2016年4月30日土曜日

【読書感想文】米原 万里 『心臓に毛が生えている理由』

内容(「BOOK」データベースより)

在プラハ・ソビエト学校で少女時代をすごし、ロシア語同時通訳者として活躍した著者が、鋭い言語感覚、深い洞察力で、人間の豊かさや愚かさをユーモアたっぷりに綴る最後のエッセイ集。同時通訳の究極の心得を披露する表題作、“素晴らしい”を意味する単語が数十通りもあるロシアと、何でも“カワイイ!”ですませる日本の違いをユニークに紹介する「素晴らしい!」等、米原万里の魅力をじっくり味わえる。

ロシア語通訳者によるエッセイ。
死後に単行本未収録のエッセイをまとめたものらしく、内容はばらばら。
それでも一篇一篇はきちんとおもしろい。高い品質のエッセイを書いていたことを改めて思い知らされる。

中でも「チェコと日本の両方で教育を受けた」という特異な経歴を活かした、言語や文化のちがいに対する考察の鋭さが光る。

おもしろかったのがこの文章。

それまで五年間通っていたプラハの学校では、論文提出か口頭試問という形での知識の試され方しかしていなかったのだ。
「鎌倉幕府が成立した経済的背景について述べよ」「京都ではなく鎌倉に幕府を置いた理由を考察せよ」
 というようなかなり大雑把な設問に対して、限られた時間内に獲得した知識を総動員して書面であれ口頭であれ、ひとまとまりの考えを、他人に理解できる文章に構築して伝えなくてはならなかった。一つ一つの知識の断片はあくまでもお互いに連なり合う文脈を成しており、その中でこそ意味を持つものだった。
 ところが、日本の学校に帰ったとたんに、知識は切れ切れバラバラに腑分けされて丸暗記するよう奨励されるのである。これこそが客観的知識であるというのだ。その知識や単語が全体の中でどんな位置を占めるかについては問われない。
 これは辛かった。苦痛だった。記憶は、記憶されるべき物事と他の物事、とくに記憶する主体との関係が緊密であればあるほど強固になるはずなのに、単語と単語のあいだの、そして自分との関係性を極力排除した上で覚え込むことを求められるのだ。

 チェコの学校がみんなこうなのか、それとも著者が通っていた学校だけが変わっていたのかはわからない。
 でも少なくとも日本の学校の大半は、知識をばらばらにして覚えることを生徒に要求している。
(ただぼくはそれが悪いことばかりとは思わない。意味を無視してひたすら覚えるほうがかえって効率的な局面もたしかにある)

 とはいえ、著者が例であげているように、歴史なんかは有機的に覚えていったほうがずっと理解が深まるし、なによりおもしろい。


 でもなあ。
 論文式の試験は、採点するほうがたいへんなんだよなあ。
 えらそうに「知識詰め込み型の教育は良くない!」と言うのはかんたんだけど、ぼくが教師だったら、やっぱり選択式の問題とかにしちゃうだろうなあ。
 だって頭悪い子の論文を読むことほどつらいことはないもの。

 大学の先生はたいへんだなあ。



2016年4月26日火曜日

【エッセイ】バイクのブーン その3


バイクのふたり乗りは、必死にしがみついているさまがあわれだとしか思えない。
だけど、これまでの人生で一度だけ、ふたり乗りをかっこいいと思ったことがある。

バイクじゃなくて自転車だけど。


とある下町に住んでいたときのこと。

あたしはワケあって、商店街に行った。
ワケっていっても、塩大福買いにいっただけですけど。
それ以上のワケはありませんけど。



商店街の入口で、自転車のふたり乗りとすれちがった。
やんちゃな学生が多い地域だったから、自転車のふたり乗りなんて、道端に落ちてる手榴弾と同じくらいありふれた光景だった。どんな地域だ。

でも、あたしがすれちがったふたり乗りはひと味ちがっていた。
自転車を運転してるのが、70歳くらいのじいさんだった。
で、そのじいさんの両肩に手をおき、後輪に足を乗せているのも、70歳くらいのじいさんだった。

