2015年5月31日日曜日

差別まとめ


■日本で許されない差別

・人種差別

・出生地による差別

・女性差別(男性差別はセーフ)



■日本で許されている差別

・血液型差別

・公務員差別

・パセリとパクチーだけは食べなくてもよいという香草差別

2015年5月30日土曜日

強欲な生き物

「百獣の王ライオンですら満腹のときには狩りをしない。食べる分以上に無駄な殺戮をするのは人間だけだ」

という話をよく聞くが、ネコも自分が食べる分を超えて狩りをするそうだ(ウィリアム・ソウルゼンバーグ著『捕食者なき世界』(文藝春秋)より)。


おまけにネコは、生きるために必要な分以上に、ヒトが自分に尽くすことを要求する。
なんと強欲な生き物なのか。

2015年5月29日金曜日

生まれたところや

肌の色や、国籍や、よく尻をかくかどうかでぼくという人間を判断しないでください!

2015年5月28日木曜日

リコーダーと炊飯器

ぼくは楽器ができない。

ギターもチェロも尺八もタンバリンもメトロノームも、なにひとつできない。
義務教育でさんざん習ったはずのリコーダーも、低いほうのドの音がうまく出せない。オー、パッキャマラド。


楽器の演奏ができない理由はたったの3つしかない。

・音痴

・リズム感がない

・練習嫌い

たったこれだけだ。
つまり、ミュージシャンになる3歩手前といっていいだろう。


あと3歩なのにどうしてミュージシャンにならないの? と思うかもしれない。

なぜぼくがミュージシャンにならないのか。
その答えを聞く前に、考えてみてほしい。

ごはんをふっくらとおいしく炊けるようになりたいか?
と聞かれると、たいていの人はイエスと答えるだろう。

では。
最新型の高級炊飯器は、非常にふっくらとごはんを炊くことができる。
じゃあ高級炊飯器になりたいと思うか?

答えはノーだ。

つまり何が言いたいかというと、
「どうだ、それっぽいけどまるで意味がわからない例えだろう」
ということだ。

2015年5月27日水曜日

メールの設定変更

同じアドレスから迷惑メールが1日に3通来た。

1通目は
「麻衣だよ~。メアド変えたから登録してね☆ミ」

2通目は
「麻衣です。さみしぃよぉ。連絡待ってます(((^^;)」

みたいな内容だったのに、3通目で急に

「麻衣より。双方向マッチングサービスの無料SNS。今すぐ登録!」

って文面になった。

おい2通目までの感じどこいったんだよ!
ちゃんと自分で決めた設定守れよ!

2015年5月26日火曜日

謀略の救急車が走る

一度だけ、救急車に乗って夜中に病院に行ったことがある。

窓口で料金を払うとき「今、保険の点数計算ができる人がいないので、とりあえず多めに5,000円払っといてください。後日また来てもらえれば多く払いすぎた分を返金します」

で、数日後にお金を返してもらいにいったら
「診察代7,200円ですので、残り2,200円払ってください」
と云われた。


なんというテクニック。
「後日お金を払いに来てください」と言われたら踏み倒す輩がいるから、お金を返しますと云っておびきよせて、むしりとる作戦だ。

ぼくはこの巧みな謀略にまんまと騙され、お金をもらえると思ってのこのこカモがネギをしょって出向いたわけだ。


法律のこととかよく知らないんですけど、これがいわゆる還付金詐欺ってやつですよね?

2015年5月25日月曜日

げに恐ろしきは親の愛情

 ぼくがこの世でもっとも怖いものは『親の愛情』である。

「わが子のためなら死ねる」とまっすぐな眼で語る親がいる(たぶん実際にそういう局面になったら死ねるんだろう)。
 ある種の鳥は外敵に巣を襲われそうになると、自らがおとりとなって外敵をひきつけ、ひな鳥を守る。
 そういう度の過ぎた(としかぼくには思えない)愛情を目の当たりにすると背筋が凍りつく。
「まあなんて深い愛。すてき!」とはどうしても思えない。
「ひいっ」と叫んで逃げ出したくなる。
 ぼくは学研の本をベッドサイドストーリーにして育った科学の子なので、命がけで子を守る行為が『遺伝子を残すために有利な生物学的戦略』だと頭では理解している。それでもやっぱり心の底では得体の知れない恐怖しか感じない。
 ぼくにとって親という種族は、アル・タリマイン星人と同じくらい、何を考えているのかわからない生き物なのだ。


 三十年近く生きてきていちばん怖かったことは何だろうと考えると、ぼくは十年前のできごとを思い出す。
 当時無職だったぼくは、友人たちと飲みに出かけ、夜が明けるまで飲んだ。
 朝7時ごろ。いい具合に酔って実家に帰ったぼくは、そうっと玄関のドアを開け、そして息をのんだ。
 母が玄関先で正座していたのである。

