2016年3月30日水曜日

【エッセイ】さよならまずいピザトースト

まずかったなあ、給食のパン。

うちの小学校では給食のおばちゃんたちの手作り給食が出されていたから、おかずはおしなべておいしかった。

ただ、パンと牛乳だけは市の給食センターから届けられていて、そのパンがまずかった(牛乳も薄くておいしくなかった)。
給食センターのパンは古代ギリシャでアリストレテスが食べていたのと同じくらいパサパサで、薄い牛乳で流すようにしなければ飲みこめない代物だった。
「だめだめ! そんな乾いたものにここを通させるわけにはいかないよ!」
と、のどちんこによく通行を拒否されたものだ。

ぼくの父親は和食派だったから朝食はいつもごはんだった。
だから、給食で出てくるパサついたコッペパンが、この世のパンのすべてだった。
ぼくにとっては、この世のすべてのパンがパサついていたということだ。

高校生になって学校帰りにパン屋で焼きたてのパンを買い食いしたとき、
「これが……パン……!?」
と、感動にうちひしがれたものだ。



ほかに長い間まずいと思いこんでいた食べ物に、ピザがある。

ぼくの母親がつくるピザは、おいしくなかった。

母の名誉のために云っておくと、彼女は料理が得意なほうである。
家に遊びにきた友人からも「おまえんちのごはんうまいな」と賞賛されたものだ。おふくろの味だということは差し引いても、かぼちゃとツナの和え物などはかなりの味だと思う。
だが、煮物やおひたしは得意でも、昭和三十年生まれの母にとってイタリアンは縁遠いものだった。

母が愛読していた『暮らしの手帖』に載っていたのは、せいぜい「粉チーズで本格派。ミートソーススパゲティー」や「ハムとトマトでかんたんピザトースト」ぐらいのものだった。

今でこそ猫も杓子もカルボナーラだのペペロンチーノだのを食べているが(猫にニンニクや玉ねぎを与えてはいけません)、母が料理を学んだ時代にそんなものはなかった。
チーズの種類といえば雪印と明治とQBBしか知らない母に、モッツァレラだの、ゴルゴンゾーラだの、パルミジャーノ・レッジャーノだの、ボッテガ・ヴェネタだのいわれても、わかるわけがない(ファッションブランドが混ざっとる)。

昭和前半生まれのおばちゃんにおいしいイタリアンを作らせるなんて、宮大工にすてきなオープンキッチンを造れというようなものだ。やらせてみたら意外に渋くておしゃれなキッチンできそうだけど。

母のつくるピザといえば、ヤマザキの食パンにケチャップをかけて、明らかにおつまみ用の辛めのサラミを乗せ、玉ねぎとピーマンときゅうりとゆで玉子をトッピングして、とりあえずチーズ乗せときゃいいんでしょとばかりに雪印のチーズをふりかけ、真っ黒になるまでしっかりトーストした、ピザトーストだった。

ゆで玉子を乗せるのは栄養バランスをとるため。
きゅうりは冷蔵庫の残り物を片づけるため。
真っ黒になるまで焼くのは、残り物でおなかをこわさないため。
主婦の習性が存分に発揮され、結果、ぜんぜんピザじゃないものができてしまうのだった。

これを「はい、ピザよ」と出されていたのだ。
(母はピザトーストにかぎらず、食パンを黒くなるまで焼かないと気がすまない。「芳醇」を買ってもカリカリになるまで焼く。ぼくがトースターのタイマーを4分にセットしても、「こんなんじゃ焼けへんで」と勝手に8分にする)

外食でイタリアンレストランに行くことなんてなかったし、町内に宅配ピザ屋ができたのは中学校に入る年だったから、ぼくはその黒こげのきゅうり乗せパンこそがピザだと思っていた。

だからずっとピザは嫌いだったし、町内にピザ・カリフォルニアができたときは、あんな黒こげパンを誰がお金出して配達してもらうんだろうかとふしぎに思ったものだ。

しかし、あのピザこそが、ぼくにとってのおふくろの味。



 
今から数十年後。
年老いたぼくは今まさに息をひきとろうとしていた。
「あと177分後」
モニターに映しだされた余命予測は、血圧脈拍心拍数脳活動状況血中酸素濃度その他あらゆるデータにもとづいて導きだされたものであり、誤差±5%の水準で的中することが知られている。つまりほぼまちがいなくあと3時間後には死ぬということだ。
しかしぼくが苦しむことはない。
最先端の高濃度ヘルヂミニウム転回装置のおかげで、死ぬ直前まで臓器は正常に機能している。また、正確に死に向かってコントロールされたカウンセリングプログラムを受けてきたため、不安や怒りを感じることもない。

いくら科学が進んでも死は避けられない。だが最先端科学により、心身ともになるべく健全に近い状態で最期の瞬間を迎えることができるのだ。2016年頃には考えられなかった医学の進歩だ。

「なにか食べたいものはありませんか。できるかぎりのことは用意します」

モニターに映しだされたアンドロイドが、誰よりもあたたかい声で尋ねる。もちろんこれも穏やかに終末を迎えるためのプログラムの一環だ。

ぼくは眠たい頭をはたらかせ、すこし考える。
これが人生最後の食事だ。あたたかいものを食べたい。
いくら胃腸が正常に動いているとはいえ、もともとが年寄りの胃だ。ボリュームのあるものは食べる気がしない。軽食でいい。

「おかあさんのピザトーストが食べたい……」

なぜそれが口をついて出たのか、自分でもふしぎだった。
少しも好きな料理ではなかった。
むしろ、嫌いだったといってもいい。
だが今の気分にぴったり合うのは、人生最後の料理にふさわしいのは、あのピザトーストにおいて他になかった。

もちろんそれはすぐに用意された。
ぼくの脳波から読みとった記憶情報をもとに、母のピザトーストが忠実に再現される。
安物の食パンにカゴメのケチャップがふんだんにかけられ、ピーマンと辛めのサラミとゆで玉子ときゅうりが乗せられる。材料はすべて昭和末期のものに近い味が使われている。
最後に雪印のチーズをふりかけ、これ以上やったら炭になる、という状態までこんがりと焼く。

「焼きすぎたろ……。焦げてるし……」
病床に集まった家族、医師、看護師の全員が心の中で思っているのが伝わる。
だが誰も口には出さない。
もうまもなく死を迎える人間が「これこれ! これこそおかあさんのピザトースト!」とうれしそうにしているのに、誰が「そんなの食べたら癌になりますよ」と言えるだろうか。

ぼくはひさしぶりに身体を起こし、黒こげきゅうり乗せパンをほおばる。
手についたケチャップまですべて平らげ、やがてゆっくりと目をとじる。

もう、この世でやることはなにひとつない。

「ああ、まずかった……」

それが最期の言葉となった。

その死に顔には、まずかったという言葉とはうらはらに、満足そのものといっていい微笑が浮かんでいた……。

2016年3月29日火曜日

【写真日記】契約書のフォント


とある会社が送ってきた契約書のフォントがゴシック体だった。
やはり契約書は明朝体じゃないと気持ち悪い……。

感覚的なことだけど(だからこそ)けっこう大事なことだと思うので、そろそろこういうことをビジネスマナーとして教えていく必要があると思う。

あとぼくとしては、エクセルで数字を左詰めで入力する人の神経が信じられない。
けっこういるんだよね、これが。


2016年3月28日月曜日

【エッセイ】今日はお休みですか?

「今日はお休みですか~?」

美容院、理容院で定番の質問ですよね。
これ、なんなんでしょう。


ぼくは、見知らぬ人と話すのが苦手です。
美容院では、必要最小限の話しかしたくありません。
自分の髪型にもあまり興味がないので、カットされている間はずっと目を閉じて考えごとをするか、寝るかしています。

先週美容院に行ったときも、
「前髪は眉にかからないように。横は耳まで。あとはそれにあわせて自然な感じにしてください」
と、ここ十年ぐらい言いつづけている必要かつ十分な要求を伝えて、目をとじました。

しかし、ぼくの担当である若い男の美容師ときたら。
「今日はお休みですか~?」

おいおい、と。
ちょっとは考えろよ、と。

その日は日曜日。

そのとき午後2時。

ぼくの格好は、ユニクロのフリース。

その時間に、その格好で、30代のおじさんが散髪に来てるわけ。
もう今日はお休みだと判断しても差し支えないんじゃなくて!?

