2050年1月1日土曜日

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 読書感想文リスト



2017年5月18日木曜日

【読書感想】 吉田篤弘 『電球交換士の憂鬱』

吉田篤弘 『電球交換士の憂鬱』

内容(「e-hon」より)
世界でただひとり、彼にだけ与えられた肩書き「電球交換士」。こと切れたランプを再生するのが彼の仕事だ。人々の未来を明るく灯すはずなのに、なぜか、やっかいごとに巻き込まれる―。謎と愉快が絶妙にブンドされた魅惑の連作集。

電球の交換を専門とする "電球交換士" が "不死身" となって "謎の美女" や "オカマ" や "刑事らしき男" に囲まれている小説なんだけど、
「物語を構成する要素多すぎ!」という感想しか出てこない。

この「全部盛りラーメン」みたいなトッピングだけでもううんざりしてしまった。

「売れようとして書いた小説」って感じがぷんぷんした。
『売れる小説の書き方』の類いの本のセオリー通りに書きました、みたいな。

  • 読者が「あれ?」と思うようなふしぎなポイントを2つ掛け合わせましょう(「電球交換士」×「不死身」)
  • 主人公の周囲には個性の強い人物を配置しましょう
  • 主人公には暗い過去を用意し、後から小出しにしましょう
  • 人との出会いを通して主人公の心境の変化を描きましょう

そんなテクニックに基づいて書かれたように思っちゃう(その手の本にこんなのが書いてあるか知らんけど)。



にしてもさ。
どうしてステレオタイプなオカマって「明るくておもしろくて男より男気があって女より細かいところに気がついて常に周囲を楽しませてくれつつもときどきズバッと核心をつく人」なんだろう。この本に出てくるオカマもまさにそれなんだけど。

テレビに出てくるオカマにそのタイプが多いからかな。
ぼくはオカマと関わりのない人生を歩んできたから知らないけど(この本の作者もたぶんそうだろう)、暗いオカマもつまらないオカマも薄っぺらいことしか言わないオカマもいっぱいいるはずなのにさ。


こういう描かれ方をすることを、当の「暗いオカマ」はどう思ってるんだろう。
息苦しくならないのかな。
周囲から「オカマならではの斬新な斬り口」を期待されるのってきついだろうな。

吉田修一の『怒り』ではごくごくふつうの会社員として仕事に取り組んでいるゲイを描いていた。そりゃそうなんだよ。性的嗜好が日々の生活すべてに影響を与えてるわけじゃないから、生活の9割はゲイとは無関係に過ぎていくはずなんだよ。
ぼくはいついかなるときも男として生きているわけじゃない。なのに "物語に安易に登場させられるオカマ" は24時間オカマでいようとしている。かわいそうだ。


もういい、もういいんだ。
オカマは人生に示唆を与えてくれなくてもいいんだ。



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2017年5月16日火曜日

【読書感想】カレー沢 薫 『ブスの本懐』

カレー沢 薫 『ブスの本懐』

内容(「e-hon」より)
みんな違ってみんなブス。“ブスに厳しいブス”カレー沢薫がすべての迷える女性に捧げる、逆さに歩んだ「美女への道」。「cakes」の大人気連載「ブス図鑑」が待望の書籍化!

自称ブスの漫画家が、ブスについて考察した本。
最初から最後までブスの話しかない。

タブーとまではいかなくても、ブスのことって話題にしにくい。
テレビでもブスっていじられにくい。
身体障害者と同じぐらい「いじっちゃいけない」感がある。
自虐ですらほとんど聞かれない。たぶん笑えないからだろうね。

どう見てもかわいくない女芸人に客席の女が「かわい~!」と声をかけるという手の込んだ嫌がらせをすることはあっても、直接的なブスいじりはコンプライアンスの厳しくなった昨今ではまず見られない。

