を使って、どれだけ主張を届けられたの?

デモをしたことで、もともと同じ立場だった人の結束は高まったかもしれない。
だけど、いちばん声を届けたいのは、それ以外の人に対してじゃないの?
今のところ政治に無関心な人。
安保法案のことがよくわからない人。

そのデモは、彼らに届いたの?
「なんだかわからないけどうるせえなあ。他人の迷惑考えろよ」って敵に回しただけじゃないの?

「結局何も変えられなかったけどデモに参加してよかった!」という思い出作りをしただけじゃないの?



結論:ちょっとでもマーケティングをわかっている人ならぜったいもっとうまくやる


デモがまったく無意味とは思わない。
WEB広告が常に最適な方法だとも思わない。
だけど重要なのは、目的のために手段を選ぶこと。手段のために目的を犠牲にしないこと。

「世論を動かす」「国会を動かす」ことが目的であって、「デモをする」「署名を集める」「ビラを配る」はそのための手段のひとつでしかない。

もう織田信長が鉄砲隊を組織して戦っている時代に、刀をふりまわして戦ってていいの?

銃を使ったほうが有利な戦局もあると思わない?

デモやるんだったら、同じ予算でプロモーションの運用をぼくにやらせてくれよ。
「1000万円の予算と、10万人日の労働を計上しますから、私たちの主張をできるだけ多く
の人に届けてください」
っていう要望もらったら、ぜったいにもっと高い成果上げる運用してみせるから!



※1
インプレッション課金で配信。
ターゲティングは指定せず。

※2
ターゲティングは、アフィニティカテゴリで[政治ニュース通]と[読書好き]。
今回は配信数を増やすことが目的なので[ターゲティングの慎重な拡張]を設定。
ディスプレイ広告は作らずレスポンシブ広告のみ作成。
記事を読んでもらいたかったので入札戦略はvCPMではなくCPC。
アプリとYoutubeは配信面として質が悪いので除外。



【関連記事】

手段のためなら目的を選ばない


WEBマーケターが考える、効率よく「印象操作」する方法


【後日記事】

やっぱりデモより広告のほうが効率いい



2017年3月24日金曜日

恫喝にしか使えない道具

教習所で、「クラクションは『どけ』とか『もたもたすんな』というために使うものではありません。危険回避のために使うものです」と教わった。

そのとおりだと思う。
車は急に止まれないから、「あぶない! このままだとぶつかる!」というときにだけ使うようにしてもらいたい。


でも。
自転車のベル。
なによあれ?

あれ、危険回避のために使えないよね?
自転車で誰かにぶつかる寸前に、ベル鳴らす人いる?
ブレーキを握るか、ハンドルを切るよね?



自転車のベルって、「どけ」以外の目的で鳴らすことはない。
恫喝にしか使えない道具。
不良がけんかをする前に指をポキポキ鳴らす、あのしぐさと一緒。

なんで自転車にあんな物騒なものの装着が義務付けられているのか、ふしぎだ。




2017年3月23日木曜日

【読書感想エッセイ】 牧野知弘 『空き家問題』

牧野知弘 『空き家問題』

内容紹介(Amazonより)
地方も都会も、日本じゅう空(から)っぽの家ばかり!あと15年で1000万人減る人口。20140年には、10軒に4軒が空き家になる!住宅は、これからますます、コストばかりがかかる、無用で厄介なものになっていく。では、われわれはいったいどうすればよいのか……。第5回(平成26年度)『不動産協会賞』受賞、話題騒然のベストセラー、待望の電子化!
いやあ、すばらしい本だった。
空き家の問題を起点に、日本の社会構造や都市のありかたにまで切り込んでいて、しかもわかりやすい。
空き家の話から「日本の社会全体を大転換しないといけない」という話になるとは思わなかったなあ。



 空き家は今後も増えつづける


「空き家が増えている」というニュースは聞いたことがあったけど、正直、べつにいいじゃないかと思ってた。
「田舎から人が減ってるんでしょ。でもしょうがないんじゃない? 空き家のまま放っておけば?」
ってぐらいにしか思っていなかった。しょせん他人事だしね、って。

でも、どうもこれは日本全体の問題らしい。

今、日本全体で毎年20万戸の空き家が新たに生じているらしい。

 世帯数は今まで述べたとおり順調に増加を続け、その数は5000万世帯に迫っています。昭和58年(1983年)当時と比べると約43%の増加です。しかし、注目すべきは高齢者世帯の伸びです。
 昭和58年(1983年)を100として、高齢者が住まう世帯の数は平成20年(2008年)には209。世帯数全体の伸び143を大きく上回る増加です。さらに「高齢者単身世帯」に目を向けると、なんと420です。つまりこの25年間で98万6000世帯から413万9000世帯、約4.2倍の増加ということになります。
 世帯全体に占める割合も高齢者単身世帯で昭和58年(1983年)にはわずか2.8%にすぎなかったものが平成20年(2008年)では8.3%に膨れ上がっています。この調子で増加が続けば、日本の住宅の10軒に1軒はお年寄りの「おひとり」住まいということになってきます。

高齢者の単身世帯が多いということは、そのうちの大部分は、近いうちに住人が施設に移るか亡くなるかして、空き家になっちゃうってことだよね。
空き家は今後もどんどん増える。

田舎の話だけかと思ったら、東京でも空き家は増えている。
売りに出しているわけでもなく、別荘として使っているわけでもない、純粋な「空き家」の数は都内だけで2008年には18.9万戸もあるんだとか。しかも5年で34%も増えている。



 もはや土地や家は財産ではない


高級住宅地も、売れなくて困っているらしい。

こないだちょっと用があって、兵庫県芦屋市の六麓荘ってところを歩いたのね。
そこって関西では有名な超超高級住宅地で、有名な会社の会長さんとかがいっぱい住んでいて、120坪以上じゃないと分譲しちゃいけないってルールがある(一戸建ての平均坪数は40~45坪くらい)。
ぼくには無縁の場所だから、うわーすげえなー豪邸ばっかじゃーんってのんきに歩いてたんだけどさ。
ちょっとコンビニでも寄ろうかなって思ったんだけど、コンビニなんてまったくないの。スーパーもないし、もちろん個人商店もない。
駅からも遠いし、坂の上だから、いちばん近くの店に行くだけでもたいへん。
まあそういうところに住んでるぐらいの人だから当然高級車に乗ってるわけだし(ちなみにそのへんは国産車のほうがめずらしいぐらい)、ひょっとしたらお手伝いさんとかがいて自分では買い物なんかしないのかもしれない。
そんなわけで、大富豪の親戚から「おまえに六麓荘の200坪の土地と家をやる」って言われたとしても、車も持ってないしお手伝いさんも雇えないし掃除も嫌いなぼくには住めないから売るしかないな、って考えてたのね。まあそんな親戚いないけど。

でもそんな土地ってぜんぜん売れないんだって。
たしかに環境はいいけど不便だもん。特に歳をとって坂道をのぼるのも車を運転するのもできなくなったら、もう住めない。
おまけに高いから誰も買いたがらない。
だったら分割して売ればいいじゃんって思うかもしれないけど、高級住宅街って分割販売が禁止されてたりするから、そういうわけにもいかない。
固定資産税だけがガッツリとられて、持つ人によっては財産どころかへたしたら負債になりかねない。

「土地や家は財産」って考えが、もう通用しなくなってる。
ぼくの両親はまたぴんぴんしてるけど、60歳を過ぎているからいつまで元気でいるかわからない。
郊外の一戸建てに住んでるけど、ぼくがその家に住むことはたぶんない。通勤に不便だから。姉夫婦も家を買ったから、もし両親が死んだら、その家はきっと空き家になる。
無事に売れればいいけど、売れなかったら相続税と固定資産税がかかるだけの"負債"になる。
それどころか、家って誰も住んでいないと傷むから、メンテナンスをしなきゃいけない。
でも住まない家のためにお金を出したくない。家はどんどん老朽化する。ボロボロになって近所から苦情が出る。
誰も住まないんならいっそ取り壊して更地にしちゃえばいいじゃんって思うけど、解体費用もばかにならない。
おまけに、「住宅用地の課税標準の特例」ってのがあって住宅は更地にくらべて固定資産税が1/6で済むらしい。つまり、空き家を取り壊して更地にしたら固定資産税が6倍になるってこと。
こうして、どんどん空き家が増えていく……って構図らしい。

日本中で家が余ってる。田舎も都心も。
でもその一方で、家を欲している人はいて、新築住宅やマンションはどんどん建設されているし、あいかわらず家は何千万円もする。
片方では余っているのに、もう片方では足りない足りないと言っている。

なんでこんなことになってるんだ?



 建設業はとにかく人が足りない


こないだ建築の仕事をやっている友人と飲んだら、とにかく忙しいとこぼしていた。
「28連勤だったから、明日は1ヵ月ぶりの休みだ」と。
そいつの会社がブラックなだけかと思ったら、この本を読むと、どうも建設業全体が人手不足らしい。
家が余っているのに、なぜ建築で人手不足なんだ?