仕事ぬけだしてきたと思ったわけ?
ユニクロの1,990円のオレンジ色のフリースで?

あほかー!
仕事ぬけだしてくるんだったら、いちばん混んでる日曜日の午後じゃなくて、もっとすいてる時間に来とるわ!!


「今日はお休みですか~?」

それ!
そんなに!
言わなあかんこと!?

ぼくの勤務体制とあんたが髪切ることに関係ある??
休みだろうがなんだろうが、常にベストの力で切れ!

おっと。
つい取り乱しちまった。
すまなかったな。

ま、でもよ。
「今日はお休みですか」だって、まったく無意味な質問とは言いきれねえよな。

世の中にはいろんな仕事のやつがいるからな。
「今日はお休みじゃなくて夜勤で交通整備の仕事なんです」
ってケースもあるだろな。
そしたら「ヘルメットで髪型がつぶれないように固めにセットしとこう」ってなるかもしれないよな。

それぐらいはぼくにだってわかる。
小学生のときは通知表の担任コメント欄に
「もっと他人の気持ちを考えよう」
と本気の説教コメントを頂戴したぼくだけど、30を過ぎた今ではそれぐらいのことは想像できる。

でもな。

でもな。

こっちは早々に目をとじてるわけ。

「あなたと余計な会話はしたくないです」
っちゅう意思表示なわけ。

「髪を切られてる間、鏡は見ません。すなわちカットについてはあなたに一任しますし、細部についてああだこうだ言うつもりはありません」
っちゅう意思表示なわけ。

この後夜勤で交通整備するからヘルメットかぶるとしても。
この後ナイターのジャイアンツ戦で打席に立つからヘルメットかぶるとしても。

あなたは心配しなくてもいいんです。
髪がぺしゃんこになってもいいんです。
だから黙って散髪してください。

ってこっちは思ってんのに、続けて
「今日は寒いですね~」
じゃねえんだよ!

そんなことは、ずっとここで髪切ってるおまえより、さっき外を歩いてこの店まで来たぼくのほうがよっぽど知ってるから!

そんなに会話がしたいなら、目の前の鏡の中の自分としゃべってろ!


……あっ、それはさすがに嘘!
いくら髪形にこだわらないとはいえ、鏡の自分と会話してる人には髪切られたくないです!

2016年3月27日日曜日

【読書感想文】バトラー後藤裕子『英語学習は早いほどいいのか』

内容(「BOOK」データベースより)
子どもたちに早くから英語を学ばせようというプレッシャーが強まっている。「早く始めるほど良い」という神話はどこからきたのか。大人になったら手遅れなのか。言語習得と年齢について研究の跡をたどり、問題点をあぶり出す。日本で学ぶ場合、早期開始よりも重要な要素とは何か。誰がどのように教えるのが良いのだろうか。

小学校で英語学習がはじまったり、早いうちから英語を学ばせようという幼児教育が盛んだ。
といっても今にはじまったことではなく、ぼくが小学生のときにも英会話教室に通っている同級生はけっこういた。
で、そういう子らがその後英語ができるようになったかというと、(ぼくが知るかぎりでは)ぜんぜんそんなことはない。まあ本人の意欲なんかもあるんだろうけど。
そんなわけでぼくは早期英語教育については懐疑的に見ている。



『英語学習は早いほどいいのか』では、慎重にデータを集めて「ほんとに早期英語教育は有効なのか?」を検証している。
しかし本当に慎重なのである。慎重すぎてうんざりするほど。
「○○という研究結果もある一方で、××という報告も上がっている。というわけでどちらということもできない」という説明ばっかり。

筆者は学問的に誠実な人なんだろうけど、それにしてももうちょっと明快にできなかったのか。
「で、どっちやねん!」と言いたくなる。
新書なんだからもうちょっと簡潔に書いてよ……。


乱暴に結論をまとめてしまうと、

「外国語学習においては幼少期から学習をはじめたほうがよさそう。ただしそれは移民のように日常的に膨大な外国語と接する環境においての話であって、日本人が日本で英語を学習する程度であれば、『いつ始めるか』ではなく『どれだけ長い期間学習するか』が重要である。早すぎる時期に外国語学習をはじめることは、外国語に対する苦手意識が増したり、母語の習得が遅れるというデメリットも引き起こす」

ということみたいです。
 しかし、なぜ私たちの耳は生後早い時期に母語以外の言語の韻律特徴や音への敏感さを失っていくのだろうか。これは、母語をできるだけ効率的に習得するためのメカニズムであると考えられる。クールは乳幼児の脳の活動を調べ、母語への特化の早い子どもは、母語の語彙習得の進み具合が早くなるというデータを示した。逆に、外国音を聞き分ける能力をなかなか失わない赤ちゃんは、母語の習得が遅れるという。赤ちゃんは、母語の特徴に注意を集中させることで、言語環境に応じて、効率よく母語を学ぶ体制を整えているというわけだ。
 フレーゲは、非常に早い時期に学習を開始した学習者にも外国語アクセントが残るという結果から、母語の使用頻度が第二言語のアクセントに影響を与えていると考えた。すなわち、母語の使用頻度が少なくなったり、極端な場合、母語を喪失してしまったりすると、第二言語の外国語アクセントが低くなるというのである。この仮説をフレーゲはスピーチ学習モデルと名づけた。
 フレーゲによると、第二言語の外国語アクセントが強まるのは、年齢が上がるにつれ、正確な発音を習得する能力が衰えるからではなく、母語の音に大量に触れることにより、母語の音韻システムをより強固に確立するからだという。つまり、母語と第二言語とはトレードオフの関係にあるというわけだ。
移民や植民下にある地域の子どもにとっては、外国語の習得の成否が命にも関わる重要な課題である。なんとしても身につけなければ生きてゆけない。たとえ母語を捨ててでも。
という事情を考えると、「日本人は英語がへた」なんて批判されるけど、それは日本語だけで生きていけるほど軍事的にも経済的にも安定した世の中だってことだよなあ。
英語がへたでいられるって、幸せなことなんですよ。



じゃあどうすれば外国語が身につくのかというと、
「どれだけさしせまった課題として習得しようとしているか」と
「どれだけ多くの時間を外国語学習に費やすか」
ということに尽きる。

なーんだ、と思うような結論だ。

そう、結局のところ、劇的に英語が話せるようになる近道は存在しないのだ。

ジョン万次郎のように単身で外国に放りだされれば否が応でも身につくだろうし、1日5時間真剣に学習すればたいていのことは話せるようになるだろう。
つまり、高いリスクを引き受けるか、大きなコストを支払うかしかないわけだ。

でもそんなのはやりたくない。
わが子を天才児にしたい母親や、あっと驚く施策でもてはやされたい文科省や教育委員会のみなさんや、てっとりばやくお金を稼ぎたい教育ビジネス界の方々が求めているものとは違う。

みんな勉強が嫌いなんだろうね。「楽して大きな成果をあげる」ことしか考えていない。
だから、たしかな研究結果も出ていない「早期英語学習によってバイリンガルに!」という神話に飛びついてしまう。
中国でも韓国でも、裕福なエリート層を中心に、イマージョン・プログラム( 教科を外国語で指導するという点から、一種の内容ベースの指導法といえる) は大人気だ。しかし、その「成功」のほどがはたしてどの程度一般化できるのかたいへん疑問である。日本よりずっと英語の浸透度が高いマレーシアでさえ、二〇〇三年に初等・中等教育で数学・科学を英語で教えることに踏み切ったものの、わずか六年後に、また母語で教えることに方針を戻した。結局、英語で教えることによって数学・科学の理解が不十分になるなど、デメリットの方が大きかったのである。
こうした傾向は日本だけではないみたい。

ぼくはただ、自分の子どもが学校に入るころには、根拠薄弱な「子どものうちにこそ英語教育を!」ブームが去っていることを願うばかり……。


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2016年3月26日土曜日

【写真日記】モデルの格

大阪市内 某ショップのリニューアルオープン祝いのお花。



お花の位置を見るに、関西では上戸彩やローラよりも海原やすよともこのほうが格上なんだな。

しかし、ファッションブランドとしてはどうなんだろ。
「海原やすよともこさんも愛用のブランドです!」
って宣伝効果あるのか。
マイナス効果のほうがでかい気がするぞ。

2016年3月24日木曜日

【ふまじめな考察】ヨッシーの卵のナゾ

ゲーム『スーパーマリオワールド』には、ヨッシーの卵というものが存在する。


この卵、実にカラフルな柄をしている。
白地に鮮やかなグリーンの斑点。
遠目に見ても、ヨッシーの卵だということがすぐわかる。
はたして、これは何のためだろうか?