「デブ」や「ハゲ」のように医学的な考察すらできない(美容外科はべつにして)。

そんな中、この本はとにかく真っ正面からブスに向き合ってる。

 つまり「ブス」とは、ただ単に顔のデザインが地球向けでない人、またはパリコレ級にハイセンスすぎて一般に理解されない人のことではなく、生き様がブスなことも含まれるのだ。
 それに、「あの人は美人だが性格ブスだ」という言葉がある。
 おそらく、どんなに非の打ちどころのない美人を前にしても、絶対敗北を認めないという不屈の精神を持ったブスが発した言葉だろう。
 また、「美人は3日で飽きるが、ブスは3日で慣れる」という、どう考えてもブスが考え出した言葉もある。それを先祖代々ブスが語り継ぎ、後世に残る格言になっているのである。
 このように、ブスすぎて語彙能力が発達してしまい、とても美人には思いつかないような名言を次々ドロップするブスもいるのである。こんなブスなら3日で飽きる美人よりも一緒にいて楽しいであろう。

これだけの文章の間に、「ブス」という単語が10回も出てくる。

はっはっは、おもしろいなあ。
と思って読んでたんだけど、すぐに飽きてしまった。

「ブス」ばかり見ていても飽きてくるんだね。

『ブスの本懐』は週刊誌連載だったらしいけど、週刊ペースで読むのがちょうどいい。
本にしてまとめて読むもんじゃない。

結局さあ、ブスに興味ないんだよね。
身も蓋もないこと言っちゃったけど。



ぼくはテレビに出てくる美人女優の顔がまったく覚えられない。

なぜなら美人には個性がないから。
世の中のすべての顔の平均をとったら美男美女になるとか言われているけど、美人の顔には目立つ特徴がない。

建売住宅がずらりと並んでいる住宅街に行くと、目印がなくてなかなか道が覚えられない。
美人の顔にもそういうところがある。

だからもっと個性的な顔の女優を増やしてほしい!


……と思っていたんだけどね、この本を読むまでは。

わかった。
テレビに美人ばかりが出てくるのは飽きないからだ。

無個性であるがゆえに飽きない。
最大多数に最適化された建売住宅が結局いちばん住みやすいのと一緒。
ごはんは味がないから毎日食べても飽きないのと一緒。

ブスはクセが強すぎて飽きる。
「美人は3日で飽きる」は嘘で、美人のほうが飽きない。



学校での女子のグループ分けについて。

 大体グループ分けというのは、入学やクラス替え初日で雌雄が決しているもので、早々にそのグループに入り損ねた者が教室に点在する形になる。
 ここで一人でいることを選べば「孤高」、もしくは「ホンモノ」になるのだが、やはり学園生活を(特に女子は)どこにも属さず生き抜くというのは、フリーで風俗嬢をやるぐらい不安と危険が伴う。
 よって、このあぶれた者同士が、誰が声をかけるわけでもなく半笑いで近寄っていき、「仕方なく」以外の理由がない「オタクじゃないブスグループ」が結成されるのだ。
 まさに「第一次書類審査で落ちた女だけを集めて作ったアイドルユニットの鮮烈デビュー」である。

たしかに、かわいい子はかわいい子で集まっていて、そうでない子はそうでない子と……ってパターン多かったなあ。

まあ美人グループの中にもひとりぐらい「おしゃれで雰囲気だけ美人っぽいけど、こいつだけはちがうな」ってのも混じってたけど。

男のほうが趣味嗜好で固まってたように思う。


なんのかんの言っても、女性は顔の良し悪しで人生が決まると思う。
美醜によって付き合う男が変わるだけじゃなく、友達付き合いも変わる。

もちろん男も顔がいいほうがトクをするけど、女ほど極端じゃない。
「顔」以外にも「スタイル」「経済力」「気前の良さ」「社交性」「ファッションセンス」「知性」「会話のセンス」「職業」などいろんなパラメータが男の市場価値を決めている(さっきテレビでブスをいじっちゃいけない空気があると書いたが、一方で男芸人に対するブサイクいじりは許されている。それが単独では致命的な欠点にならないからだ)。

でも恋愛市場における女の価値は「顔」「若さ」で90%くらい決まっているように思う。あと「スタイル」が5%ぐらい。
「若さ」は誰にとっても平等なものだけど、「顔」はかなり不公平だ。化粧でごまかせるのには限度があるし、美容整形にはお金がかかる(顔のよくない女性が若くして大金を手にするのは難しい)。

ぼくは中学校のときに同級生の女子から「つまんない顔だね」と言われたことがあるぐらいつまんない顔をしているので、「女に生まれなくてよかった」と思っている。
つまんない顔で女の人生を歩むのはたいへんそうだ。