 瞬間、全身の血が凍りつくほどの恐怖がぼくを襲った。
 酔いも一瞬で吹き飛んだ。
 いい歳をして無職の息子が飲みにいっている間、母親が一睡もせずに正座して帰りを待っていたのかと思ったのだ。

 彼女がただ早く目が覚めたから玄関に座って靴を磨いていただけだとわかったとき、ぼくは安堵のあまりへなへなと座り込んでしまった。


 想像してほしい。

 無職の息子が朝まで飲んで酔っぱらって帰ったら、玄関先で母親が正座をして待っている。
 そして慈愛に満ちたほほ笑みをたたえながら一言。
「おかえり」

 世の中にこんな恐ろしいことがほかにあるだろうか?

2015年5月24日日曜日

ぬるぬる短歌

 小学校のプールの底はぬるぬるだった。 

夜中のうちに用務員さんがたっぷりの山芋をすりおろしてプール底にトロロでも塗っているのかと思うほど、ぬるぬるだった。
ぼくの人生において、あれほどのぬめりけを味わったことは他にない。 


 特にプールの中央部がぬるぬるしていた。 
何かの拍子に底に足をつくと、ぬるぬるに足をとられて水中なのにずっこけそうになった。 
どこかにひきずりこまれそうな恐怖感もあったが、日常生活では味わえないそのぬるぬるがぼくは好きだった。 


 だがあるとき、級友からショッキングな話を聞かされた。 
「プールの底のぬるぬる、あれ鼻水が溜まったやつやねんで」 

それが事実なのか、ぼくは知らない。 
だけど、やっぱりあれは鼻水なのだろうと思う。なぜなら二十年間そう信じてきたから。 

風邪気味のときでも、プールで泳いだ後は鼻がすっと通るようになっているのが何よりの証拠だ。風邪気味のときはプールで泳いではいけません。 



 だが、ひょっとしたら鼻水だけではないのかもしれない。鼻水だけではあれほど大きなぬるぬるのコロニーを築くことはできないように思う。 
あのぬるぬるは鼻水だけではなく、よだれとか胃液とか血液とか、その他諸々のあらゆる体液のかたまりなのではないだろうか。 

 そういえばプールで泳ぐ前、泳いだ後、先生たちは執拗に人数を数えていた。
二人一組でペアを組んで、ペアの相手がちゃんといるかを確認させられたりもした。
裏を返せば、それだけプールで泳いでいるときに行方不明になる児童が多いということではないか。 


 溺れて沈んだ生徒が、ふやけて薄い肉と、もっと薄い皮だけの存在になる。血や鼻水は水に混じるでも分離するでもなく、水底にべったりとはりついている。 
それがプールのぬるぬるになるのだ。 
  


「盛る夏 行方不明の級友が 
       プールの底に沈んでぬるり」 

簡潔にして明快

友人が草野球チームのキャプテンをやっている。
チーム所有の野球用品を彼が自宅に保管していたら、奥さんに怒られたそうだ。

何ヵ月も自宅の一室にバット数本、ボール、グローブとミット、キャッチャーマスクにプロテクターを置いていたら部屋も片付かないし、汗臭くなる。だから我が家を野球用品の保管場所にしないでほしい。

というのが奥さんの主張内容だったのだが、彼女はそれをたった十文字で表現したそうだ。


「うちは部室じゃない!」


 簡潔にして明快。

たったこれだけの言葉で、不満点と怒りが存分に伝わってくる。
ううむ、なんと豊かな表現力なのだろう。

2015年5月22日金曜日

キャラ弁のためのキャラ弁

これはもう完全に偏見なんだけど、
キャラ弁をつくってブログで公開してる母親って、

子どもが「そうゆうんじゃなくてふつうのお弁当がいい」って言いだしたときに

「あなたのためにやってるのに!」
って怒りだしそうだよね。

2015年5月21日木曜日

100円もらった

 小学生のとき、見知らぬおじさんから100円をもらったことがある。 

 ぼくは友人たちと、おもちゃ屋の店先にあるゲーム機で遊んでいた。 
 1回10円でコンピュータとじゃんけんができ、勝てば何枚かのメダルが出てくる。メダルは10円玉と同じように次回以降のゲームに使えるけど、ただそれだけ。メダルを何枚集めても現金や景品と交換できるわけではない。 
 今考えると何がおもしろいのかさっぱりわからないゲームだが、ぼくらは少ないおこづかいを握りしめておもちゃ屋に通っていた。 
 つまり、ぼくらはばかだったのだ。 

