2016年6月29日水曜日

【エッセイ】へばぶー

へばぶー。

うちの娘が生後9ヶ月で、まだ人間の言葉をしゃべれなかったときのこと。

「だー」とか「ばー」とかの音を発するだけで、電子レンジとかの音の鳴る機械とあまり変わりませんでした(いや電子レンジの音には「あたため完了」という意味があるのでレンジのほうが高性能ですね)。


あるとき、娘がお母さんのほうを向いて、「まーまー」と言いました。

これはオール子育て世代が必ず一度は経験するあるあるネタだと思いますが、当然ながらうちでも
「まあこの子はもう『ママ』といったわ!天才ね!」
とゲロが出るぐらい陳腐なリアクションをしました。


すると、娘はくるりと振りかえってぼくの顔をまじまじと見つめ
「へばぶー。」
と言ったのです。



その日からです。

妻がぼくのことを「へばぶー」と呼ぶようになったのは。
  
  
「へばぶー、洗濯物ほしといてー!」

自宅で言われるならまだしも、

「へばぶー、お金払っといて!」

外出先で云われることもあります。
もともと二銭五厘くらいしかなかった夫の威厳が、さらに値下がりしております。


まるで、うちの家にいそうろうさせてもらっている「へばぶー」という名の変な怪獣みたいな扱いです。
珍獣へばぶーと子どものふれあいを題材にえほんが1冊書けそうです。


あれから2年ほどたちましたが、いまだに我が家でのぼくの扱いは「へばぶー」です。
もう娘ははっきりと「おとうさん」としゃべれるのですが、ときどきお母さんの真似をして「へばぶー」と言います。


このままだと娘がいずれ結婚するときに、
「おかあさん、へばぶー、今までほんとうに……」
みたいな手紙を読んで、いちばん泣けるくだりが台無しになりそうです。


どうすればよいのでしょうか。
へばぶー、困ってます。



2016年6月28日火曜日

【エッセイ】悲惨な歴史を語り継ぐ

ぼくが中学生のころは、携帯電話なんて誰も持っていなかった。
中学生はもちろん、大人でもほとんど持っていない時代だった。

だから同級生の女の子の家に電話をかけるのはほんとに緊張した。

電話をかけると、たいていはその子のお母さんが出る。
「○○子さんいますか」
というのがまず恥ずかしかった。

ふだんは苗字で呼んでいるものだから、『女子を下の名前で呼ぶ』ということだけで恥ずかしくてたまらなかった。

「ごめんね、○○子は今お風呂に入ってて......」
と言われたりすると、さらに恥ずかしくなった。
 同級生のあの子が今お風呂に......と思うと、あらぬ想像をして顔が真っ赤になった。

たまに、お父さんが電話に出ることもあった。
さすがに「うちの娘にどのような用かね」と詰問されるようなことはなかったが、それでもびくびくした。

思わず何も言わずに受話器を置いてしまったこともあった(発信者の番号が相手に表示されない時代だったからこそできたことだ)。


たった一本の電話をするだけですごく緊張した。
携帯電話のように「今何してるー?」ぐらいの軽いノリで電話をかけられるような時代じゃなかった。
無理矢理にでも用事を作って、電話をしていた。

もしあのとき携帯電話があれば、ぼくでも女の子と気軽に電話やLINEのやりとりができただろう。
そうすれば、ひょっとすると彼女ができて、それはそれは楽しい学生生活を送ることができたんじゃないだろうか。

あれは携帯電話がないゆえの悲劇だった。
そして、今の若い人たちは、あたりまえのように携帯電話とともに学生生活を送っている。
携帯電話のない学生生活を送った世代は、三十代中盤のぼくの世代が最後だろう。



ぼくが九十歳くらいまで長生きしたら。
語り部として、携帯電話がなかったことの悲惨さを若い人たちに伝えていかなければならない。
各地の中学校をまわって、講演をしなければならない。
それが、学生時代に彼女のいなかったぼくに課せられた使命なのだと思う。



2016年6月27日月曜日

【読書感想文】テランス・ディックス 『とびきり陽気なヨーロッパ史』

テランス・ディックス『とびきり陽気なヨーロッパ史』

内容紹介(裏表紙より)
この1冊でヨーロッパがわかる!......かな?
EUも結成されたことだし、ここらでお隣の国々のことを知っておこう、と各々にヘンで面白い歴史をわかりやすくまとめたわけだけど、そこは皮肉なイギリス人のこと、一筋縄じゃいきません。ユーモアたっぷりにコキおろしながら、思いやりもほの見えたり。過激なイラストがこれまた、笑えます。

イギリス人ノンフィクションライターが書いたヨーロッパ史。
原著が出版されたのが1991年。
ベルリンの壁崩壊が1989年、欧州連合条約(EUの成立を定めた条約)が調印されたのが1992年なので、まさに「今からEUをつくってヨーロッパがひとつになるんだ!」という時期に書かれた本です。

なので全体的に「ヨーロッパもいろいろあったけど、これからはひとつになって仲良くなっていこうね!」というテイストで書かれています。

25年後たって、EUがバラバラになろうとしている(しかも当のイギリスがまっさきに離脱することになった)この時期に読むと、もの悲しくなってしまいます。
「この頃は希望に満ちあふれていたのにどこでどうまちがってしまったんだろう......」と、離婚前夜に結婚式の写真を見ているような気分になります。まだ離婚したことないけど。


中立公平な立場から書いているわけではなく、「イギリス人から見たヨーロッパ史」なので、かえって新鮮でおもしろいです。
(紹介されているのはEU発足時加盟国のうち、自国イギリスを除いた12国です)
イギリス人からはヨーロッパってこう見えるんだ、と(あくまで、いちイギリス人の意見んですけど)。
イギリスとの長い確執を持つアイルランドにたっぷりページを割いている一方で、ドイツはここ3世紀くらいの歴史しか語られていなかったり(それまでドイツという国がなかったのでしかたないところもありますが)。


日本人がヨーロッパを語るとしたら、長い歴史を持つギリシャやイタリア(ローマ帝国)か、大国であるイギリスやフランスからはじめると思うのですが、第1章がベルギー、第2章がデンマークというのもおもしろい。
でもよく読むと、ベルギーやデンマークというのは実にヨーロッパらしい歴史を持っている国なのです。
ずっと周囲の国との争いに翻弄され、第二次世界大戦ではナチス・ドイツに占領され、冷戦時は米ソ対立に巻き込まれるという、気の毒な歴史。

ヨーロッパの中央にあるがゆえにこんな運命をたどってしまうのですね。
ヨーロッパの国々は地続きでいろんな外国に旅行できていいなあ、とのんきなことを考えていたのですが、とんでもない。
かんたんに攻めこまれるということですからね。
島国である日本の何倍も、防衛戦略も外交も難しいんでしょう。