『空き家問題』によると、建設業に従事している人の数は、1995年から2010年にかけて、わずか15年で3分の2に減ってしまったんだとか。

 減少を主導したのは、平成13年(2001年)から18年(2006年)まで政権の座にあった小泉純一郎内閣における徹底した公共事業の削減と言われています。平成7年から13年にかけては公共事業関係費の予算は毎年度9兆円を超える水準でしたが、平成18年度には7.2兆円、その後の民主党政権時代の平成23年度には5兆円にまで大幅に削減されています。

公共事業が激減し、さらにはリーマンショックの追い打ちもあり、建設会社がどんどんつぶれた。職を失った人は他の仕事につき(自殺した人も多かっただろうね)、新たな社員を採用する余裕もない。
その結果、建設業従事者は3分の2に減ってしまった。

ところがその数年後。
東日本大震災が起こり、復興工事の仕事が大量に発生した。さらに東京オリンピックの開催も決まり、スタジアムや関連施設の建設で人手が必要になった。
だが、辞めてしまった人はかんたんには戻ってこない。今から採用しようにも、建築技術は一朝一夕には身につかないから、熟練の技術が必要になる仕事には就けない。
仕事はあるのにそれをできる人がいない。
建設業の人件費は高騰し、資材も高騰。工事車両も減っているわ、長距離トラックの運転手も不足しているわで、今、家やビルの建設費はめちゃくちゃ上がっているそうです。

建設費が上がっても高い値段で売れるならいいけど、平均所得は上がっていないから多くの人には手が出ない。
というわけで建設会社も新たな土地は積極的に買おうとしない。高い建設費で建てても売れないからね。
土地が売れないから空き家も売れない。
で、空き家が増えていく。と、こういう図式らしい。



 空き家問題は日本の問題そのものだ


あまりにややこしいから、ぼくなりにまとめてみたよ。

空き家増加の要因

こうやって見たらわかるけど、「空き家の増加」という現象の背景には、少子高齢化が進んでることとか、若年層の低所得化とか、ライフスタイルの変化とか、必要かどうかもわからない東京オリンピックをやることになっちゃったこととか、いろんな「後回しにしてきたツケ」があるわけなんだよね。
「いずれ何とかなるだろ」が「空き家の増加」という形で一気に噴出したわけで、しかも悪化することはあっても快方に向かう兆しはまったく見えないというのが現状。東京五輪が終われば人材不足や資材の高騰は多少収まるだろうけど、それはそれで不況を招きそうだし。

「どっかで誰かの家が空き家になってる」だけの問題じゃないんだね。



 どうやって解決したらいいんだろう



もう空き家問題は、過疎化の進む田舎だけの問題じゃない。
東京ですら例外じゃない。

 今後首都圏や東京で起こるのが、「高速高齢化現象」です。第1章で触れたように、現在東京で人口の中核を占めている段階の世代を中心とした高齢者が、一気に後期高齢者の仲間入りを果たしていきます。そして彼らが自分の家を空き家にした上で、病院のベッドを独占し、介護施設は入所を待つ老人たちで溢れかえることになります。 今ですら高齢者施設はまったく足りず、たとえば東京の世田谷区では待機高齢者の数は2200人、施設の供給が需要に追い付かない状況にあります。この状態でさらに大量の高齢者が供給されることが確定しているのが、東京という都市なのです。
(中略)
 東京に老人が溢れる。病気などしたら、満足な医療も受けられない。介護施設は満員。行き場のないお年寄りがうろうろと徘徊する東京。あまり良いシナリオをこの街で描くことができません。こんな東京でまだマンションが売れてオフィスはどんどん供給され、ここに大量の人たちが働き、住まう。どうも、こういう映像がぼやけてしまいます。

空き家問題を解消するための対策として、著者は「コンパクトな都市づくり」を挙げている。
市街地の拡大を抑え、道路やインフラなどの整備費用を抑える試みだ。
富山市や青森市で実践されているらしいが、今のところ成功を収めているとは言いがたい状況らしい。
とはいえ。
これから先、ほとんどの地域で人口はどんどん減る。おまけに高齢化が進む。
車移動に頼った生活は必ず限界が来る。

コンパクトな都市を作るのが正解かどうかはわからないが、少なくとも今までの都市を持続させようとしたら近いうちに必ず破綻する。
しかし20年後に生きている都市をつくろうと思ったら、ほとんど一から都市設計をやりなおさなくてはいけないし、そのせいで損をする人はいっぱいいるだろう。
ものすごく利害対立が発生するから、まちがいなく難航する。
かつて経験したことのないほどの人口減少社会になるのだから、過去の成功事例はまったくあてにならない。


都市の設計方法についていろんな意見はあるべきだと思うけど、「20年後に生きているかどうかわからない」人の言うことは聞いてはいけないと思う。
「自分が死ぬまで保てばいいや」の積み重ねが今の状況を招いたのだから。



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2017年3月22日水曜日

WEBマーケターが考える、効率よく「印象操作」する方法

デモ行進をしたり街中で政治的なビラを撒いたりしている人を見ると、投石器で近代兵器と戦っているのを見ているような気になる。

もっと効率よくやろうよ。
時代はとっくに変わってるのに、なんで100年前と同じ戦い方してるんだよ。
TwitterとFacebookだけがWEB媒体だと思ってるの?


報道機関が信じられないならロボットを使おう


オウンドメディア作って寄稿を呼びかけたら、有名無名問わず記事を書いてくれる人いっぱいいるでしょ?
その活動してる人の中にはプログラマもサーバーエンジニアもデザイナーも制作ディレクターもいっぱいいるんじゃないの?
1日デモをしてもらう代わりに本職の技術を活かしてもらったら、ちゃんとしたものできますよ。
ちゃんとしたメディア作って、いい記事がいっぱいあれば人は来るよ。

「政府の圧力が~」「マスコミが報道しない~」なんて言ってる場合じゃない。
仮に日本政府の圧力があったとしても、Googleはアルゴリズムを変えたりしない。
Googleのロボットが権力者の意向を"忖度"すると思いますか?


金を稼げばもっと人は来る


人が集まれば、Adsenseでも貼って収益上げればいいじゃない。
その収益で検索広告とDSPを回せば、もっともっと人が来るよ。
YouTube広告流して、若い人にも知ってもらえばいい。

オウンドメディアの記事は政治的なことである必要はない。
むしろ、関係のないコンテンツも多いほうがいい。
おもしろいコンテンツがあればテーマは何でもいいし、有名人が書くならただの日記でも人は呼べる。
「あの政策に反対だけど、難しいことは書けないから……」と思ってる人だって、自分の得意分野の話なら書けるでしょ。釣りの話でもアニメの話でも業界のウラ話でも半生記でも、なんでもいい。とにかくコンテンツを増やすことが大事。
ページビュー数を稼ぐ記事を書いた人には報酬を渡したらいい。そしたらもっと書いてくれるでしょ。


専門知識を活かして印象操作しよう


ちょうど国会で「印象操作」という言葉が話題になってたけど、どんどん印象操作すればいいじゃない。
首相がやたらと「それは野党の印象操作だ!」を口にするのは、印象操作が何より自分の立場を脅かすことを知っているからだよ。

アラブの春だって英国のEU離脱だってトランプ旋風だって、印象操作の結果ですよ。
世の中を変えられるかどうかは、どれだけ印象操作できるかで決まるんだよ。

せっかくたくさんの人が集まっていろんな知識や技術があるのに、なんで足並みそろえてデモ行進してるの?
なんでそれぞれの得意分野を活かそうとしないの?

デモとビラでどれだけ印象操作できるの? 敵を増やしてるだけじゃないの?




【後日記事】


WEBマーケターが考える、効率よく「印象操作」する方法


やっぱりデモより広告のほうが効率いい


2017年3月20日月曜日

ぼくらがコーヒーを飲む理由


仕事中にコーヒーをよく飲む。

どれぐらい飲んでるんだろうと思って数えてみたら1日に6杯飲んでいた。
明らかに飲みすぎだ。

よほど眠たいのだろうと思われるかもしれないが、そんなことはない。
毎日7時間半くらいは眠っている。土日はお昼寝もする。
決して睡眠不足ではない。

よほどコーヒー通なのだろうと思われるかもしれないが、そんなこともない。
香りの違いなんてぜんぜんわかんない。
というかミルクをじゃばじゃばと入れるのでコーヒーの香りなんて雲散霧消している。
あんな苦いものをそのまま飲む人の気が知れない。
ぼくはミルクと砂糖を大量に入れるのでコーヒー通とはほど遠い。

じゃあなぜそんなにコーヒーを飲むのか。
それは「堂々と甘いものとミルクを口にできるから」ということに尽きる。


ぼくは甘いものとミルクが好きだ。
でも甘いものとミルクが好きなおじさんに対する世間の目は、キャラメルフラペチーノのように冷たい(しかしキャラメルフラペチーノほど甘くない)。
会社のデスクでミルフィーユ食べながらハチミツ入りミルクを飲んでいると、「きもーい」という目を向けられる(仕事中にお菓子食べているからかもしれない)。
でもコーヒーを飲むおじさんはなんとも思われない。
いや、じっさいはおじさんが何を食べようが誰も気にしていない。しかし自意識過剰なおじさんは不安なのだ。

ごくふつうの飲み物を飲む、ごくふつうのおじさんでありたい。
和を以て貴しと為す日本人でありたいとおじさんは思っている。
だからぼくはコーヒーを飲む。
堂々と甘いものとミルクを口にするために。



でもほんとは。

ほんとは、のむヨーグルトを飲みたい。
カルピスを飲みたい。
ヤクルトでもマミーでもいい。なんならミルキーをお湯で溶いたやつでもいい。
甘さとミルクの味の両方を楽しめる乳飲料が飲みたい。

スタバでもドトールでもUCCでもいいから、
「パッケージはブラックコーヒーとまったく変わらないけどミルクと砂糖たっぷりでコーヒー成分ゼロ」の【無珈カフェラテ】を発売してくれることを切望している。

感動をありがとう

街中で募金を集めている女の人が、
「善意の寄付をお願いします」
と声をはりあげていた。

あれっ。

いつから善意は他人にたかるものになったのだろう。
たかられて施すのは善意なんだろうか。
善意を人質にとって募金を集めるのはもう脅迫なんじゃないだろうか。

ただ単に「寄付をお願いします」でいいじゃないか。
その寄付が善意によるものなのか、使命感なのか見栄なのか税金負担軽減なのか宗教の教義なのかは寄付をする側の内なる問題なんだから。



同じような気持ち悪さを感じる言葉が「感動を与える」だ。

オリンピックの選手が
「日本中に感動を与えたいですね(キリッ)」
なんてことを恥ずかしげもなく語る。
映像がスタジオに戻ると、アナウンサーが負けじと
「日本中に感動を届けてくれることを期待しています!」
と紋切り型の文句をならべる。