かっけえ……。

そのころ、友人に誘われてSMAPのコンサートに行ったことがある。
付き添いで行っただけでべつだん興味なかったから、踊って歌うSMAPを見ながら、なんでこんなのにみんなきゃあきゃあ云うんだろうかとふしぎだった。

SMAPにはぜんぜんときめかなかったあたしだけど、じいさんのふたり乗りにはしびれた。

じいさんたち、すっげえ愉しそうだった。

そりゃ愉しいだろう。
70過ぎて自転車のふたり乗りして、愉しくないはずがない。

若者たちはバイクでスピードを出してスリルを味わうけど、そんなの比じゃない。

だって、じいさんたちの場合、こけたら寝たきりだよ?
すごいスリルじゃない?

そりゃかっこいいわ。


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バイクのブーン その1
バイクのブーン その2
バイクのブーン その3


2016年4月25日月曜日

【エッセイ】バイクのブーン その2


バイクをまったくかっこいいと思わないあたしだから、ましてやバイクで走っている人の姿なんか、かっこいいどころかみっともないとさえ思ってしまう。

みっともないでしょ、あれ?

あれ、本人は「またがってる」「乗りこなしてる」と思ってるんでしょうけど、はたから見てるとカンゼンに「しがみついてる」ようにしか見えないよね?

サルの親子が移動するとき、子ザルがおかあさんザルの背中に必死にしがみついてるじゃない。
バイク乗りを見てると、それと同じに見えてしょうがない。
エンジン音にかき消されて聞こえないだけで、実際は大半のバイク乗りが「おかあさん待って!」って叫びながらしがみついてんじゃないかって、あたしはにらんでいる。

そんなんだから、バイクのふたり乗りなんかもうおかしくってしょうがない。
だって、バイクから振り落とされないように運転手がバイクに必死にしがみついてて、それだけでも江戸時代だったら滑稽本の題材になりそうなぐらい滑稽なのに、さらにそいつに必死にしがみついてるやつがいんの。

バイクにしがみつくやつにしがみついてる。
「孫請け」という言葉しか出てこない。

あわれ。
ほんとあわれ。もののあはれ。

もう、不憫すぎて逆に好きになっちゃいそう。
愛してる。

鼻毛抜くときぐらい必死な顔してバイクにしがみついてる人に教えてあげたい。
自動車ってのがあるよって。
しがみついてなくても平気な乗り物あるよって。
あと雨にも濡れないよって。
たった2個のタイヤをケチらなければ自動車にランクアップできるんだよって。


あとよくわかんないのが、バイク乗りってすぐ「バイクに乗ってると風を感じる」とか言うじゃない。

あれふしぎよね。
どう考えたって、止まってるときのほうが風を感じられるでしょ。
風向きを読むとき、どんなことする?
人差し指につばをつけて、指を立てて、動かずじっとするよね?
それか、風がなければ静止しているはずのもの、旗とかを見るよね?
指をふりまわしながら「東から風が吹いてるな」とか言う?

サルが背中に子ザル乗せて走ってるのを見て、「今日は風が強いな」とか感じる?
動いてるやつが感じてるのは風じゃなくて空気抵抗だろって。



あとさ、あとさ。

「風とひとつになれるからバイクはいい」
ってのも聞いたことある。

ま、それはわからんでもない。
「風を感じる」よりは意味がわかる。
動いてるからね。

でもさ、バイク乗りって雨の日でも走るじゃない。
びちょんこになって。

それはやっぱりあれ?
雨とひとつになりたいわけ?

そして春先は中国から来た黄砂になりたいわけ?
花粉とPM2.5もつけとく?


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バイクのブーン その1
バイクのブーン その2
バイクのブーン その3


2016年4月24日日曜日

【エッセイ】バイクのブーン その1

あたしはバイクのかっこよさがまったくわからない。

ていうかあれかっこいい?