逆にいうと、こうしたベルギーやデンマーク、それからオランダやルクセンブルクのような小国がしょっちゅう攻めこまれたという歴史があったからこそ、数多の苦難を乗り越えてヨーロッパ連合が誕生したんでしょうね。
連合を組まないと大国には太刀打ちできないですもんね(その中にあってEUに加盟せずに孤高を貫くスイスも、それはそれですごいですけど)。


ぼくは学生時代に世界史をちゃんと勉強していなかったのですが、今ちゃんと歴史をひもといてみると、ヨーロッパ史ってほんと血みどろの歴史ですよね。
常にどこかで血が流れてるんじゃないかって思うぐらい。
冷戦後やっと「さほど緊張が走っていない平和なヨーロッパ」が訪れましたが、それ以前は千数百年前のローマ帝国時代にまでさかのぼらないと、平和な時代ってないですもんね。

最後に、この本に出てくる、役に立つ法則を紹介します。

 ここで独裁者と世界征服を企てる人のために二つの重要な法則をご紹介しよう。

  一、イギリスをただちに侵略せよ。決してあと回しにするな。
  二、どんなことがあろうとも、決してロシアを侵略するな。


ナポレオンとヒトラーはこの法則を破って身の破滅を招いています。
どうかみなさんもご参考にしてください。


2016年6月24日金曜日

【読書感想文】 ジョージ・フリードマン『続・100年予測』

『続・100年予測』

ジョージ・フリードマン

内容(「BOOK」データベースより)
金融危機以降、国家間のパワーバランスは劇的に変化したか?アメリカとイランがついに和解?日本は軍事力を強化するか?地政 学が導く世界の行く末とは…。「影のCIA」の異名をもつ情報機関ストラトフォーを率いる著者の『100年予測』は、クリミア危機を的中させ話題沸騰!続 篇の本書では2010年代を軸に、より具体的な未来を描く。3・11後の日本に寄せた特別エッセイ収録。

はじめにことわっておかないといけないのが、タイトルが大嘘だということ。

よく売れた『100年予測』の次に書かれた本なので『続』というタイトルにしたんだろうけど、ぜんぜん続編じゃない。
『100年予測』とはほとんど関係がないし、この本では今後10年間のことしかふれられていない。
ちなみに原題は『THE NEXT DECADE(次の10年)』。
また単行本では『激動予測:「影のCIA」が明かす近未来パワーバランス』という内容を正確に言い表すタイトルだったので、文庫化するときにわざわざひどい題をつけたようだ。

これはハヤカワ書店が金儲けのことしか考えなかったせいだろう。

さらにハヤカワ書店はこりずに、この次に書かれた本を『新・100年予測』として出版したそうだ。
その本は未読だけが(もう買う気もない)、聞いたところでは予測ですらなく、過去の話がほとんどだとか。
ちょっとひどすぎるね。
タイトルも作品の一部だから、あまりにでたらめな邦題はつけないでいただきたい。こういうことやってると読者を失うよ。


とまあ、タイトルは最低ですが、本の内容はいいものでした。
ただ『100年予測』があまりにおもしろかったので、それと比べるとちょっと期待はずれかな。

ジョージ・フリードマンはアメリカの地政学者。
地政学とは聞き慣れない学問かもしれないが、地形から政治や軍事をとらえる学問。

『100年予測』にはこんな言葉が出てきた。

われわれはいつの時代にどの場所に暮らすかによって、行動を厳しく制約される。そしてわれわれが実際に取る行動は、思いがけない結果を招くのである。

歴史を動かすのは、個人の仕事ではなく地理だという考え方だね。
ジョージ・フリードマンによれば、アメリカが世界の覇権を握ったのも、ソ連が崩壊したのも、地形が決めたこと。

歴史ドラマが好きな人にとっては受け入れがたい考え方かもしれない。
坂本龍馬やナポレオンがいてもいなくても(長期的視野で見ると)大差なかった、ということになるとドラマ性がなくなっちゃうもんね。
地政学の考え方を認めたがらない人が少なくないことも、理解はできる。


でも、たとえば1962年に起こった「キューバ危機」。
キューバへの核弾頭配置をめぐってあわや第三次世界大戦が起こるのではないかという一触即発の事態になった事件。
これはまちがいなく、キューバの位置がアメリカの大西洋進出を妨げる絶妙な位置に存在しているからこそ起こった事件だった。
ぜんぜん違う場所にあったら、キューバのような小国が原因で世界大戦が起こりかけることはありえない。

そういえば第一次世界大戦勃発のきっかけも、オーストリアの皇太子が暗殺されたことだった。
オーストリアも大国ではないが、地理的に重要なポジションを占めていたがゆえに世界大戦につながったんだろうね。


2009年に日本語訳が出版された『100年予測』によれば、今後100年で日本はトルコと組んでアメリカと敵対し、21世紀後半にはメキシコが台頭してアメリカと衝突するという予測が書かれていた。
にわかには信じられないことだけど、根拠を読めば「なるほど、ありえなくもないな」と思わされる(根拠が気になる方はぜひ読んで)。

一方、『THE NEXT DECADE』(邦題がひどいので原題で書く)には奇抜な予想は書かれていない。
どうすればアメリカの国益を最大化できるかという視点に基づいて、世界各地でのアメリカの振る舞い方が示されている。

フリードマンによれば、アメリカがとるべき戦略はシンプル。

一.世界や諸地域で可能なかぎり勢力均衡を図ることで、それぞれの勢力を疲弊させ、アメリカから脅威をそらす

二.新たな同盟関係を利用して、対決や紛争の負担を主に他国に担わせ、その見返りに経済的利益や軍事技術をとおして、また必要とあれば軍事介入を約束して、他国を支援する

三.軍事介入は、勢力均衡が崩れ、同盟国が問題に対処できなくなったときにのみ、最後の手段として用いる

要するに、各地域で巨大勢力が生まれないように互いに争わせ、アメリカ自身は手を汚さないようにしましょう、というスタイルだね。言い方は悪いけど。

でも実際このとおりだとおもう。
この考え方を知っていれば、東アジアに対するアメリカのスタンスがよく理解できる。

アメリカにすれば、日本と中国と韓国は互いに憎みあっているぐらいの状態が望ましい。
中国と敵対しているかぎり、日本がアメリカにたてつくようなことはまちがってもないだろうからね。逆に、日中が仲良くなればアメリカにとって経済的にも軍事的にもたいへんな脅威になる。
だからドンパチやらない程度に仲が悪くなっていてほしい。