 その日もぼくらはゲーム機の前で、最後は必ず負けることに決まっているじゃんけんに夢中になっていた。 
 ときは夕刻。あたりは暗くなってきて、そろそろ帰ろうかという頃である。 
 ゲーム機に向かっているぼくらを見つめている人影に気がついた。 

 当時のぼくらの父親よりも年上に見えたから、五十歳くらいだろうか。スーツを着ていたが、ぱりっとはしていなかった。どちらかといえばかっこわるい感じのおじさんである。おそらく仕事帰りだったのだろう。 

 おじさんははじめ、遠くからゲームをやっている少年らを見ていたが、次第に近づいてきてにこにこしながらぼくらに話しかけはじめた。 
 どういうルールなのかとか、メダルはよく出るのかとか。 
 ぼくらはなれなれしいおじさんを警戒して互いに顔を見合わせながら、それでもおじさんの質問には愛想なく「はあ」とか「ううん」とか答えていた。 

 おじさんは、ぼくらがメダルを獲得すると「いいぞ!」と喜んだ。 
 獲得枚数が少なかったときは、膝に手をついて「あー惜しい!」と悔しがった。 

 いい大人がこんなくだらないゲームに一喜一憂するなんて(じゃんけんゲームのくだらなさには、ぼくらもけっこう気づいていた)このおじさんは頭がヘンな人なんじゃないだろうかとぼくらはちょっと薄気味悪さを感じていた。 

 やがてぼくらのポケットの硬貨はすべてゲーム機の中に吸い込まれた。 
 ぼくらはばかだったから全財産を使い果たすまで機械との不毛なじゃんけんをやめないのだった。 
 誰かが「もう金ないわ。帰ろうか」と言った。 
 金はなくなったし、あたりはすっかり夕闇につつまれてしまったし、変なおじさんは見ているしで、それ以上ゲーム機の前にいる理由はなにひとつなかった。 

 そのとき、おじさんはおもむろにポケットをまさぐり、皮のくたびれた財布からぴかぴかの百円玉を取り出し、ぼくらにさし出した。 
「これでもうちょっとやってみ」 

 ぼくらは戸惑った。当然のことだ。 
 なにも学校で教わった「知らない人からものをもらってはいけません」という言葉を信じたからではない。 
 なぜおじさんがぼくらに百円をくれるのかがわからなかったからだ。 
 身なりからして、彼がお金が余って困っている大富豪ではないことはまちがいなかった。百円といえばまあまあの高額だ(当時のぼくらにとっては)。 
 それを、見ず知らずのばかな子どもたちにくれてやる心境がどうにも理解できなかった(自分たちがばかだという自覚は当時はなかった)。 

 まったく理解できない状況に当惑したが、目の前のぴかぴかの百円玉は魅力的だった。 
 ぼくらは考えることをやめ、素直に「ありがとうございます。やったあ」と手を伸ばした。 

「やったな」 
「すげーラッキー」 
などと言いながら、またゲーム機に向かった。 

 ひょっとしたら、このおじさんはほんとが自分がじゃんけんゲームをやりたいのかもしれないとぼくは思った。 
 だけどいい大人がおもちゃ屋の前でゲームに興じる姿を誰かに見られたら恥ずかしいから、代わりにぼくらにやらせているのではないだろうか。 
 それならわかる。自分がマリオをやらなくても、他人がプレイしているのを見るだけでもまあまあ楽しい。 

 おじさんはにこにこしながらぼくらのじゃんけんを見ていたが、まだ百円を使いきらないうちに「じゃあ」と言い残して姿を消してしまった。 

 ぼくらは「なんだったんだろうなあの人」と言いながらゲームの続きをした。 
 やがて奇跡ともいえるメダル50枚を当てて(ぼくの記憶では50枚当たったことは後にも先にもなかった)、ぼくらは興奮しながらも「あの100円のおかげやで。あのおじさんにも見せてあげたかったなあ」と言い合った。 
 その瞬間のぼくらにとっておじさんは、ほとんど神様だった。 




 今ならわかる。 
 あのおじさんが見ず知らずの小学生に100円をくれたわけを。 
 おじさんがほんとはじゃんけんゲームをやりたかったわけではないことを。 


 なぜなら、今のぼくも同じことを思うから。 

 本屋で、財布をのぞきこみながら本を買おうかどうか苦悩している小学生を見たとき。 
「おじさんが買ってあげようか」 
と言いたくなる。 

 夏のくそ熱い中、帽子もかぶらずに走り回っている小学生を見たとき。 
「ほら、これでジュースでも飲め」 
と100円玉を何枚か手渡したくなる。 



 あの頃、自動販売機のジュースを飲めるということは1年に何度もない大イベントだった。 
 100円以上もするジュースなどおごってもらえた日には、とびあがって喜んだものだ(比喩ではなくほんとにとびあがった)。 