暴走族の改造バイクは論外として(ていうかニホンオオカミが絶滅したのと同じタイミングでもう滅びたんだよね?)、大型バイクも中型も原付もかっこよくない。

造形といい、材質といい、排気音(っていうの? あの「でっでっでっでっ」ってやつ)といい、ぜんぜんだ。

かっこわるいとは言わない。
だってなんとも思わないもの。
冷蔵庫を見ても「かっちょいい!」とか「かっこわりいなー」とか思わないでしょ?
それとおんなじ。

冷蔵庫の「ブーン」って音を聴いても、
「おっ、いかした声で鳴くマシンだな」
とか思わないでしょ?


……えっ、思うの?
そういう人は高専に行きなさい。
そんでロボコンで青春の汗を流してきなさい。
そんで1回戦で勝って仲間と抱きあって喜び、続く2回戦でマシントラブルに見舞われて悔し涙を流しなさい。
その後バイクメーカーに就職して、開発の仕事をしなさい。
そんで冷蔵庫の「ブーン」とまったく同じ音で走るバイクを開発しなさい。


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バイクのブーン その1
バイクのブーン その2
バイクのブーン その3


2016年4月23日土曜日

【読書感想文】マイケル・サンデル『それをお金で買いますか』

 

マイケル・サンデル『それをお金で買いますか』

内容(「BOOK」データベースより)
刑務所の独房を1晩82ドルで格上げ、インドの代理母は6250ドル、製薬会社で人間モルモットになると7500ドル。あらゆるものがお金で取引される行き過ぎた市場主義に、NHK「ハーバード白熱教室」のサンデル教授が鋭く切りこむ。「お金の論理」が私たちの生活にまで及んできた具体的なケースを通じて、お金では買えない道徳的・市民的「善」を問う。ベストセラー『これからの「正義」の話をしよう』に続く話題の書。
「金で買えないものはない」
という人がいる。
もちろん、そんなことはない。
お金で買えないものはある。
たとえば「お釣り」とか。もらうことはできても買うことはできない。
はい、利かせてみましたよ。とんちを。

「世の中お金じゃない」
という人がいる。
これもうそだ。
お金なしで生きていくのは不可能。
田舎で畑をつくって自給自足の生活をしている人はいるだろうが、大気や安全も誰かのお金によって守られていると考えると、その人もお金の恩恵を受けて生きている。
畑泥棒が跋扈する世の中では自給自足の生活は送れないからね。


大概のものはお金で取引可能だけど、そうではないものもある。
じゃあその境界線ってどこにあるの?
いや、どこに境界線を引くのが正しいの?

という問いに対してじっくり考察したのが『それをお金で買いますか』だ。



たとえば、こんな例。

絶滅の危機に瀕しているアフリカのクロサイ。絶滅危惧種なのでもちろん猟は禁じられているが、なんと15万ドルを払えばクロサイを撃ち殺す権利が買える。

と聞くと、動物の命も金次第か、とイヤな気持ちになるでしょう。
ところが、ことはそう単純な話ではない。
クロサイを撃つ権利をハンターに販売できることで、民間の牧場主はクロサイを保護して繁殖させるインセンティブが得られる。
結果として、クロサイの数は回復しはじめている。

クロサイを殺す権利を金で売ることができるようになったことで、種全体としてはクロサイは守られている。

それでも、快楽のためにクロサイを殺す権利を売ることはいけないのか?
難しいところだよね……。



お金の扱いは難しいと、『それをお金で買いますか』を読んでつくづく思う。
こんな例。
たとえば、増えつづける行動経済学者の一人であるダン・アリエリーは、一連の実験を通じて次のことを明らかにした。何かをやってもらうためにお金を払っても、無料でやってくれるよう頼む場合ほどの努力を引き出せないことがあるのだ。(中略)全米退職者協会はある弁護士団体に、一時間あたり三〇ドルという割引料金で、貧しい退職者の法律相談に乗ってくれるかどうかをたずねた。弁護士団体は断った。そこで退職者協会は、貧しい退職者の法律相談に無料で乗ってくれるかどうかをたずねた。今度は弁護士団体も承諾した。市場取引ではなく事前活動への取り組みを要請されていることがはっきりすると、弁護士たちは思いやりをもって対応したのである。
これはよくわかる。
ぼくも、友人に「引っ越しするから手伝いにきてよ」と言われたら「しょうがないな」と云いながらも手伝いにいく。