卵が派手であることは、どう考えても、生存競争をする上で不利である。

卵というものは自走ができないため外敵に対して無防備であり、かつ栄養豊富であるため外敵からは狙われやすい。
卵が危険にさらされることは、すなわち種族の繁栄の危機である。

そのため、通常は卵が外敵から目立たない方向に進化圧がはたらく。

目立たない卵は生存に有利であり、逆に目につきやすい卵を産む個体は淘汰されて遺伝子を残すことができない。
結果として目立たない卵ばかりになる……はずだ。

なぜヨッシーは派手な卵を産むのか。


仮説1)
進化圧となるような外敵が存在しないのではないか。
外敵がまったく存在しない環境であれば卵はどんなに派手でも問題はない。

→ 反証)
『スーパーマリオワールド』の舞台となった「恐竜ランド」には、あたりかまわず攻撃をしかけてくる凶暴な生物が多い。


仮説2)
親が卵をつきっきりで保護するので柄は問題ないのではないか。
ワニのように、十分に強い親が卵を守るのであれば、仮に卵が外敵から目をつけられたとしても手出しはされない。

→ 反証)
プレイしたことのある人ならわかるが、卵が出現する場所の付近にヨッシーがいることなどない。
ヨッシーはたいていの爬虫類と同じく、子育てをしない。


仮説3)
卵を大量に産むので、少々の犠牲は問題ないのではないか。
マンボウは一度に数億個の卵を産むが、そのうち成魚になるのは数匹だけである。この数打ちゃ当たるシステムを採用しているのではないか。

→ 反証)
たしかにヨッシーは数多く卵を産むようだ。恐竜ランドのいたるところにヨッシーの卵が産みつけられている。
この仮説はなかなか有力そうだが、問題は、卵から孵ったばかりのヨッシーが成獣の半分くらいのサイズだということだ。
自身の十分の一以下のサイズの赤ちゃんを産むのでも、人間のお母さんはあれだけ苦労しているのだ。いくらヨッシーが大食いだとはいえ、成獣の半分サイズの卵を産むのには非常に大きなコストとリスクが伴うはずだ。
数打ちゃ当たる戦法は通用しない。


仮説4)
卵が外敵に食べられやすくなるというデメリットを上回るほどのメリットが存在するのではないか。

→ アブラムシは、甘い汁を分泌し、アリを集める。
アリはアブラムシから汁を吸わせてもらう代わりに、アブラムシの天敵であるテントウムシを追い払う。

同じようにヨッシーも、あえて目立つ卵を産むことで他の生物、すなわちマリオを惹きつけようとしているのではないか。

先ほども説明したとおり、ヨッシーは子育てをしない。また、恐竜ランドには危険な外敵が多数生息している。
この過酷な環境で生存するために、ヨッシーはマリオという生物種を利用する道を選んだのではないか。

ヨッシーはマリオの足となり、代わりにマリオは外敵からヨッシーを守る。
このような共生関係を保つためには、遠目からでもマリオの目につきやすいデザインの卵は都合がよかったのだろう。

遺伝子を残すために他の生物の習性(姫を助けに行きがち、という習性)を利用する。
たくましくもしたたかな生物としての戦略が、ここにはある。

2016年3月23日水曜日

【読書感想文】堀井 憲一郎 『かつて誰も調べなかった100の謎』

内容(「BOOK」データベースより)

1995年から2011年。まさに「失われた20年」と呼ばれる時期に、『週刊文春』誌上で連載されていた伝説のコラム「ホリイのずんずん調査」。どうでもよさそうなことから意味ありげなことまで、他に誰もできない(というか、やらない)調査の積み重ねから100の「謎」をセレクトした集大成。飲み屋の小ネタによさげに見えて、実は日本の20年までもが浮かび上がってくる―(かも)。ネットでは検索できない秘密がここにある。

週刊文春で連載していた「ホリイのずんずん調査」はおもしろい連載だった。もう終わっちゃったけど。

どうでもいいことを調べるためにとんでもない量のデータを集めていた。
「どうやって調べているのだろう」 と思っていたけど、連載をまとめた(というか厳選した)この本を読んで謎がとけた。
なんのことはない。足と労力と時間とお金を使って調べつくしているのだ。

と、かんたんに書いてしまったが、これはとんでもない調査だ。 「金のエンゼルの出現率を調べるため」にチョコボールを2,000個買ったり、 みんなが銀行の4桁の暗証番号をどうやって決めているか調べるために、 知人に「どうやって数字を決めたの」と訊いてまわったり (かなり不審がられたらしい。あたりまえだ)、日本三景(松島、宮島、天橋立)を一日でまわったり(強行日程のため宮島まで行ったのに厳島神社を見られない……!)、テレビ局全局の1週間の番組をすべてチェックして、 どのアナウンサーが映ってる時間がいちばん長いかを調べたり(24時間×7日×6局=1,008時間らしい)。

いや、すごい。
ぜひ堀井憲一郎氏に国の研究機関から金を出してあげてほしい。
1,000年後には貴重な史料になるはずだから。
(1,000年経てばどんな本でも貴重な史料になるはずだというツッコミはなしだ)



いやでもほんと、「えーそうなんだ!」とおどろく調査結果も多い。
たとえばこんな調査結果。

寿司を「一貫、二貫」と数えるようになったのは1990年代で、それまでは「一個、二個」と数えていた。

これは、1990年前後の雑誌を丹念に調べてわかった事実だそうだ。
知ってました? ぼくは「一貫、二貫」は江戸時代からある数え方だと思ってた。悪名高い「江戸しぐさ」みたいなもんなんだね。

1980年頃まで、クリスマスは子どもだけのものだった。カップルが一緒に過ごす日になったのはバブルの頃。

花粉症も1980年頃。もちろん症状はそれ以前からあったが、ほとんど認知されていなかった。

司馬遼太郎の『竜馬がゆく』以前は、坂本龍馬は明治維新において脇役扱いだった。
(というか実際に脇役だった)

1980年代生まれのぼくからすると、カップルのためのクリスマスも、花粉症も、龍馬を中心と歴史観も、あたりまえの話。 でもちょっと上の世代にとってはそんなことないんだね。
日本の「常識」って、けっこう最近つくられてるんだなー。
龍馬と自分を重ね合わせている人間はぼくも大嫌いなのだが、堀井氏もこう書いている。 
(国の制度作りに携わっていない)龍馬が幕末の人物のトップであると本気で言ってるのなら、国の運営はどうでもいいといってるようなものだ。
 だから現役政治家で「龍馬を目標の政治家としてる」と公言して憚らない連中はチェックしておいたほうがいい。



あと大阪生まれ、兵庫育ちのぼくにとっておどろきだったのはこんな話。

エスカレーターでの立つ位置。右に立つのは大阪、兵庫、奈良、和歌山ぐらい。

「大阪は右だけど東京は左らしいよ」 そんな話は聞いたことがあったので、 「そうか、右に立つのは西日本だけなのか」  と思っていた。
ちがうんだね。 中国も四国も九州も左。 圧倒的少数派だったとは……。



週間天気予報はまったく当たってないという調査もおもしろかった。
週間天気予報127日分を調査。 そのうち雨は31日あったが、7日前に「7日後は雨です」と的中させていたのは1回だけ。 なんと的中率3.2%!
そんなにあたらないのか……。 冗談でもなんでもなく、下駄を転がしたほうがまだ当たるだろな……。
3日前でも38.7% 2日前で58.1% 前日でやっと77.4%
こんな的中率なのに、週間天気予報ってやる意味あるのかね。
週末に出かけるときは月曜日ぐらいから予報をチェックしてたけど、こんなにいいかげんなんじゃ、なんの参考にもならないね。


いいかげんといえば相撲の仕切り時間。 4分以内に立ちあわないと決まっている。 ところが堀井さんが実際に計ってみたら、5分を超える取り組みはざらで、6分を超えるものもあったとか。
相撲好きのぼくも、おかしいと思ってたんだよなー。 相撲って競技時間は決まってないのに、いっつも夕方6時ちょうどに全取り組みが終わるもんなー。 すごく早く終わる日や、時間がないので横綱取り組みは放映できません、みたいな日があってもいいのに(相撲ファンとしてはよくないけど)。 