感動を押しつけたい人がいて、感動をめぐんでもらいたい感動乞食がいるから、需給のバランスはとれている。好きにすればいい。

だが迷惑なことに、やつらはすぐに「日本中」を巻き込もうとする。
ぼくは夕方のスーパーで半額になってるおかずみたいなできあいの感動なんて欲しくないんだから、勝手に「日本中」でやらないでほしい。せめて「都内」でやってほしい(ぼくは都民じゃないから関係ない)。


感動は与えてもらわなくたって、人は何にだって感動できる。

前のロンドンオリンピックでぼくがいちばん感動したのは、
柔道の試合でアフリカの国の代表選手が時間稼ぎのためにわざと柔道着の帯をゆるく結んでは帯がほどけたといって何度もタイムをとり、審判に注意されてもくりかえしくりかえし帯をゆるめつづけたがために、とうとう怒った審判から反則負けを宣告されたという試合に対してだった。
「帯をちゃんと締めなかったために反則負けなんて超ダサい! 感動した!」


かの柔道選手は、アジアの片隅のひとりの男性に「感動を与えたい!」と思って帯をゆるめつづけたわけではない。
にもかかわらず、ぼくは涙が出るほど感動した(じっさい笑いすぎてちょっと涙が出た)。



感動なんてその程度のものだ。

今朝ぼくが電車に乗っているときに隣の女の人の胸元がちらりと見えたことで心がうち震えるほど感動して明日への活力がみなぎってきたわけだけど、彼女はぼくに対して「感動を届けたい」と思ったわけでも「元気をあげたい」と思ったわけでもない。たぶん。
ぼくが勝手に感動した、ただそれだけのことだ。

だからぼくはその女の人に向かって「感動をありがとう」とは言わなかったのだ。あえて。


2017年3月17日金曜日

【自民党の話】 ばらばらな組織になってほしい

政治の話します。


最近の自民党を見ていると、脆弱な組織になったなあと感じる。
ずいぶん平板な組織だと。
トップが右と言ったらみんなが一斉に右を向くような。それって政権与党としてもろすぎるんじゃないのと心配になる。

かつての自由民主党はそうじゃなかった。
党内にいくつも派閥があって、常に何人かは虎視眈々とトップの座を狙っていた(ように思う)。
55年体制が40年近くも続いたのは、党内に有力者を幾人も抱えていて、それぞれがバランスをとっていたからだとぼくは見る。

それが、民主党から政権を奪い返して以降(つまり第2次安倍政権になって)、党内の団結力が高まったように思う。安倍晋三首相の力なのか菅義偉官房長官の尽力によるものなのか知らないけど。

「党内の団結力が高まったのならいいことじゃないか」という向きもあると思う。
たしかにメリットも大きい。
決定はスピーディーだし、党内の調整に余計な労力を使う必要はないし。
会社でもそうだ。
トップのワンマンで動く組織は決定が速い。ビジネスにおいてスピードは大事だから、スピード感のある組織はどんどん業績が伸びる。

でも成長の速い組織は、つぶれるのもあっという間だ。
ワンマン社長のやり方が時代に合わなくなると誰も止められない。そして、状況が悪くなったときにおこなわれる決断は、たいていの場合、悪手である。ひとたび悪い方向に転ぶと、止める力がないから坂を転げるように悪化していく。
業績は悪化し、社内の風通しは悪くなり、有能な人は辞め、労働環境は悪くなり、ますます業績は悪くなる。



ローマ帝国が400年近くも続いたのは、権力がほどよく分散していたからだという話がある。
しょっちゅう暗殺が起こり、政権交代が起こっていた。
物事には必ず善悪の両面があり、暗殺にもそれはいえる。圧倒的に悪いことだけど、いいこともないわけじゃない。
皇帝が暗殺されることが頻発すると「あまり無茶をすると殺される」というブレーキになる。

船頭多くして船山に登るという言葉もあるとおり、頭でっかちな組織は良くない。
けれど、船頭は1人しかいないとしても「いざとなったら船頭の代わりが務まるヤツ」や「船頭に進言できるヤツ」や「船頭のやり方に不満を抱えているヤツ」もある程度いたほうが、組織としては強固になる。
こういう組織は船頭が進路を誤ったときに早めに修正ができるから、「自浄作用がある」とも言える。

かつての自由民主党は、「一枚岩じゃない」のが強みだった。
「政権にしがみつきたい」という点以外は政策もバラバラで、なんでおまえら同じパーティー組んでるんだと言いたくなる状態だったが、今にして思うとそれこそが多様な意見を吸い上げることにつながり、長期政権を支えていたのだろう。

一枚岩ではなく、小岩の集まりが強固な石垣になるように。

強固な石垣



ほんの10年ほど前まで、「日本の首相は毎年変わる」と言われていた。
2006年から2011年の6年間に首相を務めたのは7人いた。
1991年~1996年の6年間でも総理大臣は6人いた。
「毎年変わる」は大げさでもなんでもなかった。

トップが頻繁に変わっても、市民の生活は特に変わらなかった。これはすごいことだ。
「どうせ誰がやっても同じでしょ」と思えるのは、強固なシステムが備わっているからだ。
これぞ近代国家と胸を張っていい。

『HUNTER×HUNTER』という漫画に幻影旅団という窃盗集団が出てくる。
「クモ(幻影旅団の愛称)は頭が死んでも手足が生き延びればいい」というセリフが出てくる(実際のクモは頭をとられたら死ぬけど)。
ぼくはあの言葉が好きで、組織というものはある程度の大きさになったらそうあるべきだと思う。
「おれがいないと仕事にならないから」と風邪をおして仕事に出てくる課長は、課を組織する資格がない。
自分が突然死しても、少し混乱しただけで他のメンバーは業務を続けられる。こういう組織を作ることが、リーダーの使命だ。

2000年に小渕恵三首相が脳梗塞で緊急入院したとき、発症からわずか3日後には後任の森内閣が誕生している。ごたごたはあったが、まあそれなりに落ち着いて大きな混乱も生じなかったのは、万が一に備えて森喜朗氏が後釜を狙っていたからではないだろうか。
トップが倒れても、たったの3日で建てなおす。なんとしなやかで強い組織だろう。



ぼくは今の内閣が好きじゃないけど、だからといって民進党や他の野党が政権を握ったほうがいいとは思わない。
共産党にはがんばってほしいけど、政権はとってほしくない(だってあそこは自民党以上に一枚岩だから)。

だから自民党に期待している。
以前のような、自浄作用のある組織に戻ってくれることを。

党内の意見がばらばらで、党内の権力闘争に明け暮れていて、決定の遅い組織に戻ってくれることを切に願う。

ぼくとしては、与党はそんなわけのわからん政党であるほうがずっと信用できる。


やさしさが服を着て歩いている教頭

「鷹揚に構えている校長と、権力の座を狙って立ち回る小ずるい教頭」
という学園モノで定番の図式があるけど、あれにまったく共感できない。

なぜなら、ぼくが通っていた中学校の教頭がとんでもない人格者だったから。
いや、人格者というより"お人好し"といったほうがいいかもしれない。
足立教頭という50歳くらいの丸顔のおじさん。
彼はやさしさが服を着て歩いているような人だった。



やさしいことは、ときに罪になる。

授業中、足立教頭がAくんを指名して質問をする。Aくんは答えられない。
しかし足立教頭はあきらめない。ヒントを与えてヒントを与えて、なんとかAくんに答えさせようとする。ふつうの先生なら、ある程度の時間がたったらあきらめて答えを自分で言ったり、次の人を指名したりする。しかし足立教頭はAくんが答えるまで待つ。

当然ながら、授業は遅れた。


授業中に寝ている生徒がいると、足立教頭はにこにこしながら「〇〇くんは野球部やから朝練で疲れてんのかなあ」と言っていた。
そのやさしさに努力で応える気概のある中学生なんてほとんどいない。
足立教頭の授業では、起きている生徒のほうが少なかった。
委員長や風紀委員のような優等生ですら、彼の授業では寝ていた(授業がつまらなかったこともある)。


ぼくもまた、足立教頭をなめきっていた。
「この人なら、何をやっても怒られない」と思っていた。

だが、そんなぼくが冷や水をぶっかけられる事件が起こった。

その日、ぼくらは校長室の掃除当番だった。
校長は不在。
誰もいない校長室に、男子中学生。
遊ばないわけがない。
中に入るやいなや、「第1回全国中学校ふとももしばき選手権大会」が始まった。
ぼくらがキャッキャ言いながら遊んでいると、足立教頭が校長室に入ってきた。
ぼくは思った「あ、やべえ」。でも同時に「足立教頭でよかった」とも思った。

ふつうの教師なら怒鳴りつけるところだろう。
だが足立教頭は言った。
「おいおい、掃除しようぜ!」
そして。
ぼくにほうきを手渡し、自分は雑巾を手に取ると、しゃがんで床の雑巾がけを始めた。

「中学生に掃き掃除をさせ、自分が拭き掃除をする」
こんな教師がどれだけいるだろう。
生徒の足下ではいつくばって雑巾がけをできる教頭が何人いるだろう。

この人は何をやっているんだ。ぼくはこわくなった。
生意気な中学生だったぼくでも、さすがに教頭が雑巾がけをしている横で悠然としているわけにはいかない。
「いやいや教頭先生、ぼくが雑巾かけますよ」
と、雑巾をとりあげてまじめに掃除をはじめた。



ぼくは足立教頭から「人を動かす方法」を教わった。
それは恫喝や報酬ではない。恐怖だ。



2017年3月16日木曜日

【読書感想文】 伊坂 幸太郎 『ジャイロスコープ』


伊坂 幸太郎 『ジャイロスコープ』

内容(「BOOK」データベースより)
助言あります。スーパーの駐車場にて“相談屋”を営む稲垣さんの下で働くことになった浜田青年。人々のささいな相談事が、驚愕の結末に繋がる「浜田青年ホントスカ」。バスジャック事件の“もし、あの時…”を描く「if」。謎の生物が暴れる野心作「ギア」。洒脱な会話、軽快な文体、そして独特のユーモアが詰まった七つの伊坂ワールド。書下ろし短編「後ろの声がうるさい」収録。