でも「1,000円あげるから引っ越し手伝いにきてよ」と言われたら、「1,000円ぐらいで来ると思うなよ」と行きたくなくなる。

お金はたくさん欲しいけど、いついかなるときでも欲しいかというと、そうでもないんだよね……。

べつにきれいごとをいうわけじゃないですけど、お金で売り買いしてほしくない領域というのはある。


最後に、なるほどそのとおり! と思わず膝を打った文章をご紹介。
これで、この数十年間が貧困家庭や中流家庭にとってとりわけ厳しい時代だった理由がわかる。貧富の差が拡大しただけではない。あらゆるものが商品となってしまったせいで、お金の重要性が増し、不平等の刺すような痛みがいっそうひどくなったのである。
そうなんだよね、すべてが商品になるって、しんどいことなんだよね……。


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2016年4月21日木曜日

【考察】頭でっかちの貴様

彼は頭でっかちの人間だ
という言い回し。

たぶん本来の意味としては
「理論や知識ではなく、行動も必要だ」
ということなんだろう。

でも
「おまえは頭でっかちだから……」
と相手を恫喝する人間の99.9%は、

おまえはおれの知らないことを知っているから気に入らない

という意味で使ってるよね。


2016年4月20日水曜日

【思いつき】メモリの限界

用事を片づけようと立ち上がる
 ↓
ごみが落ちてるのに気づいて拾う
 ↓
「あれ? いま、ぼく、何しようとしてたんだっけ……」

ってこと、よくありますよね。


PCで文章をコピーする
 ↓
ちょっと入力作業をする
 ↓
貼り付けしようとする。コピーした情報が消えてる!

ってことがよく起こるんだけど、あれかね、パソコンも
「あれ、おれいま何しようとしてたんだっけ……」
ってなるのかね?


2016年4月17日日曜日

【エッセイ】こいつ、あたしの蒸しアナゴを……!


妻のおかあさんがお寿司を買ってきてくれた。
ありがとうございます!
お寿司大好き!

いっしょに食べることになった。

お寿司はにぎりの盛り合わせ。
とても種類が多い。
マグロやタコ、玉子はもちろん、ヒラメや赤貝など、ちょっとめずらしいのもある。
いろんな種類が、ひとつずつ。

ひとつずつ……。

お義母さんとの食事なのに、ひとつずつ……。

こまった。
ずっと昔に友人とふたりで飲みにいったとき、お互いに「あいつに借りればいいや」と思ってたためにふたりあわせて所持金が1500円くらいしかなくて、しかもそのことに会計時に気づいくということがあったが、そのときと同じくらいこまった。

これはやばい。

世の中に100パーセントはないというけれど、これだけは自信を持って言える。

寿司に順列をつけない人間は100パーセントいない!!


どんなに博愛精神に満ちあふれた人でも、すべての寿司と平等に接することはできない。
ハマチに目がなかったり、イクラがだめだったり、セロリが好きだったりするのね、と山崎まさよしも歌ってました。

甲本ヒロトも
「生まれたところや 皮膚や眼の色で
 いったいこのぼくの
 なにがわかるというのだろう?」
と歌ってたが、彼もぜったいに魚種や赤身か白身かで寿司ネタを差別しているはずだ。

もちろんぼくにも寿司ネタの好き嫌いはある。
先輩に寿司屋でごちそうしてもらっても、尊敬できない先輩だったらまちがえたふりしてそいつの分まで食べちゃうぐらい蒸しアナゴは好きだ。
その一方でイカに関してはぜんぜん興味がないから、合コンで男が聞かれてもいないのに「これおれのバイク」って携帯に入ってるバカでかいバイクの写真を自慢げに見せてきたときの女の子ぐらい興味ない顔で、イカのことを見てる。

だからお義母さんにもとうぜん、いちばん好きなネタがあるはずだ。

さあそれはなんなのか。
ハマチなのかタコなのかウニなのか。

今後のお義母さんとの関係を、ひいては夫婦関係を良好に保つためには、ぜったいに「お義母さんのNo.1ネタ」に手をつけるわけにはいかない。

ここはストレートに訊いてみるのがいちばんだ。

「お寿司はなにがお好きですか?」

「わたしはなんでもいいから、犬犬さん、好きなの食べちゃってくださいね」

……うそつき!