アメリカは日本の味方もしないし韓国の肩も持たない。
北朝鮮がアメリカに攻撃をしかけてくるのは困るけど、北朝鮮が日本や韓国と険悪な状況にあるのは好ましい。
アメリカにとっていちばん困るのは、日本と中国と韓国(と北朝鮮)が結託して、東アジア連合を作られること。

……ってな具合に、地政学がわかると世界情勢がよくわかるし、将来の予想も立てやすくなる。

「物理的な位置が国家間の関わり方を決める」というのが地政学の考え方だけど、これって国家の話だけじゃないよね。

個人の行動や人間関係も、地理によって大きく影響を受ける。

学生時代、ぜんぜん意識していなかった異性なのに、席替えで隣の席になったとたんに急に気になって……なんて経験、ない?
小学生のときによく遊んだのは家が近い子だったんじゃない?
これは大人になってもそんなに変わらない。
職場の席が近いとか、帰る方向が一緒とか、案外そういうことで交友関係って決まってくる。

ぼくらは地理の影響を受けずには生きられない。

また、この本は組織について学ぶための教科書にもなる。
組織を効率よくコントロールしようと思ったらアメリカがとっている戦略(できるかぎり自らは介入せずにキーパーソン同士をほどよく敵対させてパワーバランスを保つ)が有効かもしれない……。

国際情勢だけでなく、いろんなことがらが読みとけるようになれる(かもしれない)本だね。


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2016年6月22日水曜日

【エッセイ】あまちゃん帝王学

知人の六十代男性から聞いた話。

彼が高校生のとき、修学旅行で東北に行った。
そこに海女さんがいた。『あまちゃん』の舞台の地である。

そこでは、修学旅行生たちが海に向けて野球ボールを投げ、海女さんが泳いでとってくるというショー(?)がおこなわれていたのだそうだ。


えええっ。

なんというサービスだ。じぇじぇじぇ。

要は、犬の訓練でやる「とってこい」である。

「あれが修学旅行でいちばん印象に残っている思い出だなあ」と六十代男性は平然と語っていたが、そりゃ印象に残るだろう。

学生がおもしろ半分に投げたボールを追いかけて、中年の海女さんが冷たい海に飛び込む。
じつにものがなしく、そして奇妙に官能的な光景だ。

そうゆうのはオットセイとか長良川の鵜とかにやらせることだろう。



今だったら絶対に許されない。
いや、四十数年前でも道徳的にどうなんだ。
そういうショーがあることもさることながら、それを修学旅行でやらせる学校もすごい。
ときに他人に厳しく接することも大切だという教育なのか。


団塊の世代はお店の従業員に対して横柄な態度をとる人が多いが、それはこうした帝王学(?)の成果なのかもしれない。



2016年6月21日火曜日

【読書感想文】 清水潔 『殺人犯はそこにいる』

清水潔 『殺人犯はそこにいる』


内容(「BOOK」データベースより)5人の少女が姿を消した。群馬と栃木の県境、半径10キロという狭いエリアで。同一犯による連続事件ではないのか?なぜ「足利事件」だけが“解決済み”なのか? 執念の取材は前代未聞の「冤罪事件」と野放しの「真犯人」、そして司法の闇を炙り出す―。新潮ドキュメント賞、日本推理作家協会賞受賞。日本中に衝撃を与え、「調査報道のバイブル」と絶賛された事件ノンフィクション。


横山秀夫氏や(かつての)宮部みゆき氏のような社会派ミステリが好きなのだが、この本のような優れたノンフィクションを読むと、「事実は小説よりも……」という月並みな感想しか出てこない。
どんなすごい小説も、やはり事実には適わない。

なにしろ、一介の記者が、連続誘拐殺人事件の犯人として服役していた人物の無実を証明し、裁判をひっくり返し、警察と検察の嘘を暴き、さらには真犯人まで見つけてしまうのだから。
それも大手新聞の記者などではなく、週刊誌の記者が。

こんな筋のミステリ小説を書いたら「警察よりも新聞記者よりも先に、週刊記者が真実にたどりつくなんてありえない」と言われてしまいそうだ。それぐらいすごいことをしてるし、それぐらい警察や新聞記者がダメだったということでもある。


エンタテイメントよりもおもしろく、ホラーよりも恐ろしい。
なにしろ真犯人はほぼわかっているのにまだ捕まっていないのだから。

ひさびさに「読みながら全身の血が震える」という感覚を味わった。
全ジャーナリスト、全捜査関係者に読んでほしい。
というか財布に1,744円以上入っている人は全員買って読んでほしい。


読んでいると、警察はもちろん、警察の発表をそのまま垂れ流していた報道機関に対してもむかむかとしてくる。
無実の人間を糾弾しておいて、冤罪だったことが明らかになるとたちまち手のひらを返して自分は何も悪くないとばかりに警察叩きに終始するマスコミ。

「足利事件」の冤罪報道はぼくもよく覚えているが、「無実の人を犯人扱いしたことをお詫びします」と伝えていたテレビ局はぼくの知っているかぎり1社もなかった(さすがに新聞は申し訳程度の反省記事を書いていましたが)。

ただその一件をもって「マスゴミ」などと断罪する資格は、ぼくのような傍観者にはない。無罪報道がなければぼくもまた「あいつが犯人か」と思いこんでいたのだから。


こうした冤罪事件は今後も起こる。百パーセント正しい制度というものはない以上、必ず過ちは起こる。
そうなったら警察は身内を守るために嘘をつくだろうし、マスコミは警察の発表をそのまま報道してしまうだろう。

それを防ぐことはできない。
組織が自らの不利益になる行動することなんてありえない。
ある程度の分別のある大人なら、自浄作用なんて期待するだけ無駄だということをわかっている。
だったら、どういうシステムを構築すれば被害を最小限にできるかに知恵を絞ったほうがいい。

ぼくは、事件の大小に関わらず、刑事事件の容疑者の氏名を公開することをやめればいいいと思う。
実名報道にどういう意味があるんだろう。
「先日起こった殺人事件の容疑者が身柄を拘束されました」だけでいいのでは。
顔写真とか氏名とか年齢とか職業とか中学校の文集とかを日本中に公開する必要ってどこにあるんだろう。
「公権力の暴走するときのチェックになる」という考えもあるが、実名報道したって公権力は暴走するし。

「おれは犯人のツラをおがんで溜飲をさげたいぜ」という人だっているだろう。
「犯罪者は、悪いことをしたという過去を一生引きずっていけばいいんだ。社会更正なんてしなくていいんだよ」という人だっているだろう。
でもそれは今の日本の法律に則した考え方ではない。刑法では罰金刑や懲役刑、あるいは死刑が定められているけど、それ以上の社会的制裁を課すことは定めていない。