なるほど、NHKの相撲中継にあわせて仕切り時間を長くしたり短くしたりして調整してるんだなあ。 けっこうせこい。 なんでも調べないとわからないもんだね。



笑ったのが次のふたつの調査。

・選挙で当選したときに、応援者がバンザイするのにつられて自分もバンザイしちゃうマヌケな議員は誰なのか。
・サッカーW杯におけるフリーキックの調査。ディフェンダーが前で手をあわせて股間を守る率が高い国はどこなのか。逆に、股間を守らない男らしい(?)国はどこなのか。

気になる答えは、この本で調べてください。 気にならないですか。そうですか。



ところで堀井憲一郎、データ収集の情熱もすごいけど、文章もうまいなあ。コラムニストのお手本のような読みやすい文章を書く。
落語が好きだというだけあって、軽妙で洒脱な言い回しが光る。
重たいデータなのにそうは見えなくてとっつきやすいのは、この文章によるところが大きいはず。

「調べる」楽しさを教えてくれる一冊。
 新大学生に読んでほしいな。


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2016年3月18日金曜日

【エッセイ】かわいそうなおじさん


年を重ねると、いろんな角度からものを見られるようになる。


『かわいそうなぞう』の話を小学生の頃に読んだときは、あの手この手で殺されるなんて、ゾウたちがかわいそうだと思った。

しかし今読むと、ゾウに対してはあまりかわいそうだという感情が浮かんでこない。
その代わり、動物園の職員に対して「やりたくもないのに殺さないといけないなんて、つらかっただろう」という同情の気持ちが浮かぶ。
『かわいそうなぞう』ではなく『かわいそうなおじさん』だと思うようになった。


『つるのおんがえし』も大人になって見方が変わった。

子どもの頃は「言いつけを破ったのだから逃げられてもしかたないよね」と思った。
今は「一回のぞいちゃったぐらいで厳しすぎるよ。命の恩人に対してその対応はないんじゃない?」と思う。



『こぶとりじいさん』もだ。

隣のよくばりじいさんは、ただ、顔のこぶをとってもらいたかっただけなのに、踊りが下手だったからというだけでこぶを増やされて不憫でならない。
そもそも顔面の腫瘍がなくなってほしいと願うことは欲深いことじゃないだろ!


……と、ここまで書いて気がついたのだが、いろんな角度から見るようになったわけじゃなく、全体的におじさんやおじいさんに肩入れした見方をするようになった気がする。

年を重ねることで視野が広がったんじゃなくて、自分がおじさんになったから中高年男性に対して感情移入するようになっただけだったわ……。

2016年3月16日水曜日

【読書感想文】オリヴァー・サックス 『妻を帽子とまちがえた男』

 内容(「BOOK」データベースより)
病気について語ること、それは人間について語ることだ―。妻の頭を帽子とまちがえてかぶろうとする男。日々青春のただなかに生きる90歳のおばあさん。記憶が25年まえにぴたりと止まった船乗り。頭がオルゴールになった女性…。脳神経に障害をもち、不思議な症状があらわれる患者たち。正常な機能をこわされても、かれらは人間としてのアイデンティティをとりもどそうと生きている。心の質は少しも損なわれることがない。24人の患者たち一人一人の豊かな世界に深くふみこみ、世界の読書界に大きな衝撃をあたえた優れたメディカル・エッセイ。

脳神経科医による医学エッセイ。
いやあ、おもしろい本だった。

さまざまな脳神経に障害をもった患者が紹介されている。

なんといっても衝撃的なのが、タイトルにもなっている患者Pの話。
目が見えないわけでもないのに、自分の足をさわりながら「これはわたしの靴ですか」と言ったり、帽子をかぶろうとして妻をつかんでかぶろうとしてしまう。
彼に手袋を渡してみたときの反応は……。
「手にとってみていいですか?」彼はそう言うと私の手から手袋をとり、あたかも幾何学の図形をしらべるときのような調子で、子細に検討しはじめた。
 しばらくして、彼は口をひらいた。「表面は切れめなく一様につづいていて、全体がすっぽりと袋のようになっていますね。先が五つにわかれていて、そのひとつひとつがまた小さな袋ですね。袋と言っていいか自信はないけれど」
「その通り」私は慎重に口をきいた。「あなたがおっしゃること、まちがっていません。では、それは何でしょう?」
「なにかを入れるものですね」
「そうです。何を入れるものでしょう?」
「中身を入れるんですよね」そういってPは笑った。「いろいろ可能性があるなあ。たとえば小銭はどうかな。大きさがちがう五種類のコイン。さもなければ……」
なぜそこまでわかるのに手袋だとわからないの!?
もうふざけてるとしか思えない(実際、周囲の人からは冗談だと受けとめられてなかなか病気だと気づかれなかったそうだ)。

高い知性はある。知覚に異常はないので認識はできる。論理的な推測もできる。
ただ、「判断」だけができない。

だから手袋を見て特徴を説明することはできるけど、それが手袋だという判断ができない。
ふしぎ……。

驚くのはこれだけではない。この患者Pさんは、入院もせずに仕事もしているんだとか。
音楽学校で教師を務め、家に帰れば妻がいる。(ときおり妻と帽子をまちがえたりすることをのぞけば)ごくごくふつうの教師なんだという。

人って自分の足がわからなくなっても意外と生活できるものなのか……。
妻と帽子の区別がつかなくても大丈夫なのか……。
ぼくなんか妻が怒っているかどうかの区別がつかなくて困惑ばかりしているのに!



他にもいろんな珍しい症状を抱えた患者がこの本には登場するが、べつに「どや!珍しい症例やろ!」と見世物的に患者を紹介してるわけではない。

さっき引用した文章もそうだが、著者の視点はあくまでフラット。
患者をばかにするわけでもなく、過剰に同情するわけでもなく、ひたすら冷静に対象を観察して、原因を分析し、治療を試みている。徹頭徹尾、科学者・医師の視点。

これが読んでいて心地いい。
自分までがカウンセリングを受けているような気にさせてくれる文章。



この本には、脳機能に異状をきたしたことが、かえって患者にとってプラスになったケースが多く紹介されている。

たとえば、ファントム(幻影肢)という現象。
事故で脚を切断した患者が、存在しないはずの足の指にかゆみを感じる、という現象。
これも脳神経の障害だ。

だが、このファントム、義足を動かすためには必要不可欠なものなんだとか。
ファントムの脚(実際には存在しない脚のイメージ)と、現実に存在する義足の位置とがぴったりあうことで、もともとあった脚のように義足を動かすことができるらしい。
ファントムは障害なんだけど、それがあるからこそ義足が動かせる。

それから、あるチック症の男。
落ち着きがなく、怒りっぽく、ひとところにじっとしていられないという性質の持ち主。
その反面、反応と反射が異常に速く、スポーツやゲームにめっぽう強いという利点もあるんだとか。
彼に投薬をすることでチックを抑えたところ、落ち着いた行動をするようになったものの、身のこなしがおそくなり、ぼんやりと過ごすようになったそうだ。欠点と同時に、美点も失われてしまったわけだ。

彼の言葉。
「チック症を治すことができたとしても、あとに何が残るっていうんですか? ぼくはチックでできているんだから、なんにも残らなくなってしまうでしょう」
結局、本人の希望で週末は投薬をやめることになり、当人は大いに満足したそうだ。

一般にはマイナスとされることでも、うまくつきあっていける人にとっては武器であり、アイデンティティになるんだね。

ぼくはまったく音程のとれないド音痴だ。これもきっと脳のエラーなんだろう。
だから人前では歌わない。カラオケなんかもってのほか。
でも。
音痴だってうまく使えば武器になる。カラオケにいって堂々と歌えば、確実に笑いはとれる。そこそこうまい人よりよっぽど印象に残るだろう。

だけどぼくには恥ずかしくてできない。そんな小心者のぼくとしては、弱点を武器に変えられる人がうらやましくてしかたがない。



その他、知的障害者の青年がコンピュータも紙も使わずに十桁以上の素数を次々に見つけたりと、さまざまな「障害がプラスにはたらいたケース」が紹介されている。

天才と呼ばれたモーツァルトやアインシュタインやエジソンも、奇人としてのエピソードが残っている。
彼らもまた、もしかすると脳神経を調べると何かしらの異状を持っていたのかもしれないね。

天才とキチガイは紙一重というけど、紙一重どころか同じ紙の表と裏なのかもしれないね。
頭が良すぎるのも「異常」にはちがいないし。



最後に、もっとも印象に残ったエピソードをご紹介。

病院で患者たちがテレビを観ていると、どっと笑い声が上がった。笑ったのは失語症の患者たち。彼らは言葉が理解できないはずなのに。
何かおもしろい番組でもやっているのかと作者がテレビを見ると、大統領が大まじめに演説をしているだけ。
いったい彼らはなぜ笑ったのか?