そんなわけはない! ぜったいに好きなネタがあるはずだ。
うっかりぼくがそれを食べてしまった日には、
「うちの婿ったら、あたしのウニを食べたのよ。べつにいいんだけど。べつにいいんだけど、やっぱり家柄がアレなのかしらねー」
とかご近所で言いふらすほど根にもつ寿司ネタがぜったいにあるはずなのに!

しかし「なんでもいい」と言われてしまった以上、もう訊けない。
「そんなわけないでしょ、人間だもの。ほんとは何が好きなんだよ!」とは言えない。


逆に質問された。
「犬犬さんは、何が好きなんですか?」
「いや、ぼくもこれといってないんですけどねー」
ぼくもまた手の内を明かさない。

ここで「じつは蒸しアナゴに目がなくて……」と言えば、話はかんたんだ。
お義母さんは「じゃあ蒸しアナゴどうぞ」と言ってくれるはずだ。
ぼくは大好きな蒸しアナゴにありつける。

だが。
蒸しアナゴはひとつしかない。
もしも、お義母さんの「No.1寿司ネタ」も蒸しアナゴだったなら。
それでもお義母さんは「どうぞ」と言ってくれるだろう。
しかし腹の中は「こいつ、あたしの蒸しアナゴをっ……!」と怒りで煮えくりかえっているにちがいない。

それだけはぜったいに避けなければならない。



「さあ、どうぞどうぞ」
お義母さんがすすめてくる。

もうこうなったら、食べないわけにはいかない。
ぼくは慎重に寿司盛り合わせに目をくばる。

トロ、ヒラメ。
このへんは論外だ。
いちばん好きかどうかという以前に、いきなり手をつけていいネタではない。野球部の新入部員が「じゃあぼくバッターやるんで先輩外野行ってください」と言うようなものだ。

甘エビ、ウニ、イクラ。
これらも危険だ。
好き嫌いがわかれるネタであるが、その分、好きな人は深い愛情を持って接する。
「No.1寿司ネタ」である可能性が高い。

ここは無難に……。

ぼくは玉子に手を伸ばす。
数ある寿司ネタのなかで、まさか玉子が1位ということはないだろう。
玉子なんてぜんぜん食べたくないが、今後の親戚付きあいのためにはいたしかたない。
玉子をほおばりながら、そっとお義母さんの顔をのぞきみる。

大丈夫、その瞳は憎しみの炎で燃えてはいない。

次はお義母さんの番だ。
さあ、何をとる。

……なるほど、エビか。
いい選択だ。
きわめて無難。
甘エビならいざしらず、エビもNo.1になる可能性は低いだろう。

これでますます今後のネタの選択が難しくなった。
玉子とエビが消え、人気のネタ比率が高まった。
鉄火巻き、かっぱ巻き、ツナマヨ、ネギトロ、イカ、トリ貝……。
No.1ではあるまいと自信を持ってチョイスできるのはこのあたりまで。
サーモンやハマチなんかは、「これで親戚関係にヒビが入るかも……」という緊張感をもってつまむしかないネタだ。

これはまるでロシアンルーレット。
いつ被弾するかわからないという恐怖感を抱えたまま、寿司盛り合わせを食べるしかない……!