インターネット出現以前であればよほどの大事件をのぞけば犯人の名前なんてすぐに人々の記憶からは消えていたけど、名前を検索すればすぐに何年も前の事件が明らかになる現代においてはより社会的制裁の影響は大きくなっている。
「1年間刑務所に入るより犯罪者として自分の名前がインターネットに残りつづけるほううがキツい」と思う人のほうが多いだろう。ぼくもそう思う。
刑法で定められているよりも大きな罰を与える(私刑をする)権利が報道機関にあるのだろうか。

「そうはいってもわたしは犯人の卒業文集が読みたいわ。ざまあみろと思って胸がすっとするから」という人は、それを人前でも言えるだろうか。
たいていの人は言えない。それは「心の醜さをうつしだした願望」だから。
そういう気持ちはぼくにもある(人一倍強いぐらいだ)が、そういうどす黒い欲望と刑罰は切り離して考えなければいけない
刑法は、復讐心や野次馬根性を満たすためにあるわけではないのだから。

まして [容疑者] の段階で大きく氏名を報じるなんて言語道断だ。
容疑者が犯人でなかった場合の補償なんか誰にもできないのに。

それに氏名が公開されないほうが再犯率が下がるんじゃないかな。社会復帰してまともな職につきやすくなるんだから。


というわけでぼくが「こうだったらいいのに」と思う、犯人の実名報道に関するルールは以下の通り。

・未成年にかぎらず、すべての事件の容疑者の実名は捜査関係者、司法関係者、保護観察官、保護司以外には公表しない。

・裁判で死刑または無期懲役が確定した場合にのみ、氏名を一般にも公表する(事件が重大であるためと、加害者が社会復帰する可能性がほぼないため)。

・政治家の収賄など、市民の代表として選ばれたものがその立場を利用して犯した罪に関しては、以降の選挙に反省を活かすために例外的に公開する(ただしこれも刑が確定してから)。

・上記の規則を破ったものに対しては、刑事罰は課さないが、「醜い野次馬根性を満たすために規定を守らなかったもの」として氏名を公開する!

いかがでしょう?


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2016年6月20日月曜日

【思いつき】ひび割れた未来

こうして誰もが携帯電話を持ち歩く世の中を、昔の人は想像しただろうか。 

  .....想像しただろうな。


 手にした携帯電話で調べればたいていのことはすぐにわかる世の中を、昔の人は想像しただろううか。

   ......想像した人もいただろうな。


その携帯電話の液晶画面が割れてるのにそのまま使いつづける世の中を、昔の人は、

   想像しなかったにちがいない!


2016年6月19日日曜日

【エッセイ】かっこいい消費期限切れ

職場にあった、ちょっと古くなったお茶を捨てようかと女性社員が話していたので、

「こんぐらい大丈夫でしょ!」

とかっこつけて自信満々に飲み干して、そしたら帰宅してから嘔吐して、でも翌日休んだら
「やっぱりあのお茶が……」
ってことになってものすごく恥ずかしいので、無理して出勤するわたくし。


てゆうか古いお茶を飲むことのどこが「かっこつける」ことになるのか、教えてくれ昨日の自分よ。

2016年6月17日金曜日

【エッセイ】この餃子のタレ、届け!

どうして歌詞は己を実物よりよく見せようとするんだろ、ってあたしは思う。

「一生君を愛しつづけるよ」
「つらいことがあってもがんばればいつか報われるさ」
みたいなのが完全に嘘ではないんだろと思う。
たしかに本気でそう思っている部分もあるんだろね。

だけどそれだけではないよね。
あたしたちはもっとくだらないことを考えてる。
餃子を買ったときについてくるタレがかなりの確率で手につくんだけど、タレ袋の形状はもっと改良の余地があるんじゃないかとか。

作詞をする人はそういうことを伝えたいと思わないんだろうか。己の内面に対して誠実であろうと思わないんだろうか。梶井基次郎のように内に秘めたる感情を有り体に吐露しようと思わないんだろうか。

あたしは「この思い、餃子のタレメーカーに届け!」といつも思ってるんだけど。
そういう真実の歌詞をみんなつくってほしい。



でも。
いくら歌詞に真実味があってほしいとはいえ、「いい女とやりてえぜ」みたいなのはつまらない。
文学性がないんだもの。

「言われてみたらたしかにそんな思いが自分の中にもあるー!」
と言いたくなるような、心のせまい隙間に指をつっこんで溜まったほこりを掻きだすような歌詞が聴きたい。



あたしがこれまでに「これこそ真実の歌詞だ!」と思ったのは、二度だけだ。


一度は斉藤和義『君の顔が好きだ』を聴いたとき。

「君の顔が好きだ 君の髪が好きだ 朝も昼も夜も切なさに酔って胸痛めてる自分もいい」

なんて素直な歌詞なんだろうと思った。
ちょうどあたしも切なさに酔って胸痛めてたから。そんな自分に恋していたから。


もう一曲はユニコーンの『大迷惑』。

「お金なんかはちょっとでいいのだー!」

それまでのストーリー性のある歌詞が、ラストのこの咆哮に見事に結集される様は、ドラマチックですらあった。
オーケストラの演奏とあわさって、壮大な物語に感じられた。

なんという真実味。
お金なんていらないよといえば嘘になるし、金が欲しいというのは本当だけどそれがすべてではない。
そう、お金なんかはちょっとでいいのだ。

ぜひ、声に出したい日本語として国語の教科書に載せてもらいたい。

(この曲が発表されたのがバブルまっただなかの1989年だというのがまたすごい)



2016年6月16日木曜日

【エッセイ】梅干しをスパイクで

おにぎりは楽しい。

こないだおにぎりを作って公園にもっていった。
食べるときわくわくした。

あれ。
おにぎりってこんなに楽しかったっけ。
ときどきコンビニでおにぎりを買うけど、そのときはなんとも思わないのに。

ちょっと考えて、その理由がわかった。
ぼくが作ったおにぎりの具材は、鮭フレークと昆布と食べるラー油。
無造作にバッグに入れたので、食べるときにはどれがどれだかわからなくなった。
それが楽しかった。

中身がわからないからわくわくしたのだ。



ぼくは小学生のときサッカーチームに入っていた。
週末には練習や試合があって、そのたびに母がおにぎりをにぎってくれた。

毎週のことだから、食べるほうも飽きるし、にぎるほうも飽きる。
母はさまざまな具材をおにぎりに入れてくれた。

もちろんあたりはずれがあって、タラコははずれ、鮭はあたり、牛肉を炒めたものが大当たりだった。
ぼくは梅干しに対して嫌いを通りこして憎悪の感情を抱いているのだが、母はぼくの梅干し嫌いを克服させようとして、一年に一度くらいこっそり梅干しをしのばせていた。
もちろんこれは大はずれ。
ぼくは梅干しを吐き出して、「もぉー、梅干し入れるなって言ってるじゃんかよぉ......」泣きながら文句を言って、吐き出した梅干しの上から砂をかけてスパイクで踏んづけたものだ(今思うと因果関係が逆で、ぼくが梅干しを憎むようになったのはこのときの体験が原因だったかもしれない)。