 今、何かを手に入れてそんなに喜ぶことができるだろうか。 
 宝くじで100万円当たったとしても、110円のジュースをおごってもらった子どもの喜びにはかなわないと思う(そのころ自販機の缶ジュースは110円だった)。 

 昔の何百倍もの金を稼ぐようになったが、金の価値は何万分の一になってしまったように思う。 
 100円玉を手にしただけで、何を買おうか何でも買えるぞとわくわくした。 
 今、100万円あっても同じ気持ちを味わうことは決してできない。 



 ぼくらに100円をくれたおじさんは、その喜びのほんのひとかけらをもう一度味わってみたかったのだと思う。 

2015年5月20日水曜日

ブランド品と九十九神

 ブランド物の財布やバッグを持っている人は多いけど、ボロボロになるまで使ってる人がいるじゃない。あたしあれ見るともうダメ。 
 涙があふれて止まらなくなっちゃう。 
 すっごく悲しい。なんでこんな嫌な世の中に生きてるんだろって思っちゃう。 

 今日もいたのよ。 
 おばちゃんが。切符の販売機のとこで。 
 雑誌の付録みたいなバッグから、ヴィトンの財布を取り出したの。 
 その財布がすっごく年季入ってるの。 
 あちこちすりきれてるし、縫い糸もほつれてきてる。 

 それ見た途端、あたしもうこらえきれなくなっちゃって、風船から手を離して目頭を押さえた。 
 あたしの手から離れた風船はあっという間に空気が抜けて、目を輝かせて風船を見ていた男の子の頭にぽとりと落ちた(言い忘れてたけど、そのときあたしは改札の前でバルーンアートを作るアルバイトをしていた)。 

 いろんなブランドがあるよね。ヴィトンとかシャネルとかカバヤとか。 
 でもそういうとこの財布って、装飾ギトギトのショウウインドウで飾られたり、おしゃれなカタログ誌で紹介されたりするためのものなのよね。 
 おばちゃんのヘンなバッグの中でへろへろになるものじゃない。 
 昔は輝いていた芸能人が覚醒剤所持で逮捕されて痩せこけた表情でパトカーに乗り込む姿を見たら、なんだかいたたまれない気持ちになるじゃない。ちょうどあんな気分。 



 でもあたしは、ブランド品じゃなければぼろぼろになるまで使うのはぜんぜん平気。 
 ていうか、大好き。 
 中学のとき、隣の席の男の子のものが、ぜんぶクソボロだったの。 
 男子中学生サッカー部員が持つアホみたいにでかいスポーツバッグは、泥だらけだし破れてるしファスナーはぶっ壊れてた。ちょっとあんたYKKの想定以上の力のかけかたしてんじゃないわよ、って言いたくなるぐらい。 
 靴は、上靴も外履きも体育館シューズもぜんぶぱかぱかに割れてて、さきっちょから真っ黒い爪が飛び出していた(言うまでもないけど靴下も破れてるからね)。 
 きわめつきは学ラン。「学生が葬式でもランデブーのときでも着ていける服」だから略して学ランっていうのに、その子の学ランったらどろどろで、ランデブーはおろか、全国荒くれもの協会主催の第78回荒くれ晩餐会にも着ていけやしない代物だった。 

 でもあたしはその子のアホスポーツバッグやバカ靴やクソ学ランが大好きだった。 
 長く使われた物特有の愛しさがあったから。耳掃除をした後に自分の耳あかをまじまじと観察してしまうような気持ち。 

 すっごく長く使われた物って、持ち主に対して愛憎を抱くような気がするのよね。 
 愛情じゃないよ、愛憎。 

 江戸時代には九十九神(付喪神)って神様がいたんだって。 
 物が長いこと使われるとだんだん霊性を帯びてきて、九十九年目に人間の言葉を話したり化けて出たんだとか。 
 長いこと飼われた猫が化け猫になってその家の人を喰い殺しちゃうってのも同じことかもね。 

 長く使われてぼろぼろになった物は、きっと持ち主に対して愛情と憎悪の両方を持っていると思うのよね。少なくともあたしはそう感じる。 
 だからぼろぼろの道具に惹かれるのかもしれない。 
「いつかこの男の子、ぼろぼろになったスポーツバッグに喰い殺されるかもしれない」 
 そんなことを想像すると、胸がすっごくどきどきして、息ができなくなった。 
 怖かったんじゃない。楽しみだったの。 
 手荒い使われ方をしていたスポーツバッグが、ある日突然叛旗をひるがえして泥臭い男子中学生を丸呑みにしちゃうのよ。わくわくしない? 