そのとき。
妻が「じゃああたしアナゴもらいまーす!」と云って、蒸しアナゴをつまんだ。

あっ。
ぼくのNo.1ネタの蒸しアナゴ。

そしてぼくは見逃さなかった。
お義母さんの眼にほんの一瞬、ゼロコンマ1秒にも満たない時間、さっと影がさしたのを。

そのわずかな変化をぼくがとらえることができたのは、細心の注意を払って顔色をうかがっていたからだ。
そうでなかったら必ず見のがしていた、それほど微細な変化だった。
蒸しアナゴがお義母さんのNo.1だったのだ。


よかった。
妻がとってくれて。
義母からすれば、かわいいわが子ににとられたら本望だろう。
ぼくとしても、絶対君主である妻にとられたのなら、異論があろうはずがない。

かくして、No.1ネタ問題は後くされのない形で決着し、わが家の平穏は無事に保たれた。


というわけでお義母さん!
今度から各種類1個ずつしか入っていない寿司の盛り合わせを持ってくるのは勘弁してください!
あと種類がばらばらのケーキ詰め合わせも!

2016年4月14日木曜日

【ふまじめな考察】名物にうまいものなし

ご当地グルメの大会では、○○餃子とか○○汁そばみたいな、あきらかにここ数年で開発された料理が優勝する。

ま、それはそれでいいんだけど。

でもおばあちゃんが昔から食べていたようなご当地料理が上位にくることか決してないのをみると、郷土料理っておいしくないもんだなってわかる。

よく考えたらあたりまえだよね。
おいしかったら、とっくに郷土料理じゃなくて全国区になっているはずだもの。
たこ焼きとかさぬきうどんみたいに。

って考えると、郷土料理のコンテストって、あらためて郷土料理のまずさを再確認するイベントですよね。


2016年4月12日火曜日

【会話】じゃあそっちじゃないほうで

居酒屋をさがして歩いていたら客引きの兄ちゃんに声をかけられた。

「お店決まってないなら、うちはどうですか!」

 「どんなお店ですか?」

「系列グループでやってるんです。和食居酒屋と韓国居酒屋がありますよ!」

 「へえ。どっちがいいかな……」

「おいしいのは韓国料理店です! どっちにします!?」

 「そんな言い方されて、和食選ぶ人います……?」

2016年4月10日日曜日

【エッセイ】入浴裁判


二十歳ぐらいのころ、肺に穴が開いて入院したことがある。

片方の肺には穴が開いたがもう片方は無事だった。
咳は出たが熱も痛みもなく、さほど苦しい思いはしなかった。
ただ、肺から漏れた空気が胸の中にたまってしまうのを防ぐために胸にチューブをつながれたのだが、これは不自由した。

チューブの先は小さなポリタンクにつながっており、どこへ行くにもポリタンクと一緒に移動しなければならない。
立ったり歩いたりするときは常にポリタンクを支えていないとはずれそうなので、片手が使えないのは不便だった。



そんなとき、若い看護師さんが訊いてきた。
「お風呂どうされますか?」

「あー。片手が使えないしチューブにつながってるから身体を洗うのがたいへんそうですよねー。シャワーで汗を流すぐらいにしときます」

「よかったら身体洗うの手伝いましょうか?」


えっ!?

思わぬ一言に、ぼくの頭は真っ白になってしまった。
なにしろ若い女性から「身体を洗いましょうか?」なんて、二十歳のころのぼくは、一度も言われたことがなかったのだから。
ていうか今もない。


身体を洗ってもらうということは、ここここれはつまり、いいいいいっしょにお風呂に入るってことですよね!
ということはつまり、ななななんらかの過ちが起こってしまってもいいいいいいたしかたないということですよね!

なんらかの過ちが起こったとしても、
「被告乙がかのような行動にいたってしまったのは当人の責に帰すべき事由には該当しない」
ってな判例が下るやつですよね、裁判長!


という考えももちろん脳裏をよぎったのだが、ぼくはすっかりびびってしまって
「裸を見られる。恥ずかしい」
ということを先に考えてしまい、
「いや、ひとりで大丈夫です!」
と即答してしまったのだ(実際にはそのコンマ数秒のうちにものすごい妄想をくりひろげていたわけだが)。


ああもうほんとあの瞬間に戻れるなら、自分をこちょばしてやりたい(やっぱりわが身はかわいいから殴ったりはできない)。

合法的に、ほぼ初対面の素人女性といっしょにお風呂に入れるチャンスだったのに!