とにかく、たまに泣きべそをかくことがあったとはいえ、何が入っているかわからないおにぎりを食べるのは楽しかった。
自分がつくったものでもどきどきするのだから、誰かに作ってもらったおにぎりを食べるときの緊張感はなおさらだ。

コンビニでもお総菜屋さんでもおにぎりは売っているが、残念ながら具材は一目瞭然だ。
食べるときには「ああこれはシーチキンマヨネーズだな」と認識してから食べることになる。
これではおにぎりの楽しさは半減だ。

そこで提案なのだが、コンビニで、中身がわからないおにぎりを売るというのはどうだろうか。
これだけでだいぶおにぎりが楽しくなる。

鮭だろうか。
梅干しかもしれない。
ひょっとするとふつうなら240円くらいするもある和牛ステーキおにぎりかもしれない。
廃棄する予定だったからあげくんんかもしれない。ただの塩むすびかもしれない。

おにぎりという華やかさのない食材に一気に緊張感が生まれると思う。

2016年6月14日火曜日

【エッセイ】おにぎりの誤用


独壇場とか的を得るとか、本来の意味で用いられない言葉は多い。
日本語の誤用。
でも誤用されているのは日本語だけじゃない。

おにぎりも誤用されている。

正確にいうと、おにぎりの海苔。


コンビニでおにぎりを買うと、ごはんと海苔の間にビニールがはさまれていて、それを抜き取ってから食べることになっている。
海苔はぱりぱり。

あれはあるべき海苔の状態ではない。
海苔を誤用している。

本来、おにぎりの海苔というのはしっけているものです。


思いかえしてください。
幼いころ、遠足のお弁当に入っていたおにぎりを。

海苔がぱりぱりでしたか?

冬場の唇みたいに乾燥していましたか?

ちがいますよね。
そんなことないですよね。

ごはんの水分をたっぷりと吸って、じっとりと湿っていましたよね。

そうです。
あれが正しいおにぎりの姿です。

そもそも二、三十年前は冷蔵庫も小さかったから、ほとんどの家庭で海苔は冷蔵庫に入れていなかった。
小さい缶に入って冷暗所で保管されていた。
だからおにぎりに巻きつける前からじゃっかんしっけていた。

それにおにぎりを作る機会なんて、お弁当を持っていくときに作るか、余ってしまったごはんを置いておくためにおにぎりにしておくか、それぐらいでした。
いずれにせよ「今すぐは食べない」という状況でにぎるものでした。

だからしっけていてあたりまえ。
乾燥していたら逆に不自然。

もし殺人現場のマンションにおにぎりが置いてあって、そのおにぎりの海苔が乾燥していたら、「犯人はまだ遠くに行ってないはずだ!」ってなりますよ。
ひょっとしたら、まだバスルームあたりに殺人犯がひそんでる可能性もありますからね。怖いですね。海苔の乾燥したおにぎりは。


海苔の乾燥したおにぎりなんて、コンビニのおにぎりだけなんです。

じゃあなぜコンビニのおにぎりは、わざわざあんなビニールをはさんでまで、海苔をしっけないようにしているのか。

ここからはぼくの推測なんですが、あのコンビニおにぎりを開発した人間は、おにぎりと寿司をごっちゃにしていたんじゃないでしょうか。

寿司の海苔は乾燥しています。

あたりまえです。
寿司は鮮度が命です。
おにぎりみたいに長時間置いてから食べたりしない。
たった今にぎりましたよ、という鮮度の証明のために寿司の海苔は乾燥している必要があります。
ウニやイクラの軍艦巻の海苔が、水分をたっぷりと吸ってべちゃべちゃになっていたら食べる気がしませんからね。

これがおにぎりの海苔の誤用です。
擅と壇の字をごっちゃにして独擅場を独壇場と書いてしまうように、
的を射ると当を得るをごっちゃにして的を得ると言ってしまうように、
おにぎりと寿司の用途をごっちゃにして、おにぎりの海苔を乾燥させてしまったのです。

これは断じて許されるべきことではありません。

なぜなら、不器用なぼくがコンビニのおにぎりを食べると、海苔が乾燥しているせいで、破れた海苔がばらばらに飛び散って、周囲から「だらしないやつ」と思われてしまうという個人的な理由があるからです!

2016年6月13日月曜日

【おもいつき】余儀なくされているわたし


「強制連行されてきた女性が従軍慰安婦として働かされて~」

という話をする前に、いま現在、不当に安い賃金で働かされている外国人研修生のための議論をしましょうよ。




あと、ほんとは週休4日ぐらいほしいのに、それよりはるかに過酷な環境で働くことを余儀なくされているぼくのための議論も。


2016年6月12日日曜日

【エッセイ】腹まわり状態方程式

健康診断に行った。
体重は去年といっしょだった。
なのに、腹まわりだけが4.5センチも増えている。

4.5センチ。
ということは一寸五分。うん、ぴんとこない。

どうしたことか。
じつに気味が悪い。
芥川が言うところの「唯ぼんやりした不安」だ。ちがうな。

体重も増えているのならまだ納得できる。
単に太っただけなのだろう。
しかし体重は増えていない。それなのに腹まわりだけが膨らむなんてことがあるだろうか。
しかも一寸五分も。


待てよ。
この状況、どこかで習ったぞ。
本棚から『高校化学便覧』を引っ張り出してみる。
あった。気体状態方程式。

 P×V=n×R×T

Pは圧力、Vが体積、n が物質量、Rは定数、t が絶対温度。

ふむふむ。
ええっと。Vが体積だから、腹まわりが増えたということはVが増加したということになるな。
体重が変わっていないわけだから n は変わってない。
Rも定数だから変わらない。
つまり、P(圧力)が減ったか、T(温度)が増えたということだね。
おっ、だいぶ原因が絞れてきたぞ。

温度は変わってなさそうだな……。
健康診断は病院の中でやってるから室温はほぼ一定に保たれているし、熱があったわけでもない。
ってことは圧力が減ったということになるけど……。

あっ!
おもいだした!

たしか去年は、少しでも腹まわりを減らそうと、巻き尺を腹にあてられてる間、腹筋に力を入れていたんだった。
ぐっと腹に圧力をかけて、おなかをへこませていたんだった。
そして今年は見栄をはるのを忘れていたんだった!

ああ原因がわかってよかった!