発表した時期も、発表された媒体もばらばらの短篇を集めた寄せ集め作品集。

久しぶりに手に取った伊坂幸太郎作品だったけど、まあ寄せ集めだけあって、正直、そんなにおもしろくなかったね。

初期の『陽気なギャングが地球を回す』『ラッシュライフ』『アヒルと鴨のコインロッカー』『重力ピエロ』あたりの作品は、現実感はない話なのにやたらと構成は緻密、っていうギャップがおもしろくてすごく好きだった。
でも『死神の精度』『ゴールデンスランバー』ぐらいから、思い切った仕掛けがなくなり、読まなくなってしまった。浮世離れした設定そのものはそんなに好きじゃないんだよなあ。
『ゴールデンスランバー』なんか、ストーリーの"緊迫感"と、文章の浮遊感とがまったくのミスマッチで、「大どんでん返しがあると思って我慢して読んでたら何もないってそれがいちばんのどんでん返しだわ!」と本を路上に投げ捨てたのを覚えています(本はリサイクルへ)。


で、それから10年。
当時は、ふだん本なんか読まないやつが面接で「どんな本を読みますか?」と訊かれたときに名前を挙げる筆頭だった伊坂幸太郎。
彼は今はどんな本を書いてるんだろう。

で、『ジャイロスコープ』なんだけど、最初の短篇である『浜田青年ホントスカ』を読んで、「おおっ、伊坂幸太郎っぽい!」。
ユーモアあり、非日常感あり、どんでん返しありで、(かつての)伊坂幸太郎らしさが存分に出ている。
ちょっと後味は悪いけど、でもこれはこれで嫌いじゃないよ。
いいねいいね。
すごくおもしろいわけじゃないけど短編集の一作目としては十分に及第点。この後が楽しみ。

と期待しながら次の『ギア』を読んだんだけど、あれおもしろくねえな……。
出会い系のスパムメールをそのまま掲載しているところはおもしろかったけど、あとはあんまり。
というかこの手のSFブラック・コメディって、筒井康隆が何十年も前に書いていたもので、しかも筒井康隆のほうが疾走感もイカれ具合もずっとまさってる。


他の作品もそんな感じで、どこかで読んだことのあるような設定が多いし、読者をだましてくれるトリックもないし、テクニックで魅せてくれるかというとそんなこともなくて「これだったら別の作家が書いたほうがおもしろくなっただろうな」って短篇が多い。

特に書き下ろしの『後ろの声がうるさい』は、むりやり他の短篇の登場人物を出したりして、小手先で書かれたように思える。
一言でいうと「昔の作品に比べて丁寧さがなくなっちゃった」って印象。
書き下ろしや連載じゃないから、手を抜いてるのかなあ。だったら本にしないほうがよかったのでは。


伊坂幸太郎作品は全部読んどきたい! っていうファン以外にはあんまりおすすめできない作品集かな。



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2017年3月15日水曜日

シャキーン!

『シャキーン!』を知っているでしょうか。
Eテレで朝の7:00からやっている子ども向け番組です。

この番組、ほんとイカれてる。
子ども向け番組だということを隠れみのにして、やりたい放題やっている。


こないだは、3人の西洋人に中世の貴族みたいな格好をさせて、

「さあ、どの貴族が一番早く段ボールの箱を組み立てられるでしょうか?」

というクイズをやっていた。
内容を聞いても意味わかんないでしょ?

実際に観ていたぼくでも、意味わかりませんでした。



また別の日は、

「空から、ナスとミイラが降ってくる映像が流れます。右手でナス、左手でミイラを数えよう!」

というゲームコーナーをやっていた。


完全にイカれてる。


朝の7時といえば、まっとうな大人はニュースを観ている時間。
ひまつぶしにテレビをつけるような時間帯でもない。
Eテレだから、視聴率もスポンサーも気にしなくていい。

と、「好き勝手やってもいい」条件がそろったスポット。
それが朝7時のEテレ。

きっと、『シャキーン!』を作っている人たちは、再生回数を気にしなくちゃいけないユーチューバーよりも自由に企画を出しているんだと思う。
だって「みなさまから徴収した受信料を使ってミイラとナスの数を同時に数えるゲームをやろう!」なんて、ふつうの人には思いつかないでしょう。マリファナでもやらないかぎりは。


満月や新月の晩は凶悪犯罪が増えるように、朝7時のEテレではクレイジーな企画が増えるので、要注目です。


【読書感想エッセイ】 山際 鈴子『かぎりなく子どもの心に近づきたくて』

山際 鈴子『かぎりなく子どもの心に近づきたくて』

内容(「BOOK」データベースより)
子どもが本来持っている感性をたよりに、書きたい「もの」をみつけて書き始める。書くためには、書きたい「もの」を見つめ続けなければならない。詩を書くことによって、ものの見方が変わり子ども自身まで変わっていく。作品とともに子どもが変わり、子どもとともに作品が変わっていく。この本はそんな願いをこめて展開した授業の記録である。開かれた子どもの心に出会い、近づきたいと思いながら、詩の指導方法をどのようにみつけ出していったか、その様子を書いたものである。

著者は大阪の小学校教諭で、長年児童詩の教育に携わってきた人。

みんな知っていると思うけど、子どもの詩はおもしろい。


 ぼくは ようちゅうを なめました。

 あんまり かわいいから なめました。

 えびの てんぷらの あじが しました。

 ようちゅうは にこにこ わらいました。

 そして、

 こしょばい こしょばいと いいました。


たとえば上の詩は、小学1年生の詩。
これを書いた子は虫が大好きで、本当になめてみたらしい。
みずみずしい体験と豊かな感性に基づいて、感じたことをそのまま言葉にした子どもらしい素直な詩だ……ってそんなわけあるかい!

すごくうまいよね。
おもいきった導入、視点の切り替わり、そして作者と幼虫の両方の感情がつたわってくるような大胆な比喩表現。
テクニカル!

数々の指導と手直しがないと、たぶんこの作品は完成しなかったんじゃないかなあ。
「指導って大事!」って思うね。子どもに感じたことをそのまま書かせても詩にならない。


この本では、子どもの書いた詩を載せ、その詩を書かせるためにはどんな指導をしたのか、どこに注目して書かせたのか、どうやって発想を得させたのかが書いてある。

 「ある動作の途中で動きを止めて、その状態を書いてみよう」

 「『まだ』と『もう』の対比を使って書いてみよう」

 「自分をPRする詩を書いてみよう」

 「『もしも……だったら』というテーマで考えたことを書こう」

といった調子。
指導する学年にあわせて、興味のあるテーマを与えてやり、出てきた発想の中から独自性のあるものをすくいとり、技法を教えてやりながら一篇の詩になるように導いてやる。

大人が目にするのは詩の完成品だけだけど、そこにいたるまでに試行錯誤があったんだろうねえ。



ぼくは、「子どもの豊かな感性を素直に表現した作品」といった言葉には賛同できない。

たしかにそういうものはある。
うちの3歳の娘も、ときどき大人がはっとするようなことを言う。
でもそんなのって1万回しゃべったうちの数回あるぐらい。
1キロの鉄の中に1グラムの金が埋まっていても全体としてみればただの鉄塊なのと同じで、表現も精錬してやらねば作品にはなりえない。

技巧をこらしすぎてもおもしろくないが、かといって書いたものをそのまま見せても作品として読めたものじゃない。
そのちょうどいいところに持っていくのは、教師の仕事。
適度に味付けをさせて、でも決して自分では手を出さず、「うますぎずへたすぎず」の詩を作りあげる。

だから「子どもの詩」って書いてあるけど、もうほとんど「教師の詩」といってもいい。題材を提供したのは子どもだけど、詩にしたのは教師の力だと思う。



でも。

この本を読んでたら、ちょっと気持ち悪さも感じるんだよなあ。
「子どもたちがこんなにすごい詩を書いたんですよ」って言いながら、でもじつは「これを書かせたわたしすごいでしょ」って言ってるように思える。
こういう詩を書かせることって教師の自己満足なんじゃないのかなとも思う。


小学生の詩として発表されるものって、しょせんは「子どもの詩」なんだよねえ。
1年生ぐらいならそれでもいいけど、6年生になったら大人っぽい詩も書けると思うのに、「子どもらしさ」ばかりが評価される。
いつまでも「子どもらしい詩」を書かせていたら、その先がなくなると思うんだよねえ。じっさい、ほとんどの人は中学生以降で発表するための詩を書くことってないし(人に見られたら恥ずかしいポエムは書くけど)。

いつまでも「子どもらしいみずみずしい感性」なんて褒めたたえてたら詩の文化を殺すことになるんじゃないかな。
絵の世界だったら、「子どもらしいのびのびした感性」が評価されるのってせいぜい幼稚園くらいまでで、そこから後は技法を凝らしたうまさが求められるようになる。
絵の好きな子どもは、絵のうまい大人にあこがれて一生懸命絵を練習する。
かけっこだって歌だって「子どもらしさ」は早急に捨てたほうがいい。
詩だってやっぱり「大人の上手な詩」を書かせるように導いてやるべきなのでは?