 でもきっとその男の子は助かるわ。 
 だってYKKも信じられないぐらい、そのバッグのファスナーは激しくぶっ壊れてたんですもの。 

2015年5月19日火曜日

放置自転車に国境なし

本屋で働いていたときのこと。 
店の駐輪場に自転車を停めて、店で買い物をせずにどこかへ出かける人がいる。 
広い駐輪場ではないので見かけたら注意するようにしていたが、それでも放置自転車はけっこう並んでいた。

あるとき、開店前に30歳くらいの白人男性が自転車で駐輪場にやってきた。 
自転車を置いてバス停へと歩いていこうとしていたので、呼び止めて注意をした。 

「すみません。ここに自転車を置いていかないでくださいね」 

  「ドウシテデスカ」 

「ここはお店を利用する方のための駐輪場なんで」 

  「アーハイハイ。ワタシ、コノ店ヨク利用シテマスヨ」 

「えーっと。そうかもしれないですけど、今はまだ開店前ですよね。店を利用する時間だけ、駐輪場を使ってもいいんです」 

 するとその男性、突然顔を真っ赤にして怒りだし、 

「ドウシテデスカ! ドウシテワタシダケニ言ウデスカ!  他ノ人モ停メテルジャナイデスカ! コノ人モコノ人モコノ人モ!」 


 怒りに満ちたその言葉を聞いて、ぼくは腹が立つというよりちょっとうれしくなった。 

よく「赤信号みんなで渡れば怖くない」という思考が日本人的だと言われているけど、なんだ外人もけっこう長いものには巻かれてんじゃないか。 

2015年5月18日月曜日

4番打者という夢

ぼくは小学生のとき、ちゃんとした野球チームに所属するわけでもなく、友だちと公園で野球をやっていただけなのに、
「プロ野球選手になって4番打者としてホームランをばんばん打って記録を作って……」
と無根拠に妄想していた。


 でも32歳になった今では現実を知っているから、
「まあぼくの非力さなら、せいぜい8番か9番打者だろうな」
と現実的に考えられるようになった。

2015年5月17日日曜日

オシャレなランチの店

友人と飲んでいて、「オシャレなランチのお店」の話になった。

「あー。オシャレランチの店ね。三十代の女性ふたりでやってるような店で、豆を使ったカレーとかのオーガニック系メニューが中心で、入口に劇団やアート系のフライヤーが置いてあるような、そういう系のお店ね」

と云ったら、
「その言い方! おまえオシャレな感じの店をこばかにしてるやろ」
と笑われた。

いやいやそんなことないよオシャレだと思ってるよと否定したけど、
改めて自問してみたら、いややっぱり心底ではこばかに してる

「こじゃれたもの」「かっこいいもの」を嗤ってしまうこの感覚。
わかってくれるだろうか?

裏にある「ほらこういうことしとけばみんなオシャレだと思うんでしょ?」という企みが透けて見えるから、こばかにしてしまうんだろうか。

「かっこよくしようとしているがゆえにかっこ悪い」というこの感覚に、何と名前をつければいいのだろう?
辞書の中にはちょうどいい日本語が見あたらない。

ぼくの中では
「かっちょいい」
「シャレオツ」
という言葉が、かっこよくないしオシャレでもないのでいちばんしっくりくる。

うん、アート系のフライヤーが置いてあるパスタ屋さんはシャレオツだな!

2015年5月16日土曜日

父親と呑む

父と飲みに行くことになった。
これまでにも家族で飲みに行ったことや実家でふたりで飲んだことはあったけど、ふたりだけで外に飲みに行くのはよく考えたらはじめてのことだ。

世の父親にとって「息子と酒を酌み交わす」というのは、中年期三大イベントのひとつらしい。
(あとのふたつは「前立腺の病気になる」「マッチ棒で作っていた五重の塔がついに完成する」だ)

父にとってのビックイベントだと思うとぼくまでどきどきしてきた。
父のためになんとしてもこのイベントは成功させてやらなければならない。
そしてぼくに息子が生まれたら、いつか今日の日のことを思い出しながら成人した息子に云うんだ。

「どうだ。父さんと飲みに行かないか。割り勘で」
と。

2015年5月15日金曜日

おばちゃん いさぎよし

 近くのスーパーで抽選会をしていた。
 ぼくも買い物を終えてレシートを握りしめて抽選の列にならんだ。
 ぼくの前にならんでいたのは中国人の夫婦だった。
 夫婦は、おばちゃんの店員にレシートを渡し、箱の中からくじをひいた。おばちゃん店員はレシートに「くじびき済み」という意味のサインをして、中国人夫婦に返す。

 ふんふん、なるほどね。
 手順は把握した。

 次はぼくの番。
 おばちゃん店員にレシートをさしだすと、おばちゃんはレシートをちらりと見ただけで手に取ろうとせず、くじの箱をぼくに渡した。「はいどうぞ。1枚ひいてください」

 ん?
 レシートにサインするんじゃないの?