 その点、ブスの顔は生まれた時からトラブルの連続なため、今更シワが一本増えたからといって、どうということはない。「木を隠すなら森」と同じように、「ババアを隠すならブス」。つまり「ブスは最大の防御」なのだ。
 また、精神的にもブスは老化に強い。美貌にしろ何にしろ、人間、持っていたものが徐々になくなっていくというのは、恐怖でしかない。その点、ブスは美貌が最初からないので、ないものはなくならないのである。
 やはり、最終的には失うものがない人間の方が強い。よく、「守るものができて強くなれた」などと言うが、何かを守りながら戦っている奴が、腹にダイナマイトだけ巻いて突っ込んでくるブスに勝てると思ったら大間違いだ。

これはまったく同意。
総じてブスは美人より損してばっかりだけど、唯一優っている点は「老いたときに自己評価と周囲の評価のずれが小さい」という点だと思う。


以前、『値打ちこく』と題したブログ記事でこんなことを書いた。
「美人だったから、もっといい相手がいると思ってえり好みをしているうちに、婚期を逃しちゃったんだろうねー」
と言うと、後輩が言った。

「そうなんですよ。そういう女って値打ちこいてるからだいたい結婚できないんですよ」

30代半ばで「結婚したくてもできない」人には美人が多いように思う。

さっきも書いたように、恋愛市場において「若さ」は重要なファクターだ。
好みはいろいろだけど、売り手の女性の価値は「顔」×「若さ」で近似値が求められると思う。
差別的な話だけど、現にその指標で選んでいる男が多いのだから仕方ない。

掛け算だから、歳をとるごとに減じる価値は美人ほど大きい。
そのことにもっと自覚的であってほしい、と思う。

昔は20代後半の女性に対して「行き遅れ」という言葉が使われていたらしいけど、今では完全セクハラなので自虐的に使われる以外に聞いたことがない。
でももっと使っていったほうがいいんじゃないかと思う。
結婚を選ばない人に対して言うのは失礼だけど、そうじゃない人に対しては「まだまだ30過ぎてからが女ざかり」なんて無意味な励ましよりも(それもセクハラっぽいけど)、「行き遅れてまっせ」というのも本人のためなんじゃないだろうか。
じっさい、刻一刻と「理想の結婚」からは遠ざかっているわけなんだから「このへんで手を打っとくか」と損切りするほうがいいと思うんだよね。

晩婚化・非婚化・少子化にストップをかけるためにも、「行き遅れ」意識の復権が必要なのかもしれない。


じゃあ誰が当事者に「行き遅れてまっせ」を言うのかというと、それは誰が猫の首に鈴をつけるかという話で、じゃあおまえ言えよといわれてもぼくはよう言わんわ。
言っても損しかしないもの。



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2017年5月12日金曜日

【読書感想】井堀利宏『あなたが払った税金の使われ方 政府はなぜ無駄遣いをするのか』

井堀利宏『あなたが払った税金の使われ方 政府はなぜ無駄遣いをするのか』

内容(e-honより)
本書は、税金の取られ方と使われ方に関する一般の納税者の素朴な不信感や不公平感を、わかりやすく解明するとともに、あるべき改革の方法を議論する。