やっててよかった気体状態方程式!

2016年6月10日金曜日

【読書感想文】奥田 英朗『家日和』

内容(「BOOK」データベースより)
会社が突然倒産し、いきなり主夫になってしまったサラリーマン。内職先の若い担当を意識し始めた途端、変な夢を見るようになった主婦。急にロハスに凝り始めた妻と隣人たちに困惑する作家などなど。日々の暮らしの中、ちょっとした瞬間に、少しだけ心を揺るがす「明るい隙間」を感じた人たちは…。今そこに、あなたのそばにある、現代の家族の肖像をやさしくあったかい筆致で描く傑作短編集。

家族をテーマにした短篇集。

うまいなあ。
お手本のような、軽い短篇小説。
ほどほどにユーモアや皮肉も込められ、ほどほどに現実感があり、でも最後は誰も不幸にならない。
新聞の4コマ漫画のような軽さで、何も考えずに別の世界の物語にひたりたいときにはちょうどいい。


会社の倒産により専業主夫になった男を主人公にした『ここが青山』という短篇。
とりあえず次の仕事が見つかるまで、というつもりで家事や育児をやっていたら意外と自分に向いていることがわかった。妻も外に出て仕事をするのが好きなので、誰も何の不満もない。
なのに周囲の人からは「仕事が見つからなくてかわいそう」という目で見られ、頼んでもいないのに次の仕事を紹介されて……というストーリー。

ああ、いるよなー。こういう「本人は幸せなのに、傍から余計な同情をする人」。


ぼくが娘と公園で遊んでいたとき、見知らぬおばちゃんからいきなり、
「お父さん、お休みの日なのに子どもの相手しないといけないなんてかわいそうねー」
と声をかけられたことがあった。

あのー、ぼくは子どもと遊ぶのが好きなんで、すごく楽しんでたんですけど……。

そのおばちゃんが子ども嫌いなのか、それとも彼女の夫が子どもと遊びたがらない人だったのか。
「幼い娘と遊ぶ幸せなひととき」も、人によっては「いやいや子どもに付き合わされるかわいそうな父親」に見えてしまうのか、とびっくりしたことを思い出した。


「○○の楽しさを知らないなんて人生半分損してる」
という発言もそうだよね。

学生時代、友人がバイクを買い、すっかりバイクの魅力にとりつかれた。
それだけならどうということもないのですが、 ことあるごとにぼくにたいして
「おまえもバイク乗れって。世界が広がるぞ!」
と勧めてきて、うんざりした。

 ぼくはバイクに乗って出かけるより本を読んでいたかっただけなのに、友人から見たら「バイクの楽しさを知らないかわいそうなやつ」に見えたんだろうね。
勧めるほうとしては純粋に善意だけで言ってたんだろうけど、だからこそ余計に迷惑。

とはいえぼくも、その友人のことを「読書の楽しさを知らないかわいそうなやつ」と思っていたのでお互い様だけどね。


いちばん印象に残った短篇は、妻との別居生活が思いのほか楽しくなってしまう『家においでよ』

妻との別居を機に、しばらく遠ざかっていた趣味を再開する男の悦びを丁寧に書いているのですが、「あー……、いいなぁ……」という感想しか出てこない。

ぼくは結婚5年目。
今のところ結婚生活にこれといった不満はない。
……のつもりなんですが、やっぱりどこかで我慢している部分があるんだろう。
たまに妻が子どもを連れて実家に帰ったりしてひとりになると、おもいっきりエンジョイしたくなる。

上等な肉を買ってきて、焼き肉をする。
野菜なんかぜんぜん焼かない。肉と飯ばっかり食う。
風呂から出たあと、パンツも履かずに裸でリビングをうろうろする。
リビングでテレビを観ながらオリジナルのダンスをする。
わざと布団からはみだして寝る。

ひとりのときはだいたいいつもこんなかんじ。

でも、ふだん我慢しているわけじゃないんだよ。
そこがほんとにふしぎ。

いつも「肉をたっぷり食べたい!」と思っているわけじゃない。
いつも「裸でリビングをうろうろしたくてたまらない!」と思っているわけじゃない。
いつも「リビングでオリジナルのダンスをしたい! でも今は妻がいるから......。しかたない、ここは我慢だ!」と思っているわけじゃない。

なのに、ひとりになると奇行をとりはじめてしまう。
抑圧されたリビドーが解放されるんだろうか。
「おれ、思うんだけど、男が自分の部屋を持てる時期って、金のない独身生活時代までじゃないか。でもな、本当に欲しいのは三十を過ぎてからなんだよな。CDやDVDならいくらでも買える。オーディオセットも高いけどなんとかなる。けれどそのときは自分の部屋がない……」
「まったくだ。おれなんかCDを買っても聴けるのは車の中だけだぜ」
「まだまし。おれなんか通勤中のiPodだけ。車の中でロックをかけると子供たちがうるさがる」
周囲の既婚男性に訊いてみると、多かれ少なかれ、みんなそんなもんらしい。
三十代になって金銭的な収入は増えたのに、若い頃よりも好きなことにお金を使えなくなっている。
既婚男性はみんな、我慢してるもんなんだろうねえ(たぶん既婚女性のほうはもっと我慢してるんだろうけど......)。


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2016年6月7日火曜日

【考察】国内残留組

「失業率を低下させたい」

「女性の社会進出を支えたい」

「消費を増やして景気を良くしたい」


これら全部をいっぺんに解決する方法があります。


残業代を払わない企業、有給休暇をとらせない企業は法律違反なので厳しい罰則を与える。それだけ。

雇用は増え、女性は働きやすくなり、余暇が増えて消費も増えます。



いやほんとに、いいことづくめだと思うやり方だと思うんですが。
自殺も減るし。

ってなことをいうと「そんなことしたら国際競争力が~」って言い出すやつがいるんですが。

国際競争力が欲しいやつはとっとと海外に出ていって国際的に勝負してこいよって話ですよ。
残ったぼくらは国内だけで幸せにやっていくからさ。

2016年6月6日月曜日

【ふまじめな考察】まさかの200kgいけました


スポーツの最大の魅力は、何が起きるかわからないという緊張感だ。

誰も予想していなかったようなことがここしかないという場面で起こってしまう。
それがスポーツの怖さであり、おもしろさでもある。

最近ではプレミアリーグで優勝候補からほど遠いレスターが快進撃を続け、ついに優勝してしまった。
ブックメーカーのオッズは5001倍だったというから、ほんとに誰も優勝を予想していなかった奇跡だったのだろう。