  「あれっ。レシートは……?」

「あ、いいのいいの」

  「えっ、でも、さっきの人はサインしてたし……」

「ああ。サインは中国人だけなの。
 あの人たちはほっとくと何回も並ぶから」

とおばちゃん。
 すごい。
 なんて正直な人なんだ。

 思っていたとしても、なかなか口に出せるものではない。ましてや初対面の相手に。
 たいていは大人として、差別的な発言をしちゃいけないというブレーキがはたらいてしまう。
 しかしこのおばちゃんは断言した。中国人はルールを守らない、と。
 なんと潔いのか。すがすがしいほどだ。

 このおばちゃんの潔さに敬意を表して、ぼくも断言しよう。
 世界中のスーパーのおばちゃんは潔い、と。

2015年5月14日木曜日

連絡先交換のタイミング

もう10年以上も携帯電話を使っているが、いまだに「連絡先を交換するタイミングの正解」がわからない。

別れた後で「まあまあ仲良くなれたから番号聞いときゃよかったかな」と思ってしまう。
メールアドレスを聞かれて
「えっ。この人、この距離感でもう聞いてくるんだ」と当惑してしまう。
今後会うことはなさそうだなと思いながらも一応連絡先を交換しておいて、案の定その後一度も連絡をとれずにメモリを消すに消せなくなる。

ほくの情報リテラシーが足りないせいだろうか(リテラシーの意味知らんけど)。
できる大人の心の教科書には、正解が書いてあるのだろうか。

そういう点で、名刺交換というシステムは優れている。
ビジネスマン同士だと、会っていきなり名刺交換。
タイミングもへったくれもない。
連絡先を聞こうか聞くまいか思案する余地もない。

「悪用されないように」という【不信】を前提にしたシステムが大半の現代日本において、
「そんなに悪さはしないだろう」という【信頼】によって成り立っている名刺システムはひときわ輝きを放っているように見える。

2015年5月13日水曜日

うちのじじい

会社からの帰り道、初老の男性に傘でつつかれた。
何すんだじじいって思って軽くにらんだら、父親だった。

父親だとわかったので、軽くにらむのをやめて、おもいっきりにらみつけた。

2015年5月12日火曜日

くしゃみに慣れない

 ぼけっと歩きながらくしゃみをしたら、思ってた以上に大きなくしゃみが出て、自分のくしゃみにびっくりして、持っていた荷物を落としてしまった。

 で、そのことにまたびっくりした。


 もう30年以上生きているのに、まだ耳は自分のくしゃみに慣れていないし、まだ手は自分の感情に慣れない。

 生物として生きるって、なんて難しいんだろう。

2015年5月11日月曜日

尻エントロピーの増大

 風呂上がりに尻を掻いていたら妻に怒られた。

「尻を掻かないでよ」

  「自分の家で尻を掻いて何が悪い。
   だったら代わりに掻いてくれるのか」

「掻くわけないじゃない。
 汚い尻を掻いた手で洗いものする気でしょう? 
 汚いじゃない」

そこまで言われては、一家の副大黒柱として黙っているわけにはいかない。

「知らないのか。尻の表面よりも手のひらの方がずっと雑菌が多いんだぞ。だから手で尻に触れたとしても、エントロピー増大の法則により手の菌が尻へと移動するから、手がきれいになることはあっても手が汚くなることはない。文句を言うなら科学的に正しい表現をしなくちゃならん。『あなたのきれいなお尻が汚れちゃうから汚い手でさわらないでよ』こういう言い方をするのが……ってあの俺まだしゃべってる途中なんだけど

2015年5月10日日曜日

気功マスター

数日前から気功の本をたくさん買ってきて読みあさっている。
気功というものにうさんくささも感じるけれど、現在数量化できないからといって存在を否定するのも科学的な営みでないと思い、身をもって研究することにしたのだ。

そして今日。
正座&瞑目して気功の呼吸法をしていると、腕が自然に動き出した。
「おっ。おっ。なんだなんだ」

身体が意識を離れて勝手に動いたのだ。
錐体外路系運動というらしい。
時間にして1分くらいで止まったが、たしかに身体の気の流れが変わるのを感じた。

この調子だと、ぼくが気功マスターになって、
他人の病気をなおしたり、
気だけで敵をふっとばしたり、
スプーンを曲げたり、
シルクハットから鳩を出したりできるようになる日もそう遠くないにちがいない。