この本のタイトルは『かぎりなく子どもの心に近づきたくて』だけど、そうじゃなくて、子どもを大人の世界に近づけることが教育なんじゃねえのかって思うよ。



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2017年3月14日火曜日

【読書感想エッセイ】 ユウキロック 『芸人迷子』

ユウキロック 『芸人迷子』

内容(「BOOK」データベースより)
島田紳助、松本人志、千原ジュニア、中川家、ケンドーコバヤシ、ブラックマヨネーズ…笑いの傑物たちとの邂逅、そして、己の漫才を追求し続けたゆえの煩悶の日々。「ハリガネロック」解散までを赤裸々に綴った迷走録。
第1回M-1グランプリで2位、ABCお笑い新人グランプリ最優秀新人賞、上方漫才大賞新人賞など華々しい道を歩みながら、2014年に解散した漫才コンビ「ハリガネロック」のユウキロックさんによる回想録。

決してうまい文章ではない。でも、だからこそものすごい熱が伝わってくる。

もがき苦しみ、周囲をまきこみながらのたうちまわり、そして今でも答えは出ていない苦悩がびんびんと伝わって。



ぼくは中学生のとき、『すんげー!Best10』という深夜番組が大好きで、毎週欠かさず観ていた。
今はなくなった大阪の2丁目劇場に所属していた芸人たちが出てきて、漫才やコントを披露し、お客さんの投票でランキングするという番組。コンビの垣根を越えたユニットでのネタも披露されるのが特徴だった。
『オンエアバトル』の放送がまだ始まっていない時代の、ほとんど唯一といっていいネタ番組だった(関西ローカルだったけど)。


そこに、あるときから急に出てきたのがハリガネロックというコンビ。
ハリガネロックの印象は鮮烈だった。
急に出てきたと思ったら、並みいる人気芸人をおさえて1位を連発。
鋭い舌鋒とテンポのよいネタ運びであっというまに客をつかみ、しばらくは「ハリガネロックが出たら1位」という状態が続いていた。
その番組だけでなく、関西の有名な漫才の大会でも次々に優勝。賞レースでハリガネロックが負けるのを見たことがなかった。
2001年にはじまったMー1グランプリでも当然のように決勝進出して、同期の中川家に敗れて2位。
敗れはしたものの十分なインパクトを残し、当然ながら「来年こそはハリガネロックが……」と期待されていた。


ところがそのあたりから風向きが変わる。
M-1グランプリがそれまでの漫才の大会と一線を引いていたのは「積極的に新しいものを評価しにいった」ことだった。

それまでの大会や番組は「いちばんウケているものがいちばん」だった。審査員は、一線を退いた大御所漫才師だったり、新聞社やテレビ局のおじいちゃんだったり(今も変わってないけど)。審査員も結局、客席の女子高生やおばちゃんがいちばん笑ったコンビに投票する、という感じだった。

ところがM-1グランプリは、現役最前線で活躍中の芸人や、一時代を築いた漫才師が審査員。第1回にはあった客席審査員制度が第2回からなくなったことからもわかるように、「客のウケ」よりも「プロから観ておもしろいか」に審査の重きが置かれていた。
初期の大会は、当時まだ無名だった麒麟、笑い飯、千鳥、POISON GIRL BAND、南海キャンディーズを決勝に上げるなど、「ベタな笑いをテクニックで見せる」漫才よりも「技術はつたなくても未知の発想をとりいれた」漫才が高く評価されていた。

そして、そのあおりをもろに喰らったのがハリガネロックだったように思う(あとルート33も)。


ハリガネロックは、笑いはとれるけれどこれといって新しいものは持っていなかった。
テンポのよいしゃべりも、周囲に毒づいてゆくスタイルも、一見アウトローなビジュアルも、コンビで息を合わせたツッコミも、とっくに確立されていた手法だった。
今にして思えば「新しいものがなくても笑いがとれる」というのはすごいことなんだけど、当時はそれが認められる風潮じゃなかった。
(その流れを引き戻したのが、新しい武器を持たずにM-1グランプリを制したブラックマヨネーズだった。それ以降は「ウケの量」=「点数」の傾向が強くなる。ブラックマヨネーズの漫才を見てからハリガネロックが迷走した、というのは皮肉な話だ)


未知の発想が評価される時代においてハリガネロックの漫才は認められず(といってもM-1グランプリ以外では認められていたんだけど)、彼らは迷走してゆく。
 何かを変えなければならない。いや、そんな生易しいことではない。すべてを捨てて、また新たに作り上げる。そこまでやらなければならないと思ったが、俺には簡単にできることではなかった。新しい漫才のスタイルを作るためには、必ず客前で試さなければならない。スベれない。スベることはすべてを失うこと。どんな人気者がいようと舞台では一番ウケる。これこそ「ハリガネロック」唯一の存在価値だと信じて生きてきた。これまでの10年間で培ってきたこと。あの「狂気の10年」で刷り込まれたことだった。

「誰よりも客にウケること」を誇りにして走ってきたコンビにとって、「ぜったいにウケる」という看板をはずすことは許されなかった。

べつに看板をはずす必要はなかったのに、と部外者としては思う。
漫才師が「プロの審査員に評価されること」よりも「客を笑わせること」に重きをおくことは、むしろマトモなことなんだから。
でも当時はそのマトモなことが許されない雰囲気があったんだよねえ。


ハリガネロックは、M-1グランプリで評価されるスタイルを求めて迷走する。
以前、なにかの記事で「ハリガネロックがボケとツッコミの役割を入れ替えた」と読んで驚いた。芸歴10年を超えるようなコンビが、それも今までのスタイルで数多くの実績を残してきたコンビが役割を変えるなんてことは他に聞いたことがない(コントではめずらしくないんだけど、本来のキャラと地続きでやる必要のある漫才ではまずありえない)。
びっくりしたのと同時に「絵にかいたような迷走をしてるな」と思ったこともおぼえている。

結局その試みはうまくいかずにまたボケとツッコミを元に戻し、数年後、ハリガネロックは解散した。



それにしても、相方だった大上さんはかわいそうだ。
ユウキロックさんはずっと「相方はぜんぜん自分から動こうとしなかった」と愚痴っぽく書いている。それが事実だったとして、自分から動かない人が相手だったからこそハリガネロックは20年やってこれたんだと思うよ。
「おれはこれがおもしろいと思う! おまえの考え方には納得できない!」って人だったら、ずっと早くに解散してたよ。

よく社員に「経営者意識を持て!」と怒っている社長がいるけど(ぼくの前職の社長もそうだった)、そういう社長は部下から「それは経営的にまちがってますよ」と言われたら、ぜったいに怒る人だ。
ユウキロックさんの「自分から方向性を示せよ!」って怒りには、それと同じものを感じる。



なんかね、相方に対する思いもそうだし、読んでいて「なんて不器用な人なんだ!」ともどかしく感じたね。

「万人受け」と「通好み」が両立しないことは誰だって知っている。
だからみんなその間のどこかに着地点を見いだすのに、ユウキロックさんはその両方を手に入れようとした。
そしてとうとう「通好み」を手に入れることはできず、もともと持っていた「万人受け」を自ら捨て去って、舞台を降りてしまった。

「目の前のお客さんを笑わせられる」というすごい武器を持っていたのに。

たぶん、現状維持を目標にすれば、ベテラン漫才師としてずっと食っていくことができたはず。
しかし、過去の成功体験にとらわれずにチャレンジしつづけてきたからこそ結果を出してきた人が、「貪欲に攻める姿勢を捨てて今のポジションをキープできるようにしよう」なんて考え方をできるようにはならないんだろうね。


客観的に見ていると「もっとうまくやる方法がいろいろあっただろうに……」と思うんだけど、でも人の関係が壊れるときってだいたいこんなもんだよなあ。

暑苦しくて切なくてもどかしくて、もう40歳すぎたおっさんがこんなに青春してるってすごいなあって感じる本でした。



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2017年3月8日水曜日

手段のためなら目的を選ばない


「手段のためなら目的を選ばない」人って多いよね。

「目的のためなら手段は選ばない」じゃなくて、「手段のためなら目的を選ばない」人。



 手段はひとつじゃない



たとえば電話をかけて営業をするとする。
週に100件電話をかけて、1件成約につながる。
上司が言う。「成約数を倍にしろ! 200件電話をかけるのがノルマだ!」

それはそれでひとつのやりかただと思う。
数をこなすことでしか得られないものも、たしかにある。けれど失うものも多い。たとえば時間とか。精神の安寧とか。

目的は契約をとることであって、電話をかけることじゃない。
1件あたりの電話時間の半分を事前準備に費やすことで1%の成約率を2%に上げることができたなら、そっちのほうがはるかに早い(おまけに電話代もかからない)。


「電話をかける数を倍にしろ!」という発想しか出ない上司は、まさに「手段のためなら目的を選ばない人」だ。


FAXなら同じ時間で300件送れて、成約率は変わらないかもしれない。

メールだったら成約率が0.1%に下がるけど、同じ時間で10,000件送れるかもしれない。

Web広告を出稿すればお金はかかるけど、人件費を考えれば結果的に安く顧客を集めることができるかもしれない。

「かぎられたコストの中で獲得契約数を最大にする」という目的を持っていれば、いくつもの発想も出てくるはずだ。



 会議はいい手段じゃない(ことが多い)



世の中には会議が大好きな人がいる。
なにかあると「会議しよう」と言いだす。
そして「これを定例にして、毎週やることにしよう」と言いだす。

定例にすることで、もう「会議をすること」が目的になっている。

会議は手段だ(そしてたいていの場合効率の悪い手段だ)。
目的は「情報の共有」であり「アイデアを出すこと」。
誰か(会議をしたいと言いだしたやつ)が議題について書面でまとめて、それを関係者各位にメールで送って、確認や意見出しをしてもらうほうがずっと効率がいい。
10人で60分の会議をすれば600分の時間が消化されるけど、書面ベースのやりとりで総計600分もかかることはない。

会議を開きたいやつは、自分が文書で論理立てて説明することのできないから「直接会って話したい」という。
でも論理立てた文書を書けないやつが、短時間で無駄なく伝わる話をできるはずがない。

会議が「文書の共有」よりまさっているのは緊急性だけだ。
「今から30分後までに共有しないといけない」という場合には、書面を作ってメールで送るよりも関係者を緊急招集して会議をしたほうが有効だろう。でも「毎週月曜日に集まろう」という場合には、たいていもっといい手段がある。


ってなことを言うと、こんなことを唱えるやつがいる。

「いや、会議ってのはコミュニケーションの場でもあるわけだよ。
 顔をつきあわせて話すことでメンバーの団結力が高まるんだよ」


仮に会議をすることで「コミュニケーションが良好になる」としよう(会議を通して険悪になることはあっても仲良くなった人を見たことがないから、個人的にはまったく賛成できないけど)。
だとしてもコミュニケーションもまた手段であって、目的ではない。オフィスは大学サークルではない。

仲が良くても情報伝達がうまくできない組織より、ビジネス上の付き合いしかなくても効率よく情報を連携できる組織のほうがずっと強い。



 交通手段は多いほうがいい



人が移動するとき、考えなくてはいけないのは
「目的地」「移動手段」だ。

趣味のドライブやジョギングの場合は、「移動手段」=「目的」となる。
趣味の場合はこれでもいい。

しかしそれ以外においては、移動手段は代替可能なことが多い。

たとえば東京から大阪に行くとする。
飛行機か新幹線で行くことが多いだろう。車で行く人もいるかもしれないし、在来線を乗り継いで行く方法もある。船、ヒッチハイク、バイク、自転車、徒歩など、他にも手段はたくさんある。2つ以上を組み合わせたっていい。
どの方法がいちばん良いということはない。それぞれの手段にはメリットがあるしデメリットがある。
「速いけど高い」とか「つらいけど体が鍛えられる」とか「大人数の移動には向いてないけど楽しい」とか。
自分の嗜好やそのときの状況を考えて、どの方法をとるか考えればいい。


頭がいい人というのは、「目的地にたどりつくための交通手段をたくさん持っている」人だ。

「目的地にたどりつくための交通手段をたくさん持っている」を展開すると、

・ 自分が今いる場所と目的を正しく理解している

・ 幅広い知識を持っていて、それを整理している

・ さまざまな視点から物事をとらえることができる

ということになるね。
うん、これは頭のいい人の特徴だ。




 結論


会議はなくそう!