じつは、言葉の意味が理解できない失語症患者でも、話しかけられたことの大半は理解できるんだそうだ。
どういうことかというと、単語の意味が理解できなくなっている分、彼らは言外の意味を読むことに長けていることが多いんだとか。
話し手の表情や、声調、テンポ、抑揚、イントネーションなどの微妙な変化を聞き分け、語りかけられた内容を理解するそうだ。

で、声の微妙な変化を感じとれるから、失語症患者には嘘が通用しない。
嘘をすぐに見破ることができる。

だから、オーバーな身ぶりやもっともらしい表情なのに話している言葉は嘘ばかりの大統領がおかしくて笑っていた、ということなんだそうだ。

言葉の意味がわからないのに嘘がすべて見抜ける……。
すごい、人間嘘発見器だ。伊坂幸太郎『陽気なギャング』シリーズに出てくる成瀬氏ももしかするとこの病気なのかな。

ぼくみたいに嘘ばかりついている人間からすると、おそろしすぎる。
妻が失語症になって、嘘を見抜く能力を手にしないことを願うばかり……。


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2016年3月14日月曜日

【エッセイ】ホワイトツナ缶

寿司屋のカウンターで呑んでいると、隣からこんな会話が漏れ聞こえてきた。
「男どもってどうしてホワイトデーのお返しにお菓子ばっかくれるんやろか」

声のした方を見ると、三十代半ばであろう女性ふたりが語らっている。
女同士で寿司屋で呑むだけあって、なかなかやさぐれた感じの女だ。
黄緑に塗った爪で、イクラの軍艦をつかんで口に放り込んでいた。
「お菓子あげときゃ喜ぶと思ってんのかね、やつらは」

えっ……。ちがうの!?
ぼくも、今の今までお菓子あげときゃ喜んでもらえると思っていた。
ていうかホワイトデーの定義って、男がお菓子あげて喜ばせる日なんじゃないの!?

彼女たちの話は続いた。
「みんな芸もなくお菓子ばっかり。お菓子じゃなかったのはひとりだけやったわ」
 「誰?」
「カシワバラさん」
 「何くれたの?」
「珍しいツナ缶」
 「おー。さすがカシワバラさんやなあ。ステキやわあ」

珍しいツナ缶……!!

隣で聞いていたぼくも、わあステキと思う。
なんて自然体なチョイスなんだろう。
ツナ缶がステキなのではない。
カシワバラさんの、失敗をおそれない姿勢が気持ちいいのだ。

ぼくだったら、ホワイトデーのお返しを選ぶときは「まちがいのなさ」で選ぶ。
デパートの、みんなが並んでいる店で、そこそこの値のするお菓子を選んでおけば
「まあまちがいないだろう」
という気持ちで選んでいる。

その点、カシワバラさんは違う。
彼は間違いをおそれてはいない。
彼は自分だけの正解を探す。
自分の感性に真剣に耳を傾け、何を贈りたいかを自問する。
そしてその結果、ツナ缶以外にはないという結論に達した。
「ツナ缶あげときゃ問題ないだろ」なんて気持ちはカシワバラさんの心には微塵もない。
「これおいしいから食べてもらいたい!」
きっとその気持ちだけで、彼はホワイトデーのお返しにツナ缶を選んだに違いない。

多くの男たちが空振りを避けようとして“とりあえず”デパートのお菓子を贈った。
やさぐれ女は、その姿勢を見抜いていた。
人まねのファッションをしている人がどんなに高い服を着ていてもかっこわるいように、「ハズさないようにしよう」という考えそのものが、もう「ハズレ」なのだ。

カシワバラさんは違った。
三振してもかまわないというぐらいのフルスイングでツナ缶を放った。
そしてその一か八かのスイングは、見事なホームランとなった。
このひたむきさこそが「さすがカシワバラさんやなあ」「ステキやわあ」につながったのだ。

なんて魅力的な人なんだ、カシワバラさん。
会ったことないけど。


2016年3月12日土曜日

【エッセイ】我々は梅干しを許さない!

梅干しが憎い。

嫌い、という程度では収まらない。
ぼくは梅干しを憎んでいる。
殺しても殺したりないぐらいだ。

ぼくは味の濃い食べ物が嫌いだ。
だから当然、塩味と香りの強い梅干しも好きになれない。

でも、それだけでは嫌いにはなっても、蛇蝎のごとく憎んだりはしない。
梅干しの憎々しさは、厚かましいところにある。

ぼくは梅干しにかぎらず、漬物全般が好きではない。味が濃いからだ。
たくあんも、しば漬けも、おしんこも、どれも好きではない。
だが彼らとは距離を置いて、ほどほどの付き合いをやっていけている。
それは彼らが、ぼくの食生活に干渉してこないからだ。

定食を頼むと、たいてい漬物が小皿に乗って出てくる。
もちろんぼくは箸をつけない。
どうせ食べないことに決めているのだから、はじめからその存在を意識すらしない。

ぼくが漬物に見向きもしないのと同様、漬物もまたぼくのことを無視している。
「ほら、漬物も食べなよ」
「このままだとおかずがなくなってごはんが余っちゃうよ」
そんなことは口にも出さない。

お互いに不干渉を決めこんでいる。
いってみれば、大人の付き合いというやつだ。
暴力団もテロ組織も詐欺師もセレブ妻も好きじゃないけど、ぼくの生活にかかわってこないかぎりはどうでもいい。いちいち憎んだりはしない。

ところが梅干しはそうではない。
なんとかして関わってこようとする。

お弁当を買う。
するとヤツ(梅干し)は、ごはんの真ん中にどっかりと腰を下ろしている。
ほんとにど真ん中。
ごはんが占める長方形のスペースの、対角線が交わるところにヤツはいる。すなわち、重心。
申し訳なさそうに弁当箱の隅に身を潜めている他の漬物のつつましさとは大違いだ。

憎い。なぜこいつはこんな偉そうにしているのか。


ぼくが買ったのは “トンカツ御膳弁当(税込864円)” である。
誰がどうみたって、主役はトンカツ。助演女優はごはん、キャベツがトンカツとの友情出演で、脇を固めるベテラン俳優がひじきと煮物。
梅干しなど、役名もない通行人Aにすぎない。
それがなぜ、偉そうに真ん中に陣どっているのか。
口うるさいベテラン女優に
「ちょっとなにあの赤い子!? なんでど真ん中に座ってるのよ! 事務所どこよ!?」
と怒られればいいのに。
そしてお弁当界から干されればいいのに。もう干してあるけど。

しかしまあ、その件については目をつぶろう。
たしかに梅干しは、主役をはれるほどの華やかさはないが、キャリアだけは長い。
押しも押されもせぬ大物女優のごはんと、苦しい下積み時代を支えあってきたという功績もある。
年功報奨的な意味で、ごはんの真ん中に配置してやるのもしかたない(たいした役でもないベテラン俳優が、エンドロールで最後にクレジットされるようなものだ)。


ぼくが許せないのは、その後の振る舞いだ。
梅干しを食べたくないから、箸でつまんで弁当箱の外に追い出す。
すると、梅干しが座っていたごはんの上に、赤い染みができている……!