2001年発行とちょっと古い本だけど、税金について基本的なことを知りたかったので読んでみた。

いきなり話それるけど、「ちょっと古い本」って書いたけど2001年って16年も前か!
おっさんからすると「ちょっと前」ぐらいの感覚なんだけど。



そんなおっさんだけど、確定申告をしたことがないので自分がどれぐらい税金を払っているのか知らない。

会社をやめて無職になったときに住民税の請求がきて
「無職の人間からこんなにとるのかよ!」
と思った記憶があるけど、ふだんは気にしない。

税金が高いと感じたことはない。他の国の税率を知らないし。

だから税額に不満はないけど、もっとうまくとってほしいとは思う。

もっと金持ちからじゃんじゃんとってくれよ、と。
身ぐるみはがすぐらいいっちゃって、と(やりすぎだ)。

庶民とは無縁の贅沢品にもっと税金かけたらいいんじゃないの?
金の延べ棒とか虎の毛皮とか剥製の鹿とかに(金持ちのイメージが貧困)。


でも「贅沢品に多く課税する」というのは、効率性の観点からはけっしていいことではないらしい。

 一般的に、生活必需品は需要の価格弾力性が低いだろう。日用品や食料品は生活のために必要だから、価格が高くなってもそれほど需要は減らないし、また、価格が安くなってもそれほど需要が増えるものでもない。したがって、ラムゼイ・ルールからは、生活必需品に相対的に高い税率を課すことになる。
 他方で、ぜいたく品は価格弾力性が高いから、ラムゼイ・ルールからは、望ましい税率が低くなる。このような税率の設定は、効率面からは合理化されるが、公平性の観点からは、あまり正当化できないだろう。
 公平性の観点からは、所得水準の低い人が相対的に多く消費する財に低い税率を適用し、所得水準の高い人が相対的に多く消費する財には、高い税率を適用すべきであろう。効率性と公平性はトレード・オフの関係(お互いに矛盾する関係)にある。

つまり、塩は生活必需品だけど、塩の価格が下がったからといって購入量が増えるわけじゃない。辛いの嫌だし。
逆に高くなっても消費量はほとんど変わらない。

一方、ゴルフのプレーに高い税金を課せばゴルフをやめる人が出てくる。
だから高いゴルフ税をかけても全体的な税収アップにはつながらない。

それより塩に高い税金をかけるほうが(効率よく税収を増やすという観点では)いいということになる……。

うーん、理屈としては納得いくけど心情的には納得いかない話だなー。


また「金持ちにめちゃくちゃ高い税率を課す」ってのも庶民からすると溜飲の下がる話ではあるけど、
  • 経済活動を萎縮させてしまう
  • 脱税へのインセンティブが強くなる
などの理由から、必ずしもいいことではないみたい(脱税をしないように監視するのにもコストがかかるしね)。



直感的に受け入れやすい話が、効率的とはかぎらないんだね……。

ポピュリズム系の政治家がよく「公務員の人件費が税金の無駄だから削ろう」と主張する。

この主張も、直感的に受け入れやすいので(公務員以外には)いつも一定の支持を集める。

「どっかで不当にいい思いをしてるやつがいる気がする」
という "おれの暮らしぶりが悪いのは誰かのせい論" の支持者は多い。


「公務員の無駄をなくそう」って、はたしていいことなんだろうか。

それをやって社会全体にメリットがあるかというと、ぼくにはかなり疑問がある。
(一応言っとくけどぼくは公務員じゃない)

"おれの暮らしぶりが悪いのは誰かのせい論" は考えとしては単純で楽なんだけど、それを進めた先にハッピーな未来があるとは思えないんだよね。

足の引っ張り合いになるような気がする。


ぼくが「あんまり公務員叩きをするべきでない」と思うのは以下のように考えるから。

  • 公務員の仕事効率を数字で評価しようとしたら監視コストがかさむ。監視コストこそ何も生みださない無駄な費用だから、少なければ少ないほどいい。
  • そもそも評価になじまない業務だからこそ民間でなく公共でやっている。
  • 叩かれてモチベーションが上がる組織なんてない。
  • よく「民間に比べて公務員はもらいすぎ」と言われるけど、公務員は一定以上の学歴を要求され、さらに公務員試験を突破してその職に就いている。求められるレベルが平均より高いんだから民間の平均より多くもらうのはあたりまえだ。
  • 公務員にお金を回せば民間にもお金が落ちる。公務員の給与を下げたら民間の給与が上がるなんてことはない。

小さい無駄を根絶しようとするのってかえって大きなコストがかかるんだよね。
必要なものまでカットされるし。

ま、ぼくも役所にいくと「これはもっと効率化できんじゃないの?」って思うことはあるし、評価しようのない無駄があるのは事実だと思う。

 自動車やミカンのような通常の財・サービスであれば、価格がその役割を果たしている。つまり、価格の高い財・サービスは社会的な評価も高い。GDPは、さまざまな企業が生産する無数の財・サービスの付加価値を、市場価格で加重してその合計を表している。したがって、走れない自動車をいくら生産しても、その市場価格がゼロになるから、GDPは増加しない。
 しかし、政府支出の場合は事情が異なる。そもそも市場で料金を徴収して供給しないから、政府の公共サービスに価格はない。その結果、GDPの推計では、投入する費用で政府の公共サービスの付加価値をはかっている。
 無駄な公共投資であっても、利用価値の高い公共投資であっても、どちらも同じ一兆円の費用がかかれば、一兆円だけGDPは増加する。たとえば、今年一兆円かけて穴を掘り、来年もう一兆円かけてその穴を埋める公共事業を実施したとしよう。二年後には何も社会資本は残らない。しかし、GDPの統計上は、一兆円の公共事業が二年間継続して、二兆円のGDPが生み出されて、二兆円分の社会資本が蓄積されたことになる。

これはすごい。穴を掘って埋めるだけで二兆円のGDP増加。夢のような話だ!