生命保険親子

  歩道のない狭い道路で、少し前を歩いていた母と娘(10歳くらい)の会話。

母「ほら車きたで。もっと端っこ寄っとき」

娘「大丈夫や」

母「あぶないやないの」

娘「へーきへーき」

母「ひかれたら困るやないの。あんたは生命保険はいってへんねやから!」

んー、大阪っぽい会話だ。

2015年5月8日金曜日

タンスの裏のホコリほど

思い上がりがちな己を戒めるために胸に刻み込んでいるできごとがある。

高校2年生の冬。
それまで7年間ずっとメガネをかけつづけていたぼくは、はじめてコンタクトレンズをつけて学校に行った。
それはもうドキドキものだった。

「気どってやがると思われるんじゃないだろうか」
「ぼくの素顔を見た女子たちがその美しさに次々と卒倒するんじゃないだろうか」
そんな心配でぼくの頭はいっぱいだった。

実際には、惜しくも卒倒者こそ出なかったものの、
「なかなかかっこいいじゃない」とか
「メガネないほうがいいよ」といったありがたい言葉をかけてもらい、ぼくは無事にコンタクトデビューを果たした。

事件はその3ヶ月後に起こった。

当時ぼくにはKという同級の友人がいた。
ぼくとKは毎日のようにおしゃべりに興じていた。学校帰りにKの家に寄ることもしばしばだった。

ある日ぼくはいつものようにKの家に遊びに行き、ベッドに寝そべってテレビを見ていた。
するとKはまじまじとぼくの顔を見つめ、信じられない言葉を口にした。

「あれ? おまえ、今日はメガネかけてないな。どうしたん?」


ぼくは絶句した。
だってぼくがコンタクトデビューを果たしてから、Kとは少なく見積もっても50回は顔を合わせているのだ。
なのに、その間ずっと彼はぼくがメガネをかけていないことに気がついていなかったのだ。

はじめはKが冗談を口にしているのかと思った。
だがKの表情は真剣そのものだった。
「おまえ……」
しぼりだすように言った後、ぼくは二の句が継げなかった。

ーーーーーーーーー

このできごとは、重要なことをぼくに教えてくれた。

<世の中の人間は、タンスの裏に落ちているホコリほどもぼくという人間に興味を持っていない>

この事実に気づかせてくれたKには感謝している。
おかげでぼくは謙虚さを学ぶことができた。
誰かに何かを語るとき、
誰かに読ませる文章を書くときは、
「世界はおまえに興味がない」
と自らに言い聞かせながら語るようにしている。

と同時にぼくは世の女性たち(特に妻)に言いたい。

メガネを外したことに3ヶ月気づかない人もいるんだから、
君が髪を切ったことに気づいてあげられないのも仕方ないことだと思わない?

2015年5月7日木曜日

雇用を生みだしつづけるお仕事

政府や議員が「雇用を生みだす」「雇用創出」といった言葉をよく使う。
政策みたいな難しいことは、ぼくにはよくわからない。
雇用を生み出すって何をするんだろう。


少年時代に母親から言われていたことを思いだす。
母は、ぼくが服を汚したり、部屋を散らかしたりするたびに嘆いていた。
「もう! また仕事を増やして……」


だからぼくは「雇用を創出する」というのは「いらんことをする」と同義語だと解釈している。

泥棒はカギ屋やセキュリティ会社の雇用を創出しているから、つまりはそういう類いのことをするんだろうな。
と予想してるんだけど、たぶん大きく外れていないと思う。

2015年5月6日水曜日

遠足ピーターパン

体操服を着ているおじさんを見た。
淀屋橋で。

体操服のおじさんは、
体操服を着ているからといってラジオ体操をするでもなく、ジョギングをするでもなく、なんでもない顔をして歩いていた。
歳は五十歳くらいだろうか。
わら半紙を丸めたような顔をした、どこにでもいるおじさんだ。

オフィス街を闊歩する体操服姿のわら半紙。
その姿に途方もない違和感を覚えると同時に、ぼくはなぜか懐かしさも感じていた。

あれ。
この感じ、知っている。
昔どこかで見たことある。
そうだ、あれだ。

遠足が中止になったのを知らない子だ。

雨で遠足が中止するなったのに、根拠不明の自信で遠足は決行されると信じ込み、ひとりだけ体操服でリュック背負って来ちゃった子。

スーツ姿に囲まれた体操服のおじさんは、教室にただひとり、体操服で授業を受けている子を思い起こさせた。

もしかしたらこのおじさんは、遠足が中止になったことをまだ知らないのかもしれない。
中止になったことを知らずに学校に来て、遠足が中止になったことを知らないままおじさんになっちゃった人。