2017年3月7日火曜日

【エッセイ】結婚はポイント還元もないし

そうだ、ノートPCを買おう。



で、電器屋に行ったりいろんなサイトを見たりしたけど、結局よくわからない。

店頭だとサイズ感やキーボードの押し心地はわかるけど、実際の動作速度はわかんないし、性能比較もしにくい。

ネットだとその逆。

口コミはある程度参考になるけど、ゲームもしないし動画編集もノートPCではやらないから、グラフィックの美しさとかを熱弁されても......ってなっちゃう。
そこはどうでもいいや、って。


結局、詳しい知人に相談することにした。
「こういう用途に使おうと思っていて、画面は大きめがよくて、このへんの機能はなくてもいい」
って条件を並べて、「だったらこの中から選べばいいよ」って言ってもらって、最後にキーボードの押し心地だとか本体のデザインとかで選んだ。



パソコンを買うっのてたいへんだなあ。
でも、結婚相談所に登録して結婚相手を選ぶことにくらべたらぜんぜんたいしたことないよね。

パソコンはスペックが一覧表になっているし。
そもそもメーカーが公表しているスペックが真実かどうかを疑う必要はないわけだし。
「料理が得意って言ってたのにお菓子しか作ったことないじゃないか」みたいな嘘はないですから。

パソコンも徐々に動作性能が落ちていくけど、結婚みたいに成約前と成約後で豹変する、なんてことはないですしね。。

それにパソコンだったら実際に使ってる人の話を聞けるけど、
「あなたの奥さんどんな人ですか。へえ、よさそうですね。じゃあぼくもそれにします」
ってわけにはいかないし。

パソコンを買うのに失敗したってせいぜい数万円の損失だけど、結婚はそうはいかんし。


なによりパソコンは、「じゃあこれにしよう」って決めたら、在庫切れでないかぎりは「あなたにはお売りできません」って断られることはない。


相談所で無事に結婚相手を見つけた人って、その決断力があれば、パソコンを買うときなんて、電器屋に行って1秒で「これください」って言える人でしょ。


2017年3月4日土曜日

【読書感想文】 吉田 修一『元職員』

吉田 修一『元職員』

内容(「BOOK」データベースより)
栃木県の公社職員・片桐は、タイのバンコクを訪れる。そこで武志という若い男に出会い、ミントと名乗る美しい娼婦を紹介される。ある秘密を抱えた男がバンコクの夜に見たものとは。

実在の事件である 青森県住宅供給公社巨額横領事件 を元にした小説。
事件のことを覚えている人は少なくても、当時ワイドショーをにぎわせた「アニータ」さんの名を覚えている人はけっこういるかもしれないね。



小説に"意味" や "楽しさ" だけを求める人にとってはキツい小説だろうね。
出てくるやつは主人公筆頭にクズばっかりだし、救いはないし、教訓もないし、楽しいストーリーも含蓄に富んだセリフも意外な展開もないし。
うわあ。なんでそんな小説読むのって言われそうだなあ。でも楽しいだけが小説じゃないからね。
嫌な話を追体験することこそ小説じゃないとなかなかできない。新聞やテレビには「救いのない嫌なだけの話」はないからね。
嫌な話は視野を広げるのに役立つって話もあるしね。今ぼくが作ったんだけど。


この本を読んだ後にAmazonのレビューを見たんだけど、小説の読み方を知らない人って多いよね。
いや小説に決まった読み方なんてないんだけど。
でもさ。「こういう行動をとるべきなのになぜ無駄なことばっかりしてるんだ」「あそこのエピソードがどう回収されるんだろうと思ってたら伏線ほったらかしかい」みたいなレビューが並んでるのを見て、がっかりしたというか。
本屋大賞とか芥川賞受賞作とか村上春樹のレビューだったらわかるんだけどね。ふだん本読まない人もいっぱい集まる場だから。

でも吉田修一のハードカバーを買うぐらいだからけっこうな本好きだろうに、そんな人でも「すべての本の登場人物は合理的で無駄のない行動をとらなくてはならないし、すべてのエピソードには意味がないといけない」と思ってるってことに、ため息しか出ない。
本格ミステリに関してはほぼその通りなんだけど、小説なんて無駄の積み重ねでしょ。そもそも小説自体が人生においてなくても生きていけるものなんだから。



ところで『元職員』だけど、まあ嫌な小説だねえ。悪口じゃなくて。

ぼくはときどき嫌な夢を見るんだけどね。だいたい、自分が悪いことをして追われているという夢。
万引きして、全国指名手配されるみたいな夢。「万引きでどうして指名手配なんだ。そのエピソードはどう伏線として回収されるんだ」とか言わないでよ、夢なんだから。

そういう夢を見て起きたときは、背中にじわっと汗をかいている。暑いのに、まとわりつくような悪寒がする。
『元職員』を読んでいるときの気分も、まさにそんな感じ。
じわりじわりと追いつめられてゆく気分。
どんどん逃げ場がなくなっていって、常におびえながら暮らさないといけない。ときどきふっともうどうにでもなれという気になるし、でもやっぱり逃げなくちゃとも思う。
ガス漏れしている部屋にいるように、気がつけば恐怖と不安と焦燥が充満している。

曽根圭介『藁にもすがる獣たち』(感想文はこちら)も嫌な小説だったけど、あれはまだ少しだけ救いがあったし、謎解きの快感があった。
でも『元職員』は、ただただ嫌な小説。
嫌な気分になるだけ。
タイのむわっとするような暑さの雰囲気も、嫌な気持ちになるための、ちょうどいい舞台装置の役割を果たしている。
なんでこんなもの読むんだ、という気になるけど、たまにこういう気分を味わいたくなるんだよね。
なんでかね。それだけ今幸せだってことを確認できるからかね。



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2017年3月3日金曜日

バーコードバトラーの時代


バーコードバトラーの話なんだけどね。



なに?
知らない?
バーコードバトラーを?

はあ、最近の若いもんはバーコードバトラーも知らんのか。
わかんなかったら図書館行って調べてみろって。まちがいなく文献見つからねえから。

バーコードバトラーってのは。
バーコードで戦うゲームだよ。


は?
バーコードとバーコードをぶつけてどうするんだよ。
いやいや、バーコードで戦うっていったけど。

ちがうちがう。
モンスターで戦うの。


は?
ポケモンじゃないってば。
ポケモンよりバーコードバトラーのほうが前なの!

あれ?
前だったっけ? バーコードバトラーとポケモン、どっちが先だ?
まあいいや、どっちが先でも。

バーコードでモンスターを召喚する、それがバーコードバトラー。
バーコードをね、スキャンするの。
そしたらモンスターが出てくるわけ。もちろん本当にじゃないよ。


え?
コンビニのレジにバーコードを持っていって召喚してもらう?
ちがうちがう、そんなローソンのLoppiみたいなシステムじゃないの。
レジに行かなくてもいいの。
だいたいその頃まだコンビニとかなかったから!

あれ?
その頃もうコンビニあったっけ。
まあいいやどっちでも。
少なくとも鳥取にはなかったし。


だろ?
おもしろそうだろ?
そうなんだよ、画期的なアイデアなんだよ。
小学生男子はみんなほしかったんだから。


「おもしろそうなアプリですね」じゃねえって!
アプリじゃないんだよ。
その頃まだアプリどころか携帯電話すらなかったから!

あれ?
携帯電話はあったっけ。PHS時代だったっけ。
まあいいやどっちでも!