どっかの政治家が大好きな「民間では考えられない」ってやつだね。

ここまで極端なことはやらないにしても「穴を掘って埋める」に近いことをやっている公務員はいると思う。


でもそれって、公務員のせいなの?
「合法的に楽して大儲けできる方法」があればみんなやるでしょ?
(そんな方法を知っている方はぼくまでご一報を)

「穴を掘って埋める」だけで向上しちゃうような指標を使って方向性を決めているやつらがまちがってるじゃないの?

「入試のカンニングを容認したらカンニングが増えて大学全体の学力が下がった。学生のせいだ!」
って大学が言うようなもんでしょ。
いやおまえがカンニング容認するからだろ、としか思えない。

何も生みださずにGDPを増やすことができるんだったら、GDPは政治の目標に使っちゃいけないと思うんだけどね。



税金って、どんな制度にしてもどこかから不満が出るもんだと思う。

いや、どこかから出るなんてもんじゃない。全方位から出る。

税金上げても文句言われるし、下げても不満が出るし、偏らせてもクレームがつくし、まんべんなくとっても不平が出る。
納税者も企業も公務員も納得いっていない。たぶん税務署の人だって納得してない。
「今の税制最高! これで文句なし!」って思ってる人、日本にひとりもいないんじゃない?

必要だということは誰もが理解しているのに、誰もが納得していない制度

他にこんな制度ないんじゃない?



税金に対する不満って、大きくふたつに分かれる。


・徴収のされ方が不公平
・使われ方が不公平

前者はたぶん永遠に解決しない。
だってみんな「自分以外から多くとってほしい」と思ってるんだから、全員が納得いく方法なんてありえない。

でも使い道の不満が少しでも解消されるよう、著者はこんな制度の導入を提案している。

 納税者の視点は、無駄な歳出を止めるうえで最も重要である。財政問題で国民が受益者負担の原則を最も実感できるのは、納税であ使われ方をある程度る。自らの納税額に応じて、政府の歳出の使われ方をある程度拘束できる納税者投票で、民意がより財政運営に反映されやすくなる。
 もちろん、納税額すべてについてこうしたアプローチはとれない。しかし、所得税について確定申告する際に、使われ方をある程度選択できるようにすることは、実務上も可能であるし、納税意識の向上にも役立つだろう。
 たとえば、納税額の三分の一について、各省庁別の予算(あるいは目的別の大まかな区分)への配分を指定できるようにする。その際に、財政赤字の削減という項目も選択肢に入れるべきであろう。

ふるさと納税制度は市町村を選んで寄付をする制度だけど、それの省庁版という感じだね。

これ、いいねえ。
ぜひやってほしい。


ぼくだったら、軍事費とか今の経済政策とかじゃなく国の借金解消に使ってほしいなー。
あと年金と。

少子化にしても経済問題にしても「将来が不安すぎる」ことに起因してると思うから、「将来への不安を解消する」ことに税金を使ってほしい。

でも年金問題だったら厚生労働省になるわけだけど、厚生労働省にお金を渡しても、目先の票をかせぐために今の高齢者の医療費負担減とかに使われちゃうんだろうな……。




2017年5月11日木曜日

子を持って はじめてわかる ありがたみ  借りて返せる 公共図書館


子を持って はじめてわかる ありがたみ
借りて返せる 公共図書館


しょうもない短歌を詠んだけど、図書館ってほんとにありがたいなあってつくづく思う。
子どもができてから。



正直、子どものえほんを読むようになるまでは図書館のことはちょっと否定的に見てたんだよね。

ぼく自身、中学生になってからは古本屋に入りびたってたこともあり、
「本は借りずに買って読まなきゃ血肉にならない。読者にとっても著者にとっても」
って思ってた。

「図書館が出版業界の経営を圧迫してるんじゃないか」とも。
(これはたぶん逆で、図書館はだいぶ出版業界を支えている。図書館で本を借りる人の多くは図書館がなくなっても買うようにはならないし、価値はあるけど図書館にしか買ってもらえない本も多い)