なぜ静かに退場しないのか。

梅干しの出番は、
「塩分によってごはんが傷むのを防ぐ」
「その赤さによって弁当に彩りをくわえる」
というところで終わっているのだ。
もう十分にその役割を果たしたのに、なぜおとなしく去ってくれないのだっ。

これが若手なら、まだ致し方ない。
たとえば新進気鋭の個性派俳優・パクチー。
彼はそのアクの強さゆえに好き嫌いの激しい俳優でもある。
多くは取り除かれる運命にあるが、退場した後もその強い香りによって存在を主張する。
これは決して褒められたことではないが、パクチーが日本でデビューしてからまだ日が浅いことを考えれば、気持ちはわからないでもない。
なんとかして爪痕を残さなければ、その他多くの野菜たちの中に埋没してしまう。
その焦りが、パクチーにかのような行動をとらせたのであろう。
実際、そのおかげで今ではパクチーは嫌いな食べ物の代名詞として名を馳せ、名悪役として確固たる地位を築きつつある。
これもひとつの戦略だ。

だが梅干しはそうではない。
長らく第一線でやってきて、もう十分評価されている。
もういいじゃないか、梅干しよ。

あなたが日の丸弁当となって貧しい日本人の食生活を支えた時代はとうに終わったのですよ。
老害として若い人から疎まれながら生きるのはつらいでしょう。
後進に道を譲り、自身は若い才能の引き立て役にまわることもベテランの大事な仕事ですよと、ぼくは梅干しと浜村淳に対して言ってやりたい。

2016年3月10日木曜日

【考察】本屋大賞を嫌いな理由 その2

「本屋さんが選ぶいちばん売りたい本」こと『本屋大賞』についてふたたび。


ぼくは何年間か本屋で働いていたけど、すっごい激務で、朝は6時に出勤していた(開店が10時くらいなので朝のんびりしていると思われがちだが、荷出しに時間がかかるので本屋の朝は早い)。

6時出勤で郊外店だったので電車ではまにあわず、車通勤を余儀なくされていた。

休みも少なく、勤務時間は長く、通勤は車だったので、本屋で働いていた期間はぼくの人生の中でもっとも本を読まなかった時代だった。
本屋を辞めて読書量は格段に増えた。

ぼくのまわりの店員もそんなんだったから、書店員が選ぶ本屋大賞なるものをぼくはまったく信用していない。

言っておくぞ!
本屋は本読めてないからな!

◆ ◆ ◆ ◆ ◆ ◆ ◆ ◆ ◆ ◆
  
「本屋大賞 感想」で検索すると、いろんな書評がヒットして、かつそのほとんどにAmazonへのリンクが貼ってあるの、ほんとステキ。

本屋大賞候補作・受賞作は大手書店が独占しちゃうせいで本屋に行っても売り切ればっかりだから、これほんと助かる。

ほんと、本屋大賞って本屋にとって害毒です。


【関連記事】

元書店員が本屋大賞を嫌いな理由

2016年3月9日水曜日

元書店員が本屋大賞を嫌いな理由

「本屋さんが選ぶいちばん売りたい本」こと『本屋大賞』


性懲りもなくまだやってんのか本屋大賞。

本屋の店員だった立場からすると、そして紙の本を愛するものとしては、この賞は嫌いです。
早くなくなればいいと思います。

本来は多くの人に本屋を好きになってもらうために創設された賞であり、『博士の愛した数式』を掘り起こした功績はきわめて大きいものでした。
でもその意図が成功していた幸福な時代ははじめの1、2回だけで、今は本屋の復興(というより延命)のために生まれた本屋大賞が、本屋をつぶそうとしています。


もはや面白い本の発掘ではなく単なる作家の人気投票になっているという批判は、まったくもってそのとおりです(このへんの批判については海堂尊氏の2年前のブログ記事『読まずに当てよう、本屋大賞』がおもしろいので興味ある人はぜひ読まれたし)。


ですが本屋大賞が抱える問題はもっと根深く、出版制度にも関わります。

まず、基本的に本屋が本を仕入れるとき、返品フリーの条件で仕入れます。
1,000円の本を780円で仕入れ、売れたら220円の儲け、売れなくても返品すれば780円まるまる戻ってくる。これが本屋の基本ビジネスモデルです。

このシステムは功罪両方ありますが、その是非についてはここでは触れません。大事なのは『売れなくても仕入れ金がまるまる返ってくる』ということです(実際には入荷・返品作業にともなう人件費がかかるけど)。
いいかえれば、食品や衣料品にくらべて、本の場合は過剰発注のリスクが圧倒的に低いということです。


さて、本屋大賞は大賞発表の2ヶ月以上前に10作品がノミネートされます。
さっきも書いたように作家の人気投票と化しているので、ある程度目端の利く書店員なら本など読まなくても「これはノミネートされるな」ということは10作品中7作ぐらいはわかります。

ノミネートされたら(またはされそうなら)、本屋はノミネート作品を大量に確保します。大賞発表と同時に受賞作フェアをするためです。
大賞をとった作品は飛ぶように売れます。
大賞をとるのは10作中1作だけですが、返品フリーなので10作すべて大量に仕入れます。並べる場所がないので大賞発表までは倉庫に積みます。


本屋は返品をしても損をしませんが、出版社の懐は痛みます。
お金をかけて刷った本が大量に返ってきて、出版社の倉庫を圧迫し、おまけに本屋に返金しなければならないのですから。
だから出版社は、極力余計な増刷はしません。売れる分だけ刷るのが理想です。


本屋は売れる以上に仕入れる。
出版社は売れる分だけしか刷らない。


このひずみのしわ寄せがどこにいくかというと、小さな本屋です。
複数の本屋から同一の注文があった場合、大きな本屋(売り場の広さではなく権力がある大手チェーンのこと)に優先的に配本されるので、小さな本屋に人気作品はまわってきません。
本屋大賞ノミネート作品など、小さな本屋が注文しても99%無視されます。

百歩譲って、まだ大賞作品はよしとしましょう。
小さな本屋が売れなくても、大きな本屋が売るのですから。

でも、大賞に漏れた9作品はどうでしょうか。
大きな本屋の倉庫に2ヶ月以上も眠り、落選が決まると、一度も店頭に並ぶことなく返品されるのです。
その2ヶ月間、小さな本屋がいくら注文をしても入荷しなかったのに(そして落選が決まってから大量に入荷したりする)。


ここでもう一度考えてみましょう。
出版社は、客のニーズの分だけしか刷らない。
大きな本屋は、客のニーズ分以上に入荷して倉庫で眠らせる。
はい、その差分はどうなるでしょう?

そうです、倉庫で眠っていた分の本は、客のニーズがあったにもかかわらず買えなかった(小さな本屋が売りたくても売れなかった)ということになるわけです。



こういうことが続くと、一部の客は「また買いたい本が品切れで買えなかった。Amazonで買おうかな。電子書籍なら品切れもないし」と考えます。
一方出版社は「本屋が無駄に仕入れるから大量の返品が発生して損をする。電子書籍なら倉庫の場所もとらないし、返品も発生しないし、コスト0で増刷できる(おまけに取次や本屋の取り分がなくなって利益率が増える)」と考えます。

おやおや、読者と出版社の利害が一致してしまいました。

「本屋なんかないほうがお互いにとっていいよね!」

というわけで、本屋大賞こそが(そうでなくてもどうせ時間の問題だけど)本屋の衰退を加速させるのです。


というわけで紙の本と本屋を愛するものとしては、時代にそぐわない本屋大賞がなくなることを願うばかりであります。
少なくともノミネート制度はなくして!直木賞も!

2016年3月8日火曜日

【読書感想文】谷岡 一郎 『「社会調査」のウソ』

谷岡 一郎 『「社会調査」のウソ―リサーチ・リテラシーのすすめ』

内容(「BOOK」データベースより)
世の中に蔓延している「社会調査」の過半数はゴミである。始末の悪いことに、このゴミは参考にされたり引用されることで、新たなゴミを生み出している。では、なぜこのようなゴミが作られるのか。それは、この国では社会調査についてのきちんとした方法論が認識されていないからだ。いい加減なデータが大手を振ってまかり通る日本―デタラメ社会を脱却するために、我々は今こそゴミを見分ける目を養い、ゴミを作らないための方法論を学ぶ必要がある。

著者はめんどくさい人だなあ、というのが第一の感想。あたりかまわず正論をふりかざす正義感に燃えた中学生みたいな人だから、身近にいる人は迷惑してるだろうなあ。ま、それはそれとして本の内容はおもしろい(困った人だからこそ、かもしれない)。

これは2000年発刊の本だが、今でもメディアが報じる社会調査の質は変わっていない。
統計や分析の仕方をまったく知らない。あるいは、知っていてわざと誤った解釈をする。

この本で紹介されている、新聞や研究機関にはびこるさまざまな「社会調査のウソ」の例をいくつか……。

◆データをもとに、誤った解釈を導きだす。
(例:「ジャンクフードを食べる頻度が多い子は非行に走りやすい」というデータから、ファストフードやスナック菓子は「キレやすくなる食事」だと決めつける。実際はおそらく、育児に無関心な親がジャンクフードを子どもに食べさせているだけで、そういう子が非行に走りやすいのは当然のことだ)