2017年3月2日木曜日

【読書感想エッセイ】 ケリー・マクゴニガル 『スタンフォードの自分を変える教室』

内容(「BOOK」データベースより)
60万部のベストセラーがついに文庫化!これまで抽象的な概念として見られていた「意志」の力についての考え方を根本的に変え、実際の「行動」に大きな影響を与えてくれる。目標を持つすべての人に読んでもらいたい一冊。

いかにも自己啓発書って感じのタイトルだけど(このタイトル嫌い!)、
自分の狭い経験談とどこかで聞きかじっただけの表面的な話を寄せ集めたビジネス系自己啓発本とはちがい(自己啓発本が嫌いなのよ)、
心理学者が実験から得た知見を、生活に活かすためにおこなった講義をまとめた本。


ぼくは毎日誘惑に屈している。
部屋を掃除しないといけないと思いながら寝そべって本を読み、
明日こそは早起きしようと思いながら夜ふかしして、
ゲームはもうやめようと思いながらアプリを起動する。
計画通りに行動できることはほとんどない。
先月「運動不足だから毎週プールに通おう」と決意したけど、結局プールに行ったのは1回だけ。

たぶんほとんどの人は、誘惑に屈しながら生きているんだろうね(そうであってほしい)。
これを読んでいる人たちも、禁煙に失敗し、ダイエットに失敗し、ジョギングは長続きせず、どうしても痴漢をやめられないよね。


「明日からは心を入れ替えよう」と思うのに、明日もまた失敗する。それは本能がじゃまをするから。
だったら脳のメカニズムを知って、本能に屈服するのではなく本能を利用して望ましい結果を手に入れようよ、というのが本書の論旨。

 また、科学は重要なことに気づかせてくれます。それは、ストレスは意志力の敵だということです。しかし私たちは何かをやりとげるには、多少のストレスがあっても仕方がないと思いがちで、ストレスをさらに増やすようなまねをします。やるべきことにぎりぎりまで着手しなかったり、自分の怠け癖や自制心の弱さを責めることで自分を奮い立たせようとしたり。
 あるいは、自分ではなく他人のやる気を引き出すためにストレスを利用することもあります。職場で猛烈な仕事ぶりを見せつけたり、家でカミナリを落としたり。
 そういうことは短期的には効果があるように思えるかもしれませんが、長い目で見た場合には、ストレスほどあっというまに意志力を弱らせるものはありません。ストレスに対する生理機能と自己コントロールの生理機能は、一緒には成立しないのです。
(中略)
 ストレス状態になると、人は目先の短期的な目標と結果しか目に入らなくなってしまいますが、自制心が発揮されれば、大局的に物事を考えることができます。ですから、ストレスとうまく付き合う方法を学ぶことは、意志力を向上させるために最も重要なことのひとつなのです。

ストレスがかかると脳の領域からエネルギーを奪い取り、体に向けられるそうだ。
で、意志が弱くなるんだとか。
納得。
酒好きの人ならお酒に走るだろうし、ぼくは甘党なので甘いものを食べたくなる。

「強いストレス下では目先の結果しか考えられなくなる」という習性は、人類が原始生活を送っていたころにはたいへん役に立った。
猛獣に出くわしたら(過度のストレスがかかったら)、何も考えずに全力で逃げたほうがいい。

でも現代社会において、軍人やスポーツ選手でもいないかぎりは、「頭を使わずに全エネルギーを身体に向けて短期的な結果を求める」ことが良い結果を生む状況はほとんどない(スポーツだって長期的に考えれば頭を使ったほうがいいし)。

頭脳労働をする上で「怒る」「怒鳴る」は逆効果にしかならない。
怒られる → ストレスがかかってパフォーマンスが低下する → 成績が悪化するからさらに怒られる → さらにストレスがかかる……という悪循環を生むだけ。
ビジネスの場でも、怒鳴り散らしている上司の部下がすばらしいパフォーマンスを発揮した、なんて話は聞かないよね。
「おれが怒鳴ったおかげであいつは成長した」って思ってる上司はいっぱいいるだろうけどね。



失敗したときに自分を責める人のほうが、同じ失敗をくりかえす傾向が高いんだとか。

一見、「全部私のせいだ。なんであんな失敗をしてしまったんだろう」と考える人のほうが、責任感が強そうだよね。
でもじっさいは逆で、自分を許す人のほうがプロジェクトをやりとげる「責任を果たす人」なんだって。

たしかに。
「まじめな人」って、学校では褒められる存在だけど、社会に出るとえてして「まじめなのにダメな人」になっちゃうよね。
だいたいどの部署にもひとりはいるよね、「まじめなのにダメな人」。
まじめにやっているのになぜか成果が出ない。周りも「あいつはまじめにがんばってるから」ってことで、きつく注意したり軌道修正したりせずにほったらかしにするから、いつまでたっても成長しない。おまけに自分を責める傾向が強いから何度も同じ失敗をくりかえす……。
カメなのにウサギと同じ土俵で戦おうとするタイプ
適当にやること、あまり自分を責めず、適度に外部要因のせいにしてストレスフリーに生きることが、いい結果を生むんだね。



誘惑に屈する原因のひとつとして、”モラル・ライセンシング” という現象が紹介されている。
”モラル・ライセンシング” とは、何かよいことをすると、いい気分になり、悪いことをしたってかまわないと思ってしまうという現象。
「ランチをサラダだけで済ますことができたから、その後に甘いお菓子を食べてしまう」みたいなこと。
いってみれば、免罪符を手に入れた状態だね。

 人はこのモラル・ライセンシングのせいで、悪いことをしてしまうだけではありません。よいことをするように求められたとき、責任逃れをするようになります。たとえば、寄付金の依頼を受けたとき、自分が以前に気前よく寄付したことを思い出した人たちは、そのような過去のよい行ないを思い出さなかった人たちに比べ、寄付した金額が6割も低いという結果が出ています。
 このモラル・ライセンシング効果は、世間一般にモラルが高いと信じられている人たち(牧師、家庭の大切さを説く政治家、腐敗を厳しく追及する司法長官など)がひどい不品行を行ないながらも自分に対してそれを正当化する理由を説明できるかもしれません。

たしかに、道いっぱいに広がって、通行のじゃまになりながら寄付や政治的支援を呼びかけている人っているよね。
いいことをしていると自分で思っている人ほど、周囲に迷惑をかけることに無頓着なんだよね。

テレビ演出家の藤井健太郎さんが、著書『悪意とこだわりの演出術』でこんなことを書いていた。
 逆に、何かを悪く言ったりしているとき、意図的に事実をねじ曲げていることはまずあり得ません。悪く言われた対象者からは、事実だったとしてもクレームを受けることがあるくらいなのに、そこに明らかな嘘があったら告発されるのは当然です。
 そんな、落ちるのがわかっている危ない橋をわざわざ渡るわけがありません。そんな番組があったらどうかしてると思います。どうかしてる説です。
たしかに「やらせ」が問題になるのは、たいていの場合バラエティ番組ではなく報道番組だよね。
「正しいことを伝えている」という意識が、「だからこれぐらいのルール違反は許される」になってしまうんだろうね。
警察が組織ぐるみで身内の犯罪を隠したり、逆にヤクザの偉いさんが公共の場では紳士的だったりするのも、”モラル・ライセンシング” なのかも。
人間、ずっと善人でいることはできないし、逆にずっと悪人でいつづけることも不可能なんだろうね。みんな、ほどほどにバランスを取りながら生きている。


さらに ”モラル・ライセンシング” は、「1食抜いたからお菓子食べちゃおう」みたいな直接関係のあることだけじゃなく、ぜんぜん関係ないことにもはたらいてしまうらしい。

 環境にやさしいクッキーだと思えば、栄養面の問題なんておかまいなし。それで、環境保護の意識の高い人ほどオーガニック・クッキーのカロリーを軽く見て、毎日のように食べてしまったわけです。ちょうどダイエットをしている人たちが健康ハロー効果にだまされて、ハンバーガーにサラダをつければ安心と思っていたように。
 このように、何かをいいと思ってそれにこだわってばかりいると、正しい判断ができなくなり、「いい」ことだと信じて自分を甘やかすせいで、長期的な目標を見失いかねません。

「環境にやさしい」という"いいこと" をしたから、「食事制限を破る」という "悪いこと" をしてもいいと考えてしまう。
論理的にはまったく筋の通らない話なんだけど、でもぼくたちの脳みそはぜんぜん論理的じゃない。


”モラル・ライセンシング” のはたらきを知っていると、欲望を抑えるのにも役立つだろうし、逆に誰かの欲望を刺激することでマーケティングにも使えるよね。
「この商品の売り上げの1%が森を守るために寄付されます」みたいなメッセージも、”モラル・ライセンシング” をはたらかせるのに効果的だ。「森を守るといういいことをしたから、いっぱい食べてもいい/お金を使いすぎてもいい」と思わせる。

ハイブリッド車のプリウスが売れたのも、「環境にいいから車を買ってもいい」と思わせることに成功したからかもしれない。
そういや、おもいっきりエンジンをふかせながらスピード上げて他の車の間を縫って走る迷惑なプリウスを見たことあるけど、あのドライバーも ”モラル・ライセンシング” の考えに支配されれたんじゃないかな。「環境にいい車に乗ってるからエンジンふかせてもいいや」って。



この本で紹介されている、誘惑に負けないようにするテクニック。

 行動経済学者のハワード・ラクリンは、行動を変えることを明日に延ばすのを防ぐためのおもしろい仕掛けを提唱しています。ある行動を変えたい場合、その行動じたいを変えるのではなく、日によってばらつきが出ないように注意するのです。
 ラクリンによれば、タバコを吸うなら「毎日同じ本数」を吸うよう喫煙者に指示すると、タバコの量を減らせとは言われていないにもかかわらず、なぜか喫煙量が減っていくといいます。

「明日からやろう」という言い訳をできなくするわけだね。

ぼくは人生でタバコを吸ったことは一度もないし、競馬もパチンコもやったことがない。
それは「一度手を出して抜けられなくなるんじゃないか」と思っているから。ハマってしまうのが怖いから。
自分の意志の弱さを知っているから、自分のことをまったく信用していないから、誘惑には近づかない。


さっきの ”モラル・ライセンシング” の話と同じで、これは誘惑を退ける方法でもあるし、逆手にとれば誰かを誘惑するのにも使えるね(ぼくはマーケティングの仕事をしているので、ついついそっちで考えてしまう)。

つまり「1回だけ」「今日だけ」といえば誘惑に転びやすくなるってことだもんね。
「本日限り半額! 節約は明日からしましょう」
というメッセージを届けることができれば、財布の紐をゆるませられるはず。



あと、人を興奮させるドーパミンは「快楽」ではなく「期待」「欲望」をもたらすって話もおもしろかった。
ドーパミンが出るのは「快楽を感じたとき」じゃなくて「快楽を感じる予感がしたとき」なんだとか。
パチンコでドーパミンが出るのは「大当たりしそうなとき」であって、じっさいに換金して「報酬を手に入れたとき」ではないってこと。

たしかに、何をするにしても「期待しているとき」がいちばん楽しいよなあ。

ぼくは本が好きなんですけど、本を読んでいるときよりも「本の巻末にある新刊情報」を読んでいるときや、Amazonのレビューを見て「おっ、これはおもしろそうだ」って思うときがいちばん楽しい。

昔のホームページにはたいがい『リンク集』があったけど、あれをクリックする瞬間はわくわくしたもんなあ。
今はリンク集はほとんど見なくなったけど、『関連動画』『こんな記事も読まれています』ってすごくおもしろそうに見えるもんね。

このときもドーパミンが出ているんだろうねえ。



『自分を変える教室』というタイトルだけど、どっちかっていうと「なぜ自分は変われないのか」って感じの内容。


こういう本はすごくおもしろい。
10年くらい前に、池谷裕二さんの『進化しすぎた脳』という本を読んで、その日から世界の見え方が変わった。

そうか、ぼくはこんなふうに考えていたのか。ぼくはこうやって脳に動かされていたのか。

思考は自由自在にコントロールできると思いこんでいたけど、
物理法則があるからどんなにがんばっても空を飛べないのと同じで、
ぼくの考えもいろんな化学的制約を受けていて、ごくごく狭い範囲でしか動かせないのだと知った。

その頃ぼくは無職で、精神的にもちょっと落ち込んでいたんだけど脳のしくみを知ってからはずいぶん生きやすくなった。

こんな考えを持つのも脳の構造上しょうがないんだ。
こう考えてしまうのはあたりまえのことだったんだ。


おい「自分探し」をしてるやつ、聞いてるか!