ぼくは趣味にも服にも食べ物にもお金をつかわない人間だから、本ぐらいにはお金をつかおうと思っていて、本屋やAmazonで目についた本は値段も見ずに買うようにしている。
(ただし学術系の本だけは注意している。めちゃくちゃ高額な本もあるから)

しかし子どもにえほんを読むようになってからは、そうも言ってられなくなった。

娘にも本好きになってほしいから毎週のように本屋に連れていって
「どれがおもしろそう?」
なんて選ばせていたんだけど、えほんって高いよね。
1,000円ぐらいはふつうで、大判のえほんやしかけえほんだと2,000円、3,000円は平気でする。
「どれでも好きなの選んでいいよ」といった手前、娘がうれしそうに持ってきたえほんを「いやこれはお財布に厳しいから……」といって棚に戻すのはしのびない。

えほんは短い。
2,000円で買ったえほんも5分で読みおわる。
「この5分で2,000円か……。時間単価24,000円って風俗店かよ……」
ってみんな思うよね。思わないか。

娘とえほんを読む時間はプライスレスだが、24,000円/h は高すぎる。

あとえほんは場所をとる。

ただでさえ狭い我が家なのに、えほん棚はどんどん増殖してゆく。

えほんのために広い家に引っ越さなくてはならなくなる。

えほん代と引っ越し代と家賃で破産する!



破産を回避するべく、近所の図書館に子どもを連れていった。

図書館に行くなんて学生のとき以来だ。



子どもは大喜びだった。

えほんの数が本屋よりずっと多いし、なによりすべてのえほんが子どもでも手に取れる高さに置いてある

これすごく重要。

えほん売場の充実している本屋でも高い書架が並んでいることが多い。
子どもにとっては "手の届かない場所にある本" は存在しないのと同じだ。


あと表紙を見せて陳列されているえほんが多いのも子どもには魅力的だったようだ。

以前も書いたけど(【読書感想エッセイ】 井上ひさし 『本の運命』)、
字が読めない子どもにとって背表紙しか見えないえほんはほとんど視界に入っていない
ジャケットだけで一度も聴いたことのないCDを選べと言われるようなものだと思う。

書店だと売場面積あたりの売上を考えなくてならないから、どうしても高い棚で陳列してしまうし、背表紙を向けて1冊でも多くのえほんを並べてしまう。


ぼくも書店で働いていたときは高い棚にえほんを並べ、書架に背表紙を向けて並べていた。
高い位置に置いたら子どもに届かないのはわかっているけど、子どもはお金を使ってくれないのだからしかたない。

もっといったら子どもが読むと商品がめちゃくちゃ傷むので、「えほんは全部高いところに展示して子どもには一切さわらせない本屋」が理想だとすら思っていた。
だって子どもがどれだけえほんを散乱させて、ときにはびりびりに破いたとしても、そのまま立ち去る親が多いんだもの。

えほんをめぐっては書店員と子どもの利害は対立する。



図書館は売上を考えなくていいから、ぜいたくにえほんを陳列している。

ぜんぶ低い棚に入っているし(大人にとっては選びづらいぐらい)、表紙を見せてあるえほんも多い。

子どもにとっては「ぜんぶ自分で手に取って選べるえほん」だからうれしくないはずはない。


なによりうれしいのはお金を気にせず本を読めることだ。

ぼくは「本にはお金を出すべき」と思っているので、学術書を借りるとき以外は図書館は利用してこなかった。
(その考えは今でも変わっていない。えほんを借りるついでにぼくが読む本も借りることはあるけれど、「エンタメ作品」「出版されて間もない本」は借りないことにしている。それらは著者のためにお金を出して買うべきだと思っている)


えほんは、大人向けの本よりずっとお金を食う。
いくら本にお金を使いたくても限度がある。

子どもと書店に行くと「2冊までね」なんて制限を設けて選ばせるんだけど、図書館だとそれをしなくていいのがうれしい。
うちの近所の図書館は1人15冊まで借りられる。しかも0歳児から市民権が与えられているので娘と行けば30冊まで借りられる。