だとしたら、とってもすてきなことだ。

だっておじさんにとっては毎日が遠足の日なのだから。
体操服のポケットにしまいこんだ遠足のしおりがくしゃくしゃになり、おじさんの顔のわら半紙がくしゃくしゃになるぐらいの年月が経っても、おじさんの胸は今も遠足の朝の高揚感で高鳴りつづけているのだ。

ああ。
遠足ピーターパンのおじさんよ。
あなたは自由の羽根という体操服を身にまとい、
永遠の冒険心が詰まったリュックサックを背負い、
夢と希望と200円分のお菓子を持ってビジネス街を軽やかに進んでゆく。

あなたの足取りのなんと軽やかなことか。

ぼくは自分が失ったものの大きさを思い知り、めまいを起こさんばかりだ。
ああ。
遠足ピーターパンのおじさんよ。
ぼくにその酔いどめ薬を分けてはくれないか!

2015年5月5日火曜日

ゲルマン的かいもの術

ぼくは買い物がヘタだ。

すでに冷蔵庫にあるものばかり買ってきてしまう。

特にあぶないのはジャガイモとタマネギとソーセージ。
なぜだかわからないけど、スーパーに行くとジャガイモとタマネギとソーセージばかり買ってしまう。
4個入りのジャガイモを買う。
家に帰るとジャガイモが4個も待ち構えている。
前回買ったときから1個も使っていないのだ。
まるで昆虫が知らず知らず脚についた花粉を運んで花の繁殖を手伝わされるように、ぼくもずる賢いジャガイモの罠にかかってジャガイモを次々と家へと運ばされている。

どうしてとりつかれたようにジャガイモやソーセージばかり買ってしまうのか。ぼくの前世はドイツ人なのだろうか。ぼくの中のゲルマン魂が無意識のうちにソーセージを手に取らせているのか。おそろしい。

でも。
毎回後悔するのに、やっぱり同じものを買ってしまう。
だけどぼくだってばかじゃない。己の「同じものを買ってしまう病」を理解したうえで、それと付き合っていく工夫をしている。
「買いすぎても腐らないものを買うようにする」
魚や生肉や青野菜は傷みやすいから、いくつも買うと腐らせてしまう。
だから賢いぼくは、比較的傷みにくい根菜や加工肉を買う。具体的には、ジャガイモやタマネギやソーセージだ。

なんて賢明で合理的な発想なんだろう!
さすがは合理的なドイツ人の生まれ変わりであるぼくだ。
実に合理的な判断だ。
己の中のゲルマン魂に、ただただ感服するばかりだ。

2015年5月4日月曜日

コッシーの曲

子どもが生まれてからNHK Eテレの幼児向け番組をよく見るんだけど、番組で流れている曲を作っているのが、トータス松本とか山崎まさよしとかつんくとかワタナベイビーとか、なじみのある人たちだ。

そうか、この人たち今では子ども向けの曲を作るようになったのか。

……と思ったが、よく考えたらたぶんそうじゃない。
子ども向けではなく、親世代向けにキャスティングされているんだと気づいた。

どうせなら親がよく知っているアーティストのほうがいいもんな。
それに、30代にかぎっていうなら『ミュージックステーション』より『いないいないばあ』のほうが視聴している人数が多いんじゃないだろうか。
曲のマーケティング的にも、歌番組に出るより幼児向け番組のほうが宣伝効果は高そうだ。

今人気のアーティストも、15年たったら『みいつけた!』の曲を作ってるんだろうな。

2015年5月3日日曜日

ハンディキャップ理論

クジャクや極楽鳥は派手な色の羽を広げて異性を惹きつけようとする。
あれは異性に対して「私は生きていく上ではどうでもいい羽の色を美しくすることにこんなにもエネルギーを使う余裕があります。すなわち、それだけ強いんです」
ということをアピールしているらしい。
これを「ハンディキャップ理論」っていうんだって。

ガゼルがライオンに追いかけられたときに一目散に逃げずにその場でジャンプするのも同じ理由からだとか。

「戦略的にあえて生存に不利益な行動をとることで個体としての強さを示している」
というとなんとなくかっこよく聞こえるけど、
要は
「モテたくてイキがってる」
だよね。

2015年5月1日金曜日

高性能レーダー

 最新の戦闘機は高性能レーダーで、数十キロメートル離れたところにいる戦闘機が敵か味方か判別できるらしい。
 すげえなあ。
 ぼくなんか1メートル先にいる妻が、現在 敵か味方かもわからないのに。