高校野球を観ていると、練習試合でも1本もホームランを打ったことのない選手が甲子園でサヨナラホームランを放ったりすることがある。
たまたまいいところにボールがきて、たまたますばらしいスイングをして、たまたまバットの真芯に当たって、たまたま風に乗ってスタンドまで入ってしまったようなホームランだ。
こういうことがあるから、スポーツはおもしろい。


野球やゴルフなどのスポーツは風や気候の影響を受けやすいから特に奇跡的なプレーが生まれやすい。
ラグビーは球技の中では極端に番狂わせが起こりにくいとされている。実力差がそのまま結果につながるのだとか(あんなどっちに転がるかわからないボールを使っているのに、ふしぎなものだ)。
それでも2015年のワールドカップでは、日本代表が強豪・南アフリカに勝利した。奇跡の起こりにくいスポーツだからこそ、これはほんとにとんでもない大番狂わせだった。

ボールのバウンドや風などの影響を受けやすい球技に比べて、格闘技や陸上競技は運の入り込む要素が少ない分、順当な結果が出やすい。
そうはいっても人間のコンディションは一定ではないから、そのときの精神状態などによって思わぬ失敗が起こったりする。



で、重量挙げについて考えてみる。

はじめにことわっておくけど、ぼくは重量挙げのことをまるで知りませんからね。
テレビで観戦したことすらありませんからね
あの重い車輪型のやつ(バーベル?)を持ち上げて、その重さを競うんでしょ? ってぐらいの認識しかないことをことわっておきます。

ぼくの疑問は、重量挙げに番狂わせなんかあるの? ってこと。

実力がそのまんま反映されちゃうんじゃないの?

そりゃあね。
200kgを持てる実力の選手が、190kgを持つのに失敗したってことはあるでしょう。
腰を痛めてたとか手がすべったとかで。

でも、練習では190kgも持てたことのない選手がオリンピックではまさかの200kgいけました! なんてことはありえないでしょ。

世界ランキング10位の選手がどれだけ調子良くたって、オリンピックで優勝しちゃうことは起こりえないでしょう。
(勝手な推測ですよ)


だからね。
オリンピックみたいな大会を開く必要ないんじゃないかと思うんです。
大会ってのは一発勝負の場ですからね。
実力がそのままものをいう重量挙げにはふさわしくないんじゃないかと。

重量挙げについては、もうギネスブックの1部門でいいんじゃないかと思います。
世界一の記録を上回れる自信がある選手がギネスの判定員を呼んで、判定員の前でバーベルを持ち上げる、と。

それでいいんじゃないか、と。

そんで見事世界記録を出したあかつきには、ギネスブックに「1分間でもっとも多くの洗濯ばさみを顔につけた男」と「世界一巨大なお好み焼きを作った人たち」と並んで掲載してもらう、と。

2016年6月5日日曜日

【エッセイ】最悪の彼女(2歳)

2歳の娘がいるんですけど。

いっちょまえに服の好みがあるんですね。
「今日はピンクがいい!」みたいなことを言うんですね。
おむつもとれてないくせになまいきに。


だから朝、服を着がえさせるときに訊いてやるんですよ。
「今日は何着るー?」
ってね。

そしたら
「おとうちゃんといっしょに、おきがええらびにいくー!」
って言うんですよ。


かわいいなーと思っていっしょにタンスの前まで行くじゃないですか。
そしたら娘のやつ、いっちょまえに悩むんですよ。
「どれにしよっかなー」って。
さっき食べた納豆ごはんがまだ服についたままのくせになまいきに。

もうね、けっこう長いこと悩むんですよ。
服についた納豆ごはんがカピカピになるぐらいの時間をかけて悩むんですよ。



どうでもいい......!

ぼくとしては、2歳児の服なんて
「汚れ(納豆ごはんなどの)が目立ちにくいかどうか」

「小さめの服は今着ておかないとすぐに着られなくなってもったいない」
という観点でしか見てないから、色の好みなんか知ったこっちゃないんですよ。

ただただ早く決めてほしい。
だから、いちばん手前にある服を指さして
「これがいいと思うな」
とか言ってみるんですね。

「この色かわいいからこれにしよっか」
とか言ってみるんですね。
心にもないけど。早く決めてほしいから。


そしたら2歳児、
「それじゃない!」
とかいって、まだまだ悩むんですよ。
ぼくの意見なんてまるで無視なんですよ。
「どうせファッションセンスのないオヤジのいうことなんて聞いても意味ないしー」と言わんばかりに。


それが毎朝なんですよ。
ほんとめんどくさい。


一度、33歳のぼくと2歳児で本気のけんかをしましたからね。

33歳「もう早く決めてよ! これにするよ!」

2歳「いやっ! おとうちゃんがきめない!」

33歳「だったらひとりで選んだらいいでしょ!」

2歳「いやっ! いっしょにえらぶの!」


もうあれですよ。
買い物に彼氏を付き合わせといて、彼氏がどれがいいと言っても「んーどうしよっかなー」しか言わずに、最終的に何も買わないというめんどくさい彼女ですよ。

ほんと、ぼくがいちばん彼女にしたくないタイプの女なんですよ。

しかもおしゃれにうるさいくせに、服にカピカピの納豆ごはんついてるなんて、最悪の彼女ですよ。


2016年6月4日土曜日

【読書感想文】貴志 祐介 『悪の教典』

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貴志 祐介 『悪の教典』

内容(「BOOK」データベースより)
晨光学院町田高校の英語教師、蓮実聖司はルックスの良さと爽やかな弁舌で、生徒はもちろん、同僚やPTAをも虜にしていた。 しかし彼は、邪魔者は躊躇いなく排除する共感性欠如の殺人鬼だった。学校という性善説に基づくシステムに、サイコパスが紛れこんだとき―。ピカレスクロマンの輝きを秘めた戦慄のサイコホラー傑作。

けっこうぶあつい本だったが、一気に読んでしまった。
圧倒的な筆力。特に中盤の「これからすごく悪いことが起こりそうな不穏な雰囲気」はただならぬものがあった。

ピカレスク小説(悪人を主人公にした小説)は難しい。
悪役を魅力的に描くためには相当な説得力が必要だ。
いきあたりばったりに悪いことをしているヤツなんてただのチンピラ。共感は得られない。
「道徳的に正しくないことを読者に納得させる論理」が必要になる。
善人や凡人を主人公にするよりずっと困難だ。

ぼくが知っているかぎりで成功しているピカレスクものといえば、小説ではないけど、手塚治虫『MW(ムウ)』ぐらいかな。
手塚治虫クラスでないと描けない、それぐらいピカレスクものは難しい。