本は浴びるほど読んでほしいので、週末に10冊ぐらい借りて毎晩1~2冊ずつ読んでいる。


冒頭で
「子を持ってはじめてわかるありがたみ 借りて返せる公共図書館」
という名歌を紹介したけれど、
この「返せる」という部分が重要だ。

えほんは場所をとるので「返せる」ということがありがたい。
「無料であげます」だったら、毎週10冊なんてとてももらえない。



えほんは図書館で借りるようになったけど、書店で子ども向けの本を買わなくなったわけじゃない。

今でも月に1回ぐらいは児童書コーナーに行っている。

なぜなら図書館には一部の本がないから。



図書館には、しかけえほんがない。
飛び出すえほんとか、さわって遊ぶタイプのえほん。
その手の本は破れやすい、汚れやすいので置かないのだと思う。

当然のことながら、めいろとかぬりえとかの書きこむ系の本もない。

くもん出版とか学研とかが出しているひらがなドリルとかも置いていない。

そういった本を書店は買い、読み物のえほんは図書館で借りる。
うまく使い分けができていると思う。




図書館って、圧倒的に近い人が有利だよね。

今ぼくは歩いて5分のところに図書館があるから毎週通ってるけど、遠くだったらたぶん行ってない。
車や電車に乗ってまで行くのはおっくうだし。

今までほとんど利用したことがなかったのは、図書館の近くに住んだことがなかったから、というのも大きい。

図書館の場合、「近くまで寄ったから」という理由だけでは借りに行くことができない。
なぜなら返却のことも考えないといけないから。

ぼくの住む町の図書館は返却期限が14日後なので「14日以内に返しにこられるだろうか」ということを考えて借りないといけない。
これが遠くに住んでいる人からすると大きなハードルになる。

図書館の近くに住んでも遠くても住民税はいっしょなので、考えてみればずいぶん不公平だ。
ぼくなんか月間40冊くらい本を借りてるわけで、これをもし買ってたら5万円くらいになっている。
近くに住んでいるおかげて月5万も得してる。いいんだろか。図書館の遠くに住んでいる人にゼリーとか贈らなくていいんだろか。


遠近による不公平さを埋めるために移動図書館なんてのもある。
本をいっぱい積んだ車が各地をまわるやつだ。

でもあそこにある本は図書館の蔵書のごくごく一部にすぎないし、借りる日も返す日も細かく定められていてすごく不自由だ。

それにぼくだけかもしれないけど『ショーシャンクの空に』で図書係の囚人がカートに本をいっぱい乗せて独房を巡回するシーンがあったから、「移動図書館で本を借りるのは囚人」というイメージがぼくの中にはある。

そんな理由もあって(?)、移動図書館では遠近格差の1/10も埋められない。

せめて「返却は近くのコンビニでしてもいい」ぐらいになったら多少マシなんだろうけどね。



ぼく自身本を読むのが好きだ(というより何か読んでないと落ち着かない)から、娘にも本を好きになってほしい。
寝る前に娘が「お父ちゃん、これ読んでー」とえほんを持ってくるのはすごくうれしい。

でも正直「めんどくさいな」と思うこともある。

早く寝たいときもあるし、なにより「またこの本かよー!」ってのがいちばんつらい。

子どもは同じ本をくりかえし読んでもらいたがるけど、同じ本を毎日のように読まされるのはほんとうに苦痛だ。
もう一字一句おぼえているのに、それでも子どもは読んでもらいたがる。

「父親が読んでくれる、という行為を欲しているのであって本の内容自体はどうでもいいのでは?」
と思い、えほんを読むふりをしながらそのとき読んでいた『予想どおりに不合理』って本を読み聞かせてみた。
そしたらすぐに「わかんないよー。わかるのにしてー」とクレームを入れられた。
ちゃんと聞いているのだ。



図書館でたくさん本を借りたら、毎日ちがうえほんを読むことができる。
これなら大人も楽しめる。

えほんを読むのが苦痛なときもあるけど、20年後に
「1時間24,000円払えば、あなたの娘が3歳の時代に戻っていっしょにえほんを読むことができます」
と言われたら迷わずに払うだろう(そのときよほどお金に困っていなければ)。
それぐらい価値のある経験をする機会を、今は与えられているのだ。

娘が父といっしょに本を読んでくれるのはあと何年だろう。

この貴重な時間を少しでも無駄にしないよう、まだしばらくは図書館様のお力を貸していただこうと思う。