次にこんなチャンスがくるのはきっと八十を過ぎてからだぞ、おい!

2016年4月7日木曜日

【エッセイ】レーシック手術のにおい

何年か前にレーシック手術をした。
無事に成功して、メガネなしではトイレにも行けなかったぼくが、今では裸眼で生活している。


メガネやコンタクトレンズから解放されると、ちょっとしたことがすごくありがたい。

メガネはほんと不便だ。
小雨で傘がないときに、メガネが濡れるのを防ぐためにうつむいて歩かなきゃいけない。
寒い日に暖房の利いた屋内に入ると曇って何も見えなくなる。
メガネが曇るからマスクがつけられない。花粉症なのに。
コンタクトレンズは眼がかゆいし。
美容師から「これぐらいでどうでしょう?」と聞かれても鏡に写った自分がまったく見えないから適当にうなずくしかない。

ほんと不便。

しかし、今挙げたことはどれも些細な問題だ。
ぼくが視力が悪いことでいちばん不便を感じたのは、せっかくプールに行っても水着の女性がまったく見えないということだった。


しかしそんな悲劇からは、レーシック手術によって解放された。
今は裸眼で車の運転もできるし、もちろんプールでもばっちりよく見える。

手術代として十数万円かかったが、手術をしてほんとうに良かったと思う。

でも。
ぼくは、他人に「レーシック手術いいよ」と勧めたことは一度もない。
自分がやって良かったが、人にはおすすめしない。

なぜなら。
手術のとき、レーザーで眼球を焼くから。
自分の眼球が焼けるこげくさいにおいを嗅ぐことになるから。
焼けた眼球に目薬をさしたときに、熱々のフライパンに水を落としたときと同じ「ジュワッ!」という音を己の瞳から聞くことになるから。

あれはほんと怖かった。
ほんとあれでぼくの寿命が5年は縮んだと思うから、他人には勧めない。

2016年4月6日水曜日

【読書感想文】筒井康隆 『旅のラゴス』

内容(「BOOK」データベースより)

北から南へ、そして南から北へ。突然高度な文明を失った代償として、人びとが超能力を獲得しだした「この世界」で、ひたすら旅を続ける男ラゴス。集団転移、壁抜けなどの体験を繰り返し、二度も奴隷の身に落とされながら、生涯をかけて旅をするラゴスの目的は何か?異空間と異時間がクロスする不思議な物語世界に人間の一生と文明の消長をかっちりと構築した爽快な連作長編。

久しぶりに読んだなあ、筒井康隆。
中学生のときにはよく読んだのだけれど、初期の暴力的で疾走感のあるSFから、難解で思索的な“文学”になったのに辟易していつしか手に取らなくなった。

で、10年ぶりぐらいに読んだのだけれど『旅のラゴス』はおもしろかった。
そして筒井康隆らしくない小説だった。
というと筒井康隆がおもしろくないみたいだけど、そういうことではないよ。

一般的に小説家を形容する言葉といえば「文豪」だったり「巨匠」だったり「天才」だったり「女王」だったりするけど、筒井康隆の場合は「奇才」もしくは「鬼才」だ。
それだけ独自路線を突き進んできたということなんだろうけど、どうも「奇才」がひとり歩きしているきらいがある。
ファンは筒井康隆に「奇才」らしい小説を期待して、筒井康隆もまたそれに応えようとして実験的な小説を次々に生み出していった。
その結果、コアなファン以外はどんどん取り残されていき、一部の熱狂的ファンだけに支えられる作家になってしまったように思う。


『旅のラゴス』の話に戻るけど、いい小説でした。
つまんない感想だけど、「いい小説」としか言いようがない。いい小説ってのはそういうもんだね。

異世界を部隊にしたSFファンタジーなんだけど、細部まできっちり書き込まれている。かといって「こんな細かいとこまで考えてるんでっせ。どやっ!」という押しつけがましさはない。
登場人物には血肉が通っていて 、けれど必要以上に感情移入しすぎてもいない。
ほどほどに刺激的で、ほどほどに叙情的。
すべてがちょうどいい。

アイロニカルな視点もこめられていて、寓話としても楽しめる。

ただラストだけがちょっと不満。
あまりにも唐突に終わってしまうのが残念。

ま、裏を返せば、もっと読みたかったいい小説だったということでもあるんですが。


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2016年4月4日月曜日

【思いつき】五穀米がつん!