◆データがそもそも誤っている。
(例:選挙の1年後に「誰に投票しましたか」と訊ねると、当選した人に入れたと答える人が7割。ところが1年前の実際の得票率は、有権者数の3割程度。人はすぐ忘れるし、かんたんに嘘をつく)


◆結論ありきで調査をする
(「中学生の4割がナイフやエアガンを所持していた」という新聞記事。調べてみると、平日に繁華街で調査をしている。部活にも塾にも行かずに平日に繁華街にいる中学生を対象に調査しているわけだから、「今の中学生は怖い」という結論を出すために調査をしている)


◆ある方向に誘導するための質問の工夫をしている
(「自衛隊は必要だと思いますか」という質問の前段階として「自衛隊の平和活動は海外でも評価されていますが……」といった説明を混ぜる)


単なる無知、調査不足、意図的な嘘、嘘とはいえないまでも作為的なデータのとりかた……。
原因はさまざまだが、メディアの中には嘘が満ち満ちている。



これをもってして、
「報道機関は腐っている」
「これだからマスゴミは」
と断じるのはたやすい。

でも、「純真なおれたちを騙すなんて!」と憤るのは、大人と子どもの境のお年頃の中学生ならいざ知らず、いい大人としてはあまりにもお人好しすぎる。

人間が意図をもって企画、集計、発表をしている以上、何のバイアスもかからない中立公正な調査などというものは存在しない。

NHKだって研究機関だって省庁だって、自分のところが非難されるような調査結果が出たら、そっとふたをするか、せいぜい無難な形にデータを切り貼りしてから発表するかぐらいだろう。
それがまともな人間のやることだ。


イエス・キリストは言いました。
「今までに過ちを犯したことのないものだけが、この盗人の女に石を投げなさい」と。

データそのものの改竄は論外としても、ある情報から都合のいい解釈を導きだすことは、やってあたりまえだと思っておいたほうがいい。
今の日本のマスコミが堕落しているとは思わない。どの時代の、どの国のメディアだってやっているに決まっている。

恥ずべきは、歪んだ調査結果を出す研究機関ではなく、稚拙なデータ集計に騙される己なんじゃないだろうか。
歪められたデータから、本来あった姿を想像することのできない自らなんじゃないだろうか。

「情報操作を糾弾するのではなく、自分だけが騙されないようにする」
それがいちばんの得策。
賢い人はとっくに知っているかもしれませんが。

2016年3月7日月曜日

【エッセイ】男子における「かっこいい」の信憑性に関する考察

 気をつけて
振り込め詐欺と
「かわいい子」

もはや、こんな標語を県警がつくってもおかしくないぐらい、女が別の女を形容するのに使う「かわいい子だよ」は信用ならないということは定説になっている。

同じく、男子のいう「かっこいい」もまったく信用ならない。
でかいバイクとか、格闘技とか、B'zとか、男子のいう「かっこいい」は、よく見ると「ん? かっこいいの? 短パンじゃん」としか思えないことが多い(単なるB'zの悪口じゃないか)。

かくいうぼくも、若い頃はかっこよさをはきちがえてずいぶん無茶をしたもんだぜ。



8歳のときだった。
当時のぼくは、ごくごくふつうの男子小学生で、つまり学校では体育と休み時間と給食のことしか考えていなかった。

給食では、毎日必ず瓶に入った牛乳が出た。
主食がパンの日はもちろん、ごはんのときでも牛乳が出た(それでよく学校は『食育の重要性』とか語れるな)。

牛乳瓶には紙のふたがついており、その上に、きっとほこりがつくのを防ぐためだろう、薄紫色のビニールがかけられている。

 

どういういきさつかは覚えていないが、あるとき、同じ班の友人とぼくは、その薄紫ビニールを食べることができるかどうかという話になった。
友人は、これは食べ物じゃないから食べられないと言った。
ぼくは、いいや食べることができる、だからこれは食べ物と見なしていい、と言った。

ぼくは聡明な少年だったので、
「任意の対象が食べられないという主張に対する反証を示すためには、実際に食べてみせるのがいちばんである」という科学的実証主義に基づいた行動を起こした。

つまり、ビニールを食べた。
口に入れ、そのままごくんと飲みこんだ。

その後、口を開けて友人に口内を見せ、たしかに飲みこんだことを明らかにした。
決定的な例証を挙げることで、見事、論争に勝利したのである。
やったぜ科学の子。

ぼくの班は騒然となった。
すげえ!
ほんとにビニール食べたぞ!

騒ぎを聞きつけて、他の班の子らもぞくぞくと集まってきた。
ほんとかよ。
おれ見てなかったよ。
もう一回食べてみてくれよ。

もちろんぼくは引き受けた。

再現性・検証可能性があってこそ、はじめて科学と呼べるのだ。

友人からビニールをもらい、口に入れた。
慣れてきてコツをつかんだので、さっきよりもかんたんだ。
ごくり。

おおぉー!
男子の間から歓声が上がる。

今にして思えば、「おおぉー! ゴリラがうんこ投げたぞー!」ぐらいの珍奇な行動に対する歓声だったのだろうが、当時のぼくにはそれが称賛の声に聞こえた。

羨望の眼差しを感じる!
羨望の眼差ししか感じない!

「もう一個!」
「二個いっぺんはどうだ!?」

次から次へと差しだされる紫のビニール。

颯爽と大階段を降りてくるタカラジェンヌのエレガントさで、ファンから手渡される紫のビニールを受けとり、ひとつまたひとつとのどの奥に押しこんでゆく、ぼく。

ぼくは今、最高にかっこいい……!

みんな見てくれ!
男子も女子も!
ぼくは! 今! 誰も食べないビニールを!
食 べ て い る !!



誰も成しえないことを成しとげて、その場の全員の注目を一身に集める。
そんな経験、ぼくの人生において二度と訪れることはないだろう。

翌日腹痛で学校を休んだことさえのぞけば、まちがいなくあれはぼくの人生の中で最も光輝いていた瞬間だったと今になって思う。
(しかし今考えると、のどに詰まったらと思うと相当危険なチャレンジだった。はらいたくらいで済んでよかった)

そして、男子の考えられる「かっこいい」はまったく信用おけないということも、今になって思う。

2016年3月6日日曜日

【エッセイ】きれいな神戸には毒がある

大阪=怖い街
神戸=上品でおしゃれな街

生まれも育ちも神奈川の友人が、こう語っていた。

とんでもない!

ぼくは大阪と神戸のちょうど真ん中ぐらいで生まれ育ったので、大阪も神戸もよく知っているが、神戸のほうがはるかに怖い。

たしかに、大阪にはちょっとばかり注意を要するところが少なくない。
ガラの悪い兄ちゃんばかりの街もあるし、薬剤師でも取り扱ってはいけないタイプの薬を服用している人が珍しくない地域もある。

でも、そういう人は見ればわかる。
その手の人は、わかりやすく刺青を見せていたり、街中で大声で演説をしていたりする。
だから百メートル先から見ても「ああこりゃやばいな」とわかる。

大阪の人は自己主張が強いので、わざわざ「わたしは危険ですよ。近寄らないほうがいいですよ」とアピールしてくれているのだ。
毒キノコが見るからに毒々しい色をしているのと同じで、これはとても親切な設計だ。

ちなみに、昼間から公園でビールやワンカップを飲んでいるおじさんも多いが、これはただの酒好きであって、無害な人がほとんどだ。
ぼくの経験上、ほんとに気をつけなければならないのは屋外でチューハイを飲んでいるおじさんだ。
これは、ほんとはお酒が好きなわけではないのに、何かから逃げようとして無理して飲んでいるおじさんだから、距離をとったほうがいい。


少し話はそれた。神戸の話をする。

神戸では、怖い人がわからない。

大阪の場合は危ない場所とそうでない場所がなんとなく分かれているのだが、神戸は混ざりあっている。
三宮駅周辺というのが神戸最大の繁華街だが、ここは中学生がショッピングに来るエリアでもあるし、暴力団員がうろうろしているエリアでもある。雰囲気の良いカフェや結婚式場も多いし、風俗店も多い。
すべてが同じ場所にある。