「自分」はインドにはないぞ! 本の中にあるぞ!



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2017年3月1日水曜日

R-1ぐらんぷり2017の感想

R-1ぐらんぷり2017の感想書きます。


【1回戦Aブロック】

・レイザーラモンRG 『トランプ大統領』

この人のすごさって、「プロとは思えない潔さ」ですよね。
トランプ就任直後にトランプやったり、五郎丸が流行ってるときに五郎丸やったり。
しかも似てないし、たいしたひねりもない。
プロの芸人がぜったいにやらないことでしょ。素人が(それもおもんないやつが)忘年会でやっちゃうレベルのキャラ。
それをプロがやるってのがすごいよね。
この人しかできない。ここまでいくと逆にカッコイイ。
もうおもしろいとかおもしろくないとかどうでもいい。ていうかおもしろくなかった
でもそれもいいじゃない、って思わされる人間的魅力があるね。相方がイヴァンカ・トランプの恰好で応援に来てたシーンもしみじみとした良さがあったなあ。こちらもやっぱりおもしろくなかったけど。

・横澤夏子 『ママチャリ』

達者だね。達者さがちょっと鼻につく感じだね。
一人芸って、ネタの力と表現力のかけ算だと思うんだけど、ネタが弱いよねえ。
というかこの道って、古くは山田邦子から、青木さやかやら柳原可奈子やらがさんざんやりつくしてしまった道だからねえ。

・三浦マイルド 『両方から聞こえてきそうな言葉』

ネタそのものは良かったんだけど、キャラクターとあってなさすぎてうまく入ってこなかったな。せっかく強いキャラクターがあるのに誰がやっても成立しちゃうネタだったな。
後半の保育園のくだりは広島出身という点をうまく活かしてたけど、そこにいくまでは「悪くはないけど……」っていう感じでした。

・サンシャイン池崎 『となりのトトロ』

たぶんああいう勢いで押しきるネタって、現場にいたら笑っちゃうと思うんだよね。
逆にいうとテレビで観ている人との温度差がいちばんあるのもこういうネタ。
きっと「まったく笑えなかった」という感想があふれかえっていたことでしょう。ぼくもそのひとり。


ぼくは「あえて言うなら三浦マイルドだけど誰でもいいや」って思ってましたが、サンシャイン池崎が最終決戦進出。


【1回戦Bブロック】

・ゆりやんレトリィバァ 『透明感のある女』

わかりやすいフリの後に、強い一言を並べていくネタ。
設定がフリーダムすぎて、客も戸惑っていたように感じた。
たとえば「なんで〇〇は××なん?」っていう言い回しで統一するとか、ヤンキーというテーマでそろえるとか、なにかしらルールがあったほうが見やすかったように思う。
ところでネタとまったく関係ないけど、ゆりやんレトリィバァってすごい吉本新喜劇にいる雰囲気漂わせてるよね。はじめて見たとき「ぜったい新喜劇の役者や」って思った。新喜劇側はぜったいほしいやろ。

・石出奈々子 『ジブリっぽい女の子が大阪に行く』

いきなりネタと関係ないこと書くけど、この人、すごいタイプ。
整っているようでちょっとだけくずれてる顔とか、小柄なとことか肌がきれいなとことか。
「かわいいなあ」と思って観てたのであんまりネタ覚えてないや。
ええっと、大阪に行く話ね。
ほんとジブリの世界の表現すごいね。特にあの力こぶのとことか。でも肝心のネタはおもしろくなかったなあ。大阪ネタが手垢まみれすぎて。
あの世界観で、大阪人全員から憎まれるぐらいどぎつい攻撃したらおもしろいんだろうなあ。

・ルシファー吉岡 『大化の改新』

よくできてるんだけど、設定自体はそこまでぶっとんでるわけじゃないから、あとはどれだけ切れ味の鋭い言葉を並べるかなんだけど、期待を超えてくれなかったなあ。
自身が2016年にやった「キャンタマクラッカー」のネタのほうが、設定、言葉のインパクト、くだらなさ、どれをとっても上だった。
自分に負けちゃだめだね。

・紺野ぶるま 『占い師』

15年くらい前だったらすごくウケてたと思う。
今でもおもしろくないわけじゃないんだけどね。でもすべてが古い。
いろんなネタをパクってんのか? って思っちゃうぐらい、どのボケも既視感があったなあ。
それでもまだ表現力があれば笑えるんでしょうけど。
この人がネタ書いて横澤夏子が演じたらうまくいくんじゃないかな。


Bブロックも消去法で石出奈々子かなあと思っていた。で、石出奈々子が最終決戦進出。

アイデンティティ田島の敗者復活コメントおもしろかったなあ。「ブルマも行ったし」
でも結果発表前に急にアナウンサーがコメント振った時点で「落ちたんだな」ってわかっちゃったから、あれはよくないね。


【1回戦Cブロック】

・ブルゾンちえみ 『キャリアウーマン』

見ててわかるぐらい緊張してたね。本人も「ネタ飛ばした」と言ってたし。
あの顔で余裕たっぷりのいい女を演じるのがおもしろいネタだから、緊張しちゃったら成立しない。
べつの番組で観たことあるけど、いちばん笑ったのは両隣の男のセリフだった。

・マツモトクラブ 『雪の夜の駅のホーム』

笑いの量を求められる場では勝てないだろうねえ。この人のはコントじゃなくてコメディだからねえ。
戦いの場を変えたほうがいいんじゃないかと思う。
ところで「掛川は新幹線止まらない」は、RGのネタを受けてのアドリブだったのかな。アドリブを入れにくい構造のネタなのに、がんばったなあ。

・アキラ100% 『全裸芸』

いやあ、おもしろい。これは惹きつけられちゃうでしょ。
以前に観たことあって、でも去年のR-1ぐらんぷりで決勝に行けなかった時点で「今後はもう無理だろうな」と思っていた。
だって見た目のインパクトが命だし、『丸腰刑事』の完成度は高かったから、「もうこれ以上のネタを作って上がってくることはないな」と思っていた。
で、今年になって決勝進出。「なんでいまさら」と思っていたら、ちゃんとネタのレベルを上げているのでびっくりしてしまった。
生放送だった、というのも有利にはたらきましたね。
板尾審査員がコメントしていたとおり、スリリングなネタで見入ってしまいました。

・おいでやす小田 『言葉を額面通りに受け取る彼女』

これはいいネタだね。いちばん笑ったのはアキラ100%だったけど、ネタの完成度はこれがダントツで1番だった。
「比喩表現を言葉通りに受け取ってしまう」ってボケ自体は古典落語にもあるぐらいだから目新しいものじゃないんだけど、見せ方がうまかったね。
彼女だけでなくウェイターも使ったり、言葉だけじゃなく手の動きもつけたり、妄想の会話を延々くりひろげるくだりがあったり、飽きさせない趣向が十分に凝らされていた。


アキラ100%がおいでやす小田を僅差で抑え、最終決戦進出。
ぼくも「笑ったのはアキラ100%、でも好みはおいでやす小田」と思っていたから、まあ納得。
あとは、アキラ100%にはかわいげがあるけど、おいでやす小田にはかわいげがないってのも、意外と審査に響いたのかも。本人が悪いわけじゃないけどね。


【最終決戦】

・サンシャイン池崎 『でかい剣を持ってるやつあるある』

あれ?
1本目のネタよりはおもしろいと思ったのに、こっちのがほうがウケてない。
ていうか客が疲れてない?
後半急カーブを切って着地する構成とか、叫びすぎて声出なくなってるとことか、おもしろかったのにな。好きじゃないけど。
「らしくない」ネタだったからすんなり受け入れられなかったのかな。
1本目と違う笑いのとりかたをしにきていて、じつはけっこう計算高い人なのかもね、この人。

・石出奈々子 『ジブリの世界のテレビショッピング』

サンシャイン池崎とは逆に、1本目と同じタイプのネタを持ってきて撃沈。
いやあ、びっくりするぐらいスベってたね。
ほんとおもしろくなかったなあ。かわいいだけだったなあ。かわいかったなあ。


・アキラ100% 『全裸芸』

サンシャイン池崎が空回り、石出奈々子がだだスベりで、やる前からほぼ結果が決まってしまったアキラ100%。
ここでのアキラ100%は安心感がありますね(ネタの内容は不安感しかないけど)。だってこの芸がスベることないでしょ。眉をひそめられることはあっても。
で、最後の最後までいろんな角度から全裸芸を見せてくれて楽しませてくれました。
ネタを見るだけで、まじめな人なんだなあってわかりますね。


というわけで、アキラ100%が残る2人に圧倒的な差をつけて、文句なしの優勝!


しかし、「R-1ぐらんんぷり優勝者は売れない」というジンクスがありますけど、このジンクスは少なくともあと1年は続きますね、これ……。