やめてくれ。
ラーメン屋で「コラーゲンたっぷりでヘルシー」とか書くのはやめてくれ。

こっちは不健康なうまいラーメンを食べたくてラーメン屋に来てるんだ。
健康を求めるならそもそもラーメン屋になんぞ来てないから。

健康の押しつけは暴力だと自覚してくれ。


そっちがその気なら、こっちだって、マクロビオティックなんたらの女子が好きそうな五穀米ランチに
「胃袋にがつんとくる濃厚な旨さ!」
って書いてやるからな!

2016年4月3日日曜日

【エッセイ】墓石転倒率


地震の震度を測るための指標のひとつに
「墓石がどれだけ倒れたか」
というものがあるらしい。

住居だと素材も構造も大きさも形状もまちまちだから、小さい揺れで倒れる家もあれば、大地震にも耐える家もある。
その点、墓だと日本中どこでもだいたい同じ素材・同じ大きさ・同じ形だから、揺れの比較がしやすい。
また、住居だと「これは半壊か全壊か微妙なところだな……」というケースもあって観測者によって判断が異なったりするが、墓石が倒れたかどうかは誰が見ても明らかなので、観測者によるぶれも小さいのだという。


なるほどー。
理にかなっている。
反論の余地もない。

しかし「墓をデータとして扱う」ってなんかふしぎな感覚だ。
ぼくは不謹慎な人間なので平気だが、やっぱり眉をひそめる人もいるんじゃないだろうか。

「墓石倒壊率67%でした」とか言うことに抵抗を感じるんじゃないか。
「東大合格率75%!」とか「お客様満足度97%!」みたいな扱いでいいのか。
ま、いいんだけど。



しょせん墓石なんてただの石の塊だとはわかってるけど、でもやっぱり、その下に埋まっている死人のことが頭によぎっちゃう。




えー、アルバイトのみなさん。
今日はお暑いなか、墓地までお越しいただいてありがとうございます。

わたくし、大学で地震の研究をしております。
その研究のため、みなさんには墓石の倒壊率を計測していただきたく思います。

右手のカウンターで、全部の墓石の数をかぞえてください。
左手のカウンターで、そのうち倒れている墓石の数をかぞえてください。
端までかぞえたら、私のところに数を報告してください。集計はこちらでやります。

以上です。
かんたんですね。
なにか質問はありますか?


はい、そこの方。

はあはあ、倒れてる墓石はどうしたらいいか、ですか。
それはそのままにしておいてください。
なんだかかわいそうな気もしますけどね。
今回はあくまで計測が目的なので。
へたにいじって、場所がおかしくなってもいけませんしね。


はい、あなた。

なるほど、隣のお墓にもたれかかっているお墓をカウントするかですか。
それは、倒れているものとしてカウントしてください。
死んでまで、誰かを支えようとする人もいるんですね。立派ですね。
ドミノだったら「なんで倒れないんだよ!」つってがっかりされちゃうやつですけどね。


はい、そこの方。質問どうぞ。

はあ。
地震で家が倒れて亡くなったの人のお墓が倒れた場合は、倒壊率200%になるんでしょうか、ですか。
そんなわけないでしょ。


はい、もう一度あなた。

地震で家が倒れた人の墓石が倒れて、その墓石の下敷きになって死んだ人の墓が倒れなかった場合はどうするか、ですか?

あなた、お墓の事情について考えすぎですよ。
ただ墓石が倒れているかどうかだけ気にしていたらいいんです。


はい、もう一度あなた。

はい?
墓石が倒れて、その下から死んだはずの人が息をふきかえして出てきた場合はそもそも墓と定義することはできないんじゃないか、ですか……?

その場合はですね……。
すぐに救急車を呼んでください!