おまけに、神戸の人は上品でおしゃれなので、おしゃれな服で内面の危なさを隠してしまうのだ。
だから見ただけでは危険な人かどうかがわからない。見た目はかわいいのに強い毒を持っているモウドクフキヤガエルみたいなやつらなのだ。


だから、駅前を歩いているスーツのおじさんが、部下の結婚式に向かう会社のお偉いさんなのか、その付近に本部がある日本最大の暴力団のお偉いさんなのかがわからない。
ほんとに怖い。


こないだ三宮駅前を歩いていると、もめごとがあったらしく、警官が集まっていた。
見てみると、身長190センチくらいの外国人の大男と、きちんとスーツを来た小柄なおじさんが揉めているようだった。
喧嘩でもしたのだろうか、顔から流血していた。

それだけでもなかなかの事件なのだが、ぼくが驚いたのは顔から流血しているのが、小柄なおじさんのほうではなく、身長190センチの外国人のほうだったということだ。

何があったんだ。
あのおじさんは何者なんだ。

ほんと、神戸は油断ならない街ですよ。

2016年3月4日金曜日

【ふまじめな考察】ネジのささったモンスター

フランケンシュタインは、ほんとはモンスターの名前ではなくそれを生みだした人の名前で、モンスターのほうには固有の名前がない。
にもかかわらず、ぼくらが「フランケンシュタイン」と聞いてイメージするのは、あの顔色の悪いネジのささったモンスターのほうだ。

ああ、かわいそうなフランケンシュタイン。
モンスターを作りだしたがゆえに、後世の人からモンスター扱いされてしまうなんて。


発明者の名前が、そのまま発明品の名前になるケースはよくある。

レントゲンとかベルとかサンドウィッチとか。
自分の死後何百年も自分の名前を呼んでもらえるなんて、さぞかし発明家冥利に尽きるだろう。

でも、うらやましいことばかりじゃない。

たとえばギロチン。
ギロチンは、罪人が苦しまずに死ねる処刑方法を考えだした医師の名前に由来しているらしい。
でも、せっかく苦しまない方法を考えたのに、残酷なものの代名詞として後世に名を残してしまっている。

ああ、かわいそうなギロチン。

いやいや、ギロチンなんてまだいいほうかもしれない。
レオタードやブルマーやコンドームも、人名に由来しているらしい。

自分の発明品のせいで、親族一同が避妊具の名称で呼ばれることになったりしたら、子孫たちに顔向けができない。

ああ、かわいそうなコンドーム。


というわけで、ぼくが先日発明した「女性の服だけ透けて見えるメガネ」は、子孫がその名前で呼ばれていらぬ恥をかくことがないよう、世間に発表しないことにしました!
そして、自分ひとりでこっそりと楽しむことにしました!

2016年3月3日木曜日

【読者感想】大阪大学出版会 『ドーナツを穴だけ残して食べる方法』


『ドーナツを穴だけ残して食べる方法』(大阪大学出版会)を読む。
大阪大学ショセキカプロジェクトという試みで、阪大の学生が企画を考え、教授たちが執筆するという形で作った本らしい。


誰もが常々頭を悩ませている(?)「ドーナツを穴だけ残して食べるにはどうしたらいいか」という問題に対し、工学・美学・数学・精神医学・歴史学・人類学・化学・法学・経済学らの教授、准教授らが、それぞれの専門分野から解き明かそうとした一冊だ。

こういう学際的な試みは好きなのでわくわくしながら読んだのだが、残念ながら肝心の中身はイマイチおもしろくなかった


工学教授の「口とナイフと旋盤とレーザーを使ってドーナツをどこまで削ることができるか」という章。

数学教授による「4次元以上の空間を想定して、ドーナツの穴を認識させたままドーナツを食べる方法」の章。

法学教授の「ドーナツという語の定義をめぐって争われた裁判例によれば単にくぼみのある形状であればドーナツと呼べるので、穴のあいてないドーナツを作ってその中央部分を食べる」の章。
それぞれたいへんおもしろかった。

だが。
ほとんどの執筆陣は早々に逃げを打っており、ドーナツの穴を食べる方法を論じていない。

「ドーナツ化現象から生じる事態」とか、
「ドーナツ型オリゴ糖『シクロデキストリン』のはたらき」とか、
むりやりドーナツとからめて自分の専門分野に逃げ込んでいるだけだ。

基本的に論文というものは自分の書きたいものを書くので、論文ばかり書いている大学教授はすぐに逃げに走ってしまうのかもしれない。


「テーマからはずれているので軌道修正してください」と、こうしたごまかしを許さない編集者がいればずっとおもしろくなったはずなのに(偉大なるブレイクスルーというものは制約の中から生まれる)、学生が教授に執筆依頼するという形態のせいで、厳しいチェック体制は期待できない。

教授と学生による書籍化プロジェクトという試みはおもしろかっただけに、半端な小論文としてまとまってしまったのが残念。

編集機能に穴を残したまま出版してしまったんだな。
ドーナツだけに……。

2016年3月2日水曜日

【エッセイ】2011年の新卒採用面接は地獄だった

 人事の仕事をしている知人が、
「2011年の新卒採用面接は地獄だった」
と語っていた。

 「どうしてですか」

「ほら、東日本大震災の直後だっただろ。だから『わたしはボランティアに取り組み~』ってやつばっかりなんだよ。ほんとつまんない。
 そりゃ多かれ少なかれボランティアしたのかもしれないけど。でも話す内容も同じようなことばっかだし。あれはつらかった」

 「なるほど。それを延々聞かされるのはたしかに苦痛ですね」

「だろ? あまりにもうんざりしたから、しまいにはボランティアって言葉を出した学生をかたっぱしから落としてやったよ。はっはっは!」

 「ひどい! ひどいけどその気持ちわかる!」

「でもさあ。そのときボランティアアピールがうっとうしいから落とした学生たち、採用しとけばよかったかなって、今になってちょっと後悔してんだよね」

 「やっぱりかわいそうに思えてきたんですか」

「いやぜんぜん」

 「え?」

「だってさ。安易に学生ボランティアするってことは、自分の労働の価値を安く見積もってるわけだろ? そういうやつは会社に入ってからこき使っても文句言わなさそうだし」

 「……」

「それにさ。まともな頭があれば、ど素人が被災地にボランティアに行くよりも、その時間にバイトでもして、バイト代を寄付したり、バイト代で被災地に旅行に行ってお金を使うほうが復興の役に立つってわかるわけでしょ?
 それがわかんないようなやつらだから、扱いやすいんじゃないかなって。目先に安いエサぶらさげときゃ都合よく動いてくれると思うんだよね。
 だからそういう安易な学生ボランティアも会社のために二、三人とっときゃよかったなって思うんだよね」

 「ひどい! ひどいけどたぶん正論!」


2016年3月1日火曜日

【エッセイ】パンツマン

今日も妻から「パンツ姿でうろうろしないで」と怒られた。     


うん、でも、ちょっと待って。

たしかにうろうろした。
先週の水曜日もうろうろしたし、建国記念の日にもうろうろした。

だけど聞いてくれ妻よ。
ぼくだって好きでパンツ歩きをしていたわけじゃない(好きでするときもあるけど)。

風呂に入ろうと思った。
脱衣場で服をすべて脱いだところで、パジャマを忘れたことに気がついた。
そこでぼくは、居間にいる妻を気遣い
“ わ ざ わ ざ パ ン ツ を 履 い て ”
パジャマを取りに行った。

はいここ重要。
とても重要。
赤いマーカー引いといて。
引きすぎて下の文字がにじむぐらい引いといて。
辺り一帯引いてどこがほんとに重要なのかわかんなくなるぐらい引いといて。

そう。
ぼくは服を脱いでパンツマンになったんじゃない。
パンツを履いて、パンツマンになったの。
これ、似ているようで180度ちがうからね。
言ってみりゃプラスのパンツ。


だってね、考えてもごらんよ。
街中で、突然おじさんが服を脱いでパンツ一丁になったらみんなどう思う?

怖いよね。
嫌な気持ちになるよね。

でも、街中に全裸のおじさんがいて、そのおじさんがパンツを履いてパンツ一丁になったらどう思う?

ほっとするよね。
ああよかった、って思うよね。

そうゆうこと。
これがプラスのパンツの力。

だからパンツ履いてくれてありがとうという感謝の気持ちを夫に対して持つことが……あっはいごめんなさい余計なこと言ってないですぐ退散します!