『悪の教典』の著者、貴志祐介は『青の炎』という傑作小説も書いている。これも殺人事件の犯人が主人公だ。
ただ『青の炎』の主人公は、殺人を犯して隠蔽工作をおこなうものの、悪人ではない。
殺される人物は十二分に憎らしい人間であり、主人公は妹を守るためにやむにやまれず殺人に手を染める悲劇のヒーローとして描かれている。
「正義のために殺人をしなければならなかった同情すべき善良な市民の葛藤」を描いた物語だった。

ところが『悪の教典』の主人公である蓮見という教師には一切の同情の余地がない(大きく共感できる人はあぶないね)。
徹頭徹尾、己の欲望のために他人の人格や命を蹂躙する。そこには一片の躊躇がない。
「自分より人気があるのが妬ましいから殺そう」ぐらいの理由で殺してしまう。犯罪行為に対するためらがない。

犯罪を思いとどまる理由は「捕まったら困る」だけ。
一般人が「捕まらなかったら少々スピード違反してもいいだろう」と考えるぐらいライトな感覚で、人を殺してしまう。


こう書くとどうしようもないクズ人間に思えるけど、蓮見という人物はきわめて魅力的だ。
知性が高く、ユーモアの精神もあり、同僚や上司からの信頼も篤く、生徒から慕われている、理想的ともいえる教師だ。ただ自分に都合の悪い人物を殺してしまうだけ("だけ"ってのもどうかと思うけど)。




アメリカの臨床心理学者がサイコパスについて解説した、『良心をもたない人たち』という本がある。

世の中には、何人かにひとりの割合で、他人の感情がまったく理解できない人、他人を傷つけてもまったく心が痛まない人(サイコパス)がいるんだとか。

たいていは社会不適合者として生きていくことになるんだけど、中には知能の高いサイコパスもいて、彼らは「他人の感情を理解できるふり」を学習によって身につけることができるため、うまく社会に溶け込むことができるようになる。
周りになじめるどころか、そうした人は知能が高いうえに目的のためなら他の人が躊躇する手段も平気でとれるため、経営者やチームのボスとして成功することが多いそうだ。

ほとんどの社会制度は「たいした理由もなく他人に危害を加える人間はいないだろう」という前提で設計されている。
だから他人を平気で傷つけられる人間にとっては抜け穴だらけの制度になる。

法に触れなければ(というより自分が逮捕されなければ)何をしてもいいという考えを持っている知能の高いサイコパスから攻撃対象にされた場合は、とことんえげつない攻撃を食らうことになる。まずふつうの人は太刀打ちできずに精神をやられてしまう。

知能の高いサイコパスへの対処法は、「極力かかわらないようにする」という選択しかない。
たとえば知能の高いサイコパスが同じ会社にいて攻撃してくる場合は、誰かに助けを求めたり上司に解決を依頼したりしても無駄だ。サイコパスはターゲット以外の前では善良な人間のふるまいをすることができるから。
「被害者が会社を辞める」ということが唯一の解決手段だ。




そんな、きわめて知能の高いサイコパスが教師になったら......。
それが『悪の教典』の物語。

ほんとに背筋がぞっとするような後味の悪いストーリーが延々と続く。
蓮見教師の行動は、まさに「悪魔」と呼ぶにふさわしい所業だ。
読んでいてすかっとするような描写は皆無。
なのにページをめくる手が止まらない。嫌な思いをすることがわかっているのに読んでしまう。

いや、ほんと後味が悪かった。
エンタテインメントとしての完成度が高すぎて、他人には勧められないぐらい。




後味の悪い小説としてすごくおもしろかったんだけど、残念だったのは、上巻と下巻で大きくテイストが変わったこと。
上巻は「静かにじわじわとせまりくる恐怖」をうまく描いた上質なホラーだったのに、下巻では派手なサスペンスアクションになってしまう。

個人的には上巻のほうが不気味で好きだった。
どっちがいいというのは好みの問題だろうけど、上巻が好きな人にとっては途中から丁寧な話運びが失われるように思えるし、下巻のテイストが好きな人にとっては上巻は退屈なんじゃないかなあ。
いっそべつの物語にしたほうがよかったんじゃないかと思うぐらい。

ただ、下巻のラストに関しては再び「じわじわとせまりくる恐怖」を表現しているので、いい終わりかただった。
あっ、いい終わりかたってのは後味の悪い終わりかたって意味ね。


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2種類の恐怖を味わえる上質ホラー/貴志 祐介 『黒い家』【読書感想】



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2016年6月1日水曜日

【エッセイ】スーツとジャムの共通点

ふだんスーツを着ない人にはぴんとこないかもしれないが、スーツのジャケットにはベントというものがある。
背中の下の部分にある切れ込みのことだ。


んで、スーツを作ると、ここにしつけ糸がついたままになっている。

もちろんこのしつけ糸を切ってから着るのが正しい着用方法だ。


でも、見落とす。

毎回、見落とす。


ぼくもいい大人だから、シャツを買ったときやクリーニングから返ってきたときは、値札やタグを取りわすれていないか、チェックしてから着るようにしている。
そうでなくても、タグはたいてい襟のところについているので、着るときに目に入るし、取らずに来たらうなじがちくちくするのですぐにわかる。

でも、ジャケットのベントはわからない。

背中のいちばん下のところですよ?

どんなに視野が広かろうが、自分の背中は目に入らない。
おもいっきり体をひねっても、ぎりぎり視界の隅に入るかどうか。
スーツでそんな無理のある動きをしたら、どこかがびりっと破れる。



で、ベントにしつけ糸がついたままになっていることに気づかずに、しばらく着つづけることになる。
そして何日かしてから誰かに指摘される。

「糸がついたままになってますよ。ばかじゃないですか」
と。




あれ、なんなんでしょう。
スーツ業界の悪しき慣習ですよね。

しつけ糸をとってから客に渡せばいいじゃん。
そこはスーツ屋の仕事でしょうよ。
本来、あんなの客にとらせちゃいけないものでしょ。

しつけ糸をとらずに商品を渡すなんて、
美容院でパーマあてたお客さんに対して、カーラーをとらずに
「お客様おかえりでーす!」って言うようなものでしょ。
なんならあのポンチョみたいなやつもとらずに、てるてる坊主状態で帰らせるようなもんでしょ。
どんなひどい美容院だ。




なぜとらないんでしょうね。

あれかな。
正真正銘できたてのスーツですよ、誰かが着ていた古着じゃないですよ、っていうアピールのためにあえてしつけ糸を残しとくのかな。

中華料理で猿の脳みそを食べるらしいんだけど、それを注文したら、新鮮な猿ですよってアピールするために厨房から生きた猿をつれてきて、オーダーした客の目の前で猿を殺すそうなんだけど、
それと一緒ですか?

ジャムのビン詰めを開封したら、ビンのふたがべこんってふくらんで、はじめて開けたことがわかるようになってるけど、
それと一緒ですか?