2015年10月16日金曜日

【考察】パソコンを使えないおじさんのパラドックス

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パソコンのパの字も知らない人が
「パソコンでできることなんてたかがしれてる」
と言う。
あるいは大学に行ったことのない人が
「大学なんて行ったって意味がない」
と公言したりする。

どうしてわからないものを低く評価するのだろう。

ぼくはプログラミングができないので、プログラマのことは尊敬している。
あんな謎の言語を操って意味のある命令をくだすことができるなんてすごい。
また、ぼくは宝塚音楽学校に通ったことがないが、そこへ通うことに意味がないとは思わない。ぼくが想像するよりもっと、いろんなことを学べるんだろう。


自分に理解できないものを、低く見積もるか、高く評価するか。
その差がどこからくるのか考えてみた。

子どもの頃。
テレビで芸人がしゃべっている。
周りの大人はどっと笑っている。でも自分にはそのおもしろさがちっともわからない。
子どもは「芸人がつまらない」とは思わない。原因は自分にあると思う。
「この人はおもしろいことを言ったのに、ぼくには理解できなかっただけだ」
と思う。

40年後。
芸人のギャグで、若者たちがどっと笑っている。けれど自分にはそのおもしろさがちっともわからない。
おじさんは「自分には理解できないが優れた点がある」とは思わない。原因は他者にあると思う。
「おれが理解できないということは、この芸人も、これで笑っている客も、レベルが低いのだ」
と思う。

子どもは理解できないものから学ぼうとする。
理解できないものを、わからないくせに低く見積もるようになったら、それが老いるということなのだろう。
老害と呼ばれている人はきまってそういう人だ。年齢を重ねていても、未知のものから学ぶ姿勢を忘れていない人は若い。
いつまでも学びつづけなければならない。

パソコンを使えないくせに、
「パソコンなんてたいしたことはできない」
と言うおじさんの神経は、ぼくには理解できない。

だが。
おじさんの気持ちが理解できないからといって、理解できないおじさんの気持ちを低く評価してはいけない。
わからないものは尊重せねば。

「わからないものを低く見る」ことをやめるためには、「わからないものを低く見る人」のことを尊重しなければならない。
というパラドックス。

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